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2022年2月13日日曜日

抒情と祈り-『花』[志村正彦LN305]

 志村正彦の抒情の方法について考えてみたい。志村の場合、人への想いを抒情として表現するにしても、それが直接的に語られることはほとんどない。自らの眼差しによって、景物や風景の動きや時間の流れを描いていく。その変化や瞬間の出来事に、抒情の核になるものが、秘められてあるもの、隠されてあるものとして叙述されている。それゆえに、抒情が透明になる。抒情の純度が高くなる。

 志村正彦・フジファブリックの『花』には、時間と場所が連動する流れがある。歌い手の眼差しの動きによって、時と場の変化が表現されている。歌詞の連に番号を付けて引用したい。


 『花』 作詞・作曲:志村正彦

1.どうしたものか 部屋の窓ごしに
  つぼみ開こうか迷う花 見ていた

2.かばんの中は無限に広がって
  何処にでも行ける そんな気がしていた

3.花のように儚くて色褪せてゆく
  君を初めて見た日のことも

4.月と入れ替わり 沈みゆく夕日に
  遠吠えの犬の その意味は無かった

5.花のように儚くて色褪せてゆく
  君の笑顔を見た日のことも


 1連。〈どうしたものか〉とあるので、理由もなく、偶々、歌の主体は自分の部屋にいて、部屋の窓ごしに花を見ているのだろう。窓の枠によって、歌の主体と花とは隔てられている。〈つぼみ開こうか迷う花〉は、比喩としてよりも純然たる描写として捉えたい。花の姿をありのままに眺めている。まだ閉じられている蕾が開花していく微かな動きがある。開花するには、一日の光や温度などの気候的な条件が関与する。歌の主体は、開花するまでの一瞬の停滞する時間を「迷う」と表現しているのかもしれない。比喩ではないとしても、〈つぼみ開こうか迷う〉には、閉じられた状態から開かれた状態への移行がある。それを見つめる眼差しによって、結果として、主体の何らかの想いが重ね合わされているかもしれない。

 2連。部屋のこちら側で、歌の主体は〈かばん〉の中を見つめる。〈かばん〉の中が開かれ、〈無限に広がって〉いるように見える。ここにも、閉じられた〈かばん〉を開けるという動きがある。その内部が〈無限に広がって〉いくことによって、〈かばん〉が外部へと開かれてゆく。歌の主体は〈何処にでも行ける〉気がするのだが、しかし、それは何処にも行けないことの裏返しかもしれない。

 4連。歌の主体は部屋の外へと出て行く。〈月と入れ替わり 沈みゆく夕日に〉には、〈夕日〉が沈んでいく代わりに〈月〉が上っていくという〈入れ替わり〉の動きがあり、そこには、その動きを描写する眼差しがある。日中が終わろうとする時と場の中に〈遠吠えの犬〉が登場するのだが、〈その意味は無かった〉の〈その〉が指し示すものが難しい。〈犬〉の〈遠吠え〉なのか、〈犬〉そのものなのか。意味というからには擬人化されているのだろうが、そうであれば、〈遠吠えの犬〉は歌の主体自身を指しているという可能性もある。

  1連、2連、4連には、閉じられたものと開かれてゆくもの、下降していくものと上昇していくもの、そのような動きがある。そのような動きの中で、3連と5連に抒情の極点がある。

 3連と5連。〈君を初めて見た日のこと〉〈君の笑顔を見た日のこと〉、そのどちらにも、〈花のように〉という直喩が使われて、〈儚くて色褪せてゆく〉という現在進行形で叙述されている。〈儚い〉という形容詞と〈色褪せる〉という動詞が複合されて、〈…て〉〈…て〉〈ゆく〉という折り重なるような形式で表現され、〈はなhana〉〈はかなくてhakanakute〉というように〈ha〉〈na〉という音が反復されている。微細で効果的な表現が、この歌を限りなく抒情的にしている。


 「抒」という動詞には、「のべる」「打ち明ける」、「くむ」「すくいだす」、「ゆるむ」「とける」という三つの意味があるようだ。この三つをつなぎ合わすと、情をすくいだし、情をのべることによって、情をゆるめる、という過程が浮かび上がる。情をゆるめるというのは、ゆるやかな形で情をとどめる、というように取りたい。

 この歌の〈情〉の焦点が当てられているものは、〈君の笑顔〉であろう。〈君の笑顔を見た日のこと〉は、やがて色褪せてゆく。だが、〈君の笑顔〉だけは次第にゆるめられていっても、記憶の中には、微かな形であってもとどめられる。そうであってほしい。その願いがこの歌の抒情をいくぶんか祈りのようなものに高めている。