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2018年3月17日土曜日

追憶の歩み[志村正彦LN175]

 前回から一月が経ってしまった。仕事であわただしい時を過ごしている。すでにすっかり春めいてきた。東京では今日にも桜が開花しそうだという。

 『茜色の夕日』は歩む歌、記憶への歩みの歌だと書いた。この歌にはスタジオ収録された四つの音源がある。聴き比べると、歌そのものの速度が次第にゆっくりしてきたと感じる。まるで想いそのものを深くかみしめていくかのように、志村正彦の声もゆっくりと響いていく。物理的な演奏時間も最終的に1分ほど長くなった。

  個人的な経験がこの歌の原点にあると志村本人が述べている。
 2001年の音源、カセットテープ版『茜色の夕日』では、歌い手はその個人的経験と時間的にも心理的にもまだそう離れていな地点にいる。そのように僕には聴こえる。おそらく、恋愛という出来事の余波の渦中にいるのだろう。歌はまだ初初しくそしてほんのりと生々しい。

 しかし、時の経過とともに、作者はその経験を見つめなおしていく。四つのスタジオ音源やいくつものライブ音源がそのことを示している。2005年9月リリースの6thシングルのヴァージョンがその歩みの完成形なのだろうが、2008年5月31日、富士吉田市民会館でのライブ映像のMCでは、作者自身がこの歌の意味を問い直していることで、永遠に忘れられないものとなった(『Live at 富士五湖文化センター』EMI Records Japan、2014/04/16)。故郷で歌われた『茜色の夕日』は、作者の経験の歩みの証言となっている。

 『茜色の夕日』は「経験」の歩みの歌である。詩人にとって、あるいは詩作にとって「経験」とはどのような存在なのだろう。考えあぐねて、いくつかの書物を探索した。経験についての思索ということでまず思い出したのは森有正だ。彼の著作をかなり久しぶりに読んだ。経験と時間に関する魅力ある言葉があふれていた。その探索の過程で、ライナー・マリア・リルケの小説『マルテの手記』の一節に遭遇した。

 1910年、『マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記』(Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge、通称『マルテの手記』)は発表された。デンマーク出身の詩人マルテがパリでの孤独な生活の日々を断片的に書き連ねていくという設定の小説である。その中に次の一節がある。少し長くなるが引用しよう。(数ある翻訳の中で手元にあった生野幸吉訳にしたい)


詩は人が思うのとはちがって感情ではない(感情なら、いくら年少でも持てるだろう)、――詩とは体験なのだ。一行の詩のためにも、たくさんの都市を、さまざまな人や物を見なければならない。獣たちを知らねばならず、鳥の飛行の感情を悟らねばならず、夜明けにひらく小さな花の開花のそぶりをこころえねばならない。未知の地方の行路のこと、予期しなかった邂逅、遠くから迫るのを見つめていた別離のとき、それらを思い出せねばならぬ。解明されぬままになっている幼い日々。よろこびそうなものをもらったのに、それがわからなくて、つい気持ちをきずつけてしまった両親のこと。(ほかの子供ならよろこんで受けたのだが――)。(中略)

だがまた、追憶をもつだけではまだ十分とはいえぬ。追憶が多くなったら、それを忘れることができねばならぬ。追憶がもいちど返ってくるのを待つ大きな忍耐がいる。なぜなら、追憶そのものはまだ詩ではないのだから。追憶がぼくらの中で血となり、眼差しや愛情となり、名前をなくし、ぼくら自身と区別ができなくなったとき、はじめて、ある稀有なひとときに、一行の詩句の最初の言葉が、そんな追憶の中枢に立ちあがり、追憶の内部からあらわれてくる。そういう奇蹟が起るかもしれない。

 『マルテの手記』の話者は、詩が「感情」ではなく「経験」だと語る。(生野訳では「体験」だが、ここでは「経験」という言葉に置き換えたい)それは、都市を歩み、人や物と出会う経験であり、さまざまなものを思い出す経験でもある。
 経験は追憶と結びつく。しかし、単なる追憶では詩は生まれない。訳文には「追憶がもいちど返ってくるのを待つ大きな忍耐がいる」とある。それはまさしく「時間」の「忍耐」である。そして、「追憶がぼくらの中で血となり、眼差しや愛情となり、名前をなくし、ぼくら自身と区別ができなくなったとき」ともある。難しいが美しい言葉だ。

 飛躍した物言いになるが、「追憶」が「眼差し」や「愛情」となると「一行の詩句の最初の言葉」が立ち上がるというのは、志村正彦・フジファブリックの『茜色の夕日』を考える上でとても参考になる。経験と追憶の歩みが、時間をかけた歩みが、『茜色の夕日』という稀有な作品にたどりついたのではないだろうか。