昨年の12回に及ぶ『若者のすべて』論は、物語として読むという方法で書かれている。「歩行」の系列と「花火」の系列という二つのモチーフの複合という物語を構成していった。繰り返しになるが、最初にそのことをふりかえりたい。
志村正彦は、2007年12月の両国国技館ライブ『若者のすべて』のMCで、「センチメンタルになった日」「人を結果的に裏切ることになってしまった日」「嘘をついた日」「素直になった日」とか色々な日々のたびに「立ち止まっていろいろ考えていた」と述べている。
歌にもそのことがよく現れている。初期の曲では、歌の主体が季節の景物や人間関係に起因する出来事に遭遇し、その場で立ち止まるという場面が多く描かれている。そのとき歌の主体は佇立する。しかし、その想いが言葉で語られることは少ない。
しかし、そのあり方が「ちょっともったいないなあという気」がして、「BGMとか鳴らしながら、歩きながら、感傷にひたる」方法を、彼は見つける。「歩きながら悩んで、一生たぶん死ぬまで楽しく過ごした方がいい」ことに気づき、『若者のすべて』を作ったと述べている。
両国での発言の「歩きながら」は「歩行」の系列に属し、文字通り、主体の歩みを表現している。「BGMとか鳴らしながら」「感傷にひたる」とあるが、「BGM」は主体を包み込む音楽であり、「感傷」とは主体の想像や思考である。『若者のすべて』では、この「感傷」は「花火」の系列、「最後の最後の花火」というモチーフとして結実している。
『若者のすべて』を物語として分析すると、歌の主体が歩行する視点から自らが創造する物語を映画のように心のスクリーンに描くという枠組みが浮かび上がる。この歌では「最後の花火」の物語が上映されている。ただし、物語の全体は描かれない。余白が広がっている。聴き手はその余白を補い、自分自身で物語を上映していく。この余白をどう読んでいくかが、この歌の尽きない謎と魅力の源泉となっている。
物語を心のスクリーンに描くのは、歌を「読む」そして歌を「描く」ことだ。しかし、私たちはいつも歌を読んだり描いたりしているわけではない。むしろ、歌を「聴く」という行為は、音をそのまま聴き、言葉をその流れのままに受け取ることだろう。
その時、物語の全体は現れず、物語からこぼれ落ちる細部にさらされる。純然たる音と言葉の響き、意味の断片の流れのようなものがむしろ伝わってくる。
物語を「読む」ことなく、「描く」ことなく、『若者のすべて』を耳を澄まして聴いてみる。
金澤ダイスケが静かに美しく弾くピアノ音の反復。
前奏からABメロまで持続するピアノ音を基調にして、リズムが刻まれる。
志村正彦が何度も繰り返す「な」の音。彼の声の響きはゆるやかに変化していく。
第一ブロック。「真夏[まなつ]」の「な」音に始まり、「落ち着かないような」「今日はなんだか」「『運命』なんて」と「な」音が続く。
サビに至ると、「今年もなったな」「何年[なんねん]経っても」「思い出してしまうな」「ないかな ないよな」「きっとね いないよな」「会ったら言えるかな」と、「な」音はさらに繰り返される。
第2ブロックには、「それなりになって」「とり戻したくなって」があり、第3ブロックの終わり近くには「まいったな まいったな」「話すことに迷うな」とあり、「僕らは変わるかな」の「な」音で歌が閉じられていく。
この「な」の音は、「い」という音につながり、「ない」という音と意味に連鎖していく。形容詞であれ、助動詞であれ、「ない」は、「無」や「否定」の意味や機能を持つ。
精神分析家ジャック・ラカンの言葉を使うなら、「ない」というシニフィアンの連鎖が『若者のすべて』の言葉を編みこんでいる、と記すことができるだろうか。
香山リカ氏は、この歌を聴いてると「ほかのほとんどのことがすーっと遠ざかって小さくなり、どうでもよくなってしまう」と呟いた。
私の感覚では、「な」音の反復が、「ない」という言葉に連鎖し、何かを無化し否定する動きが、聴き手を何処か遠くに連れていってしまう。
志村正彦の言葉と楽曲には、いつもどこかに、たとえ微かなものであっても、歌う主体や歌われる世界に対する「無」や「否定」の動きがある。『若者のすべて』にはとりわけその純粋な運動がある。何を無化し、何を否定しているのかは分からない。作者にとっても無意識的なものかもしれない。
「な」と「ない」、その音と声の響きは私たちをどのような風景に連れて行こうとしているのだろか。
(この項続く)
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