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2021年7月25日日曜日

言葉のループ 「お月様のっぺらぼう」2 [志村正彦LN283]

  志村正彦・フジファブリック「お月様のっぺらぼう」の音源は、2019年12月23日から、「フジファブリック Official Channel」で公開されている。これはありがたい。

  お月様のっぺらぼう · FUJIFABRIC
  アラモード 2003 Song-Crux Released on: 2003-06-21
  Lyricist: Masahiko Shimura Composer: Masahiko Shimura


 

 歌詞をすべて引用しよう。行の番号と同一の歌詞はa~iのアルファベットを付ける。


 お月様のっぺらぼう  作詞・作曲: 志村正彦  

  1  a  眠気覚ましにと 飴一つ
  2  b  その場しのぎかな…いまひとつ
  3  c  俺、とうとう横になって ウトウトして
  4  d  俺、今夜も一人旅をする!

  5  e  あー ルナルナ お月様のっぺらぼう

  6  f  嵐がやって来そうな空模様
  7  g  雨の匂いかな…流れ込む
  8  h  俺、相当恐くなって窓を閉める
  9  d  俺、今夜も一人旅をする!

 10  i  あの空を見た 遠くの空には 虹がさした
 11  i  あの空を見た 遠くの空には 虹がさした

 12  a  眠気覚ましにと 飴一つ
 13  b  その場しのぎかな…いまひとつ
 14  c  俺、とうとう横になって ウトウトして
 15  d  俺、今夜も一人旅をする!

 16  e  あー ルナルナ お月様のっぺらぼう
 17  e  あー ルナルナ お月様のっぺらぼう


 「お月様のっぺらぼう」のサウンドは、イントロのフレーズがミニマル的にループしていく。歌詞の言葉もそのサウンドに乗って、ループのように連接していく。言葉の輪が循環していく。

 第1行と第2行の末尾の〈飴一つ〉と〈いまひとつ〉。〈hitotsu〉の反復が、この歌詞の言葉のループの基調になっている。さらにこの〈hitotu〉は、第4行の〈今夜も一人旅をする〉の〈hitori〉に連接し、モチーフとしての《一人》を形成していく。

 第3行の〈とうとう〉と〈ウトウト〉。〈toutou〉〈utouto〉の音の反転のような遊び。この音の戯れが催眠効果のようになって、歌の主体〈俺〉は〈今夜も一人旅をする〉。この夜の〈一人旅〉は睡眠中に見る《夢》のことであろう。〈も〉という助詞が使われているのは、この夜の〈一人旅〉が、毎夜、反復されていることを示す。

  また、第3,4行と二度繰り返される〈俺〉と〈俺〉の〈ore〉〈ore〉も、音の響きが独特である。くぐもっているというのか抑制的というのか、一人称代名詞の機能を果たすというよりも、つなぎの音として使われた気もする。

 第5行の〈ルナルナ〉。〈luna luna〉の繰り返し。〈お月様のっぺらぼう〉も〈おo〉〈のno〉〈ぼbo〉という〈o〉音がアクセントになっている。この言葉は、月の視覚的イメージを表すというよりも、音の戯れの感覚そのものを伝えるために選択されたのかもしれない。

 第7行の〈雨〉〈ame〉は第1行の〈飴〉〈ame〉と、アクセントは異なるが、音の反復がある。第8,9行の〈俺〉〈俺〉は、第3,4行の〈俺〉〈俺〉と同等の効果を持つ。

 第10,11行〈あの空を見た 遠くの空には 虹がさした〉はどう捉えたらよいだろうか。二つの可能性がある。ひとつは、〈俺〉が目覚めた後で日中の光景として〈あの空〉〈遠くの空〉〈虹〉を見た、というもの。もう一つは、〈俺〉が見た夢の中の光景であるというもの。

 第1~4行のa.b.c.dの展開には、起承転結的な構造があり、第6~9行のf.g.h.dの展開も同様である。それぞれの起承転結を受ける、第5行〈あー ルナルナ お月様のっぺらぼう〉と第10,11行〈あの空を見た 遠くの空には 虹がさした〉は、対比的な関係を持つ。


第1~4行 a.b.c.d  → 第5行      あー ルナルナ お様のっぺらぼう

第6~9行 f.g.h.d  → 第10,11行  あのを見た 遠くのには がさした


 この対比的な構造からすると、〈あー ルナルナ お月様のっぺらぼう〉の〈月〉は〈夜〉の〈一人旅〉の象徴であり、〈あの空を見た 遠くの空には 虹がさした〉の〈空〉の〈虹〉は、夢の中で見られた光景であるという解釈の方を取りたい。

 〈俺〉の〈夜〉の〈一人旅〉は、夢の中で〈空〉の〈虹〉へと向かっていく。サウンドが転調され、コーラスも加わって、音が重厚になる。ライブでは照明の演出も転換される。言葉と音のループがここで重層化される。志村正彦、加藤慎一、金澤ダイスケ、渡辺隆之の四人のユニットの演奏が素晴らしい。

 〈月〉と〈虹〉。太陽の光が月面で反射された月の光。太陽の光が大気の水滴の内部で反射された虹の光。光のイメージとしては対照的だが、太陽の光が反射されたものという共通項がある。〈虹〉のモチーフはやがて、2005年6月リリースのフジファブリック5枚目のジングル「虹」へと発展していく。

 〈俺〉の〈一人旅〉は、〈夜〉から日中の〈空〉へ、〈月〉から〈虹〉へと向かう。そして、昼の〈空〉か〈夜〉からへ、〈虹〉から〈月〉へと戻っていくのだろう。そのようにして、ループが、循環していく。〈俺〉の〈一人旅〉は、毎夜、反復される。

 志村正彦は、言葉の音としての戯れを使って歌詞を作った。言葉と音それぞれのループ、そして言葉と音の間のループによって、〈俺〉の物語を歌った。「お月様のっぺらぼう」は、インディーズ時代のきわめて独創的な作品である。


2021年7月18日日曜日

音のループ 「お月様のっぺらぼう」1 [志村正彦LN282]

 前回論じた「Anthem」は、「三日月さんが 逆さになってしまった」という月夜の情景のもとで「気がつけば 僕は一人だ」と、〈月〉と〈一人〉が組み合わされて歌われている。志村正彦の特に初期作品には、この〈月〉と〈一人〉の取り合わせが多い。

 「午前3時」の〈夜が明けるまで起きていようか/今宵満月 ああ/こんな夜、夢見たく無くて 午前三時ひとり外を見ていた〉、「浮雲」の〈登ろう いつもの丘に 満ちる欠ける月/僕は浮き雲の様 揺れる草の香り/独りで行くと決めたのだろう〉、そして「お月様のっぺらぼう」の〈俺、とうとう横になって ウトウトして/俺、今夜も一人旅をする!/あー ルナルナ お月様のっぺらぼう〉とある。月は〈満月〉〈満ちる欠ける月〉〈お月様のっぺらぼう〉、一人の方は〈ひとり外を見ていた〉〈独りで行く〉〈一人旅〉という違いがある。志村正彦にとって、〈月〉は〈一人〉であることと強く結びつく原光景である。

 今回は「お月様のっぺらぼう」を取り上げたい。2003年6月21日発売のフジファブリック2ndミニアルバム『アラモード』(Song-Crux)収録曲である。メンバーは、Vo.Gt. 志村正彦、Ba.Cho. 加藤慎一、Key.Cho. 金澤ダイスケ、Dr.Cho.渡辺隆之の四人。当時の貴重なインタビュー〈現時点で最高の音が詰まった2ndミニ・アルバム『アラモード』、遂にリリース!〉がロフトのサイトに残されている。「お月様のっぺらぼう」に言及した部分を抜き出す。


──では面白かったこと、楽しかったことは?
金沢 あ、初日に俺、熱を出したんだ。39度くらい。その朦朧とした中で録ったのが「お月様 のっぺらぼう」で、直ってから入れ替えようと思ったんですけど、どうやってもこの感じが出せなかったんで。
──今回の曲はいつ頃の?
志村 元々ある曲もあるけど、レコーディングがありますってことで…アレンジし直してアルバム用にしたいなと思ったのは「お月様 のっぺらぼう」ですね。コレは今回用に急ピッチで(笑)。
渡辺 これはどんどん変わっていきましたね。
──一言ずつ曲のコメントをお願いします。
■お月様 のっぺらぼう
加藤 これは割とスペーシーな。ループな感じなんですけど。生ループが醍醐味です。
志村 あと、これはコーラスを頑張りましたね。


 愉快なコメントだ。「お月様 のっぺらぼう」は〈アレンジし直してアルバム用に〉〈急ピッチで〉(志村)作られて、〈どんどん変わって〉(渡辺)いったそうである。〈スペーシーな。ループな感じ〉(加藤)のサウンドを39度の発熱による〈朦朧とした中で録った〉(金沢)テイクが素晴らしい出来映えだったようだ。確かに、コンピュータではない〈生〉の楽器演奏による独特のループ感とグルーブ感がある。

 「お月様 のっぺらぼう」は、歌詞、楽曲、演奏、どれも水準が高い。インディーズ時代の『アラカルト』『アラモード』のなかでも最も独創的な作品であろう。特に、志村の作曲家としての才能を感じさせる。類似したサウンドが思い浮かばないのだが、記憶をたどってあえて書くのであれば、イギリスのソフト・マシーン(Soft Machine)を想起した。ジャズ・ロック、サイケデリック・ロック、ミニマル・ミュージックというようなノンジャンル的な楽曲の雰囲気である。ミニマルなフレーズが反復され拡大されていくソフト・マシーンのサウンドを繰り返し聴いていた時期がある。1973年の『7』(Seven)が僕の愛聴盤だった。

 「お月様のっぺらぼう」は「午前3時」(『アラカルト』)「消えるな太陽」(『アラモード』)と共に、メジャーデビュー後に再録音されていない。初期の月をモチーフとする3曲中の2曲の音源のリテイクがない。ただし、「お月様のっぺらぼう」のライブ映像は、2003年12月31日新宿LOFT(『FAB MOVIES LIVE映像集』DVD『FAB BOX』)、2006年12月25日渋谷公会堂(『Live at 渋谷公会堂』DVD)、2009年9/29(火)~10/23(金)全10公演(『Official Bootleg Movies of "デビュー5周年ツアー GoGoGoGoGoooood!!!!!'』DVD)の三つのDVDに収録されている。5周年ツアーでは、志村が「じゃあ次もめったにやらない曲」と話してから、演奏が始まった。この3枚のDVDによって、ちょうど三年ごとの演奏の変化を知ることができる。     

      (この項続く)


2021年7月11日日曜日

「Anthem」の〈一人〉[志村正彦LN281]

 昨日7月10日は、志村正彦の誕生日。祝福するtweetが数多く寄せられていた。富士吉田では「若者のすべて」のチャイムが流され、それを報道するニュースや記事があった。母校の吉田高校でも合唱曲にするプロジェクトが進んでいるようだ。さまざまな人々がそれぞれの場所で活動している。これもまた祝福すべきだろう。

 僕の場所はこの偶景web。もうひとつ、文学の教育と研究の場もある。〈志村正彦ライナーノーツLN〉の開始時には300回をひとつの目標にした。あと20回ほどでその回数に達するが、これまで取り上げた曲を数えるとまだ31曲。今後はこれまで書いたことのない作品についてできるだけ試みていきたい。

 今日は「Anthem」。2009年5月20日、フジファブリック4枚目のアルバム『CHRONICLE』に収録され発表された。2019年、『FAB LIST 1』の投票で15位となり、同名のアルバムに収められた。アンセムは祈りの歌、祝いの歌である。誕生日の祝福tweetを見て、なんとなくこの曲にしようと思った。『FAB LIST 1』の音源を聴いたのだが、リマスタリング音源となり、想像以上に楽器の音像はクリアになっている。まず全歌詞を引用したい。


 Anthem 
       作詞・作曲:志村正彦

三日月さんが 逆さになってしまった
季節変わって 街の香りが変わった
気もしない ない ない ない ない ない ない ないか
まだ ない ない ない ない ない ない ない ないか

闇の夜は 君を想う
それら ありったけを 描くんだ

鳴り響け 君の街まで
闇を裂く このアンセムが

何年間で遠く離れてしまった
いつでも君は 僕の味方でいたんだ
でも いない いない いない いない いない いない いない いないや
もう いない いない いない いない いない いない いない いないや

行かないで もう遅いかい?
鳴り止まぬ何かが 僕を襲う

轟いた 雷の音
気がつけば 僕は一人だ

このメロディーを君に捧ぐ
このメロディーを君に捧ぐ

鳴り響け 君の街まで
闇を裂く このアンセムが

轟いた 雷の音
気がつけば 僕は一人だ


 フレーズごとにたどっていこう。〈三日月さんが 逆さになってしまった〉は、三日月からその逆さの二十六夜月への変化の時間を伝えているのだろうか。そうであれば、二十数日が経っていることになる。また、二十六夜月は夜中の1時から3時の間に上るので、この歌の舞台が深夜であることを示しているのかもしれない。〈季節変わって 街の香りが変わった〉とあるので、この月の満ち欠けの三十日ほどの間に季節が変わったのだろう。

 しかし、歌の主体〈僕〉は〈気もしない ない ない ない ない ない ない ないか〉〈まだ ない ない ない ない ない ない ない ないか〉と呟く。何に対して〈気もしない〉と言うのか。三日月や季節の変化はおそらく確かなことだろうから、直前の〈街の香りが変わった〉を指していると考えるのが妥当だろう。そうすると、〈街の香りが変わった〉〈気もしない〉〈ないか〉〈まだ〉〈ないか〉というようにつながる。〈街の香りが変わった〉気がする、気がしない、そして、気がしないか、まだ気がしないか。その逡巡が〈僕〉に訪れている。それぞれのフレーズで、〈ない〉が八回繰り返されている。この〈ない〉の反復は、歌の主体〈僕〉の自分自身の感覚に対する疑いやとまどいを示すものなのか。解釈が難しい。

 〈闇の夜〉という深夜、〈僕〉は〈君を想う〉。君への想いを〈ありったけを 描くんだ〉と自分に言い聞かせる。その想いを託した〈アンセム〉が、深夜の〈闇を裂く〉ようにして、〈君の街〉まで〈鳴り響け〉と叫んでいる。

 〈何年間で遠く離れてしまった〉〈いつでも君は 僕の味方でいたんだ〉というのが、歌の主体〈僕〉の想いの中心にある。〈でも いない いない いない いない いない いない いない いないや〉〈もう いない いない いない いない いない いない いない いないや〉と、〈でも〉〈いないや〉と〈もう〉〈いないや〉というように〈君〉の喪失が歌われている。ここでも、それぞれのフレーズで〈ない〉が八回繰り返されている。この〈ない〉の連続は、「若者のすべて」の〈ないかな ないよな きっとね いないよな〉の数度の反復を想起させる。志村正彦の「Anthem」は〈ない〉ことのアンセムのように響く。

 〈行かないで もう遅いかい?〉〈鳴り止まぬ何かが 僕を襲う〉という直截な表現は、〈轟いた 雷の音〉の強烈な音に促されたのだろうか。雷鳴の音に突き動かさるようにして、〈僕〉は君のいる場所に飛び立っていきたいのだが、そこには〈君〉は〈もう〉〈いない〉。雷鳴が過ぎ去った後で、〈気がつけば 僕は一人だ〉という静けさのなかに歌の主体〈僕〉は取り残される。


 「Anthem」とは対照的な静かで穏やかな曲調の「セレナーデ」が浮かんできた。「セレナーデ」では〈木の葉揺らす風〉の音が〈セレナーデ〉になっていた。〈明日は君にとって 幸せでありますように/そしてそれを僕に 分けてくれ〉という祈りが、〈そろそろ 行かなきゃな お別れのセレナーデ/消えても 元通りになるだけなんだよ〉という別れの言葉と共に歌われていた。「Anthem」では〈轟いた 雷の音〉が〈アンセム〉に変わる。〈気がつけば 僕は一人だ〉が〈このメロディーを君に捧ぐ〉と歌われる。

 志村正彦の歌の主体〈僕〉は、つねにすでに、〈一人〉でいる。〈一人〉でいることが、 〈メロディー〉を「セレナーデ」や「Anthem」の言葉を〈君〉へと送り届ける条件、前提であるかのように、志村は歌を作っている。

 アンセムは祈りの歌、祝いの歌。この「Anthem」も〈君〉への祈り、祝福の歌であろう。しかし、〈気がつけば 僕は一人だ〉という一節をどう受けとめていいのか、考えあぐねた。ここには深い孤独が描かれている。アンセムとどう関わるのか。

 作者志村自身が伝えたいことから離れてしまうのだろうが、〈僕は一人だ〉としても〈僕は一人だ〉ということをあえて祝う、という考えが浮かんできた。〈僕は一人だ〉ということを祝福するというのは誤解されかねない解釈だが、今ここで〈一人〉でいることが現実であるのならば、その現実をそのまま受けとめる、ある意味では肯定する、というように捉えてみるのはどうだろうか。喪失を喪失として、〈一人〉でいることを〈一人〉でいることとして、ありのままを受けいれること。志村正彦の「Anthem」にはそのような強さも感じるのだ。雷鳴のように轟く烈しいもの。〈一人〉ではあるがその〈一人〉であることをそのまま受容する強い意志。冒頭の一節「三日月さんが 逆さになってしまった」のように、何かを逆さにする方向性がこの「Anthem」には貫かれていないだろうか。そもそも、〈闇の夜〉という設定自体が通常のアンセムの背景となる時間帯を逆転させている。そう考えるならば、この「Anthem」は〈君〉へのアンセムであると同時に、〈一人〉でいることへのアンセムにもなる。


 志村正彦の多くの歌からは、〈一人〉でいることの寂寥感が伝わってくる。しかし、その寂寥感を超えていくものも歌われている。そのような、気もしない、だろうか。


2021年7月3日土曜日

山梨の聖火リレー[志村正彦LN280]

 先週の土日、山梨県で東京オリンピックの聖火リレーがあった。二日目の終着点は富士吉田。最終ランナーは、グループランナー「やまなし大使」の四人、 宮沢和史、藤巻亮太、山梨出身の女優白須慶子、そして富士吉田出身のプロレスラー武藤敬司が富士山パーキングの入口まで走った。東京オリンピックそのものの問題点はひとまず置いて、今日はこの聖火リレーから想像したことを書きたい。

 

 僕はニュース映像を見だけだが、宮沢和史、藤巻亮太となると、どうしても志村正彦のことを思ってしまう。彼が健在であれば、宮沢和史、藤巻亮太と一緒に故郷の道を走っただろうか、と。やるせないような仮定だが、しばらくの間、想像の世界に入っていった。

 志村がグループランナー「やまなし大使」に選ばれた可能性は充分にあっただろう。しかし、その(内々の)オファーを受けて彼が受諾したかどうか。〈「ロック」とは、何かを打ち破ろうとする反骨精神、逆らうべきところは逆らうという精神じゃねえのかな~〉[ 『東京、音楽、ロックンロール』(志村日記)「ジャケ深読み」2008.01.25 ]と語っているので、〈聖火リレーなんてロックじゃねえ〉と一蹴したこともありえる。

 でも、どうだろうか。他ならぬ富士吉田で走るのであれば、案外、渋々にしろ、OKしたような気もする。そうなったとしても、一番隅っこで、いるのかいないのか分からないように走る。そんな像が浮かぶ。

 NHKの「聖火リレー」サイトに、大会組織委員会に提出された「志望動機」が掲載されている。


宮沢和史 Kazufumi Miyazawa

東京オリンピックの聖火ランナーとして、長距離走の選手だった学生時代を思い出しながら無心で走る私の姿を見ていただくことで、少しでも生まれ故郷に貢献できるのであれば嬉しい。

藤巻亮太 Ryota Fujimaki

東京オリンピックの聖火ランナーとして、歴史ある聖火を絶やさず、世界へ、そして次の世代へ向けてつないでいきたい。そして、世界中にふるさとの魅力を伝え、「YAMANSHI」ファンを増やしたい。


 宮沢の〈少しでも生まれ故郷に貢献できるのであれば嬉しい〉、藤巻の〈「YAMANSHI」ファンを増やしたい〉。二人とも故郷山梨への貢献を志望動機としている。この二人に劣らぬくらい(いや、それ以上に)故郷を大切にしていた志村のことだから、真面目でなおかつロック的な動機を書いたかもしれない。

 志村は先の日記で「富士山」もロックだと述べていた。理由は、富士山は火山活動で隆起し、〈地球の重力に逆らっているから〉らしい。だから、その富士山の裾野を聖火でリレーすることもロックだ、なんていう志望動機を考えたかもしれない。志村が聖火をリレーするなんて〈ないかな ないよな きっとね〉とも思うが、あるかな、あるよな、きっとね、とも想う。やるせない仮定の想像ではあるが、そのままここに記してみたかった。


 志村正彦が宮沢和史、藤巻亮太と一緒に富士吉田の道を走る。「聖火」をリレーする。その幻想は、宮沢和史、藤巻亮太、志村正彦と続いていく、山梨の「ロック」のリレーの光景でもある。