ページ

2014年12月31日水曜日

追憶の2014年 [諸記]

 2014年が終わろうとする。例年より、公私ともにかなり忙しい日々を送った。「追憶」のようにして、今年をふりかえりたい。

 最も力を入れた活動、私的ではあるが語の本来の意味では半ば公的でもある活動は、やはり、7月12,13日開催の「ロックの詩人 志村正彦展」とフォーラムだった。
 はるばる甲府まで訪れていただいた皆さまには、この場を借りて、もう一度、深く感謝を申し上げます。

 予想をはるかに超えた来場者数に、志村正彦の影響力の凄さをあらためて知ることになった。熱心に丁寧に時間をかけて展示物や資料を見ていた彼の聴き手の「愛」に、同様に一人の聴き手である私もとても心を動かされた。考えさせられたことも多く、私的な立場でこの《偶景web》に書きたいこともあるのだが、《ロックの詩人 志村正彦展web》での報告が完了するまでは待つことにしたい(遅々たる歩みで申し訳ありません)。

 私的な活動としては、2年目に入ったこの《偶景web》を持続させることに集中した。「志村正彦ライナーノーツ」から独立させた「詞論」、「偶景」や「映像」という新しいシリーズも始めた。中心にあるのは志村正彦だが、多様なシリーズや観点を設定した方が結果的に、彼に接近できるような気がするからだ。

 今年出かけたライブのリストを挙げたい。志村正彦、フジファブリックに対する見方が独りよがりなものにならないように、彼に関わりのある音楽家を主にしてロック音楽の現在の「場」に行くことを自らに課してきた。

  1/11  佐々木健太郎 (甲府・ハーパーズミル)
  1/12  吉野寿・向井秀徳 (甲府・桜座)
  2/ 2     a flood of circle (山梨県昭和町・Hangar Hall)
  2/14  メレンゲ (渋谷公会堂)
  2/22  直枝政広・おとぎ話 (甲府・桜座)
  2/23  大森靖子 (甲府・桜座)
  4/ 6   斉藤和義 (甲府・県民文化ホール)
  4/13  フジファブリック『live at 富士五湖文化センター上映會』 (富士吉田・ふじさんホール)

  5/ 3   藤巻亮太 (甲府・県民文化ホール)
  8/24  シーナ&ロケッツ (甲府・桜座)
  9/23  HINTO (渋谷CLUB QUATTRO)
  10/ 5  THE BOOM (甲府・県民文化ホール)
  10/26   アナログフィッシュ・moools  (甲府・桜座)
  11/28  フジファブリック (日本武道館)


 やはり4月13日の「上映會」は欠かせない。志村正彦在籍時のフジファブリックの「ライブ」としても、私は経験したのだから。
 平均すると一月に一回以上という私にしてはかなりのハイペース、「ロック好きのおじさん!」と化した一年だった。吉野寿・向井秀徳、直枝政広・おとぎ話、大森靖子、藤巻亮太、シーナ&ロケッツ、mooolsについては「詞論」等で取り上げることはできなかったが、どれも素晴らしいライブだった。いつか機会を設けて書くことにしたい。
 こうしてリストを眺めると、甲府にある桜座の存在が大きい。「どうしておなかがすくのかな企画」を始めとする地元の企画者の努力も本当に有り難い。

 フジファブリックは特別なので除外するとして、この中で心にいつまでも残響しているのは、HINTOとアナログフィッシュのライブ。HINTO『NERVOUS PARTY』とアナログフィッシュ『最近のぼくら』という新アルバムも繰り返し聴いた。
 安部コウセイ『エネミー』、下岡晃『Nightfever』の言葉は、自分自身と時代そのものに誠実に向きあっている。「今」を生きる「ロックの詩人」の代表格だ。

 今年最も数多く聴いた歌は、フジファブリック『セレナーデ』。
 志村正彦の《声》と《言葉》に救われるようにして、2014年という時を過ごすことができた。

2014年12月23日火曜日

空-フジファブリック武道館LIVE 4[志村正彦LN99]

 
  『卒業』のイントロと共に、武道館の巨大な横長スクリーンに、スミス監督による映像が映し出される。
 《声》と《音》、聴くことに集中していた意識が再び見ることへと向かう。断片的な記憶で不確かだが、印象を記す。

 強い日差しをあびている大地。流れゆく雲の影が写り込む。光と影に照らされ、律動する丘と山。空撮か、かなり高い所からの撮影か、俯瞰的な視点からの映像は、見る者をおのずから「空」の場に位置づける。
 私たちは「空」の位置から大地を眺めている。やがて、薄く茜色に染まる「空と雲」がスクリーンを覆う。今度は、遠く、茜色の「空」を見上げる位置へと視点が移動する。
 あの時、この映像は、『卒業』だけでなく、『茜色の夕日』と『若者のすべて』を含めて、連続した三つの曲の背景となっていると思われた。

 志村正彦の存在しない「空」。この映像はそのような風景を描いているように感じた。

 武道館から帰ってきてから、『茜色の夕日』、『若者のすべて』、『卒業』の三曲を繰り返し聴いた。それぞれの歌の主体、なおかつ、風景を眺める主体でもある人称代名詞は、『茜色の夕日』が「僕」、『若者のすべて』が「僕」および「僕ら」、『卒業』が「ぼくら」である。このような人称代名詞の選択は、歌の世界と深い関連がある。

 そして、三つの歌の主体が見る風景の中で最も遠い対象として現れるものは、「茜色の夕日」「東京の空の星」(『茜色の夕日』)、「最後の花火」「同じ空」(『若者のすべて』)、「ゆらゆらゆらり滲んで見えてる空」(『卒業』)だ。

 主体は、「空」を眼差している。

 志村正彦の二つの作品にまず焦点をあてよう。「茜色の夕日」と「東京の空の星」、「最後の花火」と「同じ空」。夜の空とそこで光り輝くもの。そのようなモチーフの関連性がある。
 『茜色の夕日』では、歌の主体「僕」は次のように歌う。

  東京の空の星は
  見えないと聞かされていたけど
  見えないこともないんだな

 上京した地方出身者の共通の経験を語っている。「見えないと聞かされていたけど」という伝聞とは異なり、「東京の空」でも「星」は「見えないこともないんだな」と気づいたことは、随分昔のことになるが、志村と同じように、山梨から東京へと出て行った私の青年時代にもある。「星」の有無で地方と東京が対比されているが、「見えないこともない」という二重否定は、微妙ではありながらも、地方と東京とのつながりも示している。この相反する関係は、『茜色の夕日』の主要なモチーフ、「僕」と「君」との関係も表している。

 「星」の見える「東京の空」は当然、夜の空だ。この夜の空を眺める「僕」は、東京の夜を一人で歩く孤独な若者だ。街を歩き、時に、夜の空を見つめ、佇む。単独者の影が濃い。
 『若者のすべて』の最後の一節には、「同じ空」を見上げる「僕ら」が登場する。

  最後の最後の花火が終わったら
  僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ

 「最後の最後の花火」が美しく輝く空、「僕ら」にとっての「同じ空」はやはり夜の空だ。「僕ら」という一人称複数形が指し示す人物が、どのような存在であり、どのような関係を結んでいるかは、志村正彦の詩がいつもそうであるように、明らかでない。
 この前の一節で「僕はそっと歩き出して」とあるように、単独者の「僕」が根底にあるにしても、ここで、複数形の「僕ら」が登場したことには、志村の作品にある重要な変化が起きていると読みとれ、ある種の感慨を覚える。(このあたりの考察は一連の『若者のすべて』論を参照していただきたい)

 武道館では、志村正彦の音源の《声》が志村作の『茜色の夕日』を歌い、山内総一郎の《声》が志村作の『若者のすべて』を歌った。続いて、山内総一郎が自ら自作の『卒業』を歌った。《声》の主体と歌の作者の組合せが、順に変化していった。
 『卒業』は次のように歌い出される。第1節と2節を引用する。

  扉風ふわり立つ ぼくらの体を包み込む
  沢山の思い出はこっそり鞄に詰め込んだから

  ゆらゆらゆらり滲んで見えてる空は薄化粧
  それぞれ道を歩けばいつかまた会えるだろう

 『卒業』の歌の主体「ぼくら」は、山内、金澤、加藤の三者を指し示していると、私は解釈する。山内の歌詞の特徴として、作者と歌の主体との間の距離が近いことが指摘できる。
 作者山内は、自分自身と金澤、加藤を加えた現在のフジファブリックの三人を「ぼくら」という主体に設定して、ある風景の中に佇ませている。

 「ぼくら」は「沢山の思い出」を「こっそり鞄に詰め込んだから」、再び歩み始めることができる。この「鞄」という言葉は、志村の『花』の一節「かばんの中は無限に広がって/何処にでも行ける そんな気がしていた」への応答とも捉えられる。「無限」に広がる「かばん」と「思い出」を詰めこむ「鞄」。この対比には、後戻りのできない時間が流れている。

 続く、「ゆらゆらゆらり」には、志村の『陽炎』の「残像」が重ねられているかもしれない。「滲んで見えてる」「薄化粧」の「空」の下で、「それぞれ道を歩けばいつかまた会えるだろう」と自らに語りかけながら、「ぼくら」は歩き始める。『若者のすべて』の「そっと歩き出して」、《歩行》のモチーフがこだましているようでもある。
 「いつかまた会えるだろう」という帰結に対しては「それぞれ道を歩けば」という仮定しか述べられていないが、その「いつかまた会える」相手は、作者の意識としても無意識としても、志村正彦その人だと解釈できるのではないだろうか。

  さなぎには触れるなよ もうすぐ羽ばたく時が来て
  殻の中もがいてる心を大きく解き放つでしょう

 この第3節からは、歌の主体というより、作者自身の声が響いてくるように聞こえる。
 「さなぎ」は「ぼくら」の象徴でもあり、「殻」の中でもがいている。「触れるなよ」と接触を禁じているのは、もうすぐ「羽ばたく時」、《卒業》の時が来るからだろう。「心を大きく解き放つ」時が訪れる。そのことを「ぼくら」は必要としている。

 美しく沈鬱でもあるメロディ、それに呼応する歌詞。その反面、歌の主体「ぼくら」の意志は強固でもある。山内総一郎の言葉には、志村の詩には見られない、ある種の《烈しさ》がある。《苦さ》を伴う《烈しさ》とでも言うべきだろうか。バンドのフロントマンとして背負わなければならない《烈しさ》のようなもの、《覚悟》と共に進む《意志》のようなものが、『卒業』の底に流れている。
 第4と5節はある情景を描いている。

  静かな丘に登れば 出て来た街を見渡そう
  暗い夜道に迷えば 思い出し灯火燃やそう

  春の中ぽつり降る ぼくらの足跡消して行く
  悲しみは 悲しみはこのまま雨と流れて行けよ

 「静かな丘」「出て来た街」「暗い夜道」「灯火」「春の中」「雨」。これらの情景、イメージ群には、志村の故郷富士吉田の風景と志村の詩的世界が反映されているように感じる。
 しかし、その「春」の季節の中で、「雨」が「ぼくらの足跡」を「消して行く」。「悲しみ」は「このまま雨と流れて行けよ」という言葉の表すものは、「悲しみ」の痕跡の消去だろうか、「悲しみ」の封印だろうか。あるいは、「雨」と流れていく「悲しみ」が「心を大きく解き放つ」のだろうか。
 その解釈は聴き手にゆだねられている。

 『卒業』はアルバム『LIFE』の15曲目、最後の曲であり、この歌を逆回転させて作られたのが1曲目『リバース』だと言われている。『リバース』は文字通り《再生》を意味する。アルバム全体が『リバース』から『卒業』へ、『卒業』から『リバース』へという循環構造を持つ。
 『卒業』の歌詞は五節、十行の短い言葉から成る。この歌詞そのものも、第3節を中心軸にして、第4,5節は、そのまま第1,2節に戻っていく循環の構成になっていると読むこともできる。

 「春」の「雨」の中、流れていく「悲しみ」は、「ゆらゆらゆらり滲んで見えてる」「薄化粧」の「空」に還っていく。その「空」の場所から、地に降り立ち、「ぼくら」は「道」を歩き始める。

 武道館の「空」の映像は、フジファブリックの新たな旅立ちを映し出していたのかもしれない。

     (この項続く)

2014年12月16日火曜日

三つの歌-フジファブリック武道館LIVE 3 [志村正彦LN98]

 武道館での『茜色の夕日』のフジファブリック・アンサンブル。
 志村正彦の《声》音源と、山内総一郎、加藤慎一、金澤ダイスケ、そして名越由貴夫、Bobo堀川裕之の生演奏による合奏は、希有な出来事だった。

 フジファブリックのメンバーもスタッフも、志村正彦への最大限の敬意と想いを込めて、この日の『茜色の夕日』を準備したのだろう。志村が急逝してから五年が経ち、これまでできなかった、ライブという場での追悼が成し遂げられた。そのことに強く心を動かされた。何千人もの心を込めた拍手が鳴りやまなかったことも、あの場の皆の想いを物語っていた。

 志村の《声》の余韻が強く漂う中で、次に演奏されたのは『若者のすべて』だった。金澤がピアノ音のイントロを奏で、山内が静かに歌い出す。

 『茜色の夕日』と『若者のすべて』という二つの歌は、言うまでもなく、志村正彦の生の軌跡を表した曲だ。志村には多彩な名曲がたくさんあり、代表曲を選ぶのはなかなか難しいが、彼の生という観点からは、この二つが代表曲だと言いきってよいだろう。彼自身もそう考えていたはずだ。

 表現のモチーフからもそう言える。『茜色の夕日』の二度繰り返される「できないな できないな」の「ない」は、そのまま、『若者のすべて』の三度繰り返される「ないかな ないよな」の「ない」にもつながっている。「できない」「ない」「いない」。「ない」という不可能なことや不在であることを、志村は繰り返し歌ってきた。彼の詩の軌跡は、「ない」を巡る《歩み》として捉えられる。

 東京上京後まもなく、十八歳の時に作られた『茜色の夕日』は、志村の旅の出発点であった。二七歳の時に発表された『若者のすべて』は、自らの旅の方向を新たに見定めた大きな到達点だった。フジファブリックというバンドにとっても、とても重要な地平を切り開くものとなった。旅はその後も続くはずだったが、彼に残された時間は限りあるものだった。

 『茜色の夕日』という志村の原点は、フジファブリックというバンドの原点でもあり、志村の《声》で演奏される必然性があった。『若者のすべて』は今日、バンドとしてのフジファブリックの代表曲であり、それ以上に、いわゆるゼロ年代の日本語ロックの最も優れた作品だという評価も確立している。すでにこの曲は、藤井フミヤ、櫻井和寿、槇原敬之などの著名な歌手によって歌われている。10周年を記念するライブで、現在のボーカル山内総一郎が歌うという選択は、一つの自然な流れから来るものだろう。

 今、あの場面をふりかえると、そのような意味合いが了解できる。しかし、あの時には、『茜色の夕日』の志村の《声》で想いがあふれていて、『若者のすべて』の山内の《声》を充分に聴き取ることはできなかった。曲が終わり、『卒業』のイントロが始まると共に、映像がスクリーンに上映されると、ようやく舞台へと視線が戻っていった。

 『茜色の夕日』と『若者のすべて』に続く歌が、山内が創った『卒業』であることには、ある感慨を覚えた。この歌は新アルバム『LIFE』の中でも最も重要な作品だからだ。
 『卒業』は、志村正彦の不在の風景と、現在の山内総一郎、加藤慎一、金澤ダイスケの三人の心の風景を表現しているように、私には感じられた。スミス監督によるスクリーン映像もまた、そのような風景を描いているようだった。

 『茜色の夕日』、『若者のすべて』、『卒業』。この三曲の配列を中心に置いて、このライブが構成されたことは間違いない。10年という時の歩みが、この三つの歌に集約されている。

 武道館ライブから半月以上が経つ。この間、この三つの歌を聴き直し、言葉を読み直してみた。

 志村正彦作詞作曲の『茜色の夕日』『若者のすべて』、山内総一郎作詞作曲の『卒業』。
 各々の歌の主体は、「僕」(『茜色の夕日』)、「僕」および「僕ら」(『若者のすべて』)、「ぼくら」(『卒業』)と異なっている。
 この三つの作品をこの順に通して聴いていくと、どのような光景が広がるのだろうか。    
 

        (この項続く)

2014年12月9日火曜日

「ない」という《声》-フジファブリック武道館LIVE 2 [志村正彦LN97]

 志村正彦は《声》そのものになった。2014年11月28日、フジファブリックの武道館LIVEで聴いた『茜色の夕日』はそのことを告げていた。引き続き、その経験をここに記したい。

 『茜色の夕日』の《声》が聞こえてくる。《声》が心と身体を覆う。CD音源で聴いている彼の《声》よりも、なにか生々しく、なぜか懐かしく、響く。《声》はPAによって武道館の巨大な空間へ広がっていったのだが、視線を舞台に向けると、その《声》の中心は不在だ。

 いつもは、その《声》から『茜色の夕日』で歌われている《物語》を紡ぎ出していくのだが、あの日は違った。聴き手としての感情が極まっていたせいか、《声》が伝える《言葉》が切れ切れにしかつかめない。
 しばらくすると《声》に少し遅れるようにして、《言葉》が《言葉》として現れるようになり、《意味》が区切られるようになった。しかし、そこから《物語》をなかなか築くことができない。

 その代わり、「少し思い出すものがありました」「どうしようもない悲しいこと」「大粒の涙が溢れてきたんだ」「忘れることはできないな」というような歌詞の一節が、こちらに迫ってくる。
 「悲しいこと」「大粒の涙」、言葉の断片が、『茜色の夕日』の本来の《物語》から離れて、聴き手が今ここで『茜色の夕日』を聴いているという現実につながってくる。

 作者志村正彦がこの歌に込めた《物語》、その背景や文脈を超えて、《声》が聴き手自身に直接伝わってくる。聴き手一人ひとりの異なる現実に置かれ、異なる意味を帯びるかのようだった。
 例えば、聴き手自身が、歌の主体「僕」から呼びかけられる「君」となる。聴き手の目から「大粒の涙」が溢れてくる。あるいは、聴き手が歌の主体「僕」となり、「君」を「忘れることはできないな」と心の中で呟く。聴き手自身が「僕」となる。あるいは「君」となる。

 そのような聴き手の《物語》があの武道館の会場で、沈黙のままに、語られたのではないだろうか。
 あの日の『茜色の夕日』は、メビウスの帯のように、作者の世界と聴き手の世界という二つの世界が折り重なってしまうように響いていた。

   僕じゃきっとできないな できないな
   本音を言うこともできないな できないな
   無責任でいいな ラララ
   そんなことを思ってしまった


  我に返ると、この「僕」の言葉が痛切に迫ってきた。「できないな できないな」「できないな できないな」というように、志村正彦の歌にはいつもどこかに、この「ない」という《声》が貫かれている。

 その《声》が彼の歌の根源に在り続けている。

              (この項続く)

2014年11月29日土曜日

声-フジファブリック武道館LIVE 1 [志村正彦LN96] 

  昨夜、11月28日、フジファブリックの武道館ライヴを聴いて帰ってきた。

 オープニング曲の『リバース』が時を遡らせるかのように響く。
サウンドに合わせて、巨大スクリーンには影絵のような少女のアニメ。その切りとられた影から、志村正彦の顔が浮かび上がってくる。

 うっすらと紗がかかる表情。声は聞こえない。彼がそこに像としてはいるのだが、やはり、ここにはいない。それでも、日比谷、渋谷、両国、そして富士吉田、彼が歌い、弾く姿が「残像」のように次々と映し出されると、こみ上げてくるものがあった。しばらくすると、山内総一郎の歌う映像に切りかわり、10周年を集約した映像が閉じられた。

 最初に歌い出された曲は『桜の季節』。もしかするとという予感があったのだが、その通りになった。山内が歌うのは初めてのはずだが、さらに、エンディングに近いリフレインでは、加藤慎一、金澤ダイスケがボーカルパートを交替する。『桜の季節』がこの三人で歌われたことに心を動かされた。

 十曲ほど演奏された後、志村君と一緒にという山内の言葉。志村の茶色のハットがマイクスタンドにかけられる。とうとう、『茜色の夕日』が歌われるのだなと、一瞬、身構えたのだが、武道館に響きわたったのは、志村正彦自身の声だった。これは全く予期していなかった。不意打ちのような驚きと共に、涙がひたすら溢れてきた。

 『茜色の夕日』のライブは、ここにはいない彼の音源とここにいるメンバーの生演奏が合成されるという、ありえない経験をもたらしたのだが、違和感は全くなかった。きわめて自然に、あの巨大な空間を彼の声の波動が包み込んでいた。不思議なのだが、確かに、志村正彦、フジファブリックの『茜色の夕日』を聴いたという記憶が、今、残っている。

 どのように言葉にしたらよいのだろうか。言葉にする必要などないのだろうが、このLNの連載は言葉を自らに課している。
 会場を去る時、前方やや上に、三日月より少し大きくなった月が見えてきた。武道館の『茜色の夕日』はあることを告げていた。あたりまえかもしれないが、ひとつの単純な真実であることを。

 彼は無くなってしまった。
 だがしかし、そうであるがゆえに、よりいっそう、彼は《声》そのものになった。

 《声》という純粋な存在になった。

 聴くという行為が続く限り、いつまでも、彼の《声》は今ここに現れてくる。

2014年11月24日月曜日

歩行-『赤黄色の金木犀』と『若者のすべて』-[志村正彦LN95]

 
 寒さが厳しくなり、甲府盆地の北側の山々の紅葉も終わりに近づいている。それほど高い山ではないので鮮やかではないが、その分おだやかな「赤色と黄色」の風景が続いている。
 ここ数年、相対的に暑い季節と、相対的に寒い季節という、暑さ寒さの感覚からすると、「二つの季節」に変化しているようにも感じる。夏と冬という季節が際立ち、その狭間に春と秋という季節が佇む、そんな印象なのだが、風景には、やはり、春、夏、秋、冬という「四つの季節」が色濃く反映されているようだ。秋の色彩は、金木犀の花の「赤黄色」で始まり、山々の樹木の「赤色と黄色」で終わろうとしている。

 歌われる世界において、歌の主体をどのように動かすのか。作者の好む型があるが、志村正彦の場合、歌の主体は歩行することが多い。
  『赤黄色の金木犀』では、第2ブロックの「僕は残りの月にする事を/決めて歩くスピードを上げた」が「行動の型」の土台をなすだろう。「何故か無駄に胸が/騒いでしまう帰り道」とあるように、この歩行は「帰り道」にあり、「いつの間にか地面に映った/影が伸びて解らなくなった」とあるように「地面」の「影」を見つめる視線もある。歌の主体「僕」は、「歩くスピード」を上げて、「地面」の「影」と共に、「帰り道」を歩行している。

 「僕」は「過ぎ去りしあなた」を想起しながら歩いている。この「あなた」は、もしかすると、純然たる他者ではなく、自己自身、「僕」の影が投影されているのかもしれない。「過ぎ去りしあなた」には「過ぎ去りし僕」が不可分に結びついている。だから、この歩行は時間をさかのぼる行為でもあるのだ。

 志村正彦の歌には、「歩く」「僕」、《歩行》する主体がよく現れる。それは歌の中の現実の場面であったり、過去の回想シーンの中の出来事であったりする。


 茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました
 晴れた心の日曜日の朝 誰もいない道 歩いたこと     『茜色の夕日』


 歌いながら歩こう 人の気配は無い
 止めてくれる人などいるはずも無いだろう          『浮雲』
 

 すりむいたまま 僕はそっと歩き出して             『若者のすべて』


  『茜色の夕日』の主体は、「日曜日の朝」「誰もいない道 歩いたこと」を想い出している。『浮雲』では、「歌いながら歩こう」とする主体がいる。『浮雲』は「いつもの丘」、彼の実家近くの眺めのいい「丘」が舞台となり、高校時代の経験を元に作られた歌だ。また、『茜色の夕日』の「歩いたこと」の回想も、彼の故郷での出来事のような気がしてならない。この二つの歌が彼の初期作品であることも関係している。

 7月に開催された「ロックの詩人 志村正彦展」では、志村正彦の母妙子さんによる『上京の頃』と題したパネルが展示された。「自炊のために料理を習ったり、家の中や近くの道、富士吉田の街や自然を慈しむように眺めていたりした姿」という、母親でしか捉えられない視点からの大切な証言である。(「ロックの詩人 志村正彦展」web「ご両親・ご友人・恩師の言葉」(http://msforexh.blogspot.jp/2014/07/blog-post_26.html

 志村正彦は、散歩することが好きで、故郷の街や丘をよく歩いていたようだ。特に上京前には、富士吉田の風景を記憶に刻みつけるように歩いていたに違いない。それは、その時点の眼前の風景であると共に、すでにその時点では過去となり回想となった出来事の風景も含まれていた。そのような彼の経験が、『茜色の夕日』、『浮雲』、そして『赤黄色の金木犀』には映し出されているのだろう。少年期から青年期にかけての、その時代にしか持ち得ない「孤独」の影のようなものが滲み出ている。

 これらの初期の作品に比べて、『若者のすべて』の「歩き出して」からはむしろ、都市の街中を歩き出そうとする主体の決意のようなものが伝わってくる。一連の『若者のすべて』論で、《歩行》の系列という枠組を《縦糸》にして、《花火》の系列、「最後の花火」を中心とするモチーフを《横糸》にして、『若者のすべて』の物語は織り込まれている、と書いた。

 彼は『音楽と人』2007年12月号で、「一番言いたいことは最後の〈すりむいたまま僕はそっと歩き出して〉っていうところ。今、俺は、いろんなことを知ってしまって気持ちをすりむいてしまっているけど、前へ向かって歩き出すしかないんですよ、ホントに」と述べている。この時期の彼にとって、歌詞のモチーフという以上に、彼自身の人生において、「歩き出す」ことの意味が重要となっていいる。

 《歩行》というモチーフは彼が初期から追い続けてきたものだが、そのモチーフの歩みの到達点が『若者のすべて』だ。両国国技館ライブのMC「BGMとか鳴らしながら、歩きながら、感傷にひたるってのがトクじゃないかな、って思って。だから言ってしまえば、止まってるより、歩きながら悩んで」と作者が語っているように、歌の主体は、「歩きながら」、「感傷」や「悩み」との対話を試みる。そして、歌の主体は心のスクリーンに、「僕」と「僕ら」の物語を上映していく。

 作者志村正彦はある種の成熟を経験したのだろう。そのことによって、歌の主体の《歩行》もある種の自由と自在さを手に入れた。それは『若者のすべて』の楽曲にも影響を与えている。ピアノを中心とするリズムはのびやかでゆったりとした雰囲気をもたらしている。聴き手にある種の「解き放たれた」感覚を与えるというか、あるいは、ある種の「眠り」へと導くような効果もあるかもしれない。切なくやるせないが、同時に、ここちよく漂うような感覚とも言えよう。

 それに対して、『赤黄色の金木犀』のリズムは終わりに向けて次第に早くなる。歌詞の言葉も、メロディもリズムも、歌詞の一節に「歩くスピードを上げた」「何故か無駄に胸が騒いでしまう」とあるように、その速度を上げていく。ミュージックビデオの志村正彦の眼差しも、次第に何かに追い立てられるように見えてしまう。アウトロになると、その進行は押さえられ、ひとまずの安らぎを覚えるのだが。

 『若者のすべて』と『赤黄色の金木犀』の言葉とリズムの違いは、モチーフとなっている《歩行》の律動の差異から起きているのだろう。《歩行》についてのさらなる考察は、他の楽曲を含めて、別の機会に設けたい。

2014年11月10日月曜日

「現在」の歌-CD『フジファブリック』9 [志村正彦LN94]

 十年前の今日、2004年11月10日にメジャーデビューCD『フジファブリック』が発表された。昨年のこの日からこのアルバムについてのノートを断続的に掲載してきたが、今回で完結させたい。

 今夜は早めに帰宅。CD『フジファブリック』をプレーヤーに入れて、音量をある程度まで上げて、スピーカーで何度か聴く。冬が近づき、部屋も冷たく乾いている。空気が澄み渡り、いつもより志村正彦の声が透き通るように響いてくる。

 このシリーズの7[LN87]で書いたように、このアルバムには、ある地点からある地点へと移動するという意味の動詞が多い。
 例えば「行く」だけを列挙しても、「桜の季節過ぎたら/遠くの町に行くのかい?」(『桜の季節』)、「放送のやってないラジオを切ったら すぐさま行け」(『TAIFU』)、「駄菓子屋に ちょっとのお小遣い持って行こう」(『陽炎』)、かばんの中は無限に広がって/何処にでも行ける そんな気がしていた」(『花』)、「今夜 荷物まとめて あなたを連れて行こう」(『サボテンレコード』)とある。
 70年代前半のブリティッシュロックの音、レッド・ツェッペリン、ピンク・フロイドなどを時折想起させるビートに乗せて、何処かに行くという欲望や衝動が繰り返し歌われている。
 

 しかし、シリーズの8[LN88]で、『夜汽車』に触れて、「歌の主体も『あなた』も何処にも行けない。何処にも還ることはできない。帰郷が果たされることはない」と記したように、歌の主体は、結局、何処に行くことも還ることもできない。このモチーフは、CD『フジファブリック』全体を貫いている。
   『夜汽車』のエンディングは、ずっと回り続けるアナログレコードのターンテーブルのように、終わることのない、行きつくことのない旋律を奏でている。この終わり方の感覚が1stCD『フジファブリック』に独特の余韻をもたらしている。

 リピート再生のキーを押す。『夜汽車』が終わり、『桜の季節』が再び始まると、次のシークエンス、『桜の季節』の抽象的な世界の中で具体的に「別れ」を描く場面が気になってくる。

   坂の下 手を振り 別れを告げる
   車は消えて行く
   そして追いかけていく

   諦め立ち尽くす

 「車は消えて行く」、歌の主体が「追いかけていく」。対象は消えて「行く」、主体は追いかけて「いく」。しかし、結局、主体は「諦め立ち尽くす」。むしろ、あらかじめ「諦め」ているかのように、「立ち尽くす」。この「立ち尽くす」あるいは「立ち止まる」という光景は、志村正彦の初期作品によく見られる光景だ。CD『フジファブリック』中の『陽炎』や『赤黄色の金木犀』にもそのバリエーションがある。

 ある詩集の中のある詩の一つの言葉が、その詩を超えて、詩集全体に響きあうということがある。そのような意味で、『桜の季節』の「諦め立ち尽くす」という言葉はアルバム全体につながっているようにも思われる。何処に行くこともできない、結局、其処にとどまるしかないという主体のあり方が反復されている。

 作者志村正彦は、おそらく、何処に行くことも還ることもできないことをあらかじめ知っていた。「諦め立ち尽くす」と歌われているように、《諦め》や《断念》が先行していた。つねにすでに、其処にとどまること、立ち尽くし、立ち止まり、佇立することを身に纏っていた。
 あるいはそれに抗うように、時には再び、何処かにたどりつくことへの《欲望》や《衝動》を歌った。その反作用のようにして、何処へ行くことも還ることもできない《不安》に強く支配されるようになった。そのような痕跡が彼の作品には滲み出ている。

 1stアルバムでの金澤ダイスケ、加藤慎一、山内総一郎、足立房文の演奏は、志村の声を力強く、時に繊細に支えている。特に、この1stと2ndのドラムを敲く足立のリズム感は、志村の歌詞の持つ日本語のリズムとよく調和している。片寄明人のプロデュースを始めとするレコーディングスタッフも充実し、志村正彦は「プロフェッショナル」な音楽家として追い求めてきた言葉と楽曲の水準、演奏と制作の方法を獲得したと言えるだろう。

 『桜の季節』『陽炎』『赤黄色の金木犀』、四季盤の春夏秋の楽曲が卓越した価値を持つのは言うまでもないが、『TAIFU』『追ってけ追ってけ』『サボテンレコード』の新奇でしかもどこか懐かしい感覚、『打上げ花火』『TOKYO MIDNIGHT』の《夜》と《黒色》の奇妙な祝祭の風景など、多様性という言葉では括れないほどの広がりと深みがある。特に『花』と『夜汽車』は、誰もが使う分かりやすい言葉を使いながら、志村正彦でしか創造しえない世界を築いているという点で、傑出した作品だ。

 『花』には「花のように儚くて色褪せてゆく」という一節があるが、このアルバムは「儚い」世界を描きながら、決して「色褪せてゆく」ことのない命を持つ。
 十年という時の経過どころか、数十年、百年というような時を超えても、日本語の歌の聴き手にとって、1stアルバム『フジファブリック』の言葉と音楽は尽きることのない命脈を保つ。

 私たちが、例えば中原中也の詩を、近代詩という歴史的な文脈を離れて、「現在」の詩として読めるように、未来の聴き手や読み手も、志村正彦・フジファブリックの作品を、その時点の「現在」の歌として受けとめることができるだろう。

2014年11月2日日曜日

佐々木昭一郎のアーカイブス放送

 佐々木昭一郎という孤高の映像作家をご存じだろうか。
 彼はNHKに勤め、60年代後半から90年代前半にかけて、極めて優れたラジオドラマやテレビドラマを創り上げた。今年、二十年近くの沈黙を破り、初劇映画作品『ミンヨン 倍音の法則』を制作した。現在、東京の岩波ホールで上映中だ。

 「僕の作品は全部夢から生まれています」(佐々木昭一郎『創るということ(増補新版)』[青土社])とあるように、彼の作品は、通常のドラマや映画の物語の文法から遠く離れ、「了解できない夢」のように構造化されている。また、「音」や「音楽」も単なる効果や背景を超えて重要な働きをしている。だから、彼の作品は本質的に「映像=音楽作品」とでも名づけられるべきものだ。「佐々木昭一郎という作品」と呼ぶしかないような独自性を持つ。

 彼の作品はDVD等のパッケージでは商品化されていない。NHKアーカイブス あるいはスカパー!等で、十年に一度くらいの割合で再放送されるときに鑑賞するしか方法はない。(私もリアルタイムではほとんど見たことがなく、80年代後半に再放送されたときに代表作を見て、衝撃を受けた)
 このたび、初映画完成に関連して、NHK BSプレミアムで下記作品が放送されることになった。明日3日から始まる。そのことを「情報」としてここに記したい。

【アーカイブス放送 スケジュール】
 11月3日(月・祝)9:00〜|
   「四季・ユートピアノ」(再放送:11日 [火] 24:45〜)
 11月4日(火)9:00〜
   「マザー」(再放送:12日 [水] 24:45〜)
 11月5日(水)9:00〜
   「さすらい」(再放送:13日 [木] 24:45〜)
 11月6日(木)9:00〜
   「夢の島少女」(再放送:14日 [金] 午前25:00〜)
 11月7日(金)9:00〜
   「川の流れはバイオリンの音」(再放送:15日 [土] 2:15〜)


11月9日(日)16:00〜17:29
  「伝説の映像作家 佐々木昭一郎 創造の現場」
      (『ミンヨン倍音の法則』に5年間密着した記録)
 

 特に、ロックやフォーク音楽の聴き手にとっては、1971年制作の『さすらい』は必見だ。若き日の遠藤賢司と友川かずきが出演している。(エンケンは日比谷野音で「カレーライス」を弾き語りしている) 70年代前半という時代の風景と、「さすらう」感受性が、類い希な映像と音楽によって、記録というか記憶されている。
 私はその当時十代前半で、出演者よりも十歳ほど若い世代に属しているが、あの時代の記憶はとても懐かしく、自分自身の感受性の原点となっている。

 彼の作品を未見の人に、そして、あの時代を直接知らない若い世代に、ぜひ「佐々木昭一郎という作品」と遭遇していただきたい。

2014年10月29日水曜日

ジュンク堂書店岡島甲府店にて。

  一昨々日、桜座のAnalogfishとmooolsのライブに出かけた。その前に、すぐ近くの岡島百貨店という老舗の6階にあるジュンク堂書店岡島甲府店に立ち寄った。甲府では最大の書店で品揃えがとても充実している。

 音楽書の売場を目指したのだが、そのコーナーの目立つ場所に「ロックの詩人 志村正彦展」のフライヤーが飾られていた。7月の志村展の際この書店に依頼したところ、こころよく、フライヤーを置いていただいた。その中の一枚が今でもこうして展示されているのだろう。
 思いがけない出会いだった。心の中で、書店の担当者に感謝を申し上げた。


 コーナーを回って書棚を見ると、一番左のよく見える高さの棚に、「待望の重版!志村正彦全日記集」というポップと共に『東京、音楽、ロックンロール 完全版』、「志村正彦登場!」というポップと共に『音楽とことば あの人はどうやって歌詞を書いているのか』の二つが、面陳列というのだろうか、表紙をこちら側に向けて2,3冊ずつ重ねられて陳列されていた。驚きと感激で一杯になった。

 この書店を訪れた誰かが志村正彦の書物を手にすることがある。彼の言葉と出会う可能性がある。嬉しいような、切ないような、有り難いような、感情に染め上げられた。

 実は、この岡島百貨店の6階にはかつて新星堂ロックイン甲府店があった。この楽器店で、高校入学の春、志村正彦はギブソン・レスポールスペシャルを購入した。初めて買ったエレクトリックギターで、アルバイトを重ねて払い終わったようだ。高校生にしてはかなり高価なもので、プロの音楽家になるという不退転の決意のようなものが感じられる。7月の志村展で展示されたので、ご覧になった方もいらっしゃるだろう。友人によると、その後も何度かここにはエフェクターなどを買いに来たらしい。

 もう何年も前にこの楽器店は撤退し、その跡を含むスペースにジュンク堂が開店した。今、その音楽書のコーナーで志村正彦の著作が並べられている。

 それだけのことだった。それだけのことにすぎない。
 それでも、その場に、彼が還ってきたような気がした。

2014年10月26日日曜日

「時」と「影」-『赤黄色の金木犀』2 [志村正彦LN93]

 『赤黄色の金木犀』は、ロック音楽では標準的な四分ほどの時間を持つ作品だ。
 以前ある若者が、この数分の短い時間の中で金木犀が香り始め、曲が終わると共にその香りが消えていくように聞こえてくる、と筆者に語ってくれたことがある。四分という時の中で、金木犀が香り続ける。若者らしい感受性にあふれた捉え方だ。

 短い時の流れの中で生まれそして消えていくもの。ロック音楽そのものが数分間の生成と消失をその宿命としている。そしてまた、時の中の生成と消失は、志村正彦が繰り返し描いたモチーフでもある。『赤黄色の金木犀』は次のように歌い出される。

  もしも 過ぎ去りしあなたに
  全て 伝えられるのならば
  それは 叶えられないとしても
  心の中 準備をしていた


 「過ぎ去りし」という文語的な表現の助動詞「し」は、過去の出来事を主体的に直接的に経験したことを表す。「あなた」と歌の主体との間には、後戻りすることのない時間が流れている。
 「もしも」「のならば」という仮定は、途中に「叶えられないとしても」という留保を挟みながら、「準備をしていた」という帰結に掛かっていく。歌の冒頭にある、この複雑な仮定と帰結のあり方は、歌の主体「僕」の「時」への関わり方がかなり独特であることを告げている。

  冷夏が続いたせいか今年は
  なんだか時が進むのが早い
  僕は残りの月にする事を
  決めて歩くスピードを上げた


 「冷夏」が続くと「時が進むのが早い」。秋がすでに訪れてしまった気分になるのだろうか、季節と時の歩みに敏感な「僕」は、「歩くスピード」を上げる。季節は時の循環の感覚を支えるが、「冷夏」のように循環のリズムが崩されると、時の歩みが一気に早まる。

  いつの間にか地面に映った
  影が伸びて解らなくなった
  赤黄色の金木犀の香りがして
  たまらなくなって
  何故か無駄に胸が
  騒いでしまう帰り道


 「影」を「僕」の「影」だと仮定してみる。そうなると、「影」は「僕」の「分身」ともなる。
 「僕」は僕の「影」を追いかける。あるいは僕の「影」が「僕」を追いかける。
 一日も終わる頃、夕陽をあびて、「影」は遠く果てまで伸びていく。陽も落ちると、周囲に溶けこみ、「僕」は「影」が解らなくなる。一日の時の流れの中で、「僕」は「影」を通じて、自分自身の「時」を追いかけているのかもしれない。

 それでも、金木犀は香り続けている。あたりの風景を香りで染め上げている。
 「僕」は平静でいられなくなり、「何故か」「無駄に」「胸が」「騒いでしまう」。一つひとつの言葉は分かりやすいものであっても、この配列で表現されると、なかなか解読しがたい。言葉の連鎖のあり方が単純な了解を阻んでいる。なぜ、「無駄に」胸が騒ぐのか。その理由は明かされることがなく、行間に沈められている。「僕」の「胸」にある想いを描くことは不可能だが、「無駄に」という形容は痛切に響く。

 
 歌の主体「僕」は「帰り道」にいる。「僕」は僕の「影」と共に、日々の生活の中での短い「時」の旅を終えて、帰路についている。楽曲のリズムも、次第にテンポが速まり、歌の言葉を追いかけるようにして、四分間の音楽の旅を終える。

    (この項続く)

2014年10月21日火曜日

季節の中の『赤黄色の金木犀』 [志村正彦LN92]

 先週の木曜日。富士の初冠雪。その日の夕暮れ、西側から陽が当たり、富士が赤く照り返されていた。
 甲府盆地からは夕暮れ時の「紅富士」が、やや遠景ではあるのだが、時に現れる。青黒い御坂山系に遮られて、富士は半分ほども見えないのだが、その白い肌が薄赤く染まる。台風も過ぎ去り、空の青も透き通っていた。彩りが美しい。甲府盆地からやや南西側にある富士山の位置がこの幸いをもたらしている。
 富士が雪化粧をすると、秋を通り越し、冬が近づいている実感を持つ。

 一月近く前になる。9月の下旬、甲府でも金木犀が香りだした。
 昼間、勤め先の近くで、香りをのせた風に包まれた。見渡しても、金木犀の樹は見えない。少し歩くと、香りが強まったり弱まったりする。強まるあたりで金木犀を探しても、見えない。香りをたよりに歩行を続ける。しかし、相変わらず樹の姿は見えない。探すことをあきらめて立ちつくす。樹の姿が現れないからこそ、風景が金木犀に染め上げられる。
 一週間ほど経つと、金木犀の香りは消えてしまった。香りの命は短く、目に見えない金木犀の風景も過ぎ去ってしまう。

 十年前の2004年9月29日、『赤黄色の金木犀』シングルCDがリリースされた。その日の前後、このことに触れたツイートが多かったようだ。十年という時を経てもますます、この作品は秋の季節の歌として聴き継がれている。
 ミュージックビデオの監督スミス氏も「懐かしい」と呟いていた。このMVは出色の出来映えだ。長野県上田市でロケされ、同一のポジションで撮影したシーンをつなげていくという作業を経て完成した。撮影と編集の作業そのものが、秋の日の時の流れを感じさせる。この季節に久しぶりに見ることにした。

 二十四歳の志村正彦はやや暗い眼差しでこちら側を見つめている。珍しく、視線はまっすぐなのだが、それでもやはり少しだけ傾けているのが彼らしい。クリーム色のテレキャスターを弾き、歌いかける。独自の言葉の世界が広がっていく。
 イントロとアウトロのギターの旋律は、金木犀の香り、どこからとも流れてくる風に乗った香り、その目には見えない動きを奏でている。ギターリストとしての彼の才能を感じさせる。

 今、巡回中のフジファブリックの LIVE TOUR 2014 "LIFE"の仙台公演で、『赤黄色の金木犀』が演奏されたそうだ。2010年7月、「フジフジ富士Q」でクボケンジが歌った以来のことになるのだろう。山内総一郎がどのように歌いこなしたのか、興味深い。志村正彦を離れて、この歌はどのように聴き手に伝わっていくのか。そのことに関心がある。『赤黄色の金木犀』は、志村の作品の中でも最も彼らしい言葉の世界を構築しているからだ。

 季節の感覚が薄まりゆくこの時代、金木犀という花の香りや『赤黄色の金木犀』という歌の響きによって、私たちファンは、秋という季節を感じ、秋という季節を想っているのかもしれない。

 (この項続く)

2014年10月13日月曜日

山梨という島・沖縄という島

 前回、「PEACETIME BOOM」という「平和景気」を意味する言葉の持つ批評性について書いた。それと共にもう一つの意味が思い浮かんできた。

  ステージの背景にある「25 PEACETIME BOOM」という言葉には、「THE BOOM」が「25」年の間、「PEACETIME」、「平時」のままに、「大事なく幸せに」バンド活動を続けられた、ということへの感謝が込められているのかもしれないと思った。解散発表時のコメント「たくさんの、本当にたくさんの愛とぬくもりに包まれ、僕たちは日本一幸せなロックバンドでした」という言葉通り、その25年間は本当に幸せな時間だったのだろう。(そのとき、5年間、アマチュア・インディーズ時代を含めても10年しか活動できなかった志村正彦のことを考えてしまった。彼の音楽活動は、ザ・ブームのように幸せに完結することはなかった)

 ライブは、『君はTVっ子』から始まった。1989年5月発表のデビュー・シングル。スカを基調としたリズムと歌詞の言葉が見事にはまった愉快な曲。最初から、会場は熱気に包まれる。次は『星のラブレター』。甲府の「朝日通り」(私は子供の頃すぐ近くで暮らしていた。思い出の詰まっている場所だ)が舞台となっている。ハーモニカの歯切れがよい。歌い終わった宮沢和史の表情にも深い想いが去来しているように見えた。

 数曲を経て、『からたち野道』。ザ・ブームの中でも、最も心に染みる歌。「心」というよりも、聴き手の「記憶」に染みいる、と書くべきだろうか。この歌を聴くと、甲府盆地の何処とも言えないのだが、かすかに記憶のある「野道」が浮かんでくる。私たちがここに今在ることにつながる記憶、哀しいような懐かしいような記憶。そのような記憶をこの歌は伝えている。

 『おりこうさん』という曲の間奏部では、途中で奥田民生の『風は西から』などをメドレーで演奏した。なぜ、奥田民生なのか?1990年前後のいわゆる「バンドブーム」の時代、ザ・ブームはレピッシュやユニコーンと共に、日本語ロックの歌詞を深化させた。宮沢から同時代人奥田へのオマージュなののだろうか、あるいは解散するザ・ブームから再結成したユニコーンへのバトンタッチの意味なのか。よく分からないが、いきなりの奥田民生は面白かった。

 終わり近くになり、この曲を作るためにこれまでの二十数年間があったというMCと共に、『世界でいちばん美しい島』が演奏された。2013年リリースの同名の14枚目のアルバムが結局最後の作品となった。彼らの旅の終着点となったのがこの歌だ。

  春を知らせる紅の花 真綿が開いた夏の雲
  空を切り取る秋の月 冬を集めた母の鍋


  世界でいちばん美しい島 それは僕らの生まれ島
  ここで生まれた 誉れを胸に 命の歌を歌い続けよう


 この曲の演奏中、舞台のスクリーンに、甲府盆地の風景、『釣りに行こう』の舞台となっている荒川上流、盆地から御坂山系越しに見える富士山、馴染みの景色が次々と静止画で投影された。
 歌は歌であり、歌を補完するような映像が流れるのは過剰な演出になり、疑問だ。だが、この時の映像は違った。幼少期から親しんでいるこの土地の風景が、この『世界でいちばん美しい島』の歌詞の言葉とシンクロするように映し出されると、何かこの上なく、突き動かされるものがあった。

 映像は次第に、沖縄の風景へと変わっていく。山梨から沖縄そしてブラジルを始めとする海外へと広がっていった彼らの音楽の軌跡を表しているようだった。
 山に囲まれた山梨、海に囲まれた山梨、どちらも「島」。山梨も沖縄も、そこで生まれ育ち、暮らし、やがて亡くなる人々にとっての「世界でいちばん美しい島」だ。
 映像の最後は、甲府の北部を流れる荒川上流だと思われる景色で終わる。川は、流れ流れ行く宮沢和史の存在の原点なのだろう。

 宮沢は、『世界でいちばん美しい島』という題名に込めた思いについて次のように述べている。( http://news.walkerplus.com/article/39120/

聞いた人が自分の故郷を思い出してくれると嬉しい。自分の故郷を愛おしく思うこと、そこに誇りを持つこと、それを高らかに人に語れること、今僕らに必要なのはそういった事じゃないでしょうか。東日本も含め、沖縄基地問題や日本の経済の悪さなど、いろんなことがこの国にはあります。「世の中って駄目だな」って言ってても何も変わらなくて、誰かに任せてたって何も変わるわけじゃない。でも何かを変えるためには、自分の生まれた場所が好きでいることが大事だと思うんです。そうすると自分に誇りが持て、仲間に誇りが持てるし、団結もする。何かを変えていく原点はそこなのではないでしょうか。聞いた人が自分の生まれた場所や故郷を思い出すような、愛おしく思えるような、そんな作品になってほしい。

 「世界でいちばん美しい」のは「国」という単位ではなく、あくまで「島」という単位だ。この場合の「島」は「自分の生まれた場所や故郷」を指し示す。宮沢は注意深く「島」という言葉を選んでいる。そして、その「島」は「何かを変えるため」に存在する場であると告げている。

  山梨という「島」、沖縄という「島」。ザ・ブームの四人、宮沢和史、小林孝至、山川浩正、栃木孝夫の25年間の旅は、「世界でいちばん美しい島」を見つける旅であり、「何かを変えていく原点」を見つめ直す旅であった。
 歌の作り手だけでなく、聴き手にとっても、長い年月を経た後に、歌の意味が見いだされるものかもしれない。作り手と受け手が同じように意味を見いだし、その意味を共有するのなら、その旅はとても幸せなものだったと言えるだろう。

 アンコールが2回、ラストは『中央線』。3時間に及ぶライブは終わった。
 「走り出せ 中央線 / 夜を越え 僕を乗せて」と歌われる『中央線』は、やはり、山梨に住む者にとって特別な歌だ。ほんとうに最後なのだなと、心と耳を澄ませて聴いた。
 2014年10月5日の甲府でのザ・ブーム解散ライブは、永遠に記憶に残り続けるものとなるだろう。
 

2014年10月7日火曜日

ザ・ブーム、山梨での解散ライブ「25 PEACETIME BOOM」

 一昨日、10月5日、甲府市の山梨県民文化ホールで、ザ・ブーム「THE BOOM MOOBMENT CLUB TOUR 2014 ~25 PEACETIME BOOM~」の山梨公演が行われた。

 3月末に今年12月をもって解散し、デビューから25年、結成から28年の活動に終止符を打つという発表があった。その際のコメントには「この4人でやれる事、やるべき事は全てやり尽くしたのではないかという思い」が心を支配するようになったとある。「全てやり尽くした」という完全燃焼の末の決意だった。今回は「解散ツアー」であり、メンバー中3人の出身地である甲府でのライブは、ザ・ブームとして故郷に別れを告げるものとなる。

 地方では県庁所在地にある公立のホールがコンサート会場になることが多い。ロックからクラシック音楽まで、山梨開催のかなりのものがこのホールで開催される。(志村正彦も、山梨でのライブを第一に富士吉田市民会館のホール、第二に富士急ハイランドのコニファーフォレスト、第三に甲府の山梨県民文化ホールの三カ所で行いたいと語っていたそうだ。このホールに来ると、どうしてもそのことを考えてしまう)

 ホールに着席する。前後、左右共に真中あたりの位置。ステージも見やすく、距離感もちょうど良い。ステージ上のスクリーンに、ヒストリー映像が流れている。デビューの頃20歳代の映像は、あたりまえだが若々しい。25年が経ち、彼らも50歳前後となった。当然、聴き手も年をとる。観客も40歳代から50歳代が多い。メンバーのご親戚や関係者かと思わせるような方々もいる。地元ならではの雰囲気だ。

 ヒストリー映像を見ているうちに、こちら側も回想モードになる。いくつかの場面が浮かんできた。

 1989年、風土記の丘公園の野外ステージで開催された山梨での初ライブ。90年代中頃まではここ県民文化ホールで毎年のように開かれたツアー・ライブ。少し間が空いて、2001年、風土記の丘での2度目のライブ。最近では、2011年、甲府駅近くの舞鶴城公園で無料ライブが行われた。そして、今回、2014年の山梨での最後のライブ。記憶に残る数々の歌と演奏があった。

 結果として、山梨での初ライブも最後のライブも見る幸運に恵まれた。この25年の間、時期により濃淡の差はあるが、私はザ・ブームのファンであったと書いてもいいだろう。

 ステージの背には、「25 PEACETIME BOOM」という文字が大きく印されている。 1stアルバム『A PEACETIME BOOM』との関連で名づけられたものだろう。「A PEACETIME BOOM」から「25 PEACETIME BOOM」へと、「A」から「25」へと、「PEACETIME BOOM」は持続していった。

 そもそも、「PEACETIME BOOM」とはどのような意味か。どのような意図を持つ表現なのか。写真家ハービー山口氏の音楽番組"The Roots"で、曲で何を表現したいかというコンセプトはあるのかという山口氏の問いに対して、宮沢はこう答えている。(https://www.youtube.com/watch?v=O4g3Xt26oN0 "The Roots"の映像の最初には2001年の風土記の丘ライブや宮沢和史の実家近くの街並みの映像も入っていて貴重だ)

   僕らがデビューした頃って、世の中けっこう浮かれたムードだったんですよ。ですから本当にこれでいいんだろうかという思いがあって、それで『A PEACETIME BOOM』というタイトルにしたんですよ。「平和景気」ていう、ひねくれたタイトルです。「戦争景気」の逆ですけど。

 「戦争景気(WARTIME BOOM)」とは戦争による特需がもたらす好景気だ。それを反転させて、「平和景気」という逆説的な造語を作ったのは、社会的な批評性のある行為だ。確かに「ひねくれた」ものだが、この言葉には「ひねくれ」と共に「まっすぐ」な姿勢がある。
 日本の戦後はずっと、ある意味で「平和景気」が続いていた。ザ・ブームがデビューしたのはバブル崩壊直前の「平和景気」ピークの時代だった。「平和」であること自体は絶対的に肯定されるべきだが、「平和」による「景気」によっても取り残されてしまう現実、欠落もある。そのような時代への違和や抵抗の感覚を宮沢は持ち続けていた。

 あの『島唄』は言うまでもなく、沖縄戦の犠牲を歌ったものだ。そのことに関連してMCで宮沢は甲府空襲のことを語った。1945年7月、甲府空襲があり、父親と母親は疎開したそうだ。このことは初めて聞いた。宮沢の父母の世代は、「空襲」という「戦争」を体験している世代だ。(私事になるが、私の父もこの年、東京空襲と甲府空襲の二つを経験した。命の危機の中で何とか逃げのびた話を子供の頃から何度も聞いた)

 戦争はそんなに過去のものではない。まだ70年ほどしか経っていない。『島唄』が作られたのは、そのような文脈と背景があってのことだということを忘れてはならない。山梨も沖縄も、日本という「島」の中の「戦争」の経験を共有する「場」として、つながっている。

 今回のライブの前に、ザ・ブームのアルバムを何枚も聴き返した。初期から通して聴くと、宮沢の歌詞には、社会への様々な批評が含まれていることがあらためて確認できる。一貫したラディカルな意志のスタイルがある。
 声高な攻撃的な主張ではなく、むしろ内省が込められた控えめなものだが、高い次元の批評性を持つ。「25 PEACETIME BOOM」という言葉が何よりもそのことを伝えている。

  (この項続く)

2014年9月28日日曜日

HINTO 『シーズナル』

 
 9月23日、HINTOの渋谷CLUB QUATTRO公演。前半の最後は『シーズナル』。 
 伊東真一のギターが奏でるイントロ、何かが始まるような予感に満ちた旋律と音色だ。安部光広のベースと菱谷昌弘のドラムスによるビートも、安部コウセイの歌の言葉を導いていくようにゆったりと響いていく。 会場の皆がこの歌に聴き入っていた。やるせないような、いつでももうすでに、切なく懐かしいような夏。その雰囲気に包まれていた。

  誰かと出会って 誰かとは別れて
  めぐってめぐってくシーズン
  めぐってめぐってくシーズン
  めぐってめぐって
  少しだけ変わった


 会場でこのラストの言葉が聞こえたときに、一瞬、フジファブリック『若者のすべて』のラスト、志村正彦が歌う「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」という一節が想い浮かんできた。
 『若者のすべて』の「変わるかな」と『シーズナル』の「変わった」。「変わる」という動詞を媒介にして、この二つの歌がつながっているように感じてしまったのだ。不意打ちのようにその連想におそわれた。

   『若者のすべて』のラストシーンで、「最後の最後の花火が終わったら/僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」と結ばれる。「僕らは変わるかな」と、歌の主体「僕」は「僕ら」(それが誰を指すのかは明らかでないのだが)の未来に向けて、問いかけている。
 『シーズナル』において、歌の主体「僕」は、「僕」自身(あるいは作中の「君」を含めた「僕ら」かもしれないが)が「少しだけ変わった」と結んでいる。

  『シーズナル』と『若者のすべて』の間に、描かれる物語の内容でもモチーフの面でも、直接的、間接的な対応関係はないと考えられる。しかし、二つの歌のサビの部分にはある種の共通した雰囲気もある。
 『シーズナル』のサビは三回繰り返される。それぞれの末尾はこうだ。

  めぐってめぐって少しずつ変わって

  愛して憎んで少しだけわかって

  めぐってめぐって少しだけ変わった

 「少しずつ変わって」→「少しだけわかって」→「少しだけ変わった」と変化していく。「変わって」→「わかって」の「かわ」「わか」には音の戯れもある。「少しずつ」→「少しだけ」→「少しだけ」という展開。述語の終わり方は「て」→「て」→「た」。「て」という「余韻」のある接続助詞を使いながら、最後は「た」という助動詞で締めくくる。「変わった」と完結させるのが、『シーズナル』にふさわしい終わり方なのだろう。

 「めぐってめぐって」というシーズナル、季節の循環の中で、「僕」は「少しずつ 変わって」いく。そして、「愛して憎んで」という経験を経て、「僕」自身のことが「少しだけわかって」いく。若者の、というかより広く人間の、というべきなのだろう、ある種の成熟が描かれている、と書いてしまえばつまらない物語になってしまうかもしれないが、そのような「解釈」から離れてみても、『シーズナル』の言葉と楽曲は自然にさりげなく、聴き手に響いていく。「少しだけ変わった」というフレーズがそのまま素直に届いてくるのだ。

  『シーズナル』は、歌詞、楽曲、演奏共に完成度が非常に高い作品だ。独自の世界を持つ。それを前提とした上で、それでもなぜか、『シーズナル』のラストが『若者のすべて』のラストへの応答のように感じた。応答とは言っても、いわゆるアンサーソングではないが、どこかかすかに、この二つの歌はこだましているような気がした。

 安部コウセイの別ユニット堕落モーションFOLK2には、志村正彦の生と歌を凝縮して描く『夢の中の夢』というきわめて優れた作品がある(「LN66」参照)。歌の一節にこうある。

  そーいやさあれから 新しいバンド組んだよ
  相変わらず ひねくれているけど カッコイイんだぜ
  もし君が聴いてたら 何て言われたんだろうか 教えてよ


  新しいバンドとは「HINTO」のことであり、歌の主体は安部コウセイで、「君」は志村正彦であろう。安部は志村が聴いてたら「何て言われたんだろうか」と問いかけ、「教えてよ」と呼びかける。安部は志村と歌で対話している。「ひねくれている」者同士の友愛は続いているのだ。

 もちろん、何でも志村正彦と関係づけるのは、安部コウセイに対して、そして志村正彦に対しても失礼だろう。そのことは戒めねばならない。それでも、自分の連想や感覚には素直でありたい。
 私自身の無意識が、『若者のすべて』の「変わるかな」と『シーズナル』の「変わった」という言葉を連鎖させてしまった、とでも書くことができるだろうか。

 何をどのように聴きとるのか。それは結局、聴き手の自由だ、というよりも、聴き手の無意識の次元に起きてしまうことだ。それが聴き手の現実だろう。
 今日は『若者のすべて』と『シーズナル』を交互に繰り返し聴いた。そうするとなんだか、『若者のすべて』の「僕」が、数年の時を経て、「少しだけ変わった」と呟いている映像が浮かんでくるようだった。

 『シーズナル』のMVがyoutubeにある。(https://www.youtube.com/watch?v=YiA5hCBgaGI) 未見の人にはぜひご覧いただきたい。
 ラストシーンの海辺の光景。二人の女性(篠田光里と森康子が演じている)のヘッドフォンとサングラスをかけた姿、浜辺に一人で佇む安部コウセイらしき男の後姿、そしてクローズアップされた「履歴書」の言葉には微笑んでしまう。そして、こころがあたたまる。

2014年9月25日木曜日

HINTO、渋谷Quattroで。

 一昨日の9月23日夜、HINTOの渋谷CLUB QUATTRO公演“NERVOUS PARTY” release ONE-MAN TOUR「清楚なふりしてアメージング」に出かけた。以前から安部コウセイのライブを聴きたかった。急に行けることになり、チケットも間にあったのが幸いだった。

 新作『NERVOUS PARTY』を入手し、数日間、聴きこんだ。特に、7曲目『エネミー』の歌詞は鋭く深い。日本語のロックでこれほどの水準の言葉に出会うことは稀だ。安部コウセイはこういう切り口でこういう世界を描くことができるのだとその才能に驚く。ライブへの期待が高まった。

 渋谷のクアトロに行くのは十数年ぶり。BRNXD Xの来日ライブの時以来だ(パーシー・ジョーンズの驚異のフレッドレスベースが懐かしい)。開演20分位前に入ると会場には沢山のファン。整理番号は400番台だから、500人は超えていただろう。ホールの一番後ろの端っこに佇む。にわかHINTOファンのおじさんにはこういう場所が落ち着く。

 ライブは『アイノアト』で始まる。「愛の後」「愛の痕」という二重の意味を持つ題名。なかなか複雑なアイノウタだ。前半?(安部コウセイが「これからはアゲアゲで」と言った前まで)の最後は『シーズナル』。夏の寂しい、切ない感じを歌ったという意味のMC。美しいメロディとゆったりとしたリズムで「ねぇ皆ねぇ皆ねぇ皆 そろそろ/新しい季節が始まるみたいさ」と高らかに歌われる。

 ライブ本編の最後は『エネミー』。伊東真一のギターと安部光広のベースがイントロを刻み始めると、聴衆はこの歌と対峙するかのように、むしろ、静まりかえる。

  こんなモグラみたい眼で見つめても
  地図がぼやけて読めるわないだろ


 安部コウセイが歌い出す。サングラスが外されている。菱谷昌弘のドラムスが絡み合う。
  フロア内では静かにスローモーションのように踊る光景。
 静かな熱狂がその場を支配していく。

  私は10代の半ばから40年ほどの間、時代により密度の差はあるが、ロックのアルバムを聴き続け、そこそこライブにも出かけてきたが、これまで経験したことのないような、圧倒的な歌と演奏が現前していた。9月23日のHINTO『エネミー』は、語ることの難しいほどの圧倒的な「出来事」だった。

 m社[@m_sya_](https://twitter.com/m_sya_)の24日のツイートには「昨日のHINTO渋谷Quattro素晴らしかったです。エネミーヤバいですね。コウセイは攻めてるのが似合う。下岡」とあった。アナログフィッシュの下岡晃自身によるコメントだろう。あの場にいた人が皆、同じような想いを抱いたのは間違いない。

 安部コウセイ[@kouseiabe]のツイートで、本人はこう述べている。(https://twitter.com/kouseiabe

あとエネミーの時、光広も真くんもビッツも演奏の向こう側の表現をしていて、スゲェかっこよかった。演奏中にバンド内で爆発が起きてるのをビリビリ感じた。

 そうか、「爆発」が起きていたのか。確かに爆発のようだったが、熱い熱狂の爆発というよりも、心の中の堅くて厚い氷を、一瞬のうちに、歌と演奏で爆発させ破壊していくような、ものすごくクールな熱狂が広まっていく。演奏者の側から「演奏の向こう側の表現」という言葉が放たれたことも希有なことだろう。

 どのようにその光景を描写したらいいのだろうか。
 HINTOは言葉の向こう側に行こうとしていた。四人全員が、安部コウセイの書いた『エネミー』の研ぎ澄まされた言葉を受けとめて、そして、その言葉の「向こう側」に辿り着こうとしていたと、とりあえず描くことができるかもしれない。

  この日のライブ映像はyoutubeで配信される予定とのMCがあった。待ち遠しい。
 『エネミー』の言葉と演奏については、もっともっと考え抜かねばならない。何かを掴むことができたらできるだけはやく、この場で書いてみたい。

2014年9月22日月曜日

ラベルの再構成 [諸記]

 新しいラベルも加えて、ラベルを再構成しました。

 志村正彦・フジファブリック以外のアーティストの論も増えてきましたので、「アーティスト別ラベル」を新たに作り、「作品・テーマラベル」を二つに分割しました。「作品ラベル」には、藤谷怜子「ここはどこ?-物語を読む-」で書いた作品も含めました。

 現在までに、「偶景web」で単独で論じた志村正彦・フジファブリックの作品数は8曲しかありませんが、(「志村正彦ライナーノーツ」3曲、「ここはどこ?-物語を読む-」5曲)、部分的に触れたものもラベルに追加させていただきました。
 彼の作品総数は90数曲ですので、道程はまだまだ遠いです。

 

2014年9月21日日曜日

「ないかな」のフレーズについての試論-『若者のすべて』15 [志村正彦LN91]

  前回の「志村正彦LN91」では、『若者のすべて』の「純然たる音と言葉の響き、意味の断片の流れのようなもの」を聴き取ろうとして、「な」音とその連鎖について書いた。この音と声とその響きについて考え続けていたところ、落語家の立川談修氏の次のツィート(@tatekawadansyu )[https://twitter.com/tatekawadansyu]を目にした。‏
 
9月18日   
ナインティナインのオールナイトニッポンを聴いててたまたま流れた、フジファブリックの『若者のすべて』という曲に撃たれた。バンドの名前は知ってたけど曲を聴くのはたぶん初めて。7年前の曲で、しかもこれを歌ってる人は5年も前に享年29で夭折していることにビックリ。
9月18日   
サビ部分の「な行音」の羅列とその独特の発音が何とも言えず心地よく耳に残る。ファンのかたにとっては何を今さら、だろうけど。


 立川氏は「『な行音』の羅列とその独特の発音」を的確に指摘し、「何とも言えず心地よく耳に残る」ところに「撃たれた」ようだ。語りの言葉の専門家による発言は貴重だ。この呟きにも刺激されて、今回も、「ないかな」の一連のフレーズについて論じていきたい。「志村正彦LN 37」ですでに次のように記した。

純粋な響きの問題にも触れたい。「ないかな ないよな きっとね いないよな」の一節には、「な…」「な…」「…な…」の不在を強調する「な」の頭韻と、「…かな」「…よな」「…よな」の「な」の脚韻がある。「な」の頭韻には強く高い響き、「な」の脚韻には柔らかく低い響きがある。「な」の音の強さと柔らかさが、縦糸と横糸になって織り込まれているような、見事な音の織物になっている。

 「ないかな ないよな きっとね いないよな」は当然、「ないかな」「ないよな」「きっとね」「いないよな」の四つの最小単位に分かれる。その単位の構造を視覚化するために、以下のように記してみる。

   □□
    な□□
     □□□
   □□

 視覚化すると明瞭だが、「な」の頭韻の「な」と脚韻の「な」の二つがそれぞれの最小単位を挟み込んでいる(三つ目は脚韻がナ行の「ね」、四つ目は最初に別の音が入っているが)「な」の音で始まり「な」の音で終わる。
 四つの音がその倍数で展開していく。拍も同様に音の長短を調整しながら、四の倍数を刻んでいく。

 別宮貞徳氏の『日本語のリズム ─四拍子文化論』(ちくま学芸文庫)は、「4拍子」が日本語のリズムの基調にあることを指摘した。所謂「七五調」についても、言葉の切れ目や間を挿入することで、2音節1拍の8音節4拍子になる。俳句の五七五も短歌の五七五七七も、888、88888の8音(2音節4拍子)が内在律となる。この主張は、日本語のロックの音数律を考える際にも示唆に富む。別宮氏の表記方法に倣って、1拍2音節の切れ目に/を置き、長音や空白の箇所は○にして記述する。
 
   ない/か(な)/な○/○○
   ない/よ(な)/な○/○○
   きっ/と(ね)/ね○/○○
  いない/か(な)/な○/○○

 等時拍の中で、頭韻「な」は短く、脚韻「な」は長めに歌われている。頭韻の「強く高い響き」、脚韻の「柔らかく低い響き」につながっている。歌人の斎藤茂吉はナ行音について「柔かく、時に籠って、滞って響き」と述べているようだが、「ないかな」「ないよな」の脚韻の「な」には、「籠って、滞って」という響きの感覚がよく表れている。
 志村正彦の声には「やわらかく粘りつく」ような心地よさがあるとも言われているが、このようなフレーズやリズムの構造と声の響きが関係しているかもしれない。

 音から単語のレベルに移行しよう。
 聴き手からすると、最初の「な」音は、続く「い」音とすぐに結びついてしまう。自然にそのように聞こえてくる。「な」は、「ない」という一つの単語、自立語の形容詞、時枝誠記の文法論の「詞」の一部分であるから、これは自然なことだろう。
 それに対して、「かな」「よな」の方は、もともと「か」「な」「よ」「な」という終助詞、付属語が元になっている。意味ではなく、話し手の疑問や心配、念を押したり確かめたりする気持ちを込めるものだ。時枝文法では「辞」であり、対象(この歌詞の一節の場合、「ない」という不在の指示対象)に対する話者の主体的な捉え方そのものを示している。私見では、「辞」は主体の想いを音そのものとして響かせる力を持つ。

    ない←→かな
    ない←→よな
    きっとね
 いない←→よな

 抽象的な説明になってしまった。実際の歌詞、この「ないかな」のフレーズと続く一行を引用してみる。

  ないかな ないよな きっとね いないよな
  会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ

 この二行の「意味」の解釈を「志村正彦LN 37」では次のように試みた。

 すでに「ないかな」「ないよな」と「ない」が二つ重ねられる。しかし、いったい何が「ない」のか。それがわからないまま「きっとね」を挿んで、「いないよな」に続く。「いない」のならその主語は人、誰かということになる。続く行で、「会ったら言えるかな」とあるので、その「いない」と思う誰かは、歌の主体《僕》にとって出会ったら何かを言えるか困惑するような相手、普通考えるなら、恋人のような大切であった存在のことであろう。そして、その場面全体を「まぶた閉じて浮かべている」と歌っている。
  そうであるのなら、この一節をもとに戻ると、「ない」の主語は、誰か大切な人との再会するという出来事になるかもしれない。「再会する」ことが「ないかな」となり、「再会する」という意味の言葉が省かれていることになる。あるいは、「いること」が「ないかな」つまり「いないかな」の「い」が省かれた形とも考えられる。

 『若者のすべて』の一般的な解釈として示したものだ。この解釈を「詞」と「辞」という観点に接ぎ木してみる。
 恋人という対象の不在や再会という出来事の無や不可能性を示す「ない」という「詞」。その「ない」という判断についての疑問や心配、念を押したり確かめたりする心情を示す「かな」や「よな」という「辞」。この一連の歌詞では、「詞」と「辞」が、音節の区切りをもとに、対比的、対立的に表現されている。「ないかな ないよな きっとね いないよな」というフレーズには、不在や無についての自問自答にも似た形式がある。

 今回は、「ないかな ないよな きっとね いないよな」という一節に対して、韻、拍子、詞と辞、という三つの観点で迫ってみたが、論が混乱してきて整理できない。この原稿は没にしようとも思ったが、何かを書いてみなければ次のステップにいけない。「試論」ということでお許しいただきたい。
 様々な要素の絡み合いでこの魅力に富む「ないかな」の一連のフレーズは構造化されている。論のための論を書くつもりはないのだが、いつかもっと正確に解析した論を書きたいものだ。

    (この項続く)

2014年9月15日月曜日

『セレナーデ』の祈り

 今回の中欧旅行では、MP3プレーヤーでフジファブリックの音源を聴きながら、車窓の風景を見ていった。
 街から離れた郊外、地の緑や空の青が広がる風景では『陽炎 (acoustic version)』が調和していた。「陽炎がゆれている」という歌詞と共振するように、志村正彦の声はゆれながら空の彼方に広がっていく。

 ブダペスト、プラハ、ウィーンの街中では王宮、教会、市庁舎等の歴史的な建築物が並ぶ。その風景に最も合っていたのは、やはり、志村正彦の創った『セレナーデ』だった。やはり、と書いたのは、セレナーデは西洋音楽の形式や主題であり、そのまま曲名になっているからだ。クラシック音楽に無知な私には詳しいことは分からないが、男性が女性に愛する気持ちを捧げる歌曲で、小編成で演奏されるものだ。映画やドラマで、夜、男性が楽団を連れて愛する女性の家を訪れ、窓の下に立ち、セレナーデを奏でるというシーンを見たことがある人も多いだろう。(『花子とアン』にも、ふりかえれば哀しいシーンとしてその挿話があった)

 フジファブリックの『セレナーデ』にもそのような楽曲の起源がイメージとして浮かんでくる。
 欧州風の恋愛の歌曲に中欧の教会や塔や門、あまりにも「御誂え向き」の景観だとも言えるが、それでもやはり、志村正彦の歌う『セレナーデ』はこの風景に溶けこんでいた。中欧の諸都市は音楽との関わりが深く、特にウィーンは言うまでもなく音楽の都だ。有名なシューベルトのセレナーデもウィーンで作曲されたそうだ。

 プラハの夜、遅い夕食を終えた帰路、歩きながら『セレナーデ』を聴こうとした。
 闇の色が濃い。遠方にライトアップされたプラハ城がかすかに見える。ここまでは光が届かない。
 『セレナーデ』が始まる。耳もとでは、水のせせらぎ、虫の音。風に乗って、志村正彦の声が忍び込んでくる。『セレナーデ』を歌う声は限りなくやさしく、うるおいがある。

  眠くなんかないのに 今日という日がまた
  終わろうとしている さようなら


 歌詞を繰り返し聴き取る。
 日の変わる頃、深夜に近い夜の時か、一日が「終わろうとしている」。歌の主体「僕」は、「眠りの森」へ迷い込むまで、「木の葉揺らす風」の音を聞く。耳を澄ますと「流れ出すセレナーデ」に答えて、「僕」は「口笛を吹く」。
 「口笛」であるからには、そこには言葉は載せられない。自然の奏でるセレナーデに応答して、「僕」は言葉なきセレナーデを口ずさんでいる。そうであれば、次の歌詞の一節も、「君」という他者には届かない。言葉は「僕」の中でこだましている。僕から僕へと回帰してくる。

  明日は君にとって 幸せでありますように
  そしてそれを僕に 分けてくれ

                                          
 志村正彦のセレナーデは、単純な恋愛の歌ではない。「君」に向けた言葉であり、「僕」に向けられた言葉でもあるのだが、「君」と「僕」を包み込む、より大きな存在、他なるものに届けようとした歌だと受けとめることもできる。

 「明日」は「君」にとっての「幸せでありますように」と祈る。この祈りの深さ、このような文脈の中で祈りを歌う歌を他に知らない。そして、「それ」を「僕」に「分けてくれ」と願う。このような願いの切実さも他には知らない。「君」に対する祈りと「僕」に関する「願い」。この二つは分けられている。祈ることと願うことは異なる。(今の私にはこれ以上論じることができない。いつの日か「志村正彦LN」で『セレナーデ』論を書くまでの課題としたい)

 志村正彦の言葉と楽曲からは、祈りのようなものが伝わってくる。それを強く感じたのは、2012年12月24日、富士吉田で『若者のすべて』のチャイムを聴いたときだった。「単なる一人の聴き手にすぎない私のような者にとっても、あえて言葉にするのなら、『祈り』に近い何かであったと言える。命日に鳴ったチャイムは、あの場にいた誰もがそう感じていたように、鎮魂の響きを持っていた。西欧の教会のカリヨンにも似た音と空を見上げる皆の眼差しも、そのような想いにつながっていた」と「志村正彦LN 3」には書いた。
 この時の「祈り」は彼に対する私たちの祈りだった。それから後、彼の作品を繰り返し聴き、このノートを書くようになってからは、彼の歌に潜在する「祈り」とでも言うべき「想い」に気づくようになった。

 車中で様々なことを考えた。

 『セレナーデ』は、2007年11月、『若者のすべて』シングルCDのカップリング曲、「B面曲」としてリリースされた。このCDには『熊の惑星』も収録されている。(『fABBOX』の『シングルB面集 2004-2009』にもこの二曲が収められた)
 最近、『若者のすべて』と『セレナーデ』にはモチーフ的なつながりがあるような気がしてきた。『若者のすべて』に対する自らの応答として『セレナーデ』は生まれてきた。そのような視点で読むとどうなるか、今後の論に反映させたい。

 また、「眠りの森」という表現も注目される。この言葉は『夜汽車』にも登場するのだ。(志村正彦の全作品中、「眠りの森」という表現はこの二つの作品にしか見られない)「眠りの森へ行く」「あなた」に向けて、「夜汽車が峠を越える頃」「本当の事を言おう」とする歌の主体。しかし、「眠りの森」の中では言葉が届くはずはない。言葉は、『セレナーデ』と同様、僕の元へと戻っていく。同一の言葉を含む二つの作品を対比すると、これまで読みとれなかったモチーフが浮かび上がってくるだろう。このこともいつか書いてみたい。


フジファブリック『若者のすべて』CD ジャケット(『セレナーデ』収録)

 今回の旅行はほとんど準備せずにツアーにお任せだったが、志村正彦フォーラムで述べた「百年」という時、「百年後」「百年前」という観点で、色々なものを眺めることで、記憶に残る旅となった。
 1914年、第一次世界大戦、カフカ、シーレ、フロイトと、とても重要な出来事や人物が、「百年」という時間軸に整列してきた。最初から意図していたわけではないが、結果としてそうなった。

 『陽炎 (acoustic version)』と『セレナーデ』にも新たに出会った。この二つは、現在、私が最も好きな志村正彦の作品となっている。

 実を言うと、ここ半年の間、志村正彦展やフォーラムの活動、webの執筆でかなり消耗したこともあり、息抜きを求めて中欧に出かけることにした。少しの間、志村正彦からも離れようと思ったのだが、離れることなどできなくて、結局、彼と彼の作品のことを考える時間が少なくなかった。


[一部削除 2016.6.27] 

2014年9月11日木曜日

「な」と「ない」の連鎖、音と声の響き。-『若者のすべて』14 [志村正彦LN90]

 昨年の12回に及ぶ『若者のすべて』論は、物語として読むという方法で書かれている。「歩行」の系列と「花火」の系列という二つのモチーフの複合という物語を構成していった。繰り返しになるが、最初にそのことをふりかえりたい。

 志村正彦は、2007年12月の両国国技館ライブ『若者のすべて』のMCで、「センチメンタルになった日」「人を結果的に裏切ることになってしまった日」「嘘をついた日」「素直になった日」とか色々な日々のたびに「立ち止まっていろいろ考えていた」と述べている。
 歌にもそのことがよく現れている。初期の曲では、歌の主体が季節の景物や人間関係に起因する出来事に遭遇し、その場で立ち止まるという場面が多く描かれている。そのとき歌の主体は佇立する。しかし、その想いが言葉で語られることは少ない。

  しかし、そのあり方が「ちょっともったいないなあという気」がして、「BGMとか鳴らしながら、歩きながら、感傷にひたる」方法を、彼は見つける。「歩きながら悩んで、一生たぶん死ぬまで楽しく過ごした方がいい」ことに気づき、『若者のすべて』を作ったと述べている。
 両国での発言の「歩きながら」は「歩行」の系列に属し、文字通り、主体の歩みを表現している。「BGMとか鳴らしながら」「感傷にひたる」とあるが、「BGM」は主体を包み込む音楽であり、「感傷」とは主体の想像や思考である。『若者のすべて』では、この「感傷」は「花火」の系列、「最後の最後の花火」というモチーフとして結実している。

 『若者のすべて』を物語として分析すると、歌の主体が歩行する視点から自らが創造する物語を映画のように心のスクリーンに描くという枠組みが浮かび上がる。この歌では「最後の花火」の物語が上映されている。ただし、物語の全体は描かれない。余白が広がっている。聴き手はその余白を補い、自分自身で物語を上映していく。この余白をどう読んでいくかが、この歌の尽きない謎と魅力の源泉となっている。

 物語を心のスクリーンに描くのは、歌を「読む」そして歌を「描く」ことだ。しかし、私たちはいつも歌を読んだり描いたりしているわけではない。むしろ、歌を「聴く」という行為は、音をそのまま聴き、言葉をその流れのままに受け取ることだろう。
 その時、物語の全体は現れず、物語からこぼれ落ちる細部にさらされる。純然たる音と言葉の響き、意味の断片の流れのようなものがむしろ伝わってくる。

 物語を「読む」ことなく、「描く」ことなく、『若者のすべて』を耳を澄まして聴いてみる。
 金澤ダイスケが静かに美しく弾くピアノ音の反復。
 前奏からABメロまで持続するピアノ音を基調にして、リズムが刻まれる。
 志村正彦が何度も繰り返す「な」の音。彼の声の響きはゆるやかに変化していく。

 第一ブロック。「真夏[まつ]」の「な」音に始まり、「落ち着かいような」「今日はんだか」「『運命』んて」と「な」音が続く。
 サビに至ると、「今年もったな」「何年[んねん]経っても」「思い出してしまう」「いか いよ」「きっとね いないよ」「会ったら言えるか」と、「な」音はさらに繰り返される。
 第2ブロックには、「それなりにって」「とり戻したくって」があり、第3ブロックの終わり近くには「まいった まいった」「話すことに迷う」とあり、「僕らは変わるか」の「な」音で歌が閉じられていく。

 この「な」の音は、「い」という音につながり、「ない」という音と意味に連鎖していく。形容詞であれ、助動詞であれ、「ない」は、「無」や「否定」の意味や機能を持つ。
 精神分析家ジャック・ラカンの言葉を使うなら、「ない」というシニフィアンの連鎖が『若者のすべて』の言葉を編みこんでいる、と記すことができるだろうか。

  香山リカ氏は、この歌を聴いてると「ほかのほとんどのことがすーっと遠ざかって小さくなり、どうでもよくなってしまう」と呟いた。
 私の感覚では、「な」音の反復が、「ない」という言葉に連鎖し、何かを無化し否定する動きが、聴き手を何処か遠くに連れていってしまう。

 志村正彦の言葉と楽曲には、いつもどこかに、たとえ微かなものであっても、歌う主体や歌われる世界に対する「無」や「否定」の動きがある。『若者のすべて』にはとりわけその純粋な運動がある。何を無化し、何を否定しているのかは分からない。作者にとっても無意識的なものかもしれない。
 「な」と「ない」、その音と声の響きは私たちをどのような風景に連れて行こうとしているのだろか。

   (この項続く)

2014年9月7日日曜日

フロイトの肖像写真

 チェスキー・クルムロフから最後の滞在地ウィーンに入る。旧市街から遠いホテルだったのが残念だが仕方ない。近くなら街の散歩に出かけられる。バスで回るツアーは、高速道路とのアクセスがよい郊外や空港近くのホテルであることが多い。
 翌日、国立オペラ座の近くでバスを降りて、ほんの少し歩くと、精神分析の創始者ジークムント・フロイトの顔が、いきなり目に飛び込んできた。
 どうしてここにフロイトが?その一瞬、不意を打たれた驚きでわけがわからなくなった。

 そこに立ち止まり、後ずさりして辺りを眺めると、彼の肖像写真が壁面にプリントされていたことが分かった。建物には「WIEN TOURIST-INFO」とある。あの重厚な街には似合わない色合いと鉄製らしい壁に違和感を持ったが、帰国後調べると、改装工事のための仮設オフィスだった。仮設だからこそあのようなフロイト像がプリントされていたわけだ。


WIEN TOURIST-INFO仮設オフィスの壁面

 2000年のミレーニアムの年、ベルリンからウィーンまで半月ほどの間、列車で旅をする幸運に恵まれた。ウィーンでの第一の目的は、シークムント・フロイト博物館(http://www.freud-museum.at)を見学することだった。シュテファン大聖堂の近くのホテルに泊まり、リンク内の旧市街を抜けて、フロイト博物館まで歩いていった。途中でウィーン大学にあるフロイトの銅像に立ち寄ったが、それ以外に街にフロイトの像やモニュメントはなかったように思う。
 ウィーンのフロイト博物館は、実物資料は少ないのだが、展示パネルや映像資料が充実していて、半日ほどかけて丁寧に見学した。入口近くにあったユダヤ人亡命者を象徴するトランクと診察室跡から見た中庭の光景をよく覚えている。

 2014年、仮設の観光案内所のフロイト像。この写真は1914年の撮影らしい。1856年に生まれたフロイトはその年に58歳となった。精神分析家として円熟の時を迎え、その実践と理論を完成させようとしていた時代であった。人間の「無意識」を解明し続けたフロイト。愛する葉巻を持ち、眼光鋭い表情でこちらを眼差す。偶然、私はウィーンの街角で百年前のフロイト像と遭遇することになった。
 撮影から百年経つ今、観光客を迎える「顔」として、ウィーンの街の「象徴」として、フロイトがそこにいる。この偶景から色々と考えさせられた。


Sigmund Freud 1914年 (出典wikipedia)

 「無意識」と「性」の次元、それに絡み合う「言語」と「症状」、人々が覆い隠してきた問題に深く切り込んだフロイトは、当時のウィーンの大学や学会からは理解されずに、排斥の対象となった。ユダヤ人であるゆえに、あの膨大で独創的な業績にもかかわらず、大学教授への道は絶たれていた。
 彼は孤高の存在だった。精神分析に対する抵抗、そのすべてをフロイトは覚悟し、受容していた。彼の診察室に通った心を病んだ人や彼の教えに関心を持った少数の友人知人を除いて、ウィーンは決してフロイトを認めようとはしなかった。

 フロイト自身の言葉を読んでみよう。この肖像写真の頃に彼が書いたものを『フロイト著作集』から探してみると、ちょうど1914年発表の『精神分析運動史』で、彼は自分自身と精神分析の「宿命」について予言するようにこう語っている。(『フロイト著作集第十巻』所収)

その宿命を、私は次のように頭のなかで想像した。つまり、おそらく私はこの新しいやり方が治療の上で成果をおさめることによって、世俗的に身を保つことには成功するであろう。しかし、生存中には学問的に私は問題にされることはないだろう。二、三十年後に間違いなく誰か別の人間が、これと同じ事柄にぶつかるだろう。そして、今でこそ時代にそぐわないとして顧られないこの問題を認知させることをやりとげ、かくして私をいたしかたなく、恵まれなかった先駆者として祭り上げることになるであろうと。

 百年後の今日、この「宿命」の予言はほぼ的中したと言えるだろう。同じ論文でウィーンについてはこう述べている。

ヴィーンという街は、躍起になって八方手をつくし、精神分析の発生にヴィーンが係り合っているということを否定してもいる。他のどんな土地をとってみても、学者同士や知識層における敵意に満ちた溝が、精神分析家にとって痛いくらいに感じられるところはまさにこのヴィーン以外にはない。

 フロイトの評価はむしろ、ウィーンの外部から、イギリスやフランスやアメリカから、あるいは文学や芸術の分野から高まった。結局、ウィーンがフロイトを受け入れたのは彼の晩年だったが、1938年、ナチス・ドイツの侵攻により、亡命を余儀なくされた。彼はウィーンに再び戻ることなく、1939年に亡命先のロンドンで亡くなった。
 この軌跡は、この百年の精神分析の運動を象徴している。2014年の現在、ジークムント・フロイトが創始しジャック・ラカンに継承された精神分析の実践は、たえず「滅亡」との闘いの渦中にいる。(文学部の学生の頃から、私はフロイトとラカンの著書に親しみ、三十代後半から四十代前半にかけて精神分析そのものも学んだ。「志村正彦LN」にはその影響が色濃く出ているかもしれない)

 フロイトの出生地は当時のオーストリア帝国モラヴィア地方のフライベルク(現チェコ・プシーボル)である。3歳の時に一家はウィーンに移住した。だから、フロイト自身には故郷の記憶はないようだ。
 今回のツアーは南モラヴィアを通っていくルートだった。大草原で知られるところだが、確かに、どこまでも畑が続く緑と土の色が美しい風景だった。フロイトの生地はもっと北の方だが、フロイトの故郷に近い風景が見られたのが嬉しかった。
 2006年、出生地のプシーボルという小さな街にあるフロイトの生家を改築して、フロイト博物館(http://www.freudmuseum.cz)が造られた(交通はかなり不便なところにあるそうだが、いつか行ってみたい)。

 ロンドン郊外のハムステッドにも、フロイトの家を改装したフロイト博物館ロンドン(http://www.freud.org.uk)があり、ここは1997年に見学したことがある。(うっかりして休館日に行ってしまったのだが、日本から来たので何とか見せてほしいと無理なお願いをすると、見学させていただけた。有り難かった)
 亡命した歳にウィーンから持ってきた物(分析で使ったカウチやフロイト愛用品など)がたくさん展示されていて、圧倒された。

  フロイトの博物館は、生地のプシーボル、活動の中心地ウィーン、亡命先のロンドンと、三つ存在している。開館した年は、ウィーン1971年、ロンドン1986年、プシーボル2006年。十数年から二十年の間を開けて三つの館が造られていった。すべて、フロイトが住んだ家を改装、改築したものだ。
 このようなあり方が個人博物館・記念館の理想なのだろう。

        (この項続く)

2014年9月4日木曜日

エゴン・シーレの母の故郷

 プラハからウィーンへと戻る途中で、「チェスキー・クルムロフ」という世界遺産の街に寄った。この街については何も知らなかった。ヨーロッパの思想や文化については少しは知識があるが、歴史や地理については疎い。旅行前に調べると、13世紀に築かれた城を中心に18世紀まで発展した街で中世の美しい街並みが残されている、とあった。

 ガイドブックの頁をめくると、「エゴン・シーレ・アートセンター(EGON SCHIELE ART CENTRUM ČESKÝ KRUMLOV)」[http://www.schieleartcentrum.cz/]があることを知る。シーレの母親の出生地らしい。とうことは彼にとっては半ば故郷である場所。そこにあるアートセンター。自由時間がとれるならここに行きたいと漠然と考えていた。 

 エゴン・シーレは、1890年ウィーン近郊で生まれた。1910,11年頃、このチェスキー・クルムロフ(当時はドイツ風に「クルマウ」と呼ばれていた)に滞在して風景画を創作している。
 このエッセイで度々言及している今から百年前の1914年、彼は何をしていたのかというと、第一次世界大戦が勃発し、オーストリア=ハンガリー帝国軍に召集されていたそうだ。当時は24歳、その4年後の1918年、第一次世界大戦が終わったが、まもなくスペイン風邪で亡くなった。28歳の短い生涯だった。

 旧市街の小さな広場から少し路地に入ると、「エゴン・シーレ・アートセンター」が見つかる。壁には見覚えのあるシーレのモノクローム写真を使ったポスターが十数枚貼られている。ロックのビートのように訴えかけている。何かを凝視しているがどこか虚ろなあの眼差し、右手と左手の指を組み合わせた独特のポーズ。「表現主義」的とも評されていた写真だ。
 このシーレ像を見たのは久しぶりだったが、こうしてポスターになっているのを見ると、ポスターという媒体によく合う。(ある意味では「アーティスト写真」の原型のようでもある。ふと、「ロックの詩人 志村正彦展」のポスターを十数枚どこかの壁面に飾ったらどのような雰囲気になるのか想像してしまった)

エゴン・シーレ・アートセンター入口近くの壁面

 私のような70年代にロックを聴きはじめた世代にとって、デビッド・ボウイを通じてエゴン・シーレを知ったというのが共通経験ではなかっただろうか。
   『Low』で始まるボウイのベルリン3部作。ブライアン・イーノやロバート・フリップとのコラボレート。クラフトワークなどジャーマンロックの影響。1977年発表の第2作『Heroes』のジャケット写真は鋤田正義によるもので、当時、一世を風靡した。ボウイはシーレやその「表現主義」に影響を受けたと言われていた。

 1979年に池袋の西武美術館で開催の「エゴン・シーレ展」は日本初の本格的な企画展で、ロックファンもたくさん押しかけた。大学生だった私も、まさしく「ex-press」、身体の奥底にあるものが表に突き抜けて現れ出てくるような画風に圧倒されたことをよく覚えている。極東の島国の若者にとって、ロック音楽やサブカルチャーを通じて、欧米の美術や文化への関心が広がり、理解も深まっていくという時代だった。
 思い出話をひとつ。1978年12月12日、NHKホールで開催のデビッド・ボウイの「Low and Heroes World Tour」は、私がこれまで見た欧米アーティストのライブの中でも最も印象に残るものだった。あの日の渋谷の公園通りは、ファンの娘がボウイを真似た帽子を被って街を歩き、祝祭の空間と化していた。(36年前の出来事だ。どれだけ時が経ったのか。36という数字を記していると、眩暈を覚える)

『Heroes』ジャケット

  「エゴン・シーレ・アートセンター」に入る。ビール醸造所を改築した三階建で、天井が高い。同じように工場を改築してできた甲府の桜座を少し思い出した。
 1階は現在アートの展示スペース、2階には過去のシーレ展のポスター展示やエッチングなど、3階には彼の実物資料、アトリエで使った椅子や机。モデルが着ていた衣装とその絵の写真。シーレの絵画は高騰していて、残念ながら、このセンターには本物の油彩画はないそうだ。絵画のコレクションの場合、そのような難しさがある。

 しかし、チェスキー・クルムロフを描いた絵の写真とそれを描いた場所38点が地図がグラフィックパネルになって展示されていた。絵画を制作した場所とその視点を一つひとつ調査していく地道な作業に基づいている。実物の絵画がなくても、このような方法で「エゴン・シーレとチェスキー・クルムロフ」というテーマを掘り下げていくことは素晴らしい。(例えば志村正彦の場合も、同級生がゆかりの場所のマップを作り、とても好評だ。音楽と美術は根本的に異なるが、このアートセンターの方法、作品とゆかりの場所をリンクさせることも有意義かもしれない)

 シーレがこの街をどのように描いていったのか。「czechtourism」のサイトでは、次のように説明されている。 (http://www.czechtourism.com/tourists/cultural-heritage/stories/praha/related/cesky-krumlov/?chapter=2

シーレは一人になって、新しいもの - 黒色の水、音を立ててしなる木々、厳かな教会などを目にし、湿った青緑色の谷間を見て心を洗い、新しいものを創造することを欲していました。チェスキー・クルムロフはしばしその隠れ家となり、彼の創作は新しいテーマを得たのです。シーレは旧市街の路地でモチーフを見出すと、これを周囲の丘、あるいは城の塔など、一風変わった視点から捉えて描きました。これらの作品のおかげで、私たちは現在も、彼が言うところの「青き川の町」の姿を、画家の目から眺めることができるのです。

 百年経った現在でも、シーレの目から母の故郷の風景を眺めることができる。百年後の志村正彦を考えている私たちにとっても示唆的な言葉だ。

チェスキー・クルムロフの旧市街

 帰国後調べると、シーレは百年前の20世紀初頭において、すでにこの町を「死の街」と形容していたそうだ。この街は、産業革命の波に取り残され、交通の便も悪く、19世紀になると没落していったようだ。第一次大戦、第2次大戦とナチス・ドイツ、その後の社会主義体制とドイツ系住民の追放など、歴史の荒波にもまれ、荒廃していった。1989年の「東欧民主化革命」以降、ようやく街は再生していった。

 百年を経て、様々な曲折を経て、「死の街」から「再生の街」「世界遺産の街」へと変容していったチェスキー・クルムロフ。私のように観光客として訪れた者の眼には、その時、限りなく美しい街の光景だけが刻まれたのだが、歴史の記憶もそこに重ね合わせなくてはならない。

    (この項続く)

2014年9月1日月曜日

「作られてはいけない音楽」という呟き-『若者のすべて』13 [志村正彦LN89]

 9月に入る。一日しか違わないが、8月31日という日付が「夏の終わり」を想わせるのに対して、9月1日になると「秋の始まり」を感じてしまう。今日は朝から雨模様、涼しく、長袖がほしくなる。「秋霖」と言えるのだろうか。秋を告げる長雨ではある。季節の感受性は、寒暖や光の強弱という自然な感覚に基づいてはいるが、「暦」の区切りや俳句の「季語」のような制度とも密接に関わっている。

 8月末の数日、『若者のすべて』がラジオやテレビで流れることが多かったようだ。25日夜のNHK「サラメシ」を見るともなく見ていると、『若者のすべて』がBGMで流れていた。この番組は昨年も『茜色の夕日』を流してくれた。志村正彦の声もフジファブリックのサウンドも、言葉によって描かれる確かな世界があるにも関わらず、主張するというよりゆるやかに空間に溶けこんでいく。BGMに適しているのかもしれない。
  7月末、FM富士でオンエアされた『若者のすべて』を偶々聴いた。テレビでもネットでもなく、ラジオから流れる音楽は何か特別の響きを持っているのは何故か。私のような世代の郷愁だろうか。ラジオはおそらく未だに音楽と一番関わりの深い媒体だからか。

 昨年夏に話題となったドラマ『SUMMER NUDE 』でも、物語の鍵となる『若者のすべて』はラジオから聞こえてくるという設定だった。それを契機に、作中の二人がこの歌の解釈について議論する場面が回想される。ラジオから流れてくるという偶然性がこのドラマを動かしていく力になっていた。
 「夏の終わり」の歌として、文字通りの風物詩として、この季節を代表する楽曲として、『若者のすべて』は今や百年後まで聴かれ続けるような勢いを持つ。沢山の聴き手がこの歌を想いだし、残そうとしている。

 昨年、この「志村正彦LN」で『若者のすべて』について12回ほど書いた。今回、その「13」として久しぶりに書くのは、精神科医で批評家でもある香山リカ氏の8月25日のツィート(https://twitter.com/rkayama)を二つ読んだからだ。

 90年代最初から半ばにかけて、「imago」という精神医学・精神分析関連の雑誌が青土社から発行されていた。ジャック・ラカンに関心があった私はほぼ毎号を読んでいて、連載されていた「自転車旅行主義-真夜中の精神医学」によって香山リカの存在を知った。時代が精神医学的な言説をますます求めるようになって、氏は「メディア」によく登場するようになった。メディアという「他者」の欲望を生きることで、香山リカ氏はその名の由来通り「香山リカ」というメディアとなった。
 今回の最初のツイートにこうある。

フジファブリックの「若者のすべて」を聴かないようにしてる。何日間か心がフワフワするから。今日ラジオから流れてきてカバーだったから聴いてしまった。…失敗だ、またやられた。この時期はよくかかるから油断しちゃいけないんだ。

 『若者のすべて』を「聴かないようにしてる」という「回避」は、精神分析で言うところの「症状」のようなものかもしれない。オリジナルではなくカバーでも「何日間か心がフワフワする」のは、志村正彦の創り出した世界、言葉や楽曲そのものが心に作用していることになる。「油断しちゃいけないんだ」には少し微笑んでしまったが、意外に本当のことなのだろう。続くツイートにはこうある。

フジファブリック「若者のすべて」聴いてるとほかのほとんどのことがすーっと遠ざかって小さくなり、どうでもよくなってしまう。ほかの音楽がじゃなくて、仕事、お金、友だち、恋愛、家族、景色とかなんでも。これは作られてはいけない音楽だったのではないか。

 「ほかのほとんどのことがすーっと遠ざかって小さくなり、どうでもよくなってしまう」という感覚からは何かが伝わってくる。こちら側にも「転移」してくるような感覚だ。
 「仕事、お金、友だち、恋愛、家族」は社会的な関係であり、その関係の結び目として、私たち一人ひとりはどうしようもなく存在している。そして、結び目をほどくことはなかなかできない。無理にほどこうとすると、かえってその結び目が強くなったり、少しほどけたと思っても元の木阿弥になったりする。結び目は強固なのだ。

  香山氏は『若者のすべて』によって「何日間か心がフワフワ」し、少なくともその間、結び目がほどけてしまうようだ。どうでもよくはないもの、あるいはどうしようもないものが、「どうでもよくなってしまう」。そのように作用するとしたら、その聴き手にとって『若者のすべて』は「ありえない」希有な作品となる。

  とにもかくにも「これは作られてはいけない音楽だったのではないか」という呟きは、きわめて批評的な言葉だ。逆説的ではあるが、『若者のすべて』に対する最高の評価であることは間違いない。志村正彦ならどう考えただろうか。

 香山リカ氏の『若者のすべて』論、志村正彦・フジファブリック論をもっと読んでみたいという欲望がわきあがる。 

         (この項続く)

2014年8月29日金曜日

カフカ 1914 / 2014

 チェコのプラハに入り、カレル橋とモルダウ川、プラハ城周辺の風景を眺めたのはもう夕暮れ時だった。夜が近づくと、湿度が下がり、街の空気がどことなく澄み、落ち着いてくる。日が没し、光が弱まり、色のコントラストが失われる。幾分か影絵のような光景に近づく。城も橋も川も、佇まいが美しい。
 ここは作家フランツ・カフカの街。1883年に生まれ、育ち、生き、書いた街だ。

 引き続き「百年」という時間軸で考える。今から百年前の1914年、カフカは何をしていたのか、どの作品を書いていたのか。
 調べてみると、1914年という年は、恋人フェリーツェとの一度目の婚約破棄、保険局の勤めを辞め職業小説家なることを決意する(第一次世界大戦の勃発により叶わなかったが)など、転機となる年だった。作品では『訴訟(審判)[Der Process]』を執筆していた。となると、小説中の挿話『掟の門前[Vor dem Gesetz]』(http://gutenberg.spiegel.de/buch/161/5)を書いていた頃ともなる。

 『訴訟(審判)』は未完に終わり、草稿として残されたが、この『掟の門前』の方は独立した掌編小説として1915年に雑誌に発表されている。書かれてから百年後の今日、この掌編はカフカの中で最も読まれている作品かもしれない。「Gesetz」は「掟・法・道理」という意味で邦訳名も様々、青空文庫では「道理の前で」(大久保ゆう訳)(http://www.aozora.gr.jp/cards/001235/files/47213_28180.html )と訳されている。未読の方には是非一読を勧めたい。私も学生の頃からこの作品を何度も読み返してきた。『掟の門前』は「読むことの終わりがない」物語の最たるものだ。

 翌日、プラハの街を歩く。池内紀『となりのカフカ』(光文社新書)は新しい作家像を示してくれて愉快な本だが、最後に「カフカの生きたプラハ地図」が添えられている。プラハの中心地の至る所にカフカの痕跡がある。主なところをたどるだけでも二、三日はかかる。今回は無理なので、カレル橋近くの「カフカ博物館[FRANZ KAFKA MUSEUM]」[http://www.kafkamuseum.cz]を何とか見学できないかと旅行前から考えていた。

 真夏の真昼のプラハはやはり暑い。汗ばむ陽気。自由時間のチャンスにかけてみようと、博物館まで急いだが、時間の余裕がなく、入館することは断念、ショップで絵葉書、鉛筆、バッジなどのカフカ・グッズを買うことだけで「カフカへの小さな旅」は終わった。(ツアーゆえ仕方がない。いつの日か、カフカゆかりの場所をゆっくりと歩いてみたいという欲望がつのる)
 この種の作家記念館は、博物館としての機能もあると同時に、観光客のためという機能もある。観光という目的は決して悪いことではないが、この博物館のロケーションがプラハ観光の「一等地」にあることにはとても驚いた。地図で確認してはいたが、現地の実感としては想像以上に「目立つ」場所にあるのだ。


カレル橋から  カフカ博物館、カフェ、堤防の幕

モルダウ川の対岸から  左上にプラハ城、中央の川岸にカフカ博物館

 カフカは1924年に病で亡くなる。友人マックス・ブロートに草稿やノートをすべて焼き捨てるようにという遺言を残したが、ブロートはその意に反して「作品」に編集し出版したことはよく知られている。『訴訟(審判)』『城』『失踪者(アメリカ)』はそのような経緯で刊行された。本文の編集や成立の問題があり、最新の全集は紙版とCD-ROMの画像版の二つから構成され、カフカ直筆の草稿の写真と推敲の過程を忠実に活字化したものが掲載されているようだ。

 百年後のカフカは、世界的な評価を受け、膨大な数の読者を獲得し、最新の研究成果による全集が刊行され、そしてプラハの一等地に博物館が建っている。
 1914年のカフカが2014年のカフカを知ったら、あのカフカ博物館を見たら、どう感じるだろうか。意外にも、微笑して肯くかもしれない。否定ではなく、すべてを肯定するような気もする。

 拙文を読んでいただいている方なら、またかと思われるかもしれないが、ここで、当然のようにある想像にとらわれた。百年後の志村正彦はどうなっているのだろうか。例えば、富士吉田の何処かに、できることならゆかりある所に、どのようなものであっても、志村正彦の人と作品をしのぶ「場」が存在していないだろうか、存在していてほしいという願いだ。「志村正彦記念館」のようなものであればなおさらいいのだが、それほど望みを大きくしなくてもいい。さりげなく、彼の固有名や「フジファブリック」という固有名が刻まれるスペースがあればとりあえずよし、としようか。それは幻だろうか。幻では終わらない幻となるだろうか。
 「KAFKA MUSEUM」というモルダウ川の堤防に掛けられた幕を見て、百年後の幻を描いた。

 フランツ・カフカから志村正彦へという連想はどうかと苦笑されそうだ。確かに、時代もジャンルも異なる。しかし、例えば、一人の聴き手であり詠み手である私にとって、カフカの小説と志村正彦・フジファブリックの音楽も全く同じスタンスで享受する作品だ。作品が投げかける問い、謎。感動の質、価値の水準は同等だ。カフカも志村正彦も自らの孤独を追いつめて作品を創造している。
 

絵葉書のカフカ

 旅行前、カフカ遺稿の三部作『訴訟』『城』『失踪者』を集中して読んだ。以前読んだ印象が随分変化した。カフカの作中人物が他者や世界へ関わるあり方が異なって見えてきた。
 逮捕されたり、指令を受けたり、カフカ作品の中心人物は、よく言われるように「不条理」に突然、「他なるもの」や他者の言動に巻き込まれていく。以前はそう思っていた。
 しかし、今回の読み直しで、カフカの人物は、何かに巻き込まれていくという受動的存在ではなく、むしろ、自分で自分を巻きこんでいく能動的存在ではないのか、というように捉え方が変わってきた。単なる印象を記すだけだが、自分が自分を巻き込み、その自分に巻き込まれ、物語が進んでいく。その過程は物語の余白の方に刻まれている。

 生前のカフカは、プラハやドイツ語圏の文学サークルの中ではそれなりに知られてはいたが、一般的にはあまり知られていない作家だったようだ。そのカフカが今日のような存在になったのは、ブロートを始めとするカフカの友人たちや批評家たちの活動があってのことだったが、何よりも、カフカの「読者」の存在のゆえだろう。

 カフカの無数の「読者」たちが今日のカフカを創造したのだ。これまでの百年の間も、これからの百年の後も。

 (この項続く)

2014年8月24日日曜日

2014年8月の中欧

 夏季休暇を取り、中欧へ旅行してきた。個人旅行としたかったが、今回はその準備の時間もなく、すべてお任せのツアーにした。楽といえば楽だったが、「旅」の感覚はどうしても弱くなる。
 日常の散歩でも非日常の旅でも、偶然目にとめた風景や出来事、「偶景」が心に残る。今回もそのような場面に幾つか遭遇したので、ここに記したい。


 ウィーン空港を起点にして、ハンガリー、チェコ、スロバキアと巡り、ウィーン空港に戻るという周遊の行路。バスでの移動が長く、少しきつい日程。天気はまずまずだったが、予想よりも暑い。湿度もそれなりにある。なぜか毎朝のように、「夕立」に似た激しい通り雨が続く。地元のガイドによると、今夏の特徴らしい。昼近くになると、明るい陽射しがあふれてくる。移動中の高速道路から眺める空と雲。ヒマワリ畑とトウモロコシ畑、緑の平野が続く。

 時に高層アパートの群れが出現する。社会主義時代の建築物で、まさに規格品のように同一だったが、壁の色に変化を持たせることで、単調さを回避していた。1989年の東欧革命から25年目を迎える。四半世紀が経つが、その時代の痕跡がいたるところにある。こういう時は「中欧」というより「東欧」という名称の方がしっくりする。

 今回、フジファブリックの全曲をMP3プレーヤーに入れて、時折聴くことにした。私はふだんは家の中でしか音楽を聴かないが、欧州の風景の中に志村正彦の声がどのように響くのか、そんな興味があってプレーヤーを初めて携帯した。
 2004年のロンドン、2009年のストックホルム。彼は1stCDのマスタリング、4thCDの録音のために滞在している。メジャー最初と生前最後のアルバムという二つの作品に、欧州の香りが混ざりあっている。そのことにも後押しされたのかもしれない。

 「志村日記」2009年2月13日に、ストックホルムへの「旅」について「とても視野が広がった。日本という小さい国の片隅で今まで僕は何で縮こまってたんだろう。今年の日本での夏のツアーが終わったら、ちょっと僕は個人的にまた海外に行こうかななんて思ってます。今度はちょっと長くなるかもしれません。なーんて思ってます。でもそれと同じ位、日本という国の素晴らしさに気付いた」とある。この希望が実現していたら、と書くのも辛いのだが、彼の記した言葉だけはここに書きとめておきたい。

 彼の音楽はよく「和風」とか「日本的」とか形容されるが、私自身はそう感じたことがない。逆に「洋風」あるいは「国際的」だというわけでもない。二項対立的な枠組を通り抜けてしまうような、なかなか的確な言葉がないがあえて言葉にするのなら、ある「普遍的な場」に彼の音楽は存在している。この「普遍的な場」とは、「日本」でも「海外」でもない、どこにもない場と言い換えることもできる。

 平野の続く中欧の空は、山梨や東京の空よりもずっと広がりがある。車窓の風景にフジファブリックの楽曲がBGMのように流れる。なんだか、志村正彦と共に旅をしている気分になる。
 どんな曲が合うのか、早送りや頭出しもしながら、数十曲聴いていったのだが、最もよかったのは、季節のせいもあるのか、『陽炎』のアコースティックヴァージョンだった。少しけだるい感じとゆっくりとしたテンポが、中欧の空と平野の風景に溶けあう。


ハンガリーの高速道路から  ヒマワリ畑が続く

 帰国後、「山梨日日新聞」8月17日付に「甲府でフジファブ・志村語る集い 詩への思い、物語共有」と題する記事が掲載されていることを知った。丁寧な取材に基づくもので有り難い。私がフォーラムの最後で述べた「志村さんの作品は100年後にも残ると思う。ではどう残すか。皆さまの言葉で語っていってほしい」という言葉が紹介されていた。すでにLN85でも書いたが、この「百年」という言葉がいささかオブセッションのように頭をよぎることがこのところ多い。今回の旅行でも自然に「百年後」と「百年前」という二つの時の物差しがよく浮かんできた。

 今から百年前の1914年7月、欧州で第一次世界大戦が始まった。今回訪れた諸国は、当時のオーストリア=ハンガリー帝国。サラエボ事件を契機にセルビアに対して宣戦を布告した第一次世界大戦勃発の当事国だ。8月になるとその戦火が欧州各地に広がり、一千万人に及ぶ兵士が動員されたそうだ。8月末に、日本もドイツへ宣戦布告し第一次世界大戦に参戦している。

 欧州では第一次大戦の方が第二次大戦よりも犠牲者が多い国があるようで、関心も高い。「The Wall Street Journal」掲載の「第1次世界大戦から100年 戦場となった欧州各地の今むかし」( http://jp.wsj.com/news/articles/SB10001424052702303844704579654944219614968 )では、「戦争の百年」の風景がカラーとモノクロ写真の対比で示されている。破壊を修復し、原型を遺していこうとする欧州の底力を感じる。日本にはないものだ。

 1914年から今日までの百年は、第一次、第二次の世界大戦、その他の数多くの戦争が含まれる「戦争の百年」だ。そして、国家主義・民主主義という政治体制、社会主義・資本主義そしてグローバル資本主義という経済原理、それらの社会体制がヘゲモニーを争った「覇権の百年」だ。2014年は、世界のそして日本の「百年」という時間を考える節目の年でもある。

  欧州の短い夏の活気。バカンスの時期ということもあり、欧州内の旅行者が多いようだが、私たちアジア人を含め、世界から人が集まり、知らない言語が飛び交う。ブダペストやプラハの街には人があふれ、高速道路は渋滞し、飛行機は満席。人々は「観光」にいそしみ、「平和」な光景が続く。私たちもその恩恵を享受している旅行者の一人だ。


ブダペスト市内の表通り  CDのディスプレーケース?

 西欧や中欧のような欧州の中心部では、「平和」はいちおう維持されていると言えるのだろう。一言で言うと(そう言ってはいけないのだろうが)、二度の大戦で欧州内部が「戦場」となった「経験」が生かされているのだろう。しかし今日でも、その周縁部や外部では紛争や戦火が依然として続いていることを忘れてはならない。

  (この項続く)


【追加】 この記事の掲載時は「偶景」というシリーズで連載していく旨を記しましたが、その後、同様な観点での記事が増えていきましたので、このシリーズ名は設定しないことにしました。それに伴い、題名に付した通番を削除し、記事の一部を変えさせていただきました。内容の変更はありません。(2016.6.27) 
 

2014年8月10日日曜日

『桜の季節』から『夜汽車』へと-CD『フジファブリック』8 [志村正彦LN 88]

 CDアルバム『フジファブリック』は、『桜の季節』で始まり『夜汽車』で終わる。

 『桜の季節』は、《上京》の物語、おそらく山梨から東京へと移り住むことが背景となっている。それに呼応するかのように、『夜汽車』は《帰郷》の物語、一時的なものであるにせよ、「峠」を越えて、東京から山梨へと戻っていくことが背景となっているとこれまで受け取めてきた。(東京とか山梨とかいう固有名を抜きにして、普遍的な《上京》と《帰郷》と考えてもいいが)少なくとも、アルバム全体として、始まりの曲と終わりの曲が、何処かに往くことと何処かに還ること、《往還》の枠組みを持つとは考えてきた。

 志村正彦は「ファースト・アルバムは東京vs.自分」というテーマがあったと述べている。([http://musicshelf.jp/?mode=static&html=series_b100/index  ]
 その「東京vs自分」というテーマを「上京vs 帰郷」に変奏すると、このアルバムの全体像が見えてくるのではないか。そのような見通しのもとに原稿を準備してきた。ところが、あらためてアルバムの全曲を聴き、特に『夜汽車』の歌詞をくりかえし読むと、「上京vs.帰郷」という図式的な解釈からこぼれ落ちてしまう、微妙な細部が見えてきた。

 志村正彦の歌を読むためには、歌の細部と余白を読むことが必要となる。『夜汽車』の全歌詞を引用してみよう。

 長いトンネルを抜ける 見知らぬ街を進む
 夜は更けていく 明かりは徐々に少なくなる

 話し疲れたあなたは 眠りの森へ行く

 夜汽車が峠を越える頃 そっと
 静かにあなたに本当の事を言おう

 窓辺にほおづえをついて寝息を立てる
 あなたの髪が風に揺れる 髪が風に揺れる

 夜汽車が峠を越える頃 そっと
 静かにあなたに本当の事を言おう              [『夜汽車』]

 歌の主体は、「僕」のような人称代名詞としては登場しないが、視点人物として、「あなた」を見つめていいる。「あなた」は女性、歌の主体は男性と捉えていいだろう。夜汽車という場と時、「あなた」は「話し疲れ」て「眠りの森へ行く」という情景からして、かなり親密な関係であることは間違いない。
  この二人は何処に行こうとしているのだろうか。行き先も目的も分からないが、歌の主体の故郷へと向かっているような気がする。(「あなた」の故郷へという可能性もあるが)

 山梨に住む者なら、「長いトンネルを抜ける」「明かりは徐々に少なくなる」「峠を越える」という言葉から、中央線や富士急行線を連想してしまうだろう。(学生の頃、私も新宿で中央線の夜行列車に乗り、「長いトンネル」や「峠」を超えて甲府へ帰った。特急に乗る余裕はなく、各駅停車の旧式電車で「窓」を開け「風」に揺れながら)歌の主体を志村正彦の分身だとするなら、歌の主体が「あなた」を連れて東京から山梨へと帰っていく物語のように感じられる。帰郷というモチーフが強く現れてくる。

 「話し疲れたあなたは 眠りの森へ行く」。その時を待ちかまえるようにして、「夜汽車が峠を越える頃」に、歌の主体は「あなた」に対して、「そっと」「静かに」、「本当の事」を言おうとする。
 しかし、「眠り」の中の「あなた」が「本当の事」を聴き取ることはない。眠りが壁のように言葉を塞ぐ。むしろ、言葉が伝わらないからこそ、歌の主体は「本当の事」を語りかけようとする。『桜の季節』の「手紙」が投函されないで、「僕」は「読み返して」いるだけという状況にいささか似ている。

 『夜汽車』でも『桜の季節』でも、歌の主体の言葉は他者へ届かない。言葉は結局主体の方へ戻っていく。独り言のような世界。志村正彦らしいといえばらしい世界だ。
 ところで、『桜の季節』では、歌の主体を示す1人称代名詞「僕」が登場し、他者を示す2人称代名詞は作中にない。それに対して、『夜汽車』では歌の主体を示す1人称代名詞が作中になく、「あなた」という他者を示す2人称代名詞は使われている。これは偶然だろうか。無意識だろうか。アルバム『フジファブリック』は、『桜の季節』の主体「僕」から、『夜汽車』の「あなた」へと向けて歌われているようでもある。

 この歌は「夜汽車が峠を越える頃 そっと/静かにあなたに本当の事を言おう」で終わりを迎える。歌詞にある言葉のように「そっと/静かに」終わる。言葉のないエンディングが永遠に続くかのような余韻が残る。まるで夜汽車がそのままずっと走り続けるように。

 最後に、『夜汽車』の余白から浮かんできた、私の「妄想」のような解釈を記したい。

 「あなた」は眠りの中にいて、歌の主体は「本当の事を言おう」とする。しかし、「言おう」とするところで、時間は止まってしまう。僕は言うことができない。
 歌の主体と「あなた」の時間は止まる。夜汽車はそのまま走り続ける。「峠」を超えることはない。歌の主体も「あなた」も何処にも行けない。何処にも還ることはできない。帰郷が果たされることはない。

 言葉のない余白をどう「誤読」するか。そのような問いが残る。

     (この項続く)

2014年8月7日木曜日

「作品・テーマ ラベル」を作りました [諸記]

 「志村正彦ライナーノーツ」の中で、複数回書いたものを中心に、作品・テーマ別のラベルを新たに作りました。
 今のところ、作品別に『若者のすべて』,『夜明けのBEAT』/『モテキ』,『ペダル』、アルバム別にCD『フジファブリック』、テーマ別に『20140413上映會』のラベルがあります。

2014年8月6日水曜日

通り抜ける-CD『フジファブリック』7 [志村正彦LN87]

  メジャー1stCD『フジファブリック』は、2004年11月10日にリリースされた。「志村正彦ライナーノーツ」は、曲単位で論じるのが基本だが、CD単位で論じてみると異なる風景が広がってくるかもしれないと考え、昨年の11月10日(1stCD9周年の日)から、1stCD『フジファブリック』を巡る考察を断続的に掲載してきた。
 今回は久しぶりにCD『フジファブリック』について論じたい。前回から5ヶ月の空白がある。参考までに、1~6回の掲載日とテーマを掲げる。

2013年11月10日 ないものねだりの空想-CD『フジファブリック』1 [志村正彦LN 56]
2013年11月17日 「レコード持って」-CD『フジファブリック』2 [志村正彦LN 57]
2013年12月8日 アルバムのテーマ-CD『フジファブリック』3 [志村正彦LN 61]
2013年12月14日 「聴いた人がいろんな風に受け取れるもの」-CD『フジファブリック』4[志村正彦 LN63]
2014年2月9日 手紙-CD『フジファブリック』5 [志村正彦 LN70]
2014年3月16日 「桜が枯れた頃」 -CD『フジファブリック』6 [志村正彦LN73]

 CD『フジファブリック』は多面体だ。このアルバムは、『桜の季節』『陽炎』『赤黄色の金木犀』と続く、独創的な「四季盤」の楽曲、『TAIFU』『追ってけ追ってけ』『打上げ花火』『TOKYO MIDNIGHT』そして『サボテンレコード』へと展開していく、プログレッシブ・ロックを中心とするクラシック・ロック、ファンクからラテンまで広がる音楽の系譜、『花』『夜汽車』に濃厚に伝わるフォーク音楽の感触など、極めて多様な音楽から成り立っている。多面体ではあるが、多面性に分裂しているわけではない。核には、「フジファブリック」と名付けるしかない音楽がある。

 歌詞の言葉も多面体を形成している。歌の主体そして作者の志村正彦という存在に対して、ある面から見る像と他の面から見る像とは異なる。複数の志村正彦が多面体の鏡面に写し出されている。
 しかしまた、その多面体を横断していくと、反復しつつ緩やかに変化し、再び重なりゆく言葉の群に遭遇することもある。
  アルバム『フジファブリック』には、例えば、次のような言葉の群がある。

 その町に くりだしてみるのもいい
 桜が枯れた頃 桜が枯れた頃                    [桜の季節]


 想像に乗ってゆけ もっと足早に先へ進め   [TAIFU]
 
   やんでた雨に気付いて 慌てて家を飛び出して   [陽炎]

 飛び出すのは 時間の問題さ               [追ってけ追ってけ]

  かばんの中は無限に広がって
 何処にでも行ける そんな気がしていた        [花]


   ならば全てを捨てて あなたを連れて行こう
 今夜 荷物まとめて あなたを連れて行こう    [サボテンレコード]


  僕は残りの月にする事を
 決めて歩くスピードを上げた               [赤黄色の金木犀]


  長いトンネルを抜ける 見知らぬ街を進む
 夜は更けていく 明かりは徐々に少なくなる      [夜汽車]


 歌詞の中から、動詞による表現を抜き出してみよう。
 くりだす[桜の季節]、乗ってゆく・先へ進む[TAIFU]、(家を)飛び出す[陽炎]、飛び出す[追ってけ追ってけ]、(何処にでも)行く[花]、(連れて)行く[サボテンレコード]、歩く(スピード)[赤黄色の金木犀]、(街を)進む [夜汽車]。動詞が志村正彦の詩的世界の中心を形成している。

 行く、歩く、進む、飛び出す、乗ってゆく、くりだす。
 各々の詩的世界の差異を超えて、ある地点からある地点へと移動する、ある場からある場へと通り抜けていくというモチーフが貫かれている。場所は、故郷の路地裏であったり、都会の街路であったり、時間も、現在進行形であったり、回想であったりする。

 具体的な引用を省いて、結論だけ述べるが、欧米から日本のロックまで、その歌詞の中心に、《こちら側から向こう側の世界へと通り抜けていく》というテーマがある。「旅」であれ「脱出」であれ、繰り返し繰り返し、向こう側へと通り抜けていく。今日、それは「ロックの幻想」として片づけられてしまうかもしれないが、「幻想」は「幻想」ゆえの現実感をいまだ保ち続けている。「幻想」から「幻想」へと通り抜けていくのも、ひとつの「現実」であるかのように。

 アルバム『フジファブリック』で志村正彦が表現した世界を、もう少し微細に眺めてみよう。彼の描くのは、作品内の現実の出来事であったり純粋な想像の出来事であったりする。出来事の虚実も多様だ。
 それは、「桜が枯れた頃」という奇妙な季節に「くりだしてみる」「のもいい」と語られるような《未来》の出来事であり、現在の〈僕〉の「胸を締めつける」《残像》の中の世界であり、「想像に乗ってゆけ」という文字通り《想像》の姿であり、「何処にでも行ける」という可能性の《予感》であり、「連れて行こう」という《今だ実行されていないこと》への決意である。

 志村正彦は何処から何処へと通り抜けようとしていたのだろうか。 
      (この項続く)

2014年8月1日金曜日

永田和宏「一〇〇年後に遺す歌」 [志村正彦LN86]

 八月に入った。猛暑が続く。季節は「真夏のピーク」を迎えている。ここ甲府盆地は時に全国一の最高気温ともなる地。風景がゆらゆらすると、人もゆらめく。

 三日前の午後3時過ぎに、車のエンジンを付けた瞬間、ピアノの一音一音がゆっくりと車内に立ち上がった。聴き慣れた旋律、すでにある種の懐かしさすら漂わせる前奏。『若者のすべて』だ。車を走らせずに、耳と体を澄ませる。八月上旬の富士五湖での花火大会を告げるDJのナレーションと共に終了した。

 車中でオンエアされているフジファブリックを聴くのは初めてだった。局は甲府にあるFM富士。リクエストは富士吉田の方。偶然のように必然のように、『若者のすべて』は放送されたのだろう。
 カーラジオからミディアムバラードのように流れるこの歌は、真夏の中心を堂々と歩んでいるかのようだった。

 前回の「百年後の志村正彦」は沢山の方に読まれたようだ。〈百年後の聴き手に比べれば、私たちはまだ志村正彦の「同時代」に生きている〉という箇所が「志村正彦の言葉bot」に取り上げていただき、有り難い。このライナーノーツの文は何度も推敲することが多いが、あの一文はめずらしく自然に湧き出てきた。百年後の未来を思い描くと、そのままそこから遡って、「同時代」という視点が出てきた。

 私は志村正彦よりかなり上の世代に属する。それでも、現在の十代から私たちのような世代までを含めて、「同時代」を生き、フジファブリックを聴いている。『若者のすべて』の歌詞を引くなら、「僕ら」は「同じ空」を「見上げている」のだ。

 今日はもう一つの偶然について書きたい。前回の文を公開した翌日、日本経済新聞7月27日付の文化欄に、歌人永田和宏氏の「一〇〇年後に遺す歌」という文が掲載されていた。永田氏は「歌を遺す」ことの「責任」について語る。

 歌人の馬場あき子が、「いい歌を作るのも歌人の責任だが、いい歌を遺すのも歌人の責任だ」と言ったことがある。いい言葉だ。まさにそのとおりと、私はあちこちで吹聴している。
 先の世代から遺してもらった歌を、次に送り遺すこととともに、現代という時代が生み出した新たな作物を次世代に遺す仕事も、同じように歌人にとっての責任である。

 歌を作ることとと歌を遺すこととの等価性。先の世代、現代の世代、次世代と歌を遺してい継承性。あまり顧みられない視点かもしれない。作り手は当然作ることに集中する。遺すためには、集中して読むことが必要。それは別の仕事。そういう日常意識があるのだろう。

 本来、短詩型文学の世界は、「作る」「読む」の二つの行為は不可分に結びついている。二つの行為は一つの場を形成し、秀歌を「編む」「遺す」という三つ目の行為へとつながっていく。現代という時代は、その場が失われつつある。そのような危機意識、批評意識をこめて、永田氏は今『近代秀歌』の続編『現代秀歌』を編纂していると考えられる。しかし、「編む」ことはなかなか難しい。そのための方法について氏は次のように提言している。
 
 「いい歌を遺す」と言っても、いい歌とするには、同時代の歌はまだ時間の濾過作用を経ていない。選歌は、勢い、アンソロジーを編む人間の趣味や嗜好に左右されやすくなる。当然のことだ。要は、現代に作歌活動をしている多くの歌人たちが、それぞれ自分だけの一〇〇首を選ぶことであろうと思うのである。ひとりの択びが絶対ではないが、一〇〇人が選べば、そのアンサンブルとして、遺すべき一〇〇首はおのずから定まってくる。いい歌は自然に残っていくなどというのはあまりに楽天的な怠慢あるいは傲慢である。
 
 「同時代」には、確かに「時間の濾過作用」が働かない。「濾過」が効いていないからこそ、受け手は主体的に作品を選択する。それは「趣味や嗜好」かもしれないが、創造的な行為でもある。「ひとり」ではない「多く」の作り手が選択する。その選択を蓄積する。蓄積の中の重なり合いが濾過に近い効果をなし、同時代に「編む」「遺す」ことを可能とする。

 ロック音楽の世界でも、実作者の選択、批評家の選択、そして私たち聴き手の選択、多様な選択があってよい。選択は、選別や否定ではなく、肯定的なものだ。いい歌を選ぶのは、その歌を愛し続けることだ。だからこそ選択は絶対的な肯定だ。
 
 そして、永田氏は「いい歌は自然に残っていくなどというのはあまりに楽天的な怠慢あるいは傲慢である」と戒める。私たち、志村正彦、フジファブリックの聴き手は、この現代歌壇の重鎮の戒めに耳を傾けねばならない。
 
  それでも永田氏の言葉に反して、志村正彦のいい歌は自然に残ると信じている自分がいるのだが、そのことが「怠慢」や「傲慢」につながってはならないとは強く思う。
 自分自身に対して、「百年後の志村正彦」を無批判的に唱える「傲慢」を避け、逆に、何も書かない何も活動しないという無為の「怠慢」に陥ることも戒めたい。

 

2014年7月26日土曜日

百年後の志村正彦 [志村正彦LN 85]

 「ロックの詩人 志村正彦展」と「志村正彦フォーラム」が終了して、2週間が経つ。先日から公式webで、「展示とフォーラムをふりかえって」と題して報告させていただいている。

 この「偶景web」は、展示とフォーラムの準備と作業のために、時間的な余裕がなく、一月半の間、新たな原稿を書くことができなかった。再開するにあたり、フォーラムの最後の挨拶で、主催者代表として私が話した言葉を少し補って書かせていただきたい。(次回からは、いつものライナーノーツのスタイルに戻りたい。再び、話題によっては志村正彦展やフォーラムに触れることもあるかもしれないが、「偶景web」で全体をふりかえるのは今回のみとしたい)

 志村正彦が作詞作曲した作品、それを具現化したフジファブリックの音源や映像は、私たちの音楽の歴史の流れの中で、百年後の未来に残る。そのように考えていると、あの場にいた方々に伝えた。(私のような一介の聴き手の妄言、戯言だと一笑に付されるだろうが、本気でそう思っている)今回の試みはそのような想いから動き始めた。

 もちろん、私たちの拙い試みと全く関係なく、作品自体の力によって、志村正彦、フジファブリックは残り続ける。しかし、どのように残っていくのか、という課題はある。どのように残していくのかという活動の課題と共に。

 百年後の聴き手に比べれば、私たちはまだ志村正彦の「同時代」に生きている。同時代の聞き手として、彼の作品から、何を聴きとり、何を感じ、考えたのか。それを批評的なエッセイとして書き続けることが、「志村正彦ライナーノーツ」の主題だ。
  本来なら、私などは書くことのみ継続していけばいいのだが、今回は、様々な偶然や必然に導かれて、志村正彦展とフォーラムという活動に踏み込んだ。「百年後の志村正彦」というモチーフが次第に強固なものとなっていった。

 彼の生が閉じられて5年近くが流れた今日、来場された方(そして来場されなかった方を含めて)の志村正彦に対する強い関心と愛情の持続を、現在という時間の中に、ある種の痕跡のようにして刻みつけること、志村正彦の聴き手による「仮初め」の場、共同体を二日間限定で作ること。

 そのようなことを無意識に望んでいたのかもしれないと、今という時点では思うが、ほんとうのところはよく分からない。よく分からないままに、半年の間、展示とフォーラムの準備のために歩み続けたというのが事実だ。
  様々な困難もあったが、両国ライブでの『若者のすべて』のMC、《立ち止まるのではなく歩きながら、考えていく》という彼の言葉にときおり促されながら、何とかたどりきることができたようだ。

 2014年7月12日と13日、山梨県立図書館の二つの展示室そしてフォーラムの会場で、予想をはるかに超えた、たくさんの方々の純粋な眼差しや声に遭遇したことで、志村正彦、フジファブリックの作品は百年後に残る、その想いはますます確信に近いものとなった。

 深く深く、感謝を申し上げます。

2014年6月9日月曜日

「ロックの詩人 志村正彦展」web開設。 [お知らせ2]

告知
「ロックの詩人 志村正彦展」webのURLは、http://msforexh.blogspot.jp です。
 展示とフォーラムについての連絡、内容紹介、募集等はずべてこの公式webで行わせていただきます。


 ただし、《偶景web》の方でも、私自身の個人な視点からの考察、公式webでの記載事項からはこぼれ落ちてしまうような話題については書かせていただくこともあるかと思います。そのことについてはご了解ください。
 

 ところで、今日、6月9日は「ロックの日」らしい。
 あからさまな語呂合わせで微妙だが、それでもあったほうがいいかもしれない、ロックの日だ。ネットで検索すると、オリコン( http://www.oricon.co.jp/music/special/090609_01.html )が、「ロックな人ランキング」を発表していた。1位、忌野清志郎には誰も異論がないだろう。日本語ロックの歴史の中で最も「ロックな人」を感じさせる。彼の言葉、リズムとメロディー、そしてラディカルな意志、存在そのものが、ロックだ。

  それでは、「人」の前に「詩」をつけて「ロックの詩人」のランキングを考えるとどうなるだろうか。人によってかなり答えは異なるだろう。志村正彦の熱心な聴き手ならもちろん、彼だと断言するにちがいない。

 6月9日、この愛すべきロックの日に、「ロックの詩人 志村正彦展」の公式webを始めることにしたい。当初からこの週の月曜日にスタートしようと計画していたので、ロックの日と重なったのは偶然なのだが、この偶然を喜びたい。

 おかげさまで、前回の「お知らせ1」をツイートしていただいて、今日はページビューが大幅に増え、現時点で1000に達している。反響の大きさに驚くばかりで、責任の重さを痛感する。
 最初に書いていただいた、「kbys65」さん、リツイートしていただいた「志村正彦の言葉bot」さん(このbotは優れもので、時々読んでいます。未知の言葉にハッとして、色々と考えさせられます)、さらにそれをリツイートしていただい多くの皆様、ほんとうにありがとうございました。

 人員も予算も知恵も不足しているが、「rolling stone」転がる石のように、突き進むという「ロックな姿勢」だけは持ち続けたい。
 

  よろしくお願い申し上げます。

2014年6月7日土曜日

「ロックの詩人 志村正彦展」 7月12,13日、甲府で開催。[お知らせ1]

 もう6月を迎えた。梅雨に入り、長雨の日々が続く。今年もすでに半年近くが過ぎてしまった。時の歩みを幾分か嘆くが、先へ進もう。
 今年最初の記事(2014.1.5)「試みの試み (志村正彦LN 67)」で、次のように書いた。

  今年は、このブログ以外に、私が暮らしているこの山梨という場で、志村正彦・フジファブリックを、もっともっと知ってもらい、聴いてもらううために活動していくことを考えている。何ができるかは分からないので、ここに何も具体的に書けないのだが、その意志だけは記しておきたい。
 小さな試みになるだろうが、言葉の活動だけではなく、現実の活動を模索していくことも重要だと、それなりに年齢を重ねてきた私も考えるようになった。


 《偶景web》の表現以外に、現実の活動として、志村正彦・フジファブリックのために何かできないのか。この半年近くそのことを考えてきた。今回、その活動を発表させていただきたい。

 7月12日(土)、13日(日)の2日間、甲府駅北口にある山梨県立図書館を会場に、「ロックの詩人 志村正彦展」を開催することになった。
 これは、志村正彦氏のご両親にご相談した上で、志村家の全面的ご支援とご協力を得て、実現することになった。そのことをまず最初に記したい。この場を借りてあらためて感謝を申し上げます。

  現在、私が代表となり、「ロックの詩人 志村正彦展」実行委員会を組織し、関係者・支援者の協力を得て、準備を急いでいる。
 7月12日、13日にしたのは、彼の誕生日である7月10日近くの土日だからだ。また、メジャデビュー10周年という記念の年なので、開催するなら今年がよいと判断した。
 また、 「ロックの詩人」という題名は、あまりに「ベタな」ありきたりの言葉だが、分かりやすいという観点からあえてこの表現を選んだ。「ロック」と「詩」のきわめて優れた融合を、志村正彦は成しとげている。

 過去、志村正彦展は2010、2011、2012年の3年間、故郷富士吉田で、彼の同級生・友人が中心となって開催されてきた。(このブログを読んでいただいている方であれば、そのことはよくご存じなので、説明することは省かせていただく。同級生たちの愛と手作り的な味わいのあふれる素晴らしい展示だった)私も勤務先の高校生の志村正彦論を展示するという形で関わらせていただいた。また、関連プロジェクト「夕方5時のチャイム」の印象をこのブログで書かせていただいた。
  今後も中心となるのは、彼の同級生・友人が主体となる、故郷富士吉田を舞台とする活動であることは言うまでもない。富士吉田はこれまでもこれからも中心だ。

 それでも、甲府で開催しようと決めたのは、富士吉田のイベントとは異なる視点で、主「日本語ロックの詩人」としての志村正彦を取り上げることにも、何らかの意味があると考えたからだ。私自身がこの《偶景web》の「志村正彦ライナーノーツ」で追究しているのもこの主題である。

 このことには職業人としての私の経歴も関係する。私は、もうかなり前のことになるが、山梨県立文学館(http://www.bungakukan.pref.yamanashi.jp/)に勤め、芥川龍之介を主に担当し、文学展示・記録映画作成や資料調査等の仕事に携わった。
 文学館には非常に貴重な原稿・自筆資料等を集めた「芥川龍之介資料」がある。1991年秋の「生誕百年記念 芥川龍之介展」では、企画担当として、展示のテーマや構成を立案し、『図録』の資料解説等を執筆した。私にとって最も印象に残る仕事となった。文学者の展示については、一応、プロフェッショナルとしての経験を持っている。

 そのような私の経験が志村正彦についても活かせるのではないかと考えた。また、より切実な理由としては、残念ながら、ここ山梨で志村正彦・フジファブリックの知名度がまだまだ低いという現実がある。彼の作品を広めていくという目標のためには、ここ甲府(県庁所在地であり、私の住む街でもある)で行うことにも意味があるのではないかと思ったことが挙げられる。
  今回の企画は、甲府市とその近辺の人々を主に対象としているが、県内向けのものというわけではない。志村正彦・フジファブリックは、日本のそして世界の音楽として言葉として存在している。だから、県外の方(気になる言い方だが、便宜上使う)にも、できることであれば、甲府まで来て、参加していただければ非常に有り難い。(新宿から甲府までは、特急で1時間30分、バスで2時間ほどなので、近くはないがそう遠くもないという時間的距離にある)
 それに見合うだけの内容になるのかどうか、正直不安だが、精一杯努力したい。

  展示は「交流ルーム」2室で展開する。文学展示の手法を使ってコンパクトで密度の高いものを考えている。三部構成の展示は次の通りである。

 Ⅰ部 「志村正彦-山梨・東京-」 
 Ⅱ部 「ロックの詩人」 
 Ⅲ部 「フジファブリックの10年」


 関連するイベントとして、「志村正彦フォーラム」と題して、志村正彦の人と作品について語り合う会を開催する。会場は「多目的ホール」で、200人収容できるので、公式HP(後述)上で募集する予定である。展示とフォーラムの日時は次の通りである。

 展示    7月12日(土)12:00~18:00 ,13日(日)10:00~17:00
 フォーラム  7月13日(日)14:00~16:00


 この一年半近く、《偶景web》で書いてきたことは、表現者としての私の「私的」活動である。それに対して、「ロックの詩人 志村正彦展」は「公的」活動である。(もちろん、山梨県立文学館のような「公立」博物館という組織の活動ではないが、「ロックの詩人 志村正彦展」実行委員会は、「志村正彦・フジファブリック」を広め伝えていくという文化的な活動を行う非営利組織であり、語の本来の意味での「公的」という概念に近いものだと考える。「公立」ではないが「公的」であるというところに、この活動の意味がある)

 したがって、「ロックの詩人 志村正彦展」については公式HP(ブログ)を作り、そこで様々な告知や情報の伝達、フォーラム参加者の募集などを行うことにしたい。
 私の「私的」な表現の場は、《偶景web》であり、「ロックの詩人 志村正彦展」という活動の「公的」な伝達の場は、近日中に公開される公式HPであるというように、二つの立場を分けることにしたい。
 

  数日内に、公式HPの告知をする予定である。(これは《偶景web》で)
 その場で詳しい情報を伝えさせていただく。

2014年6月5日木曜日

「環状七号線」の渦巻 [ここはどこ?-物語を読む7]

 新高円寺に師匠が住んでいて、年に数回だが訪ねていく。 青梅街道を駅から師匠の家を過ぎて東に進むとすぐに環状七号線にぶつかる。杉並に住んでいた頃は稽古が終わると夕飯をごちそうになって、都バスで環状七号線を帰ったものだった。今から20年以上前の話で、高円寺に住んでいたという志村正彦と時期が重なるわけではないのだが、「環状七号線」を聴くたびに浮かぶのはあのあたりの風景である。

  そんなわけで「環状七号線」は私にとっても身近な存在なのだが、この曲を聴くと何故だか「環状」が「感情」に聞こえて仕方がない。生命線がどれかさえわからないほど手相にうとくても、頭の中で「七号」をとばして「感情線」と誤変換しているのかもしれない。いや、しかし、日本語には古来「掛詞」というものがある。「環状七号線」の背後にはやはり「感情」が渦巻いているような気がしてならない。では、それはどんな「感情」なのか。

 火の付かないライター 握りしめていた
   辺りの静けさに気付く
 耳にツンときて それも加わって
 そこから離れたんだ


 
 昨日観たドラマ 気の利いた名台詞
 言えるとしたらどうなるだろう
 でもそうとして それはそうとして
   後にはひけないんだ


 志村正彦は歌詞の中ですべてを明らかにはしない。しかし、聴き手は歌詞に書かれたことの外側に感情が渦巻く原因や状況があることを理解することはできる。例えば「それも加わって」ということば。「それも」ということは、「それ以外にも」、そこにいたたまれなくなって離れる理由があるのだ。また「でもそうとして それはそうとして」ということば。 もし「気の利いた名台詞」を言えたとしても、それによって場面の展開をいろいろ予測してみても、その結果がどうあろうとも、「後にはひけない」思いがあるのだ。具体的な物語は聴き手の想像にゆだねて、だが、確実に強い感情の渦巻きを感じさせることばの連なり。「環状七号線」はやはり「感情七号線」なのである。
 もう一つこの曲を聴くたびに感じることがある。


 
 
対向車抜き去って そう エンジン音喚いてるようだ

  最初聴いたとき、理屈っぽいおばさんは「いやいや、対向車は抜き去れないから」とひそかにつっこみを入れた。しかし、夜中でも交通量の多い環状七号線をバイク(原チャリ)で走っていたら、同じ方向に向かう車との関係よりも対向車とすれ違うときのスピード感、両者が急激に遠ざかる感覚の方が「抜き去って」ということばにしっくりくるのかもしれない。

 何か嵐のような感情に巻き込まれたとき、それを静めるために闇雲に走ったり叫んだりする、どこか破壊的でどこか破滅的な衝動がある。環状七号線を「何故だか飛ばしている」のはおそらくそのためだ。残念ながら若かりし日にもそんな経験はなかったし、今後はますますありそうもないが、この曲を聴くと環状七号線をバイクで飛ばすときに感じる風やしびれるような感覚を追体験しているような気がしてくる。

 このごろでは通ることもなくなった環状七号線だが、今度師匠の家を訪ねたときに少し足を延ばしてビルの上にかかる「おぼろ月夜」を眺めてみたい。
 

2014年5月25日日曜日

「角」の原風景 [志村正彦 LN84]

 
 昨日、富士吉田に行って来た。5月上旬に続いて、今月は2度目となる。
 天気が良く、初夏を思わせる気候。通り抜ける風がさわやかだ。日に日に、富士山の雪解けも進んでいる。

 数日前の地元ニュースで、山梨を訪れた外国人観光客が前年より34・5%増え、その理由の半数近くが富士山の世界文化遺産登録だったことが伝えられた。確かに、河口湖から富士吉田へと向かう途中で、外国人の姿をたくさん見かけた。アジア諸国の若者が多い印象だ。観光は山梨の大切な資源であり、産業でもある。観光という形であっても、人々の交流が進むのは大歓迎だ。

 昨日の目的のひとつは「志村正彦を巡る小さな小さな旅」。今までも何度か訪れたことはあるのだが、今回は志村正彦が中学生の頃まで暮らしていた実家跡を起点として、幼少年期から小学校中学校までのゆかりの場をたどっていくという道筋を選んだ。彼の視線から見える風景を再体験する旅、最近の言葉で言い換えるなら「志村正彦フットパス」とで言える試みだ。

 彼の通った保育園、小学校、神社、路地と路地裏。
 小学校の校庭。野球団に入りたくてたまらない少年がそこから一人で寂しそうに眺めていたという石段。そこに座り、前方を眺める。細長いグランド、白線、向こう側には小室浅間神社の樹木が並ぶ。友達とよくその境内で遊んだらしい。

 『陽炎』の舞台となった駄菓子屋跡。細い路地が続く。直線は少なく、微妙に折れ曲がった道筋。路地の角が視界をふさぐ。角を曲がると新たな風景が開けてくる。振り返ると、それまでの風景は消えていく。幾分か、迷路を歩いているような感覚にとらわれる。富士の裾野のなだらかな斜面、北側の山々からの斜面と、傾斜がゆるやかに続くことも、この路地の形を複雑にしている。

 「角」が歩行にリズムを与える。『ペダル』の一節、「あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ」を想いだす。消えないでよと望む対象と自分自身を隔てるものとしての「角」。この町並そのものに、「角」のモチーフが隠されている。

 しばらく歩く。路地の薄暗がりを抜けると、小さな橋と川に遭遇する。陽の光が射し込み、川辺の緑がまぶしい。遠く山の稜線。時には富士山の一部が視界に入る。路地の壁と壁の間に切り取られた富士山。この界隈ならではの富士の姿だろう。

  原風景としての「角」。下吉田、月江寺界隈の路地では、「角」を起点として、それまでとは異なる小さな小さな世界が連続して出現する。同じようでどこかが違う路地。川、池、山、空の自然の風景。断片としての富士。灰、青、緑、茜、色調の変化。風景が転換し、風景の複雑なファブリックが形作られる。

 多種多様な「転調」が志村正彦の楽曲の特徴だと言われている。転調や変拍子の多用はプログレッシブロックの手法だ。彼もプログレやその他の音楽の転調の手法を学んで作曲したのだろう。
 しかし、そもそもの感性のあり方としても、彼は曲調の複雑な変化を好んだのではないのか。幼少年期の風景は、人の感性に強い影響を与える。

 彼の場合、それは楽曲だけにとどまらず、言葉の選択、物語の話法にも及んでいる。楽曲と言葉の転換が微妙に絡み合いながら、あの独特の詩的世界が立ち現れる。志村正彦の原風景をたどるとそのような仮説が浮かんでくる。

2014年5月20日火曜日

反響-4/13上映會6 [志村正彦LN 83]

 上映會から一月以上経つ。このレポートも今回で完結としたい。

 4月13日は、穏やかな日和ではあったが、風にはまだ少し寒さが残っていた。この頃の風には寒さはもう無くなり、爽やかさがある。風の感触、風そのものの「風合い」が季節の実感を伝え、すでに初夏を思わせる気候となっている。『桜の季節』から『陽炎』へと、季節が歩み始めている。甲府盆地から見る富士山も雪解けが進み、夏の山へと姿を変えつつある。

 あの日、富士吉田に集った800人ほどの人々は、何を心に刻み、各々帰途へついたのだろうか。少数の知人を除くとすべて見知らぬ人々。言葉を交わすこともなく、ただ眺めるに過ぎない人々。でもなんだか、志村正彦・フジファブリックを中心とする「聴き手の共同体」の一員として、仲間意識のようなものも芽生えた。おそらく、皆、一生、志村正彦・フジファブリックを聴いていくのではないだろうかという確信と共に。

 当日夜、NHK甲府のローカル・ニュースが、「フジファブリックライブ映像上映」と題して1分半ほど取り上げていた。「志村さんにとって最初で最後の凱旋ライブ」と紹介され、『桜の季節』のシーン、展示会の様子、二人の女性のコメントが放送された。(昨年の「がんばる甲州人」の志村特集と同様、NHK甲府の報道は有り難い)

  2008年のライブも見ていたという方は、「この会場でもう一回見ることができたのが本当にうれしくて」と述べた。もう一人の方は「大切に大切に大切に聴いていきたいと思います」と話していた。「もう一回見る」ことのできた有り難さ、嬉しさ、そして「大切に」を三度繰り返した想いは、あの日に集った皆が共有するものだろう。

 5月4日付の山梨日日新聞では、沢登雄太記者が「フジファブリック故志村正彦 故郷でライブ上映 ほとばしる情熱”再燃”」と題する記事を書き、「志村がステージにいて、バックスクリーンに彼が映っているのかと錯覚してしまうほどだった」と記していた。ある女性の「志村君はいないけど、いる」というコメントも載せられていた。「いないけど、いる」。この言葉もまた、あの日集った人々の想いを代弁している。

 見かけた人も多かっただろうが、あの日は友人や仲間の音楽家たちがたくさん富士吉田を訪れてくれた。クボケンジ・木下理樹・曽根巧の3人が寄り添うようにして歩いていた。城戸紘志、足立房文そして同級生の渡辺隆之もいた。初代、2代目、そしてサポートではあるが実質的には3代目のドラマーが集っていた。おおげさだよと照れながらも、志村正彦は喜んでいたにちがいない。

 クボケンジは「メレンゲブログ」4/26/2014 (http://band-merengueband.blogspot.jp/)で、それにしても「お前はよく頑張ったね」と言ってやりたいのだ、と語っている。志村のMCの言葉に触発されて、「ずっと宿題を抱えてるみたいな気分なんだ。作詞作曲して歌うってのは一歩間違えるとすごくかっこ悪くて恥ずかしい。なので自分が思ってる以上にストレスなり体力を使う」と吐露しているのがとても印象深かった。表現者という立場を維持する限り、そのことに追われる日々が続く。(表現の第一線から退却した「元表現者」であっても、この国のファンは優しいので、それなりに活動を続けられる事例も多いが)
 「お前はよく頑張ったね」という言葉には、一人の表現者がもう一人の表現者に贈る、語ることのできない想いが刻み込まれている。

 表現は過酷で、時には深淵が待っている。

 上映會、そして『FAB BOX Ⅱ』という美しく豊かな果実。
 新しい楽曲が作り出されることはないという現実のもとで、「大切に大切に大切に」愛しむように、私たちは志村正彦の遺した楽曲を聴き続けていく。
 聴く行為が絶えない限り、「いないけど、いる」という形で、彼はここに存在し続けるのだから。

2014年5月11日日曜日

陽炎-4/13上映會5 [志村正彦LN 82]

 アンコールの2曲目、『陽炎』が始まる。最後に富士吉田で歌われるのにふさわしい歌だ。

  あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
  英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ        
  

 遠く、遠く、遠く、この場ではないどこか遠いところから、志村正彦の歌が聞こえてくる。
 彼はここにはいない。映像の中にもいない。もっともっと遠いところへ彼はたどりつき、その遠いところから、こちら側をふりかえる。
 過去でも未来でもない、時の果てのような場に彼は佇む。そこから、「あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ」と歌い出す。2008年の観客に向けて歌われているのだが、同時に、私たち2014年の観客にも歌われているかのようだ。
  二つの時、2008年、2014年の隔たりを超えて、私たちに届けられる。

 あらかじめ断っておくが、非現実的な出来事として書いているのではない。『陽炎』を歌い出した瞬間、私の心に去来したものだ。何故かは分からない。「偶発的な小さな出来事」のように、「偶景」のように、過ぎ去り、消えていくものをありのままにここに今記した。

  また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ
  残像が 胸を締めつける


 現実とその残像との間、過ぎ去ったものと過ぎ去ったものからこぼれ落ちるものとの狭間。そこに彼はいる。「そうこうしているうち」「次から次へと浮かんだ」「残像」。「胸を締めつける」苦しみ。
 それが何なのか。確かなことは分からない。分かる必要もない。分かることよりも、受け止めることが大切だ。言葉そのものを聴き取ること。そのことが忘れられている。

  そのうち陽が照りつけて
  遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる

 陽の光が照りつける。空気の流れが変わり、光の屈折が乱れる。陽炎の向こう側に有るもの。それを陽炎がゆらゆらと遮る。有るものの姿をあいまいにさせ、視界から遠ざける。逆に、本来そこには無いもの、無いものの姿が出現する。
 古来、陽炎という言葉は、あるかなきかに見えるもの、儚いもののたとえとして使われてきた。志村正彦が繰り返し描く風景には、陽炎のようなものがいつもどこかに潜んでいる。
 照明が暗転する。鍵となるモチーフが歌われる。

  きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
  きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう


  遠い遠いところから、彼は2008年と2014年の二つの時、二つの観客に向けて歌いかける。
 「今では無くなったもの」という表現が、作者志村正彦その人をも包み込む。自ら発した言葉が、時を超えて、自らに回帰する。彼が彼自身に語りかける。
 眩暈のような時のあり方だが、彼の歌には時折見られる光景でもある。
 志村正彦は自らの宿命に向かって、人として、音楽家として、成熟していった。

 『陽炎』が終わる。映像が消え去る。無音になり、タイトルバックが流れる。会場が静寂に浸される。『live at 富士五湖文化センター上映會』が閉じられる。
 上映會の映像は陽炎のように消えていった。志村正彦自身もひとりの陽炎なのかもしれない。そして、私たち聴き手も陽炎のような時を過ごしたのかもしれない。そのような想いが次から次へと浮かぶ。
 有るものと無いものとの間にあるもの、その間を揺れ続けるもの、陽炎。彼は自らの内にある陽炎を繰り返し繰り返し歌い続けてきた。そして儚いものの美しさを表現し続けた。

2014年5月5日月曜日

ロックの言葉-4/13上映會4 [志村正彦LN 81]

 
 当日の印象の空白部を『Live at 富士五湖文化センター』DVDで補いながら、上映會について書き進めていきたい。

 セットリストは、Openingの「大地讃頌」を除くと、全19曲。ツアーのテーマである3rd『TEENAGER』から10曲(『Strawberry Shortcakes』『パッション・フルーツ』『東京炎上』を除く)、他のアルバムから9曲という構成。志村正彦作詞作曲の代表曲である、『茜色の夕日』と『桜の季節』『陽炎』『銀河』という春・夏・冬の四季盤(『赤黄色の金木犀』は残念ながら歌われなかった。ライブではほとんど歌われない曲ではあるが)に、『唇のソレ』『線香花火』『浮雲』という志村にとって思い入れのある曲が選ばれた。 
 アンコール以外の本編は、『ペダル』で始まり、『TEENAGER』で終わっている。アルバム『TEENAGER』と同じスタートとエンドで、あくまで『TEENAGER』ツアーの一つのライブという位置付けは変わらないが、富士吉田を意識した選曲と配列でもあることは間違いない。

 『ペダル』が終わる。志村正彦が富士吉田に帰省した際、同級生の友人に凄い曲ができたからと言って聞かせたのがこの『ペダル』だという話を想い出す。地元でのライブの幕開けにこれだけふさわしい曲はない。何かが始まる予感にも満ちている。
 フェードアウトした瞬間、『記念写真』が始まる。「ちっちゃな野球少年」という言葉が耳にこだまする。彼の歌は、どれも幾分か、彼のクロニクル、年代記の要素を含む。「記念の写真 撮って 僕らは さよなら/忘れられたなら その時はまた会える」という一節からは、遠く、15歳の彼が決定的な影響を受けた奥田民生の作詞作曲、ユニコーンの『すばらしい日々』の「君は僕を忘れるから そうすればもうすぐに君に会いに行ける」がこだましてくる。
 奥田民生その人も志村正彦の大切なクロニクルだ。代表曲以外にも、『浮雲』『線香花火』『唇のソレ』といった曲にも彼の年代記がにじみでてくる。
 上映會で言葉を追い、一つひとつに反応してしまう自分に気づく。しかし、そのことをすべて書き記していくと、このエッセイはどこまでも続いてしまう。歌単独で論じる機会に譲りたい。

 ライブが進むと次第に、過去の映像を今眺めているという「額縁」の感覚が薄れていく。2008年と2014年という二つの時の区別が徐々に消え、2008年という一つの時の内部に入っていく。その大きな要因は、演奏のすばらしさだ。様々に調整されて仕上げられた音響の臨場感も相まって、「ライブ」の感覚、今そこで演奏されているというような擬似的な感覚が高まる。実際にホールにいて、周りに観客がいることもその印象を加速させる。

 加藤慎一のベースが躍動している。にこやかでとても楽しそう。金澤ダイスケにはやはり、この年代のロックキーボディストとして抜群のセンスがある。戯けたMCにも優しさが光る。ギタープレーに徹した山内総一郎のストイックな姿。高度な演奏技術と明るい音色の調和が、志村の歌を最大限に活かしている。城戸紘志はやはり城戸紘志。彼のドラムの波動がフジファブリックのサウンドをまさしくドライブしている。引き締まった表情でコーラスを歌うメンバーの姿も微笑ましい。
 このバンドのリズムの感覚は卓越している。聴き手をぐいぐいと押す力を持つ(城戸のドラムに押され、ほんの少しテンポが速い気もするが、それもまた味わいだ)。そのリズムの感覚の中心にあるのは、志村正彦の身体感覚だ。そして、彼の身体感覚を支えているのは、彼の歌、言葉そのもののリズム感だ。

 コンサートの全体を通じて、60年代から70年代までのロックの黄金期のサウンドが鳴り、リズムが轟いている。80年代以降のコンピュータのリズムを土台とする音楽とは一線を画している。(今、四十歳代から六十歳代までの年齢のかつての洋楽ロックファンで、志村正彦在籍時のフジファブリックをまだ知らない人に聴いてもらいたいと強く思う。彼らが納得できる水準のロック、それも日本語のロックがあったことに驚くだろう)

 志村正彦が大切にしたのは、コンピュータではなく、人の身体に基づくリズムだ。
 コンピューターによるリズムとその感覚の変化はしばしば言及されるテーマではあるが、このリズムの問題はサウンドに限定されずに、歌う言葉、歌詞にも影響を与えているのが最近の状況ではないかと私は考えている。言葉に込められた自然なリズムが失われ、画一的なリズムに支配される。それと共に、言葉で表現する行為自体に、「切り取り」と「貼り付け」、いわゆるコピペの作業が蔓延してくる。表現される世界もまた、どこかで見たことのあるイメージのコピーだらけになる。

 志村正彦の言葉が表現する世界の独創性については繰り返し書いてきたが、彼の言葉そのものが、歌い方を含めて、リズムの感覚に優れている(彼の歌には確かに音程の不安定な時があるが、リズム自体はサウンドに上手に乗っている)。アフリカと欧米由来のロックのリズムと日本語本来のリズムを融合させた歌だ。(志村正彦の作る歌のリズム、言葉の拍子の問題については、時間をかけて検討していきたい。まだ、具体的に書ける段階ではないので、これからの課題にしたい)

  ロックの本質はその「言葉」にある。そして、「言葉」をどう伝えていくのか、その「器」がロックのサウンドだ。優れたロック音楽には「言葉」がある。その「言葉」が失われていったのが、ロック音楽の衰退の原因だろう。

 志村正彦、フジファブリックは、ロックの本質を体現している。
 何故か。一言で答える。
 「言葉」が存在しているからだ。

2014年4月27日日曜日

『FAB BOX II』の重み-4/13上映會3 [志村正彦LN 80]

 上映會から2週間が経つ。16日には『FAB BOX II』が無事発売され、予約した分が我が家にも届けられた。無事、何事もなく、とあえて書いたのは、この作品がリリースされることを祈るような気持ちで待っていたからだ。すでに13日の上映會の展示物として見てはいたのだが、パッケージを手にするまで、ほんとうにこの作品が誕生したことが実感できなかった。

 このBOXセットには予想以上の重みがあった。これは、2006年12月25日の渋谷公会堂、2008年5月31日の富士五湖文化センター、そのときからすでに7年半、6年近くが過ぎ去った「時」が蓄積された重みのような気がする。ファンや関係者、富士吉田の人々、志村正彦の御友人や御家族がずっと待っていた重みでもある。そして誰よりも、志村正彦その人が待ち望んでいた作品だろう。

 柴宮夏希さんのデザインが秀逸だ。EMI制作担当の今村圭介氏が「宝箱みたい」と形容した「箱」は確かに、何が入っているのか、わくわくさせるような質感を持つ。開けたいような、まだしばらく開けたくないような気持ちになるが、思い切ってシールを開封する。「FAB」の字が切り抜かれた大きな「帯」の裏側には、LIVE DVD×2+PHOTO BOOK〈100p〉×2+ GOODS×2、と簡潔に媒体等が記されている。すべてが×2だ。

 箱のイラスト。図柄と文字が、まるで楽器が鳴り、音が混ざりあっているようで面白い。白の地に黒の線、モノトーンの世界が不思議に合っている。インディーズの頃から志村と関わりが深く、デザインについても語り合ったという柴宮さんならではの優れたデザインだ。
 箱の底側には「SiNCE:2000」の文字。2000年は、「富士ファブリック」結成の年。渡辺隆之・渡辺平蔵・小俣梓司と共に4人で同級生バンドを作った。それから数えると結成14年。そんなことも改めて伝えてくれる。

 箱を開けると、表紙の裏側には茜色が広がる。扉の一枚紙の地も、DVDの表紙も、富士五湖文化センターのPHOTO BOOKの表紙裏も、すべて茜色の世界。この色調が、明るすぎず渋すぎず、強すぎず弱すぎず、素晴らしい色合いとなっている。今村氏が「所謂”色校”という途中段階で、ここから更に微調整を重ねていく」と述べていたのが頷ける。
  柴宮さんは制作の依頼を受けた後、あらためて富士吉田を訪れて、風景と光と色に触れて、デザインを構想されたそうだ。

 『FAB BOX II』パッケージ全体の基調色の「白」と「茜色」のハーモニーには、「和」と「季節」と「時」の感覚が複合されていて、日本の伝統工芸品のような味わいがある。 当日の会場で飾られていたポスターにもその感覚が上手に表現されていた。
 『Live at 富士五湖文化センター』通常版のジャケットをもとに、茜色の空を背景に白い富士山が浮かび上がり、富士吉田の街並みが手書きで細かくそしてやわらかく描かれている。フジファブリック、志村正彦を象徴しているデザインだ。浮世絵のような簡潔な美と白色と茜色の完璧な色調。写真が一切使われていないのもよい。このポスターは上映會限定で印刷されたもののようだが、せめて、あのフライヤー版でもいいので、これからでも配布していただけないだろうか。部屋で飾っておきたいと思われた方も多いのではないだろうか。

 『Live at 富士五湖文化センター』DVDは、昨日初めて、最初から最後まで2時間を通して鑑賞した。4月13日の当日は、色々な想いが錯綜してきて、映像を冷静に追えたわけではなかった。(というのは表向きの書き方で、正直言うと、時折涙をこらえきれなくなって、画面をたどりきれなかった) それ故、空白部をこのDVDで補いながら、書き進めていきたい。

 液晶テレビで再確認しても、画質はあまり良くない。収録時の制約があったのだろう。この点について、レコーディングエンジニアの高山徹が述べた言葉がナタリー(http://natalie.mu/music/pp/fujifabric02)で紹介されている。EMIの制作グループは、「古いテープに記録された映像をもう一度リマスタリングして色や画質を調整し直した」そうだ。そうであるならばむしろ、現状のレベルになったことを感謝すべきなのだろう。
  また、音については「その場でミックスした2ch分の素材」しか残っていなかったそうだ。高山氏は、「志村日記」にもよく登場する山梨県出身のエンジニア上條氏について触れて、次の制作過程を教えてくれた。

 上條雄次くんっていう、初期の頃から携わってたエンジニアがかなりがんばって。ライブが行われた富士吉田の会場に行って、そこのホールの残響を測定し直す作業から入って。音を鳴らしてそれを録音して、それをコンピューターに取り込んで解析するような、ほかじゃありえないようなことをいろいろやってます。

 サウンドエンジニアリングやコンピューターの技術が向上し、これまでは不可能だったことも実現できるようだ。最新のテクノロジーを使って、この作品の音質を高めようとした上條氏を始めとするスタッフの情熱と責任感のようなものが伝わる。
 この作業は、昨年の12月下旬、『茜色の夕日』のチャイムが放送された期間中にちょうど、会場を借り切って行われたと伺っている。
  富士吉田であのチャイムが鳴り響き、人々が志村正彦を想い出している時に、あのホールでは、2008年5月31日の志村正彦、フジファブリックを復活させるためのプロジェクトが着々と進行していた。

  今村圭介氏、柴宮夏希さん、上條雄次氏、その他のスタッフを含め、志村正彦を愛する人々のきめ細かい丁寧な作業によって、『FAB BOX II』は誕生した。このBOXセットの重みは、制作者側の想いと時が詰まっているからでもある。  (この項続く)

追伸
   はまりえ様[@ha_marie]、Eminenko様[@Eminenko]。ツイートで紹介していただき、ありがとうございます。励みになります。(私はツイッターをしていないので、お返事できませんので、この場を借りました。)なんとか書き続けていきたいです。

2014年4月19日土曜日

歩行の律動-4/13上映會2 [志村正彦LN 79]

 ふじさんホール、全体の中央やや左よりの座席に座る。スクリーンと近すぎず遠すぎずちょうど良い位置だ。このホールは座席を始め大幅に改装されたが、舞台は当時のままらしい。その舞台上の大型スクリーンには、プロジェクターで投影された映像。送り出しは通常のBD・DVDプレーヤーのようで、アップコンバートして解像度を上げているようには見受けられない。デジタルテレビの高画質が標準になってしまった時代では、この輪郭の甘さは残念だった。
 ただし、ややぼんやりした映像の質が、時の経過を告げているようで、これはこれでよいのかもしれないと、自らを納得させた。

 反対に、音響は専用のPAを入れているようで、予想以上の大音量。音の残響も計算されているようで、臨場感がある。低域についてもほぼ満足できるレベルだった。ロックのコンサートの場合、低域の音圧が重要。音に関しては、現実のライブ演奏に近い質が保てていたと言える。
 夢の中のようにややぼんやりした映像と、耳元に届き身体を揺らす充分な音量。視覚と聴覚のギャップのようなものにも、しばらくすると慣れてきた。

 オープニングの「大地讃頌」合唱を受け継ぐ形で、『ペダル』が始まる。画面の中と外の観客の拍手が重なる。『ペダル』は、この「志村正彦ライナーノーツ」で最初に論じた作品(LN12,13,14 http://guukei.blogspot.jp/2013/04/ln12_5.html)。思い入れのある歌詞だ。3rdアルバム『TEENAGER』の冒頭曲で、この「live at 富士五湖文化センター」でも、ライブ自体のスタートを告げる楽曲となっていた。

    平凡な日々にもちょっと好感を持って
  毎回の景色にだって 愛着が沸いた

 「平凡な日々」「毎回の景色」。富士吉田や東京での日々。再生映像と音響ではあるが、ホールという場の中で、800人の観客を前に、志村正彦の言葉がこだまする。

   あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ

 「消えないでよ 消えないでよ」の言葉がリアルに胸に響く。生涯、消えてしまうものを見つめ続け、消えてしまうものに対して消えないでよと呼び続けた志村正彦。この上映會を通して、通奏低音のように、「消えないでよ」のフレーズは鳴り響いている。
 この言葉は、私たち聴き手が祈りのように、彼に対して今も囁き続けている言葉でもあるのだが。そんなことを考えていると、感情の渦の中に自分が消えてしまいそうになる。 

 照明の光量が上がる。白い光の中、二十八歳の若々しい顔立ち。時々見せる、透き通るような眼差し、あどけないような表情、高いキーを歌う際のやや苦しげな様子。
 胸元が開いたU首のシャツ、その黒い地のシャツの図柄の一部、左右に走る斜めの線が一瞬、富士山の稜線の形に浮き上がる。ホールの舞台を踏みしめるように、歩きながらリズムを確かめる姿が印象深い。

 ポリープ手術前ということなのか、声の調子はあまりよくないが、聴き手に伝えようとする歌詞の解釈と意志の力によって、歌には確かな説得力がある。
 『ペダル』のbpmは志村の歩くテンポに合わせてある。加藤慎一、城戸紘志のリズムセクションに支えられ、金澤ダイスケ、山内総一郎の音色に彩りを与えられ、志村正彦の歩行のリズムが会場に溢れ出る。観客はフジファブリックのサウンドの律動に大きく包まれる。

  駆け出した自転車は いつまでも 追いつけないよ

 彼は「いつまでも 追いつけないよ」と歌う。映像のフレームの中の彼は再現前している。しかし、私たちはいつまでもどこまでも追いつけないでいる。たどりつけないでいる。「消えないでよ」と祈る。しかし、ここで佇むしかない。 

 『ペダル』が終わる頃になると、観客の手拍子や拍手も静かになってくる。皆が画面に集中していく。2008年5月31日と2014年4月13日という二つの時は次第に、2008年5月31日という一つの時に収斂していった。     (この項続く)