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2013年9月29日日曜日

一番美しいもの (ここはどこ?-物語を読む5)

 『ないものねだり』(『CHRONICLE』)のこの一節を聴くといつも、「ああ、ここには人の心の一番美しいものがある」と感じる。

  帰り道に見つけた 路地裏で咲いていた
  花の名前はなんていうんだろうな


 もう何十年も前に聞いて忘れられない話がある。植物学者の牧野富太郎が、誰かが書いた「名もなき花」ということばに対して、「知らないだけで花にはみな名前がある。『名も知らぬ花』というべきだ」というような趣旨のことを述べたという話だ。確かに植物学者からすれば「名もなき花」とはすなわち新種で、見つけたくても簡単に見つけられるものではない。 自分が知らないだけなのに「名もなき」と決めつけるのは随分傲慢な所業である。私はいたく納得し、以来、「名もなき」ということばを使ったことはない。

 名前を知るということは、それを認めるということである。雑草にも名前がある。「ホトケノザ」とか「オオイヌノフグリ」とか「ハハコグサ」とか「ナズナ」とか。その名前を知ると、それまで行き帰りの道で目に留まらなかったものが見えてくる。ああ、こんなところにホトケノザが群生していたんだと気づく。ずっとそこにあったのに見えなかったものが、名前を知った途端に見えるようになる。

 だから、名前を知りたいということは、つまり、そのものを知りたいと思うことだ。そのものを知りたいと思うことは、そのものに惹かれること、大事に思うこと、さらに言えば愛することへの入口から一歩足を踏み入れるということである。そこにはほんの少しだがそのものに近づきたいという意志と勇気がある。

 『ないものねだり』の「僕」は「気持ち伝える」のに悩み、「大事なところ間違えて」、「膨大な問題ばかりを抱えて」いる。いつの日も「あなた」に悩ませられている。うまくいかない、カッコわるい、そんなことばかりがあって、ありたい自分とのギャップにないものねだりを繰り返している「弱い生き物」だと自己評価している。そんな「僕」が「帰り道に見つけた 路地裏に咲いていた 花の名前」を知りたいと思うその瞬間、関心が自分から離れて、花という他に向かう。それまで「名も知らぬ」花だったものが、「僕」にとって特別な花になる。決して順調ではない、おそらく余裕もない、そんな状況の中で、自分のことをおいて他を思うその気持ちは、おそらく人の心の一番美しいものの一つだろう。

  志村正彦が自分のことをどう思っていたのかはわからない。けれど、この歌を聴くたびに志村正彦の心の中にある美しさを感じずにはいられない。

2013年9月22日日曜日

言葉-『若者のすべて』9 (志村正彦LN 50)

 志村正彦は、『若者のすべて』について、『茜色の夕日』と同等の「リアルな思い」があることに気づいたと、『音楽と人』2007年12月号所収の樋口靖幸氏によるインタビュー記事で述べている。

 〈茜色の夕日〉以来です、こんなナーバスになってるのは。あの時は曲つくって自分の思いを表現して、あの人にいつか届けたいっていう、音楽やるのに真っ当な理由があったわけですよ。それに自信をつけられていろんな曲を今まで作ってきたけど、これは当時のその曲と同じくらいのリアルな思いがある……ってことを、作った後に気づかされたんだよなぁ。

 志村正彦の歩みの始まりの歌『茜色の夕日』は、「自分の思いを表現して、あの人にいつか届けたい」という歌であるが、次の一節にあるような屈折や断念も含まれている。

  僕じゃきっとできないな できないな
  本音を言うこともできないな できないな
  無責任でいいな ラララ そんなことを思ってしまった   (『茜色の夕日』)

 歌の主体「僕」は、本音を言うことができない。本当の言葉を伝えることができない。「僕」は、そのような「僕」のあり方を「無責任でいいな」「ラララ」と、幾分か自嘲気味に批評している。「君に伝えた情熱」と共にこのような醒めた自己批評が、『茜色の夕日』の切なさを際立たせている。
 『若者のすべて』でも「僕」は、「会ったら言えるかな」「話すことに迷うな」と、「言う」こと「話す」ことについての逡巡や葛藤の中にいる。「僕」は言葉で伝えることをめぐって揺れ続けている。

  ないかな ないよな きっとね いないよな
  会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ

  ないかな ないよな なんてね 思ってた
  まいったな まいったな 話すことに迷うな           (『若者のすべて』)              

 『茜色の夕日』や『若者のすべて』は、失われてしまった他者への想いというテーマで語られることが多いが、失われてしまった言葉、伝えることのできなかった言葉というモチーフも重要である。言葉で伝達することの困難が「僕」に立ち塞がる。そのような意味で、『茜色の夕日』や『若者のすべて』に共通する「リアルな思い」がある。

 また、『茜色の夕日』の「できないな できないな」の「ないな」の「ない」「な」音の反復は、『若者のすべて』の「ないかな ないよな」の「ない」「な」音の反復と、作品を越えて、響きあっているようにも感じられる。 「ない」という否定表現を志村正彦がよく使ったのは、そのような否定形でしか語れない出来事、伝えられない世界に彼がいつも向き合っていたからであろう。

 メジャーデビュー作『フジファブリック』には、言葉で伝えることの困難をめぐる歌が幾つかある。

  ならば愛を込めて 手紙をしたためよう
  作り話に花を咲かせ 僕は読み返しては感動している!   (『桜の季節』)

 「愛」を込めて、大切な人に向けてしたためられる「手紙」。しかし、「僕」は「作り話」を読み返して「感動している」だけである。結局、その手紙が投函されることはない。「僕」は本当に伝えるべき言葉、真実の話をまだ書くことができないのかもしれない。
 それにしても、宛先に届くことのない手紙とは、なんと志村正彦らしいモチーフだろう!

  もしも 過ぎ去りしあなたに 全て 伝えられるのならば
  それは 叶えられないとしても 心の中 準備をしていた

  期待外れな程 感傷的にはなりきれず
  目を閉じるたびにあの日の言葉が消えてゆく        (『赤黄色の金木犀』)

 「過ぎ去りしあなた」に「伝えられるのならば」という仮定形でしか語られることのない言葉。伝えることは「叶えられない」としても、その言葉を「心の中」で備えている「僕」。心の中の言葉も「あの日の言葉」も時の流れと共に消えていく。「赤黄色の金木犀」の香る季節に「無駄に胸が騒いでしまう」のは、そのような言葉の消失に対する痛切な想いがあるからだろう。

  話し疲れたあなたは眠りの森へ行く
    
      夜汽車が峠を越える頃 そっと
    静かにあなたに本当の事を言おう                 (『夜汽車』)

 夜汽車の音や揺れ、そのゆったりとしたリズムと共に「話し疲れたあなた」は「眠りの森へ行く」。その眠りの間に「そっと静かに」言おうとする「本当の事」。だから、その言葉は決して「あなた」には届かない。「僕」は「あなた」にではなく、自分自身に向けて「本当の事」を言おうとしているかのようだ。

 一つひとつの歌ごとに具体的な文脈は異なるが、共通するのは、言葉で伝えることそのもの、あるいはその困難という壁の前で佇立する「僕」の姿である。志村正彦はそのような「僕」を繰り返し歌ってきた。
 伝えられることなく差出人の元に留まる手紙の言葉、伝えられるのならばという仮定のもとに留まる言葉、現実としては伝えられることのない状況に留まる言葉。言葉は結局、伝えられることなく、「僕」のもとに留まる。そのような自分自身の中に留まる言葉を、志村正彦は誠実に丁寧に聴き取り、歌にして表現してきた。

 日本の歌の歴史の中で、志村正彦を希有な表現者、極めて優れた詩人にしているのは、言葉に対するこのような独特の位置にある。

 先のインタビューで、彼は『若者のすべて』について「この曲聴くたびに自分に向けて作った曲だなって思って」と述べているが、彼が「自分に向けて作った曲」は確実に私たち聴き手に届いている。「自分に向けて作った曲」が自分を越えて他者に届く。言葉が伝わる。それは不思議なことでもある。

 それでも、聴き手は一人ひとり自問してみるのがよいかもしれない。『若者のすべて』の言葉が本当はどこに届こうとしているのか。志村正彦の言葉を読むことの意味は、そのような問いかけに対して、聴き手自らが応答することの中にあるのだから。

2013年9月15日日曜日

「僕ら」と「二人」-『若者のすべて』8 (志村正彦LN 49)

 前回のLN48では、「僕ら」についての読みをかなり遠くの地平にまで広げてしまった。宙に飛んでしまったような感じもあったので、今回は、『志村正彦全詩集』というテキストにしっかりと着地して、志村正彦の歌詞全体の中で、「僕ら」という言葉を検証してみたい。

 『志村正彦全詩集』を最初から最後まで読んでいくと、インディーズ時代からメジャー2枚目までの4枚のアルバム、『アラカルト』『アラモード』『フジファブリック』『FAB FOX』では、「僕」と「君」との恋愛の関係性を示す言葉としては、「二人」だけが使われているということに気づく。
 この4枚のアルバムには、「僕ら」という言葉は全く出てこない。「僕ら」が登場するのは、『若者のすべて』所収の『TEENAGER』が初めてであり、しかも全13曲中の5曲で使われている。志村は言葉の選択には非常に時間をかけていたので、この使い分けはかなり意識的なものであっと推測される。彼は「二人」と「僕ら」をどのように使い分けていたのだろうか。

 志村の使う「二人」は、通常の日本語の歌の用例と同様に、恋愛関係にある「二人」という意味合いだと考えてよい。その関係が歌の中の現実であっても想像であっても、「二人」には、歌の主体「僕」と「君」あるいは「貴方」との恋愛の物語が設定されている。具体的に「二人」の用例をあげてみる。

  「偶然街で出会う二人 戸惑いながら」            (『桜並木、二つの傘』)

  「妄想が更に膨らんで 二人でちょっと 公園に行ってみたんです」(『花屋の娘』)

  「波音が際立てた 揺れる二人の 後ろ姿を」        (『NAGISAにて』)

  「黙った二人 喫茶店の隅っこ」                  (『追ってけ 追ってけ』)

  「真夜中 二時過ぎ 二人は街を逃げ出した」        (『銀河』)

  「いつかはきっと二人 歳とってしまうものかもしれない」  (『唇のソレ』)

 『桜並木、二つの傘』では、「桜並木」ときれいな「コントラスト」をなす「二人」の情景を浮かび上がらせている。歌詞の一節に「苛立つ僕」と「二人の沈黙」というコントラストもあるように、歌の主体「僕」と「二人」との間にはある微妙な距離がある。「二人」という言葉で、「僕」が恋愛関係にある男女を対象化する時には、その「二人」は「僕」から離れた、「僕」の外部にあるもの、幾分か風景に近いものとして表現されている。

 『花屋の娘』や『NAGISAにて』にはその特徴がさらによく現れている。『花屋の娘』では、「僕」は電車の窓から見た「花屋の娘さん」に対して、「妄想が更に膨らんで 二人でちょっと 公園に行ってみたんです」とあるように、「僕」の妄想の対象として、「二人」は僕の外部にある想像のスクリーンに描かれている。『NAGISAにて』の「貴方」と歌の主体との間にも現実の交流はなく、主体の風景の中で「揺れる二人の 後ろ姿」が描かれている。

 「僕ら」はどのように表現されているのか。『TEENAGER』中の5曲にある用例を引用してみる。

  「記念の写真 撮って 僕らはさよなら」             (『記念写真』)

  「そこだ 見事なタイミング 僕らなんかみだら」        (『B.O.I.P.』)

  「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」         (『若者のすべて』)

  「わがままな僕らは期待を たいしたことも知らずに」      (『まばたき』)

  「僕らはいつも満たされたい」                    (『TEENAGER』)  
 

 『TEENAGER』には、かなりゆるやかなものではあるが、「十代の若者」を主題とするコンセプトがあるだろう。このことと「僕ら」という一人称代名詞の複数形が登場したことには内的な関連性があるように感じられる。
 なお、『TEENAGER』所収の『パッション・フルーツ』には、「まぶしく光る町灯り 照らされて浮かぶ二人」という一節がある。「夢の中」にいるような「僕」と「ゆうべの君」の「パッション」は、「町灯り」に「照らされて浮かぶ二人」という風景と、あるコントラストをなしている。『アラカルト』から『FAB FOX』までの4枚のアルバムでの用例と似た表現の特徴を持っている。

 前回述べたように、志村正彦が表現する「僕ら」には、男女に限定されない、恋愛より広い関係性、世代的な共同性が込められている。このことと矛盾するようではあるが、恋愛関係が想定される場合、「二人」よりも強い結びつき、同じ記憶や経験を共有している絆の感覚が「僕ら」には込められているようにも感じられる。
 「二人」は、「僕」の外部に風景のように「見る」対象とも言える三人称的な客体的なものであるが、「僕ら」は、「僕」と「僕」から構成されている一人称的な主体的なものである。「僕らはいつも満たされたい」(『TEENAGER』)とあるように、「僕ら」は欲望の主体でもあり、その実現のために何かを試みる。静的な「二人」に対して、「僕ら」は動的であろうとする。

 『志村正彦全詩集』の中で、「僕ら」という用例を「二人」と比較する作業を通じて、「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」という最後の一節をもう一度読み込んでいくのも、読むことの可能性を拡げていくに違いない。  

2013年9月8日日曜日

「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」-『若者のすべて』7 (志村正彦LN 48)

 「最後の花火」の系列の最後は、「最後の」「最後の」というように、「花火」を修飾する「最後」が二つ重ねられ、「僕ら」という一人称複数の代名詞が使われることで、フィナーレを迎える。

  最後の最後の花火が終わったら
  僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ

 「最後の最後の花火が終わったら」とは、「最後の花火」の最後(の花火)が終了する時点と捉えてよいのだろうが、「最後」「最後」「終わる」という言葉のたたみかけは、何かの終わりを強調しているかのようだ。花火をみている現在時から、時間の長短に関係なく、未来の終了時を仮定している。その未来の時点で「僕らは変わる」ということがある「かな」という問いを、現在時の「僕」が未来の「僕」と「僕ら」に投げかけているのだ。

 「僕ら」という主語は「変わるかな」という述語で締めくくられている。「変わる」とあるが、どのような「僕ら」からどのような「僕ら」へ変わるのかという事柄は、当然のように描かれることがない。「僕ら」が「変わる」というのは、「僕ら」の関係性そのものが変わるのか、あるいは「僕ら」の個々が変わるのか。前者の可能性が高いのだろうが、後者も完全には排除できない。両者ということも考えられる。「変わる」方向を定めるのは難しい。「僕ら」というゆるやかな関係性は築かれているのだろうが、その関係の内実や個別性が明らかではないからだ。

 「同じ空を見上げているよ」というのも、「僕ら」の関係のあり方を考察する上で興味深い。花火の場面では通常、人は隣り合わせで横に座り、前方上方の花火を見るという位置取りが考えられる。美しい花火の彩りに時に感嘆をあげ、光が消えて煙や空が広がり、次の花火が打ち上がるまでの 間合いには、とりとめのない、たわいない会話をする。その場に一緒にいるという雰囲気を楽しむ。花火の空を見上げるという行為自体が、夏の「余白」のような時の過ごし方である。

 そして、「僕ら」が「同じ空を見上げている」のであれば、「僕ら」の眼差しは向き合っていないことになる。同じ位置で同じ空の方向に視線を向けている。時には互いに視線を交わすことがあるとしても。例えば、テーブルに二人が腰掛けるときに、向かい合うかそれとも横に座るかという選択がある。二人の視線が互いを見つめあように座るのかそうでないのかということは、二人のその時の関係性にもよる。

 「僕ら」とは誰なのか。

 『若者のすべて』の物語の鍵となる問いだ。「最後の花火」系列では、「会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ」と「まいったな まいったな 話すことに迷うな」という二つの対比的なモチーフが要となっている。「まぶた」を閉じた「僕」は「まぶた」の裏の幻の相手に対し「会ったら言えるかな」と、「まぶた」を開けた「僕」はその眼差しの向こうの現実の相手に対し「話すことに迷うな」と、心の中で語り出す。

 「僕ら」という一人称代名詞複数形によって指示されるのは、歌の主体「僕」と、「僕」の眼差しの対象である相手との二人であろう。「僕」の強い欲望の対象となっている相手であるから、恋愛の対象とみるのも自然だ。「僕」にとってその相手は、恋愛の関係である、あった、あるだろう、あるいはありたい、という枠組みで括られると読むのが普通なのだろう。しかし、恋愛の物語としての『若者のすべて』というのは動かしがたい解釈なのだろうか。

 「恋愛」という関係性は、その本質からして閉じられていくものだが、「僕らは変わるかな」という問い、「同じ空を見上げているよ」という眼差しからは、閉じられていくというよりも、開かれているような、そして、おだやかに変化しつつある関係性のようなものが伝わってくる。微妙ではあるが、その実質には「友愛」のような関係性も入り込んでいるように、私には感じられる。

 この場合の「友愛」とは、「愛」と呼ばれる関係からエロス的なものを排除したものであり、友人、仲間、同じ世代や同じ志を抱く共同体にゆるやかに広がっていく。そのような関係に基づく「僕ら」は、『若者のすべて』が収録されている『TEENAGER』のコンセプトにもつながるような気がする。十代の若者たち、今その世代に属する者も、かってその世代に属していた者も、これからその世代に属することになる者にとっても、「僕らは変わるかな」という問いはリアルなものであり続けるだろう。

 「僕ら」についてさらに異なる捉え方もある。「僕ら」が二人の「僕」自身で構成されていると考えるのはどうだろうか。「最後の最後の花火」の場面で、「僕」の幻の中で、「僕」はもう一人の「僕」に遭遇する。「僕」が二つの分身として、「過去の僕」と「現在の僕」、あるいは「現実の僕」と「仮想の僕」というように「僕ら」を形成する。「過去の僕」と「現在の僕」が、「現実の僕」と「仮想の僕」が、「僕らは変わるかな」と対話を試みる。『若者のすべて』の歌そのものからはかなり離れてしまうが、そのような解釈はやはりありえないものであろうか。

 そのような解釈の延長線上に、「僕」と「僕ら」という一人称代名詞が指し示す対象を作者志村正彦自身にしてみると、どのような光景が描かれるだろうか。今回、この歌を繰り返し聴く中で、そのような想像が膨らんできた。
 それは、「過去の志村正彦」と「現在の志村正彦」、あるいは「十代の志村正彦、Teenagerの志村正彦」と「二十代の志村正彦」が、「僕ら」の二人の分身となって、「僕らは変わるかな」と語りあう光景だ。

 歌という虚構によってもたらされる非現実的な光景だが、そのような光景を想像する自由も、歌の聴き手にはあるのではないだろうか。「解釈」としては成立しないが、「歌を生きる」行為としてはあり得る。歌そのものからは遠ざかっていくようで、最も遠い地点から反転して、再び、歌の近くに戻ってくる。

 歌との対話は終わりなく続く。「僕ら」は誰なのか。どう「変わる」のか。その問いかけが『若者のすべて』の解釈へと人を誘い、この歌の力の源泉となっている。

2013年9月4日水曜日

「お地蔵さん」 (ここはどこ?-物語を読む 4)

 髪を短く刈った家人の寝顔が何かに似ていると思っていて、ある朝はたと「お地蔵さんだ」と思い当たった。それでしばらく顔を見るたび「地蔵さん」「地蔵さん」と独りごちていた。そのせいだと思った。『フジファブリック』をかけていて急に「お地蔵さん」ということばが耳に飛び込んできたのは。

 CDを買ったときに最初から歌詞カードを見ることはあまりない。意識したことはないが、まずはその曲を先入観なしに聴きたいという気持ちがあるのだろう。そうすると、ヴォーカルが誰であっても聴き取れない歌詞というのが結構ある。何回か聴いているうちにだいぶわかるようになってくるが、それでもここはなんと言っているんだろうという部分がずっと残ることもある。不思議なもので、いったん歌詞を確認したりきちんと聞き取れたりしたら、何度聴いても確かにそう歌っていて、それ以外には聴こえようもないのに、それ以前はずっと靄がかかったようなのだ。

 『打ち上げ花火』もそんな曲の一つで、その靄の中からふいに「お地蔵さん」という志村正彦の声を拾い上げたときには、「まさかね」と思った。だって、ロックの歌詞に「お地蔵さん」? 空耳に違いない。でも、確かに聞こえる。どこぞの番組に応募しようかしらん・・・・・。
 ここでようやく歌詞カードを開いて見た。

   のっそのっそお地蔵さんの行列も打ち上げ花火を撃った!!

 確かに「お地蔵さん」とある。それどころか、お地蔵さんの行列がお月さんに向かって打ち上げ花火を撃っているではないか。私の脳内にはお地蔵さん(六体、赤い前掛けをしている)がバズーカ砲のような手持ちの筒花火を抱えて、進んでは止まり進んでは止まりしながら満月に向かって次から次へと花火を打ち上げる映像が浮かんでしまった。・・・・・・シュールだ。

 思い浮かんだのは漱石の『夢十夜』である。『夢十夜』は題名の通り十話の夢のような短い話で構成されている。うろ覚えの記憶だったが、確かめてみると「第三夜」の末尾の一文に「石地蔵」という語がある。そこからの連想だったかもしれない。多くが「こんな夢を見た」と始まるこの十の話は、しかし、どれもが現実より生々しい手触りのようなものを持っている。無意識に抑圧していた生きることにまつわる禍々しさ(それは誰の人生にも貼り付いている)を深いところからつかみだして見せられたような感じだ。だから、『夢十夜』は確かに荒唐無稽な話ではあるけれど、今私達が生きている現実と隔絶しているのではなく、地続きにある世界に思える。

 『打ち上げ花火』が描き出す世界もそれに近いように思う。ある日、「夜霧の向こう側」に突然立ち現れてくる世界。それは突然出現したのか、もともとあったのに気づかずにいたのか、それさえわからないが、不気味で近寄りがたいのに、なぜだか抗いがたく近づいてしまう。そこに実際に何があるかが問題なのではなく、何かわからないものに引き寄せられてしまうことのほうが重要なのかもしれない。曲調もおどろおどろしいというか、「今から何か(たぶんショッキングなこと)が起こるぞ」という雰囲気満載で始まり、いきなり急かされるようにテンポアップする。そこで見たものが、何者か(鼻垂らし小僧なのか?)とお地蔵さんたちがお月さんに向かって花火を打ち上げる光景なのである。
 

   しかし、この光景をどう解釈するかは人それぞれだろう。とても不気味で暴力的なものを感じる人もいるだろうし、子供を護るお地蔵さんなだけにむしろどこかユーモラスなものを感じる人もいるかもしれない。私はそのままだと怖い夢を見そうなので、脳内のお地蔵さんたちのサイズを10センチくらいに縮小してみた。すると花火の打ち上げが小さなお地蔵さんたちの密かな祝祭のようになって、心が少し穏やかになった。

追記
  曲の雰囲気にすっかりだまされていたけど、考えてみたら「鼻垂らし小僧」はちっとも怖くない!!