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2023年8月27日日曜日

享楽の〈ソレ〉 [志村正彦LN336]

 志村正彦・フジファブリック『唇のソレ』(詞・曲:志村正彦)に戻りたい。全歌詞を再び引用する。


手も目も鼻、耳も 背も髪、足、胸も
どれほど綺麗でも意味ない

とにもかくにもそう
唇の脇の素敵なホクロ 僕はそれだけでもう…

Oh 世界の景色はバラ色
この真っ赤な花束あげよう

いつかはきっと二人 歳とってしまうものかもしれない
それでもやっぱそれでいてやっぱり唇のソレがいい!

さあ 終わらないレースの幕開け
もう 世界の景色はバラ色
この真っ赤な花束あげよう

いつかはきっと二人 歳とってしまうものかもしれない
それでもやっぱそれでいてやっぱり唇のソレがいい!


 この作品は「睡眠作曲」で作られたが、楽曲だけでなく、歌詞にも何らかの影響を与えたのではないだろうか。言うならば、「催眠作詞」のような過程である。睡眠中の活動である夢が歌詞に大きく関わっていると考えてみたい。

 この歌詞の〈バラ色〉の〈景色〉を持つ〈世界〉を夢の中の世界としてみる。そうすると、この歌詞全体を〈僕〉が夢の世界に入っていく過程を歌っていることになる。歌詞は大きく二つに分けられる。区切れ目は〈僕はそれだけでもう…〉の〈…〉。〈…〉の前は睡眠前の場面、〈…〉の後は夢の場面と覚醒時の場面として捉えてみよう。


 〈僕〉の眼差しは、〈手〉〈目〉〈鼻〉〈耳〉〈背〉〈髪〉〈足〉〈胸〉という身体の部位に注がれる。この身体は〈僕〉が愛する女性のものだろう。しかし、それらの部位は〈どれほど綺麗でも〉〈意味〉が〈ない〉。

 それらの代わりに〈素敵〉だと讃えられるのが〈唇の脇〉の〈ホクロ〉。口唇の脇にあるという位置が要だ。その場所の〈ホクロ〉に対して、〈僕〉は〈それだけでもう…〉と語る。〈…〉で省略されているところには、愉悦を意味するような言葉が入るだろう。〈唇の脇〉の〈ホクロ〉は無意識の次元で、〈僕〉の享楽の対象となる。


 〈…〉の空白を経て〈唇の脇〉の〈ホクロ〉に対する享楽が無意識の次元で開かれていくと、〈僕〉は夢の世界に入り込む。夢の中の〈世界の景色〉は〈バラ色〉である。〈僕〉は〈唇の脇〉に〈ホクロ〉がある女性に〈真っ赤な花束〉をあげようとする。〈バラ色〉の夢の世界は〈真っ赤な花束〉でさらに染め上げられる。色合いが濃くなり、香りも濃厚になる。視覚と嗅覚が夢の中で混ざり合う。この場面では、男女の間に交わされるエロスが夢の世界に現れると解釈してみたい。その混沌とした映像や感覚が〈唇のソレ〉へと収斂していく。


 この〈二人〉は〈歳とってしまうものかもしれない〉という一節は、夢からの覚醒を告げているかもしれない。覚醒後、〈僕〉は〈それでもやっぱそれでいてやっぱり〉と夢を振り返り、〈唇のソレがいい!〉と宣言する。〈唇〉の脇にある〈ソレ〉は、〈僕〉の享楽の対象の〈ソレ〉であるのだから。享楽ではあるが、ここにはユーモアの感覚もある。ある種の明るさや大らかさにつながっている。


    (この項続く)


2023年8月20日日曜日

虹が空で曲がっていた [志村正彦LN335]


 虹が空で曲がっていた。




 七月下旬、石和の鵜飼橋近くの笛吹川通りを車で走行していた。急に雨が強く降ってきたがすぐにやんだ。その直後の時だった。助手席の妻が「虹!」と声を上げた。車を道沿いの店に止めて、スマホで撮影したのがこの画像だ。

 虹は、笛吹川を挟んで、青い空の地上近くの空間で、美しい曲線を描いていた。(画像では微かに見えるだけだが、上の方にもう一つの虹がかかっている。)虹の真中の下で、左側の大菩薩山系の稜線と右側の御坂山系の稜線が重なり合う。(その御坂山系の向こう側に富士吉田はある。)青い空と白い雲の群れが真夏のピークを示すように限りなく広がっていく。

 180度の視界の中でこのように曲がる虹を見たことは初めてだった。いつも、虹は途中でうすくなったり途切れていたりした。つまり、ある部分だった。地平線の上に現れる虹は円弧を描いていた。全体としての虹。虹の全景と考えてよいだろう。虹の全景は確かに空で曲がっている。


 志村正彦・フジファブリック『虹』の一節「虹が空で曲がってる」とは、こういう風景を表現したのではないか。

  以前このブログで、志村はなぜ「虹が空で曲がってる」と描いたのか、という問いを発したことがある。その際は次のように考えた(「虹が空で曲がってる」ー『虹』1 [志村正彦LN136])。


 現実にそのような景色を見たからだというのが、当たり前ではあるが、最も根拠のある答えだろう。しかし、虹が曲がる風景を見たとしても、それをそのまま言葉にするかどうかは、まさしくその表現者による。私たちは慣習化した言い回しを使いがちだ。何かを見出したとしても、その次の瞬間には、そのありのままの風景を忘れ、慣れきった言葉の世界に安住してしまう。
 志村はおそらく実際に見たことを描いている。実際に感じたことを述べている。「虹が空で曲がってる」は「実」の風景なのだ。「実」はありのままの世界であり、ありのままの感覚を生きることだ。優れた詩人は「実」を描く。言葉に変換する。その表現がありきたりな表現を越えていく。


 「虹が空で曲がってる」は「実」の風景だと書いたのだが、僕自身はそのような風景を実際に見たことはなかった。いつかその機会が訪れるかもしれない、とずっと思っていたのだが、この日の虹はまさしく空で曲がっていた。歌詞の言葉と現実の光景が融合した。


 志村の歌詞は自然の風景や景物に触発されて動き始めることが多い。山梨で暮らし、志村の歌詞に親しんできた僕はときどき、この地の風景や景物から志村の歌詞の一節を想起することがある。


 吉本隆明は、中原中也を「自然詩人」と位置づけ、「こういう詩人は詩をこしらえる姿勢にはいったとき、どうしても空気の網目とか日光の色とか屋根や街路のきめや肌触りが手がかりのように到来してしまうのである。景物が渇えた心を充たそうとする素因として働いてしまう」と述べている。(『吉本隆明歳時記』1978)


 志村正彦も吉本の言う意味での「自然詩人」であろう。「週末 雨上がって 虹が空で曲がってる」という光景の到来と共に、「グライダー乗って 飛んでみたいと考えている」「不安になった僕は君の事を考えている」「言わなくてもいいことを言いたい」というように、「僕」の思考や感覚、欲望や想像が心の中で回転していく。


 「虹」が空で曲がり、「僕」の言葉が巡りだし、「世界」が回りはじめる。