『赤黄色の金木犀』は、ロック音楽では標準的な四分ほどの時間を持つ作品だ。
以前ある若者が、この数分の短い時間の中で金木犀が香り始め、曲が終わると共にその香りが消えていくように聞こえてくる、と筆者に語ってくれたことがある。四分という時の中で、金木犀が香り続ける。若者らしい感受性にあふれた捉え方だ。
短い時の流れの中で生まれそして消えていくもの。ロック音楽そのものが数分間の生成と消失をその宿命としている。そしてまた、時の中の生成と消失は、志村正彦が繰り返し描いたモチーフでもある。『赤黄色の金木犀』は次のように歌い出される。
もしも 過ぎ去りしあなたに
全て 伝えられるのならば
それは 叶えられないとしても
心の中 準備をしていた
「過ぎ去りし」という文語的な表現の助動詞「し」は、過去の出来事を主体的に直接的に経験したことを表す。「あなた」と歌の主体との間には、後戻りすることのない時間が流れている。
「もしも」「のならば」という仮定は、途中に「叶えられないとしても」という留保を挟みながら、「準備をしていた」という帰結に掛かっていく。歌の冒頭にある、この複雑な仮定と帰結のあり方は、歌の主体「僕」の「時」への関わり方がかなり独特であることを告げている。
冷夏が続いたせいか今年は
なんだか時が進むのが早い
僕は残りの月にする事を
決めて歩くスピードを上げた
「冷夏」が続くと「時が進むのが早い」。秋がすでに訪れてしまった気分になるのだろうか、季節と時の歩みに敏感な「僕」は、「歩くスピード」を上げる。季節は時の循環の感覚を支えるが、「冷夏」のように循環のリズムが崩されると、時の歩みが一気に早まる。
いつの間にか地面に映った
影が伸びて解らなくなった
赤黄色の金木犀の香りがして
たまらなくなって
何故か無駄に胸が
騒いでしまう帰り道
「影」を「僕」の「影」だと仮定してみる。そうなると、「影」は「僕」の「分身」ともなる。
「僕」は僕の「影」を追いかける。あるいは僕の「影」が「僕」を追いかける。
一日も終わる頃、夕陽をあびて、「影」は遠く果てまで伸びていく。陽も落ちると、周囲に溶けこみ、「僕」は「影」が解らなくなる。一日の時の流れの中で、「僕」は「影」を通じて、自分自身の「時」を追いかけているのかもしれない。
それでも、金木犀は香り続けている。あたりの風景を香りで染め上げている。
「僕」は平静でいられなくなり、「何故か」「無駄に」「胸が」「騒いでしまう」。一つひとつの言葉は分かりやすいものであっても、この配列で表現されると、なかなか解読しがたい。言葉の連鎖のあり方が単純な了解を阻んでいる。なぜ、「無駄に」胸が騒ぐのか。その理由は明かされることがなく、行間に沈められている。「僕」の「胸」にある想いを描くことは不可能だが、「無駄に」という形容は痛切に響く。
歌の主体「僕」は「帰り道」にいる。「僕」は僕の「影」と共に、日々の生活の中での短い「時」の旅を終えて、帰路についている。楽曲のリズムも、次第にテンポが速まり、歌の言葉を追いかけるようにして、四分間の音楽の旅を終える。
(この項続く)
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