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2014年9月15日月曜日

『セレナーデ』の祈り

 今回の中欧旅行では、MP3プレーヤーでフジファブリックの音源を聴きながら、車窓の風景を見ていった。
 街から離れた郊外、地の緑や空の青が広がる風景では『陽炎 (acoustic version)』が調和していた。「陽炎がゆれている」という歌詞と共振するように、志村正彦の声はゆれながら空の彼方に広がっていく。

 ブダペスト、プラハ、ウィーンの街中では王宮、教会、市庁舎等の歴史的な建築物が並ぶ。その風景に最も合っていたのは、やはり、志村正彦の創った『セレナーデ』だった。やはり、と書いたのは、セレナーデは西洋音楽の形式や主題であり、そのまま曲名になっているからだ。クラシック音楽に無知な私には詳しいことは分からないが、男性が女性に愛する気持ちを捧げる歌曲で、小編成で演奏されるものだ。映画やドラマで、夜、男性が楽団を連れて愛する女性の家を訪れ、窓の下に立ち、セレナーデを奏でるというシーンを見たことがある人も多いだろう。(『花子とアン』にも、ふりかえれば哀しいシーンとしてその挿話があった)

 フジファブリックの『セレナーデ』にもそのような楽曲の起源がイメージとして浮かんでくる。
 欧州風の恋愛の歌曲に中欧の教会や塔や門、あまりにも「御誂え向き」の景観だとも言えるが、それでもやはり、志村正彦の歌う『セレナーデ』はこの風景に溶けこんでいた。中欧の諸都市は音楽との関わりが深く、特にウィーンは言うまでもなく音楽の都だ。有名なシューベルトのセレナーデもウィーンで作曲されたそうだ。

 プラハの夜、遅い夕食を終えた帰路、歩きながら『セレナーデ』を聴こうとした。
 闇の色が濃い。遠方にライトアップされたプラハ城がかすかに見える。ここまでは光が届かない。
 『セレナーデ』が始まる。耳もとでは、水のせせらぎ、虫の音。風に乗って、志村正彦の声が忍び込んでくる。『セレナーデ』を歌う声は限りなくやさしく、うるおいがある。

  眠くなんかないのに 今日という日がまた
  終わろうとしている さようなら


 歌詞を繰り返し聴き取る。
 日の変わる頃、深夜に近い夜の時か、一日が「終わろうとしている」。歌の主体「僕」は、「眠りの森」へ迷い込むまで、「木の葉揺らす風」の音を聞く。耳を澄ますと「流れ出すセレナーデ」に答えて、「僕」は「口笛を吹く」。
 「口笛」であるからには、そこには言葉は載せられない。自然の奏でるセレナーデに応答して、「僕」は言葉なきセレナーデを口ずさんでいる。そうであれば、次の歌詞の一節も、「君」という他者には届かない。言葉は「僕」の中でこだましている。僕から僕へと回帰してくる。

  明日は君にとって 幸せでありますように
  そしてそれを僕に 分けてくれ

                                          
 志村正彦のセレナーデは、単純な恋愛の歌ではない。「君」に向けた言葉であり、「僕」に向けられた言葉でもあるのだが、「君」と「僕」を包み込む、より大きな存在、他なるものに届けようとした歌だと受けとめることもできる。

 「明日」は「君」にとっての「幸せでありますように」と祈る。この祈りの深さ、このような文脈の中で祈りを歌う歌を他に知らない。そして、「それ」を「僕」に「分けてくれ」と願う。このような願いの切実さも他には知らない。「君」に対する祈りと「僕」に関する「願い」。この二つは分けられている。祈ることと願うことは異なる。(今の私にはこれ以上論じることができない。いつの日か「志村正彦LN」で『セレナーデ』論を書くまでの課題としたい)

 志村正彦の言葉と楽曲からは、祈りのようなものが伝わってくる。それを強く感じたのは、2012年12月24日、富士吉田で『若者のすべて』のチャイムを聴いたときだった。「単なる一人の聴き手にすぎない私のような者にとっても、あえて言葉にするのなら、『祈り』に近い何かであったと言える。命日に鳴ったチャイムは、あの場にいた誰もがそう感じていたように、鎮魂の響きを持っていた。西欧の教会のカリヨンにも似た音と空を見上げる皆の眼差しも、そのような想いにつながっていた」と「志村正彦LN 3」には書いた。
 この時の「祈り」は彼に対する私たちの祈りだった。それから後、彼の作品を繰り返し聴き、このノートを書くようになってからは、彼の歌に潜在する「祈り」とでも言うべき「想い」に気づくようになった。

 車中で様々なことを考えた。

 『セレナーデ』は、2007年11月、『若者のすべて』シングルCDのカップリング曲、「B面曲」としてリリースされた。このCDには『熊の惑星』も収録されている。(『fABBOX』の『シングルB面集 2004-2009』にもこの二曲が収められた)
 最近、『若者のすべて』と『セレナーデ』にはモチーフ的なつながりがあるような気がしてきた。『若者のすべて』に対する自らの応答として『セレナーデ』は生まれてきた。そのような視点で読むとどうなるか、今後の論に反映させたい。

 また、「眠りの森」という表現も注目される。この言葉は『夜汽車』にも登場するのだ。(志村正彦の全作品中、「眠りの森」という表現はこの二つの作品にしか見られない)「眠りの森へ行く」「あなた」に向けて、「夜汽車が峠を越える頃」「本当の事を言おう」とする歌の主体。しかし、「眠りの森」の中では言葉が届くはずはない。言葉は、『セレナーデ』と同様、僕の元へと戻っていく。同一の言葉を含む二つの作品を対比すると、これまで読みとれなかったモチーフが浮かび上がってくるだろう。このこともいつか書いてみたい。


フジファブリック『若者のすべて』CD ジャケット(『セレナーデ』収録)

 今回の旅行はほとんど準備せずにツアーにお任せだったが、志村正彦フォーラムで述べた「百年」という時、「百年後」「百年前」という観点で、色々なものを眺めることで、記憶に残る旅となった。
 1914年、第一次世界大戦、カフカ、シーレ、フロイトと、とても重要な出来事や人物が、「百年」という時間軸に整列してきた。最初から意図していたわけではないが、結果としてそうなった。

 『陽炎 (acoustic version)』と『セレナーデ』にも新たに出会った。この二つは、現在、私が最も好きな志村正彦の作品となっている。

 実を言うと、ここ半年の間、志村正彦展やフォーラムの活動、webの執筆でかなり消耗したこともあり、息抜きを求めて中欧に出かけることにした。少しの間、志村正彦からも離れようと思ったのだが、離れることなどできなくて、結局、彼と彼の作品のことを考える時間が少なくなかった。


[一部削除 2016.6.27] 

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