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2016年10月31日月曜日

瞬間と永遠―『赤黄色の金木犀』[志村正彦LN143]

 フジファブリック『赤黄色の金木犀』、四季盤の秋の曲はどのようにできあがったのだろうか。
 志村正彦はあるインタビューで次のように語っている。(oricon style  文:井桁学)

秋は夏が終わった憂いがあって、四季の中でも一番グッとくる季節だし、前々からいい形で秋の曲を作りたいと思っていたんです。秋の風景にはいろいろありますけど、今回はある帰り道に思ったことを瞬間的に切り取って曲にしました。

 歌詞の該当部分を抜き出してみる。

           赤黄色の金木犀の香りがして
    たまらなくなって
    何故か無駄に胸が
    騒いでしまう帰り道          (『赤黄色の金木犀』志村正彦)

 ある帰り道で「金木犀の香り」がする。その香りで「たまらなくなって」、「何故か無駄に胸が騒いでしまう」。香りというのは我々の記憶の深いところに作用する。意識にも上らない何かの出来事、その香りが意識の底に張り付いているのかもしれない。「何故か」「無駄に」と形容しているように、それがで何あるかは歌の主体にとっても分からない。あるいはすぐには思い出せないものかもしれない。

 「金木犀の香り」の到来、「胸」の騒ぎ、どちらも瞬間的にしか切り取ることができないもの、それを楽曲に変換していく。言葉で語ることのできない何かを言葉で分節しないままに、身体の律動や感覚の揺れとして楽曲を形作る。前奏と後奏のアルペジオの印象に近いものかもしれない。その流れの中で、言葉が、歌詞の元となるものが浮上する。それは断片的なモチーフに過ぎないが、楽曲と複合していくことで『赤黄色の金木犀』の原型が形成される。これはあくまで推測であるが。

 フジファブリックがスタジオに入り、楽曲が完成する。前回も引用した志村の発言がそこからの過程を明らかにしている。

ただ歌詞は、いつもオケが完成してから一番最後に作るんですよ。むしろ演奏(の印象)を何倍にもするような歌詞を書きたい。

 夏が終わった憂い。秋の日の帰り道。その時その場の瞬間的な想いから、言葉として楽曲として『赤黄色の金木犀』が完成するまではかなりの時間を要したことだろう。
 言葉が楽曲を、楽曲が言葉を、互いが互いに作用し、より高い次元に引き上げていく。瞬間が作品となる。ある永遠となる。それを志村正彦の時間と名付けてみたい気がする。

2016年10月23日日曜日

「演奏(の印象)を何倍にもするような歌詞」-『赤黄色の金木犀』[志村正彦LN142]

 一週間ほど前、甲府のある通りを歩いている時、ほのかに金木犀の香りがした。もうこの花の季節は終わっているようなので意外だった。似た香りの違う花だったのかもしれない。あるいはやはり、少し遅く咲く金木犀の種があるのか。分からなかったが、記憶の中の香りと比べてすでに懐かしい気がした。

 昨年、ある古書市の目録で『ニューミュージック・マガジン』(1969年4月~1979年12月)、『ミュージック・マガジン』(1980年1月~現在)の1970年から2012年までの500冊を超えるセットが売り出されているのを見つけた。70年代半ばから80年代半ばまでの号は毎月購入していたが、その後の号はほとんど持っていなかった。この雑誌は基本として洋楽中心だが、時々邦楽についての特集もある。冊数が冊数だけに値は張ったが、リーズナブルな値段だった。初期の号を含めた一揃いが古書市場に出ることはなかなかない。思い切って抽選に応募して、運よく入手できた。大量の雑誌が宅配便で運ばれたときは置き場に困ったが、大きな書棚一つを用意してなんとか配架できた。

 1969年創刊のこの雑誌は、少なくとも70年代までは日本語ロックをめぐる考察や議論の中心となったメディアである(『ニューミュージック・マガジン』の誌名の時代と完全に重なる)。索引が充実しているので資料としての価値も高い。
 時々、余裕があるときに思いつくままに読んでみようとした。なかなかその時間が取れずにいたが、先日、背表紙を眺めていると2004年12月号の「特集 日本音楽の現在」という文字が目にとまった。取り出して目次を見ると驚いたことにフジファブリックの二頁に及ぶ記事があった。特集の一つではなく、「Tune In!」という話題のバンドやアルバムを取り上げる企画だ。これまでフジファブリックを取材した雑誌はかなり調べ集めてもきたが、『ミュージック・マガジン』は未確認だった。迂闊だったが、見つけることができたのは幸いだった。

 記事名は『フジファブリック=謙虚で苛烈な80年代生まれバンドを”追ってけ追ってけ”』、取材と文は志田歩氏。11月発売のメジャー1stアルバム『フジファブリック』に焦点を当てたもので、写真1頁、文章1ページの構成だ。当然だが写真も未見の一枚、「硬派」の老舗音楽誌という性格を反映してか、5人のメンバーはやや緊張した真面目な表情をしている。

 記事の一部を紹介したい。志田氏は「特に本作にも収められた最新シングル〈赤黄色の金木犀〉は、楽曲、歌詞、アレンジの絡み方が、ただならぬ密度の濃さを感じさせる」と述べ『赤黄色の金木犀』を高く評価していた。この楽曲についての志村正彦の発言が引用されている。

そうですね。自分でもあの曲は聴く度に発見があります。勢いだけでできる曲じゃない。根本的なメッセージがないと伝わらないですから。ただ歌詞は、いつもオケが完成してから一番最後に作るんですよ。むしろ演奏(の印象)を何倍にもするような歌詞を書きたい。そもそも自分にとって引っかかりの意識が持てない歌詞は忘れちゃいますから、歌ってる自分についてはウソがない感じですね。

 曲は聴く度に発見があること、根本的なメッセージがないと聴き手に伝わらないこと。歌ってる自分についてウソがないこと。志村が繰り返し語ったことがすでにこのインタビューに現れている。さらに、「歌詞は、いつもオケが完成してから一番最後に作るんですよ」ということを明言しているのが貴重だ。他のインタビューでも同様の発言があるので、志村は所謂「曲先」で後で歌詞を作るのが基本だったようだ。ただし、「曲先」「歌先」と言っても、創作は複雑な過程であり、意識的な作業の裏で無意識なものが様々に動いている。楽曲、歌詞、どちらが先に来てどちらが後に来るとしても、全体としてみれば、一つのものとして創造されるとも考えられる。現実の作業には順序があるのは当然だが。

 志村の作品は、言葉と楽曲のファブリック(織物)の完成度が高い。言葉が楽曲を、楽曲が言葉を、互いが互いに作用し、より高い次元に引き上げている。彼がロックの曲と歌詞の定型に寄りかかることなく、楽曲と必然的に結びついた言葉を練り上げていったことは、フジファブリックのアルバムを聴けば明らかだ。ここで述べられた「演奏(の印象)を何倍にもするような歌詞」という志向がそれを証している。

     (この項続く)

2016年10月16日日曜日

《変わらない》 HINTO『WC』

 HINTOの新アルバム『WC』から前々回まで二回に分けて、『なつかしい人』と『花をかう』を取り上げた。


 書きあげてから気づいたのだが、この二つには重なる言葉があった。「変わらずいよう」と「変わらない為の理由を探しながら」である。
 このアルバムで作者の安部コウセイは《変わらない》というモチーフを追いかけているようだ。

  時間がたったら変わるのが普通だと言うけど
  変わらずいよう
     『なつかしい人』

  俺は今日も変わらない為の理由を
  探しながら 町を歩いて いるよ
     『花をかう』

 『なつかしい人』では「僕達」の誓いの言葉、「変わらずいよう」として、『花をかう』では「俺」の「変わらない為の理由」を探す、自らへの問いかけとして、《変わらない》というモチーフが表されている。ラブソングという枠組の中で、《変わらない》ことが愛を支える、あるいは愛が《変わらない》ことを支えるようにして、歌に織り込まれている。(ここまで書いてきて、脈略なく、堕落モーションFOLK2『夢の中の夢』の最後「変わらない愛を 祈り続けてる」が浮かんできたことを記す。)

 『WC』収録曲には他にも同じような言葉があったはずだ。そう思い、歌詞カードを読み直してみた。『かるま』『風鈴』に「変わらない」、『ザ・ばんど』に「変われない」という言葉があった。『WC』の曲数は九つだが、『なつかしい人』『花をかう』を合わせて、《変わらない》(「変われない」を含めて)というモチーフの歌が五つある。
 
  他人と違うとこ すがるには
  少し大人になりすぎた
  変わらないカルマ 憐れむな
  私なりには大事

  他人と同じとこ 目指すには
  少し大人になりすぎた
  変わらないカルマ 憐れむな
  私なりに生きてく
      『かるま』


 『かるま』の歌の主体「私」は女性。若いのではあるがそう若くもないとも言える「少し大人になりすぎた」女性の視点から、「変わらないカルマ」の日常が語られている。作者のストーリーテリングは巧みだ。「カルマ」はこの言葉の原義の「行為」だと捉えていいだろうか。「お仕事」「飲み」「嘘だらけの毎日」、都市生活の行為。「漫画の新刊」「コンビニ」「満月の夜」、都市生活の風景。「まあまあタイプの顔」だが「退屈すぎる会話」の男。「ぬるい幸せ」の日々。そのような日常を生きる自分を自ら憐れむことはない。「変わらないカルマ」も「私なりには大事」なのだから、「私なりに生きてく」。一見すると表層的な物語のようだが、作者安部コウセイの視線は深いところまで届いている。ひねくれすぐれている。2016年という現在のリアルな都市の詩だ。

 『花をかう』の主体「俺」は男、『かるま』の「私」は女。前者は「変わらない為の理由を探し」、後者は「変わらないカルマ 憐れむな」と自らに言い聞かせる。『WC』という題名はその名が示す通り、男女の間の隔たりを象徴しているそうだが、この二つの歌をみても、《変わらない》ことに対する男女のありかたの差異が伝わる。『なつかしい人』では、「僕」と「貴方」の二人から成る「僕達」は、「変わらずいよう」という「同じ答えが欲しい」ようだが。


  あー 風のままに吹かれて
  そっと 鳴らすよ
  あー なすがままの世界で
  ずっと 変わらない
     『風鈴』

  もうちょっとちゃんとした大人になれる筈だったけど
  依然マイペースさ 成り行きまかせ
  あの日から変われない セブンティーン
     『ザ・ばんど』

 『風鈴』は不思議な歌。歌の中の人間関係が読み取りにくい。もしかすると、この歌の主体は「風鈴」なのかもしれないと思うほどだ。「風鈴」はその姿が忘れ去られるほど変わらない。『ザ・ばんど』は「バンドマンもの」系譜の作品だが、『WC』収録曲の配置の最後にあり、HINTOの変わらない姿を、意外なほど素直に伝えようとしている。


 そもそも、アルバム『WC』の初めの曲『なつかしい人』には、100年という時間の隔たりがあったとしても《変わらない》、そのことへの祈りが込められているのではないだろうか。

2016年10月13日木曜日

ボブ・ディラン「新しい詩的表現」

 今夜帰宅後、ノーベル文学賞が気になってテレビをつけてみた。BSフジの「プライムニュース」がストックホルムからの映像を生中継していた。
 午後8時、発表者から読み上げられた名は「Bob Dylan」だった。英語での説明がゆっくりした発音だったので「new poetic expressions」「the great American song tradition」という言葉が耳に入ってきた。数年前から候補に挙がっていたことは知っていたので意外ではなかった。それよりも「偉大なアメリカの歌の伝統」の中で「新しい詩的表現」を創造したという授賞理由に心が強く動かされた。

 志村正彦の歌詞・詩を中心に日本語ロックの歌詞について語り続けてきたこのblogの主催者としては、現在のロックやフォークの歌詞の最も大きな源流であるボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したことは率直に嬉しい。ノーベル賞という大栄誉、大権威から承認されることは「ロック」的でないという野暮な意見もあろうが、そんなことはどうでもいい。ロックやフォークの言葉はもっと多くの人に親しまれるべきだ。その契機となるならこの受賞には大きな意義がある。
 朝日新聞の記事によると、発表したサラ・ダニウス事務局長は「彼の詩は歌われるだけでなく、読まれるべきものだ。非常に巧みに伝統を取り込みつつ、常に自分自身の殻を破ってきた」と述べたそうだ。「読まれるべき」詩という捉え方には大いに共感する。

 今年の4月、渋谷オーチャードホールでボブ・ディランを聴いたことは以前このblogに記した。1978年2月武道館以来の2度目のディラン体験だった。その時書いたように、僕は「70年代のディラン・ファン」ではあるが、ずっと聴き続けているという意味での本来のファンではない。それでも断続的ではあるが、彼の軌跡を追っていたとは言える。
 あの日のディランは、アメリカ音楽の伝統を一身にまとう「シンガー」だった。自分の書いた文をそのまま引用する。

ディランは20世紀のアメリカ音楽の厚い伝統に守られている。その言葉も英米文学やユダヤ・キリスト教の言葉の伝統に支えられている。それは事実であり、それ以上でもそれ以下でもない現実なのだろうが、正直に言うと、そのことに違和というか疎隔されるような感覚も持った。孤高の単独者というより、伝統のそれもかなり自由な(これが彼らしいが)体現者としてのボブ・ディラン。自分自身に対する固定的な捉え方、その枠組みからたえず抜け出そうとしてきた彼の軌跡の到着点なのだろうか。

 60年代から70年代にかけての「孤高の単独者」の影を追いかけてしまうのは、僕たちの世代の幻影、一種の病のようなものかもしれないが、それは自ら引き受けるものなのだろう。ディランを源流とするロックやフォークの言葉。その伝統と現在は今だ転がる石のように動き続けている。世界のあらゆるところで、この日本でも。僕たちには志村正彦という稀有な「ロックの詩人」がいる。

 志村正彦は、日本語ロックの伝統に「新しい詩的表現」を与えた革新者だ。日本語の伝統や季節の感性を受けとめた上で、それを超える言葉の綴れ織りと新しい話法を編み出した。一つ一つ、彼の言葉の軌跡をたどっていきたい。

2016年10月10日月曜日

『花をかう』HINTO

 前回書いたHINTOの新曲『なつかしい人』について、安部コウセイが、『skream』というネットメディアでこう述べている。(インタビュアー:石角友香)

歌モノでありながら演奏もちゃんとかっこいい、歌を抜いて演奏だけ聴いてもかっこいい。「なつかしい人」は、そういうことを突き詰めてやりたかったんです。そういう気持ちは突然湧いた思いなわけでもなくて、もともとそういうものの方がいいはずだよなと思ってました。ヴォーカルが入ることでそれがひとつの説明だったり、感情の方向性だったりをわかりやすくするっていう役割として、ヴォーカルを楽器だと思ってるんですけど、その音が抜けたときに"あれ? 全然かっこよくないな"ってなるのだけは僕はやだなと思って。

 確かに、『なつかしい人』は歌と演奏の突き詰め方がロック音楽という枠組の中では究極的なところまで進んでいる。歌と演奏、声と楽器の音色が複雑に絡み合い、非常に高い水準で融合している。日本語ロックの新しい次元を切り開いているといっても過言ではない。
 youtubeの公式映像は公開以来3週間という短い期間ですでに5万4千回を超えている。特筆すべきなのは海外からの賛辞が寄せられていることだ。歌詞が分からなくても、声が意味と分離していても、意味を超えた何かが作用するのだろう。安部の目指したように、ヴォーカルが楽器として響いているのかもしれない。それでも海外のコメントを読むと、歌詞を知りたいという声も多い。公式サイトには『エネミー』の英訳が掲載されているので、『なつかしい人』の翻訳が待たれる。
 HINTOの「日本語ロック」は「日本」という閉域を超えて評価されている。これは驚くべき出来事ではないだろうか。

 新作『WC』収録の『花をかう』という作品も繰り返し聴いている。歌詞を引用しても歌が聞こえてくるわけではないが、歌詞カードから詩の後半を写してみる。


  俺は今日も変わらない為の理由を
  探しながら 町を歩いて いるよ
  ガラにもなく花屋で立ち止まった
  赤 白 黄色 どれも似てんな

  花をかう トゥユー 天気のせいさ 自由
  花をかう トゥユー サプライズのよう どお?
  花をかう トゥユー 天気のせいさ 自由
  花をかう トゥユー 枯れないでよ
  ラブユー


 突然、花を買いたくなることがある。僕のようなおじさんが花屋に行くなんて気恥ずかしいし、近くに花屋もない。だから現実に花を買うことはほぼない。花を買う想像はほとんど妄想のようなものになる。そう言えば、志村正彦・フジファブリックの『花屋の娘』も妄想が膨らむ話だった。

 前半、「君」と「俺」との「甘い」「疼く」小さな出来事が語られる。やや、ややこしい物語が、「そうさ2人は子供だった」というように人物は幾分か三人称化されて語られている。後半、「俺」は「ユー」に語りかける。心の中での二人称への呼びかけのスタイルになる。安部コウセイの描く物語は、この三人称と二人称の語り口の転換が冴えている。ひねくれた突き放した悲哀と真摯さがぐるぐると駆け巡っている。
 歌の主体「俺」は「変わらない為の理由」を探しながら町を歩き、「ガラにもなく」花屋で立ち止まる。男が花屋で佇む。妄想のようにもリアルな情景のようにも受けとれる。

 歌の最後、「花をかう」「トゥユー」「枯れないでよ」「ラブ」「ユー」の言葉とメロディ・リズムの「間」の取り方、声と演奏の織り交ぜ方、グルーブ感が素晴らしい。最後の最後の「ユー」の響きは美しい。「枯れないでよ」が小さな祈りのように聞えてくる。

 この「ユー」は「君」であり「花」でもあるのだろう。そうして「ラブ」そのものでもある。
 「枯れないでよ」と呼びかけられた花の物語はこれから始まる。

2016年10月5日水曜日

『なつかしい人』HINTO

 HINTOのニューアルバム『WC』が届いた。『なつかしい人』そして『花をかう』に強く惹かれた。歌詞カードも読んだ。言葉、楽曲、歌、演奏、すべてが高度な次元でしかも複雑なテクストのように融合している。あえて批評家気取りの物言いをするが、このアルバムが正当に評価されないようでは「日本語ロック」のメディア(そんなものがあるとして、だが)の存在意義はない。

 「HINTOofficial」にある『なつかしい人』のミュージック・ビデオ(岡田文章監督)を添付させていただく。


 後半の歌詞を引用したい。

     なつかしい人 いつか聴こえたろ
     遠く咲く花火の 次の音が鳴らない
 
     なつかしい人 いつか眺めたろ
     夏の日の夕焼け 思い出はいらない
 
     なつかしい人 いつか出会う時
     初めての顔して 名前など知らない

     
     100年まえ


 「鳴らない」「いらない」「知らない」の「ない」の反復が「100年まえ」の光景を美しく描いている。あったこと、あること、あるであろうことを語り続けている。

 「100年まえ」とあるが、その時は、現在を起点に過去に遡る「100年まえ」ではなく、「100年あと」の未来の地点からこの現在へと遡る地平に現れる。時の翼がいったん未来へと飛び、そこから時が逆転して「100年まえ」にたどりつく。そんな気がする。何の根拠もなくただそう感じるだけなのだが。
 そうすると、「100年まえ」は、今ここ、を指す。この歌詞で歌われる出来事は、今ここにあることになる。

 この作品は作用する。
 聴き手に、何か意味を超えたものを贈り、届ける。

 「なつかしい人 いつか聴いたろ/遠く咲く花火の 次の音が鳴らない」と歌う安部コウセイの「声」。その声が遠ざかるとともに、「音」を鳴らし続ける伊東真一のギター、敲き刻み続ける菱谷昌弘のドラムスと安部光広のベースが、声の不在をうめようとする。映像も、絵画のフレームを境界に二つの空間に分割される。
 「遠く咲く花火」が、僕たちにとって大切な大切なあの花火の歌とこだまするかのように。しかし、「次の音」は永遠に鳴らない。