2026年3月23日月曜日

フィリップ・ドゥクフレの演出-『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』舞台と小説9

 これまで八回にわたって、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の舞台と小説について書いてきた。今回はその最後として舞台の演出について述べたい。

 演出家のフィリップ・ドゥクフレはインタビューでこう語っている。(フィリップ・ドゥクフレが描く村上春樹の世界〜『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』舞台化に挑む〜2025.09.01)

――この作品は、“世界の終り”と“ハードボイルド・ワンダーランド”という異なる二つの世界を行き来しながら物語が進んでいきます。村上作品の中でも独特なスタイルですね。この複雑で長大な物語をどのように舞台化されますか?

偉大な作家の小説です。ファンタジーであり、様々な次元や夢が交錯し、登場人物も非常に象徴的です。世界観を決めつけず、観客がそれぞれ自由に空想できる余地を残したいと考えています。

――原作が持つ物語の力と、ドゥクフレさんのイメージの力がどう融合するか楽しみですね。

演劇ともダンスとも言い切れない、そしてそのどれでもある、ハイブリッドな舞台になるでしょう。演劇的な側面とダンスの側面が融合し、視覚的にも非常にインパクトのあるものになると思います。そういった点に、今とても興味を惹かれています。

 ――この長大な作品のどの部分を取捨選択していくかも悩ましいところですね。

脚本家の高橋亜子さんと互いに大切に思うシーンを持ち寄ってミーティングを重ね、脚本が上がってくるのを楽しみに待っているところです。キャストとスタッフ合わせて約50人、その後ろにはさらに何倍もの人々が支えてくれていて、心強いです。


  ドゥクフレは、脚本家高橋亜子と大切なシーンを互いに持ち寄って物語を構成し、演劇的な側面とダンスの側面が融合したハイブリッドな舞台を作り、観客がそれぞれ自由に空想できる作品を志した。そもそも、この複雑な小説を舞台化すること自体がほとんど困難な試みであるのだから、今回の舞台は基本としては成功したと言えよう。

 小説のアダプテーション作品、原作を映画化したり舞台化したりする作品は、原作とは独立した作品として享受するというのが筆者の考えである。もちろん、原作とアダプテーション作品を比べるのは自由だが、原作と異なることを論ってもあまり意味がないだろう。アダプテーションは多様であってよい。今回の舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』もそのなかの一つの試みである。


 YouTubeにワークショップの映像がある。制作段階の短い記録である。 

ワークショップ映像 ~創作の現場より~ / 舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』




 演出上で素晴らしかった点を挙げたい。まず冒頭の〈一角獣〉のダンス、〈僕〉と〈影〉との分離、〈影〉の踊りなどのダンスは非常に効果的な演出となっていた。奇妙で不可思議な物語の導入にふさわしかった。ときどき、雨が降り注ぐ光景など、美しいが暗い雰囲気もある陰影に富んだ光景がプロジェクションマッピングの映像として舞台の背後に投影されていた。〈一角獣〉の金色のコスチューム、〈一角獣〉の多数の頭骨の動きとそれを照らし出す照明も工夫されていた。ドゥクフレが追求した演劇とダンスの融合によるハイブリッドな演出は斬新であり、堪能することができた。また、音楽は阿部海太郎が担当し、権頭真由が舞台の左の袖でキーボードを生演奏したことも効果的だった。さらに原作にはない音楽も流されていた。

 その反面の気になった点も少し触れておきたい。まずキャスティングだが、「ハード」パートの〈私〉は藤原竜也、「世界」パートの〈僕〉は駒木根葵汰/島村龍乃介のダブルキャストであるのに対して、二つのパートの〈君〉(少女と女性司書)を演じるのは森田望智であるという非対称性が挙げられる。また、舞台のセッティングに関しては、〈壁〉を薄くて柔らかい幕で築いていたが、〈街〉を取り囲む強固な意志を持った〈壁〉には見えないという難点があった。

 この舞台のチケットの入手が遅くなってしまったので追加Sの補助席しか取れなかった。最も左側だが前から三列目であった。そのおかげで舞台の左側で演じることが多かった藤原竜也の演技をかなり間近で見ることができた。2000年、彩の国さいたま芸術劇場で蜷川幸雄演出の三島由紀夫『近代能楽集』の「弱法師」を見たことがあった。あの時は18歳、今は44歳。すでに中年に達しているが、少年や青年のような面立ちがまだ残っている。彼にはなんだか年齢を超越したようなところがある。この舞台ではユーモラスな面も見せながら次第にシリアスな役柄を演じきっていた。


 この連載の第一回目に書いたとおり、筆者にとって1985年の小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、村上春樹の作品との決定的な出会いとなった。それから40年が経った2025年に舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を鑑賞できた。時や場を超えてこの作品は生き続けている。


 最近、「ニューヨーク・タイムズ」に〈村上春樹が米紙に語る「病からの復活」と「小説を書くということ」〉という記事が掲載された。2025年12月、ニューヨークでのインタビューで村上はこう語っている。

「小説を書くときは、いつも別の世界へと入っていきます。潜在意識と呼んでもいいかもしれませんね。そこでは何が起こっても不思議じゃない。僕はそこでたくさんのものを見て、現実の世界に戻ってきてから、それを書き留めるんです」

「僕は自分を芸術家だとは思っていません。いたって普通の人間です。天才でもなければ、それほど頭がいいわけでもない。でも、僕にはそれができる。別の世界へと降りていくことが」

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の話者兼主人公の〈僕〉と〈私〉は、意識と無意識をつなげ、現実と壁のある街を行き来した。作者もまた〈僕〉〈私〉と同じように二つの異なる世界を横断して小説を書いている。村上春樹は〈僕〉であり〈私〉であるのだろう。

2026年3月22日日曜日

ボブ・ディラン「激しい雨」-『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』舞台と小説8

  前回書いたように、「ハードボイルド・ワンダーランド」パートのラストシーンで、〈私〉はボブ・ディランの「激しい雨」を聴きながら自らの無意識の核にある〈世界の終わり〉へと旅立っていく。

 ここでYouTubeにある「激しい雨」のOfficial Audioを聴いてみたい。1962年の録音、1963年のリリース。

 Bob Dylan - A Hard Rain's A-Gonna Fall (Official Audio)


 YouTubeには「激しい雨」の1975年のライブ映像もあった。

 Bob Dylan "Hard Rain" LIVE performance [Full Song] 1975 | Netflix


 この歌詞は五つのブロックから成り、各々、二つの節の問いかけ、それに対する数節から十数節の答え、タイトルフレーズの二つの節で構成される。この歌詞の五番を引用したい。最も長いブロックであり、問いに対する答えは十二節に及ぶ。

Oh, what’ll you do now, my blue-eyed son?
Oh, what’ll you do now, my darling young one?
I’m a-goin’ back out ’fore the rain starts a-fallin’
I’ll walk to the depths of the deepest black forest
Where the people are many and their hands are all empty
Where the pellets of poison are flooding their waters
Where the home in the valley meets the damp dirty prison
Where the executioner’s face is always well hidden
Where hunger is ugly, where souls are forgotten
Where black is the color, where none is the number
And I’ll tell it and think it and speak it and breathe it
And reflect it from the mountain so all souls can see it
Then I’ll stand on the ocean until I start sinkin’
But I’ll know my song well before I start singin’
And it’s a hard, it’s a hard, it’s a hard, it’s a hard
It’s a hard rain’s a-gonna fall

 GoogleのGeminiによる日本語訳を添付する。

ああ、これからどうするんだ、私の青い目の息子よ
ああ、これからどうするんだ、私のかわいい若者よ
雨が降り出す前に、私はまた外へ出て行こう
最も深い、黒い森の奥底まで歩いて行こう
大勢の人がいて、その誰もが手に何も持っていない場所へ
毒の粒が、人々の飲み水に溢れている場所へ
谷間の家が、湿り気のある汚れた牢獄と隣り合わせの場所へ
死刑執行人の顔が、いつも巧みに隠されている場所へ
飢えが醜く、魂が忘れ去られた場所へ
黒が唯一の色で、ゼロが唯一の数字である場所へ
そして私はそれを語り、考え、口にし、呼吸しよう
山からそれを反射させ、すべての魂に見えるようにしよう
それから、沈み始めるまで海の上に立ち続けよう
だが、歌い始める前に、自分の歌をよく噛み締めておこう
そして、激しい、激しい、激しい、激しい
激しい雨が、降るだろう


 〈私〉は黒い森の奥底まで歩いて行く。〈私〉は語り、考え、口にし、呼吸する。すべての魂に見えるようにする。海の上に立ち続けようとする。そして、〈激しい雨〉が降る。

 ディランはあるインタビューで〈激しい雨〉は〈ただの激しい雨〉であり、〈どうしても起こらなければならない何らかの終わり〉を意味していると述べている。


 前回に引き続き、小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の39節、「ハードボイルド・ワンダーランド」パートのラストシーンを引用したい。〈私〉は海の見える港の倉庫に車を駐めてボブ・ディランのテープを聴く。雨のことを考えながら最後の時を迎える。

 私はこれで私の失ったものをとり戻すことができるのだ、と思った。それは一度失われたにせよ、決して損なわれてはいないのだ。私は目を開じて、その深い眠りに身をまかせた。ボブ・ディランは『激しい雨』を唄いつづけていた。

 ここにはディランが「激しい雨」にこめた〈どうしても起こらなければならない何らかの終わり〉に相当する〈世界の終わり〉がある。舞台にはこのシーン自体はなかったのだが、雨が激しく降り地下水が激しく流れるという水の光景をプロジェクションマッピングで背景に映し出していた。また、「世界の終り」パートでは最終的に〈僕〉と〈君〉が〈心〉を持つ人間が住む〈森〉へと進んでいくことが示唆されている。

 〈雨〉と〈森〉というモチーフによって、ボブ・ディランの「激しい雨」と村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』はつながっているだろう。

   ( この項続く

2026年3月21日土曜日

〈私〉と〈僕〉-『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』舞台と小説7

 今回は舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に戻り、そのラストシーンについて考えたい。

 YouTubeの公式チャンネルに〈舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』Official Trailer 【舞台映像Ver.】〉がある。 



 映像の最初にあるのは舞台の最後のシーンである。

 藤原竜也が演じる計算士の〈私〉、「ハードボイルド・ワンダーランド」パートの主人公が呟く。

 ここは世界の終わり 何もかもがあり 何もかもがない

 小説と舞台のラストシーンは異なる。(これについては後の回で触れたい)

 そもそも〈私〉自身が〈世界の終わり〉という事態を認識しているわけではない。〈世界の終わり〉は〈私〉の無意識の核にあるから、意識に上ることはない。25節で、無意識の世界で情報の暗号化を行う〈シャフリング〉のシステムを開発した〈博士〉は〈私〉にこう説明する。

「正確に言うと、今あるこの世界が終るわけではないです。世界は人の心の中で終るのです」
「わかりませんね」と私は言った。
「要するにそれがあんたの意識の核なのです。あんたの意識が描いておるものは世界の終りなのです。どうしてあんたがそんなものを意識の底に秘めておったのかはしらん。しかしとにかく、そうなのです。あんたの意識の中では世界は終っておる。逆に言えばあんたの意識は世界の終りの中に生きておるのです。その世界には今のこの世界に存在しておるはずのものがあらかた欠落しております。そこには時間もなければ空間の広がりもなく生も死もなく、正確な意味での価値観や自我もありません。そこでは獣たちが人々の自我をコントロールするのです」

 〈私〉には現実世界から消えていく運命が待っていた。〈博士〉はさらにこう言う。

しかしあんたはその世界で、あんたがここで失ったものをとりもどすことができるでしょう。あんたの失ったものや、失いつつあるものを

 27節になると、〈博士〉は〈私〉に〈世界の終わり〉についてこう告げる。

それは安らかな世界です。あんた自身が作りだしたあんた自身の世界です。あんたはそこであんた自身になることができます。そこには何もかもがあり、同時に何もかもがない。

 つまり、〈博士〉の〈そこには何もかもがあり、同時に何もかもがない〉という言葉を、舞台の最後のシーンで〈私〉が語ることになる。〈私〉は〈博士〉という他者の言葉によって〈私〉の〈世界の終わり〉を認識することができた。


 小説では39節の「ハードボイルド・ワンダーランド」パートと40節の「世界の終り」パートの二つの終わり方がある。

 39節の「ハード」パートのラストシーン。〈私〉は海の見える港の倉庫に車を駐めてボブ・ディランのテープを聴く。雨ふりのことを考えながら最後の時を迎える。

 やがてその雨はぼんやりとした色の不透明なカーテンとなって私の意識を覆った。
 眠りがやってきたのだ。
 私はこれで私の失ったものをとり戻すことができるのだ、と思った。それは一度失われたにせよ、決して損なわれてはいないのだ。私は目を開じて、その深い眠りに身をまかせた。ボブ・ディランは『激しい雨』を唄いつづけていた。

〈私〉は雨が降る中で深い眠りに落ちていく。それは死ではない。〈世界の終わり〉への転位である。〈世界の終わり〉には何もかもがあり、何もかもがない。しかしともかくも、そこでは〈私〉と〈僕〉は自分が失ったものを取り戻すことができる。

  40節の「世界」パートのラストシーン。〈影〉は現実へと帰って行った。〈僕〉は街に残った。〈僕〉はこう考える。

影を失ってしまうと、自分が宇宙の辺土に一人で残されたように感じられた。僕はもうどこにも行けず、どこにも戻れなかった。そこは世界の終りで、世界の終りはどこにも通じてはいないのだ。そこで世界は終息し、静かにとどまっているのだ。

 〈僕〉はもうどこにも戻れない。 〈世界の終り〉はどこにも通じてはいない。〈僕〉が戻るのは〈君〉〈彼女〉がいる場所だ。

 僕はたまりに背を向けて、雪の中を西の丘に向けて歩きはじめた。西の丘の向う側には街があり、川が流れ、図書館の中では彼女と手風琴が僕を待っているはずだった。
 降りしきる雪の中を一羽の白い鳥が南に向けて飛んでいくのが見えた。鳥は壁を越え、雪に包まれた南の空に呑みこまれていった。そのあとには僕が踏む雪の軋みだけが残った。


 小説の構造としては、「ハードボイルド・ワンダーランド」パートの〈私〉が「世界の終わり」パートの〈僕〉へと転位していく。転位というよりも、この二人、分身関係にある〈私〉と〈僕〉が統合すると考えた方がよい。「ハード」パートと「世界」パートの最終的な統合である。その結合は読者の読む行為によって成立する。

 この舞台でもその方向で演出されていた。藤原竜也は〈私〉であり同時に〈僕〉であった。藤原竜也の〈ここは世界の終わり 何もかもがあり 何もかもがない〉という声によって、観客は〈舞台の終わり〉を迎えることになった。

 〈僕〉〈私〉は、〈何もかもがあり 何もかもがない〉〈世界の終わり〉の街で、〈手風琴〉で音楽を奏で、〈一角獣〉の〈頭骨〉の夢を読み解き、〈君〉〈彼女〉の〈心〉を取り戻そうとする。二人はやがて〈森〉へと向かうかもしれない。そのようにして〈僕〉〈私〉は失ったものを回復していく。

       (この項続く)


2026年3月20日金曜日

「若者のすべて」のサビ [志村正彦LN379]

 一昨日、3月18日、テレビ朝日〈『EIGHT-JAM』3時間SP 名だたる“音楽のプロ”が集合した『最強のサビ歌唱BEST100』〉が放送された。有名アーティストやプロデューサーなど音楽のプロ51人が、2000年以前と以後の2ブロックに分けて「サビ」の歌唱が凄い名曲を選んで、各ブロックの「総合ランキング・ベスト50」を発表するもの。

 SUPER EIGHTとスタジオゲストのLISA、秦基博、北村匠海(DISH//)、HANAのCHIKA・NAOKO・JISOO、川田裕美、高橋茂雄(サバンナ)が出演し、選者はMANATO(BE:FIRST)、OMI(三代目 J SOUL BROTHERS)、片寄涼太&数原龍友(GENERATIONS)、小渕健太郎(コブクロ)、藤井怜央(Omoinotake)、HIDE(GRe4N BOYZ)、石崎ひゅーい、矢井田瞳、新妻聖子などだった。


 志村正彦・フジファブリックの作品が選ばれるのかどうか。そのことが気になって番組を見た。結果は2000年以後のブロックで「若者のすべて」が46位に選ばれた。

 テロップには〈夏の終わりの空気感をそのまま歌にしたような声〉(Michael Kaneko)、〈押さえた歌唱からサビで一気に情景を聴かせる名曲〉(生活の設計 大塚真太朗)と説明され、〈伝説的ロックバンドの名曲〉と紹介されて、〈「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて/最後の花火に今年もなったな/何年経っても思い出してしまうな/ないかな ないよな きっとね いないよな〉の部分がミュージックビデオで志村正彦が歌う映像が放送された。左上にインサートされた映像にはスタジオで何人もがこの歌を口ずさんでいた。46位というランキングには大いに不満が残るが、それでもこの曲が地上波で流されたことを喜びたい。新たなファンを獲得する可能性があるからだ。

 この種の名曲ランキングでは季節や風物別(夏の裏、桜の歌など)、10年の年代別の分け方がよくあるが、この番組では2000年以前と以後という二つのブロックに分けていたことが新鮮だった。確かに、1970年代の初頭から2000年までの二十数年間と2000年から現在までの二十数年間というように、この半世紀の日本語ロックやJポップは2000年を境界にして二つの時代に分けられるかもしれない。

 これは筆者の年齢や世代によるところが大きいのだろうが、2000年以前の方がサビを含めて名曲が多い気がしてしまう。少なくとも音楽の勢いや影響力、CD等の売り上げが2000年あたりを境に下降してきたのは間違いないだろう。

  このような区分けをもとに2000年以降の日本語ロックの中で、志村正彦・フジファブリックは特にその歌詞において最も高度な達成をしたと言える。そして、歌を重視する後続の歌い手やバンドに大きな影響を与えている(このような証言はいくつもある)。


 久しぶりにこのブログで「若者のすべて」のMVを添付したい。現時点で6879万回の視聴となっている。驚くべき回数である。あわせて1番のサビも引用する。

  フジファブリック (Fujifabric) - 若者のすべて(Wakamono No Subete)



  最後の花火に今年もなったな
  何年経っても思い出してしまうな
  ないかな ないよな きっとね いないよな
  会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ


 「若者のすべて」のサビは、〈最後の花火〉の空間と眼差し、〈今年〉〈何年〉という時の流れ、〈思い出してしまう〉回想と内省、〈ないかな ないよな きっとね いないよな〉の〈な〉音の反復、再会への期待や躊躇、〈まぶた〉の開閉と想起という一連の言葉の連鎖が、おだやかで美しい旋律と和声、静かな落ち着いた律動を伴って、志村正彦のやわらかでやさしい声によって歌われる。このミュージックビデオにも抑制された端正な映像が続く。

 だが、このような記述をしてもこの歌の魅力を語ることは難しい。この歌は聴く者をどこか遠くの彼方に、忘れてしまったような光景に、連れ去っていく。そして聴く者は分からないままに無意識のままに、何時の間にかその遠くの彼方の忘れてしまった光景にたどりつくのかもしれない。


 以前も書いたことがあるが、実は、「若者のすべて」は〈最終段階までサビから始まる形になっていた構成を志村の意向で変更したもの〉である。書籍『FAB BOOK』(角川マガジンズ2010年)にそう記されている。

 志村はその理由を「この曲には”物語”が必要だと思った」としてこう語っている。

ちゃんと筋道を立てないと感動しないなって気づいたんですよね。いきなりサビにいってしまうことにセンチメンタルはないんです。僕はセンチメンタルになりたくて、この曲を作ったんですから。 (『FAB BOOK』)

 志村は雑誌「Talking Rock!」では次のように語っている。

最初は曲の構成が、サビ始まりだったんです。サビから始まってA→B→サビみたいな感じで、それがなんか、不自然だなあと思って。例えば、どんな物語にしてもそう、男女がいきなり“好きだー!”と言って始まるわけではなく、何かきっかけがあるから、物語が始まるわけで、〔…〕いきなりサビでドラマチックに始まるのが、リアルじゃなくてピンと来なかったんですよ。だからボツにしていたんだけど、しばらくして曲を見直したときに、サビをきちんとサビの位置に置いてA→B→サビで組んでみると、実はこれが非常にいいと。 (「Talking Rock!」2008年2月号、文・吉川尚宏氏)

 志村は曲の構成を当初の〈サビ→Aメロ→Bメロ→サビ〉から〈Aメロ→Bメロ→サビ〉に変えた。〈筋道〉を立て〈感動〉に至る〈センチメンタル〉を追求するために、歌詞と楽曲を練り上げて、この歌の叙情の純度を高めていった。


 この原稿を書こうとした時に気づいたのだが、今回がこのブログの「志村正彦ライナーノーツ」のうちの「若者のすべて」に関する100回目のエッセイになる。

 第1回目は2013年3月7日の〈冬の季節の『若者のすべて』〉。前年12月の富士吉田の「夕方5時のチャイム」の数日前に、〈『若者のすべて』が冬の歌のように感じられた。詩の中の「最後の花火」は「冬の花火」かもしれないという、ありえない想像にとらわれた。冬の花火には、たとえようのない寂しさや儚さもあるのだが、夏の花火にはない、清澄であるがゆえの静けさと透明感、外気の冷たさゆえの光の和やかさや温かさがある〉と感じたことを書き、この歌の語りの枠組についても触れていった。このエッセイがすべての出発点だった。

 それから13年が過ぎたが、「若者のすべて」の歌詞の構造やモチーフを中心軸に、たくさん生まれたカバー曲やライブでの演奏、映像作品やCM、富士吉田のイベント、高校教科書への掲載など、様々な観点を織り交ぜて書き続けてきた。「若者のすべて」のすべてに関して可能な限りこれからも書いていきたい。

 振り返ると、「若者のすべて」の知名度や評価は、13年前には想像できなかったほどに高まった。

 何よりも、この歌が人々に愛されて、人々の心の歌になったことに感慨を覚える。


2026年3月18日水曜日

『街と、その不確かな壁』の〈暗い夢〉-『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』舞台と小説6

  前回は、小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終り」パートの主体〈僕〉と〈君〉(彼女、司書の女性)との関係を追っていった。今回はその「世界の終わり」パートの原形となった1980年発表の中編小説『街と、その不確かな壁』では〈僕〉と〈君〉(彼女、司書の女性)の関係はどうであったかを振り返ってみたい。

 〈僕〉は〈君〉と再び会うために壁に囲まれた街に入り込む。〈君〉は図書館の司書になっていた。〈僕〉は図書館で夢読みの仕事に就く。

 14節の冒頭。〈僕〉は高熱で寝込み〈暗い夢〉を見る。

 その夜、高熱が僕を襲い、それは一週間ものあいだ続いた。熱は僕の体中の皮膚を水泡でおおい、僕の眠りを略い夢で充たした。夢の大半は性交の夢だった。様々な女と僕は交った。顔見知りの女も居れば、全く見知らぬ女も居た。壁の中の街では僕はあらゆる女と交ることが可能だった。

 そして〈僕〉は何度も吐く。熱と悪寒に襲われる。14節の最後で〈僕〉はこう語る。

 雨。どれほど厚い毛布も、どれほど温かなスープも僕の体を暖めてはくれない。そしてどんなに静かでやすらかな眠りも僕の心を癒してはくれない。どれだけの女と交った後で、あの暗い夢は僕の心から離れてくれるのか?

 『街と、その不確かな壁』ではこの〈暗い夢〉に焦点が当てられている。

 16節の冒頭では〈僕〉と〈君〉の転機が訪れる。

 シャッターを閉め切った僕の部屋の暗闇の中でさえ、僕たちは壁の視線を感じつづけた。 毛布の中の君の体は優しく、温かかった。僕は君のやわらかな首筋を愛し、固い乳房を愛し、なめらかな背中を愛し、そして君の全てを愛した。僕はまるで崩れやすい夢を抱くようにそっと、君と交った。そしてそんな夢の香りが僕たちをすっぽりとくるんでいた。あるいはそれが壁を苛立たせていたのかもしれない。

 僕は君を求め、そして君が僕の夢と一体になってくれることを求めた。それ以外に求めるべき何があったろう? 

 〈僕〉は〈君〉と交わり、〈夢〉の香りでくるまれる。〈君〉が〈僕〉の〈夢〉と一体となることを求めた。村上作品の性愛とその夢の原型となる場面である。

 21節から22節にかけて〈僕〉は〈古い夢〉について語る。

 僕は理解できぬままに様々な形と様々な色あいの古い夢の埃を落とし、手のひらで温め、その夢の世界を追いつづけた。そして何ヶ月かのそんな作業の末に、僕は僅かながらも彼らの波調を感じられるようになってきた。彼らは確かに何らかのメッセージを僕に向けて送りつづけているようであった。僕は日を追うごとに彼らの発する声なき叫びを耳もとに感じるようになった。まるで人知れぬ暗い牢獄に閉じ込められた魂の叫びのように、その声なき声は僕の心を揺さぶりつづけた。しかし僕にいったい何をすることができたろう? そのことばの一片をさえ理解することのできぬこの僕に?

 〈僕〉が夢読みを続けていくと、ある日、不思議なことが起きる。

 目をあけた時、部屋は不思議な光に充ちていた。それは信じがたい光景だった。部屋中の数千の古い夢が、あたかも互いに感応しあうかのようにその深い眠りから目覚め、無数の光とともに僕たちに向けてその永遠の想いを語り始めていたのだ。

  全ての〈古い夢〉は目覚めていた。その〈古い夢〉は〈僕たち〉に幻を見せた。奇妙で不気味な兵隊たちが行進していた。その幻は悪夢のようだった。〈僕〉は〈やめてくれ〉と叫ぶ。やがて、〈古い夢〉は光を失い、消えていった。すべてが終わった。

 この〈古い夢〉が消えた後の23節で〈僕〉は〈君〉と出会った当時を思い出す。

 それから何ヶ月も、僕は君のことばかり考えていたような気がするよ。〔……〕そしてそれが何ヶ月か続くうちにね、僕の想いの中で君はなんだか僕にとって生きることの象徴のようなものへと変っていったんだ。あるいは生き続けることのね。僕はそんな夢の中で暮していたんだ。夢を吸い、夢を食べ、夢と共に眠った。

 〈僕〉はこういう〈夢〉の中で生きていた。〈僕〉は〈そんな気持ってわかるかい?〉と問いかけるが、〈君〉は小さく首を振る。〈僕〉はこう考える。

 どんな夢だって、結局は暗い夢だ。もし君がそれを暗い心と呼ぶなら、それは暗い心だ。頭の中でこねあげられて金粉をまぶしたただの泥土だ。そんな夢はおそらく人を何処にも連れていきはしないのだろう。あのたまりに流れ込んだ水のように、行く先のない地下の暗い水脈を永遠に彷徨うだけのことかもしれない

 結局どのような〈夢〉も〈暗い夢〉だ、というのが〈僕〉の苦い認識である。それは〈暗い心〉にもつながる。〈暗い心〉の〈泥土〉に〈金粉〉をまぶせば〈夢〉になるが、このような〈夢〉は人を〈地下の暗い水脈〉で永遠に彷徨わせる。〈僕〉はこう考える。

僕は僕の暗い夢を、それがどんなに暗いものであっても、あそこに置き去りにして生きるわけには行かないんだ。それを切り離してしまった僕は、もう本当の僕じゃないんだ

 〈僕〉が〈暗い夢〉を置き去りにして生きる〈あそこ〉とは、この壁に囲まれた街である。そして、〈僕〉の〈影〉が〈暗い夢〉を引き受けてやがて死んでしまう。〈影〉を分離した〈僕〉は本当の〈僕〉ではないことに気づく。〈僕〉は〈君〉にこう語る。

この街で君とこうして一締に居る限り、僕には他に望むものは何もない。こんな気持になれたのは生まれて初めてだった。何の不安もないし、何のかげりもない。多分永遠にそうなのだろう。でも街の外では今も時間が流れつづけているんだ。獣たちも死ぬし、影も死ぬ。シャツについたソースのしみみたいに、僕の心からどうしてもそれが離れないんだ

 〈僕〉は自らの〈暗い夢〉つまり自分の〈影〉に向き合おうとする。もう一度〈僕〉は〈影〉と一つになろうとする。そして〈影〉と一緒にこの街を出ることを決断する。「さよなら」と〈僕〉は言い、「さよなら」と〈君〉も言い、二人は別れることになる。つまり、1980年の中編小説『街と、その不確かな壁』では、〈僕〉は〈君〉(彼女、司書の女性)と別れて、自分自身の〈影〉と一緒に現実世界へと帰還する。しかし、なぜ〈僕〉が〈君〉と別れて現実へ戻ったのか。作者の村上春樹はその理由を説明してない。この結末の判断は唐突とすら言える。

 〈僕〉は〈君〉に対して抱いた美しい〈夢〉そのものが〈悪い夢〉であったと気づいたからかもしれない。〈僕〉は自らの〈悪い夢〉の中へもう一度、いや何度も入り込まねばならない。そのためには〈僕〉は〈影〉を取り戻し、一人の〈僕〉、単独者としての〈僕〉に戻る必要がある。矛盾する言い方だが、〈僕〉は〈夢〉から〈悪い夢〉へと覚醒しなければならない。


 1985年の長編小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、〈僕〉は街に残り、〈影〉だけが現実へと戻っていく。〈僕〉は〈君〉(彼女、司書の女性)の〈心〉を取り戻すために生きていく。舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』ではこの決断が軸となる。


 このように、『街と、その不確かな壁』と『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』には深い断層がある。さらに、2023年の長編小説『街とその不確かな壁』において、1章では〈僕〉は〈君〉との共生を選んで〈街〉に残り〈影〉だけ現実へ戻るが、最後の3章では〈僕〉は〈君〉と別れて単独で現実世界に帰る。〈僕〉は結果として、喪失した〈君〉との再会と街での共生、喪失した〈君〉の再度の喪失と現実への帰還という二つの選択を経験する。〈僕〉の決断は二重化されている。


 〈僕〉の最終的な決断に関しては、1980年の中編小説『街と、その不確かな壁』と1985年の長編小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の差異を、2023年の長編小説『街とその不確かな壁』が統合したと言えよう。

    (この項続く)


2026年3月5日木曜日

『ダニー・ボーイ』の唄-『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』舞台と小説5

  小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に戻りたい。

 「世界の終り」(以下「世界」)パートの主体〈僕〉は、〈君〉〈彼女〉(司書の女性)の〈心〉を取り戻そうとする。22章「灰色の煙」で、〈君〉〈彼女〉は〈母〉の特別な〈独り言〉のことを想い出す。

「ええ、何かとても奇妙なアクセントで、言葉をのばしたり縮めたりするの。まるで風が吹いているような具合に高くなったり低くなったりして……」
 僕は彼女の手の中の頭骨を見ながら、ぼんやりとした記憶の中をもう一度まさぐってみた。今回は何かが僕の心を打った。
「唄だ」と僕は言った。

 〈母〉の特別な〈独り言〉は唄だった。この唄が母と子を結びつける重要な伏線となる。

 「世界」パート34章「頭骨」で〈僕〉は〈君〉に次のように語る。

 君の中にはたぶん心の存在に結びついている何かが残っているんだと僕は思う。でもそれが固くロックされて、外に出てこないだけなんだ。

 君の中にはお母さんの記憶を媒体として、その心の残像か断片のようなものが残っていて、それがおそらく君を揺さぶっているんだ。そしてそれを辿っていけばきっと何かに行きつけるはずだと僕は思う

 母の記憶を媒体とする心の残像か断片が〈君〉を揺さぶる。そこから〈心〉に行き着くことができると〈僕〉は考えている。その鍵となるのは音楽だ。〈僕〉は〈彼女〉を連れて、楽器があるという森の中の発電所に行く。そこには様々な種類の古い楽器があり、〈僕〉は管理人から手風琴をもらう。

 「世界」パート36章「手風琴」で、〈僕〉は〈手風琴〉を弾いてコードを探していく。

 そのとき何かがかすかに僕の心を打った。ひとつの和音がまるで何かを求めているように、ふと僕の中に残った。〔……〕
 それは唄だった。完全な唄ではないが、唄の最初の一節だった。僕はその三つのコードと十二音を何度も何度も繰りかえしてみた。それは僕がよく知っているはずの唄だった。
『ダニー・ボーイ』
 僕は目を開じて、そのつづきを弾いた。題名を思いだすと、あとのメロディーとコードは自然に僕の指先から流れでてきた。僕はその曲を何度も何度も弾いてみた。メロディーが心にしみわたり、体の隅々から固くこわばった力が抜けていくのがはっきりと感じられた。久しぶりに唄を耳にすると、僕の体がどれほど心の底でそれを求めていたかということをひしひしと感じることができた。

 僕〉が『ダニー・ボーイ』の唄を心の底で強く求めていた理由が語られることはないが、おそらく、〈僕〉と〈彼女〉との関係において記憶に残る唄だったのだろう。
 この後で〈僕〉はある覚醒へと至る。この覚醒は〈壁〉のある〈街〉の真実につながっていく。

 僕はずいぶん長いあいだその曲を繰りかえして弾いてから楽器を手から離して床に置き、壁にもたれて目を閉じた。僕は体の揺れをまだ感じることができた。ここにあるすべてのものが僕自身であるように感じられた。壁も門も獣も森も川も風穴もたまりも、すべてが僕自身なのだ。彼らはみんな僕の体の中にいた。この長い冬さえ、おそらくは僕自身なのだ。

 つまり、〈街〉にあるすべてが〈僕〉自身であることに気づいたのだ。これがこの物語の最終的な伏線となる。
 そして、〈彼女〉にも変化が訪れる。彼女が〈心〉を取り戻す一歩を踏み出す。

 僕が手風琴をはずしてしまったあとでも、彼女は目を閉じて、僕の腕を両手でじっと握りしめていた。彼女の目からは涙が流れていた。僕は彼女の肩に手を置いて、その瞳に唇をつけた。涙はあたたかく、やわらかな湿り気を彼女に与えていた。ほのかな優しい光が彼女の頼を照らし、彼女の涙を輝かせていた。しかしその光は書庫の天丼に吊された薄暗い電灯のものではなかった。もっと星の光のように白く、あたたかな光だ。
 僕は立ちあがって天丼の電灯を消した。そしてその光がどこからやってくるのかをみつけることができた。頭骨が光っているのだ。部屋はまるで昼のように明るくなっていた。〔……〕
 それは素晴しい眺めだった。あらゆるところに光が点在していた。

 音楽、『ダニー・ボーイ』のメロディーが〈僕〉を覚醒させ、〈彼女〉に〈心〉を回復させていく。この重要な場面で一角獣の頭骨が光り出す。舞台でもこのあたりの光の演出が工夫されていた。


 「世界」パート36章「手風琴」に先立つ「ハードボイルド・ワンダーランド」パート35章「爪切り、バター・ソース、鉄の花瓶」で、〈私〉は図書館司書の〈彼女〉といっしょのビング・クロスビーのレコードを聴く。その曲が『ダニー・ボーイ』だった。

 私はビング・クロスビーの唄にあわせて「ダニー・ボーイ』を唄った。
「その唄が好きなの?」
「好きだよ」と私は言った。「小学校のときハーモニカ・コンクールでこの曲を吹いて優勝して鉛筆を一ダースもらったんだ。昔はすごくハーモニカが上手くてね」
 彼女は笑った。「人生というのはなんだか不思議ね」
「不思議だ」と私は言った。
 彼女がもう一度『ダニー・ボーイ』をかけてくれたので、私ももう一度それにあわせて唄った。二度めにそれを唄うと、私はわけもなく哀しい気持になった。

 この『ダニー・ボーイ』という音楽が、「世界の終り」パートと「ハードボイルド・ワンダーランド」パートをつなぐ媒介となる。「ハードボイルド・ワンダーランド」の〈私〉が好きだった『ダニー・ボーイ』のメロディを「世界の終わり」の〈僕〉は〈手風琴〉を弾いていくうちに想い出す。小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の読者はこの地点で、〈私〉が〈僕〉であり〈私〉が〈僕〉であることに気づく。

 『ダニー・ボーイ』(Danny Boy)は、1913年にイギリスの弁護士フレデリック・ウェザリーがアイルランドの民謡「ロンドンデリー・エア」に歌詞を付けたバラードである。戦場へ息子を送り出す親の心情を語る歌、恋人への別れの歌、アメリカへ渡る移民を見送る歌などの解釈があるようだ。

 YouTube にビング・クロスビーの『ダニー・ボーイ』があった。1945年の録音である。

 Bing Crosby- Danny Boy (1945)


 たくさんの歌手にカバーされているが、エルヴィス・プレスリーの歌詞対訳付きのヴァージョンがあったので添付させていただく。

 (歌詞対訳) Danny Boy - Elvis Presley (1976)


 ビング・クロスビーの抑制のある穏やかで落ち着いた声、エルヴィス・プレスリーの情感豊かな甘やかな声、どちらのヴァージョンにも聴き入ってしまう。特に次の歌詞の部分だ。

But if ye come, when all the flowers are dying,
If I am dead, as dead I well may be.
Ye'll come and find the place where I am lying.
And kneel and say an Ave there for me.


 小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終り」パートでは、『ダニー・ボーイ』は〈君〉〈彼女〉の母の〈心〉を象徴している。そしてまた、〈君〉〈彼女〉の〈心〉を回復させていくもの、〈僕〉の記憶を想起させるものとなっている。

  (この項続く)

2026年3月2日月曜日

目覚めの曲「若者のすべて」CHILL CLASSIC CONCERT[志村正彦LN378]

  一昨日、2月28日の夕方、ヴァンフォーレ甲府と松本山雅の試合「甲信ダービー」を見て帰ってきたときに、妻がたまたまNHKの番組を見ていると「若者のすべて」の字が画面に表示されていることに気づいた。

 番組名を見ると、「所さん!事件ですよ」。「150万円の“安眠の館”にセレブが殺到!?」という特集であった。途中からだったのでNHK ONEで最初から見ることにした。

 この番組では、4人に1人が睡眠に問題を抱える不眠大国の日本で眠ることを促す様々な試みが特集されていた。そのなかの一つが「寝落ちOKのクラシックコンサート」である「CHILL CLASSIC CONCERT」だった。このコンサートでは、上質なオーケストラの音楽をリラックスして気軽に楽しむために、ハンモック、ビーズクッション、リクライニングチェアなどのくつろげる座席が用意され、眠ることもOKである。2021年に始まり、5年間でのべ6万人を動員した。チケットが入手困難な大人気イベントになっている。

 番組では収録された会のプログラムが紹介されていた。

 1 「ロビンソン」       スピッツ
 2 「G線上のアリア」     バッハ
 3 「白日」                  King Gnu
 4 「やさしさに包まれたなら」 松任谷由実
 5 「Summer」        久石譲
 6 「プラネタリウム」     大塚愛
 7 「ただ君に晴れ」         ヨルシカ
 8 「旅路」                   藤井風
 9 「たしかなこと」         小田和正
10「水平線」                 back number
11「怪獣の花唄」           Vaundy
12「115万キロのフィルム」   Official髭男dism
13「オレンジ」               SMAP
14「TSUNAMI」             サザンオールスターズ
15「若者のすべて」       フジファブリック


 編曲担当のピアニスト中山博之さんは、プログラムの中で起承転結を作りその流れの中で入眠の鍵となる曲を用意していると話していた。この日は大塚愛の「プラネタリウム」がその鍵の曲。原曲にない雰囲気を変えるコード、ノスタルジーを感じる和音を入れることがこだわりポイントだった。

 残念ながら、志村正彦作詞作曲の「若者のすべて」の映像や音源が流れることはなかったのだが、「CHILL CLASSIC CONCERT」のWEBに「2025年5月セットリスト&楽曲アレンジ秘話 公開!」という記事があり、次のように紹介されていた。

  

「若者のすべて」
ーこちらは過去にアンコールで大好評だった曲ですね。
まさにコンサートの締めにふさわしい楽曲だと思っています。まるで壮大な“エンディング”のように、今までの演奏を振り返りながら華やかに終わる構成にしています。 


 幸いなことに、YouTubeに2022年開催の第2回公演の1曲として「若者のすべて」のフルヴァージョンが公開されている。

  若者のすべて / CHILL CLASSIC CONCERT -2022 summer-


 

 ハープがイントロを美しく奏でると、弦楽器、管楽器が華麗に続いていく。ドラムの音が入り、〈最後の花火に今年もなったな〉の箇所になると、フルオーケストレーションの素晴らしい演奏と化す。このようなオーケストラ用の編曲を聴くと、「若者のすべて」の音楽そのものの豊かさを味わうことができる。

 また、「若者のすべて」を実際に聴いている(そして眠っている)映像もあったので添付したい。このコンサートの会場の雰囲気が伝わってくる。

   【全国ツアー開催記念 】CHILL CLASSIC CONCERT特別映像を初公開!

     


 

 「若者のすべて」はプログラムの15番目の演奏であることからおそらくコンサート本編の最後の曲だと思われる。この美しく荘厳な演奏が眠りに落ちている聴衆の目を次第に覚ましていく。睡眠から現実への覚醒にふさわしい曲なのだろう。志村正彦は〈すりむいたまま僕はそっと歩き出して〉と歌っている。この作品の歌詞も楽曲も、現実へと〈そっと歩き出し〉ていくことを促している。

 なお、「所さん!事件ですよ」のこの回は3月7日(土)までNHK ONEで視聴可能である。


 この番組の放送日には甲府の小瀬スタジアムでヴァンフォーレ甲府と松本山雅の試合があったのだが、後半の途中で松本の応援から聞き覚えのあるメロディーが流れてきた。フジファブリックの「SUPER!!」だった。作詞:山内総一郎、作曲:山内総一郎・金澤ダイスケ。調べると、松本に新加入したフォワード加藤拓己のチャントだった。〈拓己のゴールちょうだい〉というフレーズになっていた。山梨学院高校出身なので地元局の放送で見たことのある選手だった。体格に恵まれたパワフルなストライカーであり、この日も先発して最前列でゴリゴリと甲府のディファンダーとやり合っていた。「SUPER!!」がチャント曲になった理由は分からないが、出身が山梨学院高校ということがあるのかもしれない。松本は以前、宮沢和史・ザ・ブームの「中央線」を応援歌にしていたことがあった。中央線は松本まで通っているからだろう。

 松本のことはさておき、甲府サポとしては志村正彦の曲を応援ソングがチャントにしてほしいとずっと思っている。「Sugar!!」なんか最高の曲だろう。〈全力で走れ 全力で走れ 36度5分の体温/上空で光る 上空で光る 星めがけ〉は、ヴァンフォーレ甲府のサッカーに合っている歌詞だ。

 試合の方は1対0でVF甲府の勝利だった。今シーズンは8月からの秋冬制への移行のために「明治安田J2・J3百年構想リーグ」という特別な大会を開催している。甲府は開幕4連勝で現在2位にいる。ほんとうに〈上空で光る 星めがけ〉て優勝を目指してほしい。


 志村正彦についての話題がもう一つある。2月22日のテレビ朝日の番組「EIGHT-JAM」の「プロが選ぶ最強サビ歌詞!」特集で、シンガーソングライターのコレサワが2000年以降の12位にフジファブリック「Bye Bye」を選んでいた。テロップには表示されたが、残念ながらこの歌への言及はなかった。それでも、志村の作品がテレビ番組で登場する場合、「若者のすべて」に集中している現状からすると、「Bye Bye」が選ばれたことは率直に嬉しかった。志村正彦には素晴らしい歌がたくさんある。志村のより多くの作品が注目を浴びてほしい。


2026年2月21日土曜日

シーク・アンド・ファインド(seek and find)の構造-『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』舞台と小説4

 今回は原作小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の成立とその構造について考えてみたい。

 1980、村上春樹は『文學界』に中編小説『街と、その不確かな壁』(中編『街』とも略記)を発表した。1985年、中編『街』を基にした「世界の終り」パートに「ハードボイルド・ワンダーランド」パートを新たに加えて『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(長編『世界』とも略記)を刊行した。さらに2023年、中編『街』をを原形とする第一章に第二章と第三章を書き加えて長編小説『街とその不確かな壁』(長編『街』とも略記)を出版した。

 村上は『街とその不確かな壁』のあとがきで『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』について次のように振り返っている。

「街と、その不確かな壁」を大幅に書き直そうと思った。しかしそのストーリーだけで長編小説に持って行くにはいささか無理があったので、もうひとつまったく色合いの違うストーリーを加えて、「二本立て」の物語にしようと思いついた。二つのストーリーを、並行して交互に進行させていく。そしてその二つが最後にひとつに合体する――というのが僕の計画というか、おおざっぱな心づもりだった。

 しかし、村上はその二つを合体する見当がつかないままに書き進めていったが、最後近くになって、二つの話がうまくひとつに結びついてくれたと述べている。しかし、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の刊行では終わらなかった。村上はこう語る。

 しかし歳月が経過し、作家としての経験を積み、齢を重ねるにつれ、それだけで「街と、その不確かな壁」という未完成な作品に――あるいは作品の未熟性に――しかるべき決着がつけられたとは思えなくなつてきた。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』はそのひとつの対応ではあつたが、それとは異なる形の対応があってもいいのではないか、と考えるようになつた。「上書きする」というのではなく、あくまで併立し、できることなら補完しあうものとして。でもその「もうひとつの対応」がどのような形を取り得るのか、なかなかそのヴイジョンを見定めることができなかつた。

 その後、2020年の初めに中編『街』をもう一度書き直せるかもしれないと感じ、コロナ禍のなかで三年間かけて完成させ、2023年に長編『街』を刊行した。このようにして、中編『街』から、そのひとつの対応としての長編『世界』、もうひとつの対応としての長編『街』という三つの小説が誕生した。この三作品の核にあるストーリーを《街とその不確かな壁》物語と名づけてみたい。

 1985年の長編『世界』、2023年の長編『街』(「世界」パート)の二つの小説は、1980年の中編『街』を原形とするものだが、時間軸に沿った連続的な発展ではなく、〈併立〉と〈補完〉の関係にある。中編『街』という《街とその不確かな壁》物語の原形の小説から、固有性を持ちながら互いに補完し合う二つの小説が生まれたと考えてよい。

 村上はこの「あとがき」の最後で、40年ほどかけて創作していった《街とその不確かな壁》物語について〈真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか〉と述べている。物語の内容についての発言だが、中編『街』、長編『世界』、長編『街』という三つの小説自体も、《街とその不確かな壁》物語の〈不断の移行=移動する相〉にあるのだろう。


 村上春樹は「シーク・アンド・ファインド(seek and find)」が自らの物語の基本構造であることを明かしている。他者(多くの場合は女性)を探し求め(seek)、見つけ出す(find)」というレイモンド・チャンドラーの探偵小説の影響を受けた枠組である。男性が主人公の場合、その他者はほとんどが女性である。男性は女性を探し出そうとするが女性はすでに失われている、あるいはかろうじて女性を探して見つけるがその女性はすぐに失われてしまう。探索・発見・喪失という構造である。

 《街とその不確かな壁》物語を総合すると、遭遇(発見)・喪失・探索・再遭遇(発見)・喪失あるいは共生というさらに複雑な複雑を持つ。中編『街』は遭遇(発見)・喪失・探索と再遭遇(発見)・喪失という「シーク・アンド・ファインド(seek and find)」を反復する構造であるが、長編『街』は遭遇(発見)・喪失・探索と再遭遇(発見)・共生を経て最終的に喪失という「シーク・アンド・ファインド(seek and find)」を二重に反復する構造である。この二つに対して、長編『世界』の「世界」パートは再遭遇(発見)から始まり、過去の記憶にある遭遇(発見)・喪失と探索に遡行した上で、共生に至るという時間的に錯綜させて多層化した構造を持つ。この複雑に多層化した構造の小説を脚本化、舞台化することはかなりの困難を伴っただろう。というのか、ほとんど不可能とも言えるような作業であっただろう。さその困難や不可能に直面しながら、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の制作チームがこの舞台を完成させたことは充分に評価できる。


 この連載記事の第一回目の末尾で、三つの作品の結末部がどうなるのか、という問いかけをした。主体の〈僕〉と他者の〈君〉はどうなるのか、〈僕〉は分身の〈影〉と一緒に現実世界へ戻るのか、それとも〈君〉と一緒に〈街〉の世界で暮らしていくのか、それとも〈影〉とはいったん離れてから単独で現実世界に回帰するのか。その選択によって《街とその不確かな壁》物語は変化していくのだが、この結末部について簡潔にまとめておきたい。

 中編『街』では、主体〈僕〉は他者である〈君〉現実世界の少女・〈街〉の司書の女性の喪失を選び、彼女と別れて自らの〈影〉と一緒に現実世界へと帰る。長編『世界』では、主体〈僕〉は他者の〈君〉との共生を決意し、〈街〉の司書の女性と共に生きて彼女の〈心〉を取り戻そうとする。長編『街』では、主体〈僕〉は他者〈君〉との共生を選んで〈街〉に残り〈影〉だけ現実へ帰るが、最終的には〈君〉と別れて現実世界に帰還する。結果として〈君〉との共生と喪失の二つを経験する。

 〈僕〉と〈影〉とは互いに分身の関係である。この関係に焦点を当ててもう一度整理すると、中編『街』では〈僕〉と〈影〉は一緒に現実へ帰還し、長編『世界』では〈僕〉は〈街〉に残り〈影〉だけが現実へ帰り、長編『街』では一度目は〈影〉だけが現実へ帰り〈僕〉は〈街〉に残るが二度目は〈僕〉が単独で現実へと帰還することになる。


 村上の言葉に依拠するなら、《街とその不確かな壁》物語の構造や枠組もまた〈不断の移行=移動する相〉のプロセスにあると言えるだろう。

        (この項続く)


2026年2月18日水曜日

〈ある地点〉高橋亜子氏の脚本-『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』舞台と小説3

 原作の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、単行本で618頁の分量の長編小説である。この舞台を見るにあったてまず関心があったのは、この長編小説をどのように脚本化していくのか、ということだった。「世界の終わり」パート(以下、「世界」パートと略記)と「ハードボイルド・ワンダーランド」パート(以下、「ワンダー」パートと略記)という二つが独立して交互に進行していく展開をどう構成するのか。この長編小説のたくさんの重要なシーンからどの箇所を選んでいくのか。舞台の演出以前の脚本の段階に興味があった。

 結論から言えば、高橋亜子氏の脚本はこのかなり長い小説を2時間50分ほどの舞台に的確に集約させた。(もちろん、いろいろな脚本の可能性はあるだろうが)。 高橋氏はパンフレットの中で次のように述べている。


 原作では「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」、それぞれの世界が交互に描かれます。脚本化にあたって核となるのは、このパラレルワールドをどう組み立てていくかです。膨大な原作の描写の中から私が抽出したのは"私と"僕”の心が、目の前で起きる出来事と呼応する場面です。”僕”は影と切り離され、次第に自分らしく感じることができなくなっていく。一方"私"は原作の猫写によると、ある地点から人生をねじまげるように生きており、心を閉ざした孤独な生活をしている。そんな二人の心が揺れる瞬間、それを辿っていけば、やがて物語の核心にたどり着けるはず。そう思いながらブロットを組み立てて行きました。


 この舞台では、〈僕〉と〈私〉の〈二人の心が揺れる瞬間〉を辿ることで物語の核心にたどり着くという方針が貫かれていた。

 舞台は「世界」パートから始まった。冒頭で金色に輝く〈一角獣〉が登場して、奇妙な動きを続けていたことがまず目を引いた。いくぶんか不気味であるが、照明の光と音楽の流れのもとで〈一角獣〉の動作やダンスの効果によって不思議な美しさと仄かなエロティシズムが醸し出されていた。さらに、〈門番〉が登場して、〈僕〉(駒木根葵汰/島村龍乃介、私が観劇した回は島村だった)からその〈影〉(宮尾俊太郎)を切り落とす。〈僕〉の〈心〉が文字通り揺さぶられて、本体と影に分裂する。

 そのシーンがYouTubeの〈舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 ゲネプロ〉の冒頭にある。



 その後、〈僕〉は図書館で少女(森田望智)に出会うことになる。小説の「世界」パートではこの時、〈僕〉は次のように感じる。

僕は長いあいだ言葉もなくじっと彼女の顔を見つめていた。彼女の顔は僕に何かを思いださせようとしているように感じられた。彼女の何かが僕の意識の底に沈んでしまったやわらかなおりのようなものを静かに揺さぶっているのだ。しかし僕にはそれがいったい何を意味するのかはわからなかったし、言葉は遠い闇の中に葬られていた。

 つまり、〈僕〉の意識の底に沈んでいるもの、無意識の世界にあるものが、〈彼女の何か〉によって静かに揺さぶられている。脚本はこのような揺れる瞬間を場面として切り取っていく。もちろん、舞台という性質上、詳細に示されることはないのだが。


 冒頭場面の後で「ワンダー」パートが始まる。〈私〉(藤原竜也)は、「シャフリング」を開発した博士の孫娘、ピンク色の服を着た女性(富田望生)によって地下にある博士の研究所に連れて行かれる。その後〈私〉は図書館で司書の女性(森田望智、一人二役)に出会うことになる。このように、小説の中の重要なシーンが的確に脚本化されて、舞台で演出されていた。


 先ほどの引用で高橋氏は、原作の「世界」パートの〈僕〉は〈影と切り離され、次第に自分らしく感じることができなくなっていく〉、「ワンダー」パートの〈私〉は〈ある地点〉から〈心を閉ざした孤独な生活をしている〉と延べている。この〈ある地点〉での出来事が重要なのだが、原作でも舞台でも、当初はそれが明示されることはない。「ワンダー」パートでは最後まで全く語られることがなく、「世界」パートでは次第におぼろげに示されるだけである。

 この点について、原作小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の言葉を使って説明したい。

 「世界」パートの最初の章「金色の獣」には〈僕が最初にこの街にやって来た頃〉という記述だけがある。〈僕〉は〈街〉でしばらく過ごした後で、門番の〈ここは世界の終わりなんだ〉という言葉を受けて、次のように考える。

 世界の終わり。
 しかしどうして僕が古い世界を捨ててこの世界の終りにやってこなくてはならなかったのか、僕にはその経緯や意味や目的をどうしても思いだすことはできなかった。何かが、何かの力が、僕をこの世界に送りこんでしまったのだ。何かしら理不尽で強い力だ。そのために僕は影と記憶を失い、そして今心を失おうとしているのだ。

 つまり、〈僕〉が何のためにどのようにして〈街〉にやってきたかという理由や経緯は不明である。〈僕〉にとっての〈君〉という存在の意味も明示されない。そのような設定があり、〈僕〉は〈僕〉と図書館の女性〈君〉がかつての記憶、そして〈心〉を取り戻そうとする過程が「世界」パートの中心的なモチーフとなる。小説「世界」パートの16章の「冬の到来」でやっと、図書館司書の〈君〉が四歳と一七歳の時の出来事の記憶ををかすかに思い出すことになる。

 これに対して中編小説『街と、その不確かな壁』(以下中編『街』と略記)では、この〈ある地点〉は、〈僕〉が〈十八歳の夏〉の時に〈川縁の草の上〉で〈君〉が〈本当の私が生きているのは、その壁に囲まれた街の中〉と言う地点に該当する。なお、長編小説『街とその不確かな壁』(以下長編『街』と略記)では〈十七歳〉であり、人称代名詞も〈ぼく〉と〈きみ〉という表記に変わっている。

 中編『街』の〈僕〉はおそらくまだ若者であるころに〈君に会いたかった〉せいで〈壁〉に囲まれた〈街〉に行く。長編『街』では一八歳の少年〈ぼく〉は書籍取次会社に務める中年男の〈私〉になり、四五歳になってまもなく〈穴〉に落ちて〈壁〉に囲まれた〈街〉に入る。〈私〉は〈きみ〉に再開する。失われた〈きみ〉に再開するために、〈私〉が〈壁〉に囲まれた〈街〉に入り込むというのが基本的な設定である。

 つまり、中編『街』と長編『街』では初めから、〈私・僕・ぼく〉は、〈君・きみ〉を失った出来事を覚えていて〈君〉と再開するために意識的無意識的に〈街〉を訪れようとするのだが、「世界」パートの〈僕〉はその記憶を失ったままなぜか〈街〉に入り込んでしまい、次第に記憶をたぐり寄せていく。記憶に対する関わり方が大きな違いとなっている。

    (この項続く)


2026年2月1日日曜日

〈夢読み〉―『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』舞台と小説2

 今日2月1日、舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の東京公演は終わってしまうが、この後、仙台市、名古屋市、西宮市、北九州市でも開催される。座席の種類によってはチケットがまだ取れる公演もあるようだ。

 YouTubeにこの舞台のプロモーション映像があるので紹介したい。


 舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』プロモーション映像 ロングver.



 今回もまた、1980年の『街と、その不確かな壁』、1985年の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、2023年の『街と、その不確かな壁』の三つの作品に共通する《街とその不確かな壁》の物語について述べたい。


 この物語を支える中心的なモチーフは〈夢読み〉だと言えるだろう。 〈壁〉に囲まれた〈街〉の〈図書館〉のなかで〈僕〉は〈古い夢〉を読む仕事に就く。 『街と、その不確かな壁』から引用しよう。

 僕は用意された布切れで古い夢につもったぶ厚い埃を拭ってからその表面に手を置き、目を閉じる。五分ばかりで古い夢は目覚め、僕の手は心地良い温もりを感じはじめる。そして彼らはその古い夢を語る。しかし彼らの話る声はあまりに低く、僕にはそれを殆んど聞きとるとともできない。
 彼らは明らかに語ることには慣れていないようだった。まるで長いあいだ見捨てられていた老人のように突然の日差しにとまどい、そして口ごもった。彼らの目覚めは不確かであり、その放つ光は弱く、そして僅かばかりの時が過ぎると再び深い限りの中に落ちこんでいくのだった。


 〈僕〉が〈夢読み〉であることは、三つの作品で共通しているが、その夢が包まれている器は異なる。

  『街と、その不確かな壁』では、〈図書館の書庫には埃をかぶった何千という古い夢〉の〈大きさはテニス・ボールほどのものからサッカー・ボールまで、色あいも多種多様〉で〈形は殆んとが卵型で、手にとってじっくり眺めてみると下半分が上半分に比べて僅かにふくらんで〉いて〈大理石のようにつるりとした手触り〉である。

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、〈古い夢〉は〈一角獣の頭骨〉の中に〈しみこんで閉じこめられている〉。〈頭骨を正面に向け、両手の指をこめかみのあたりにそっと置〉き、〈骨の額をじっと見る〉と〈頭骨が光と熱を発しはじめる〉ので、〈その光を指先で静かにさぐっていけば〉〈古い夢を読みとることができる〉とされる。

 『街とその不確かな壁』では、〈書庫の棚には数え切れないほど多くの古い夢が並んでいる〉とされ、その形態についての具体的な描写はない。書棚の棚に並んでいるということから、書物のような形をしているのかもしれない。

 つまり〈古い夢〉は、ボールほどの大きさで色あいも多種多様な卵型の形、一角獣の頭骨、書籍のような形、というように作品ごとに異なる。今回の舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、一角獣の頭骨が演出上で重要なオブジェとなっていた。明るく輝く一角獣の頭骨やそれを持ってダンスする演出が目を引いた。


 〈夢読み〉とはどういう行為なのか。2023年の『街とその不確かな壁』ではこう語られている。

 ひとつの夢を読み終えると、しばしの休息をとらなくてはならない。机に肘をついて両手で顔を覆い、その暗闇の中で眼を休めて疲労の回復を待つ。彼らの語る言葉は相変わらずよく聴き取れなかったが、それが何らかのメッセージであることはおおよそ推測できた。そう、彼らは何かを伝えようとしているのだ――、私に、あるいは誰かに。でもそこで語られるのは私には聴き取ることのできない話法であり、耳慣れない言語だった。それでもひとつひとつの夢は、それぞれの歓びや悲しみや怒りを内包しつつ、どこかに吸い込まれていくようだった――私の身体をそのまま通り抜けて。


 〈夢〉は〈何らかのメッセージ〉であるが、〈聴き取ることのできない話法〉によって〈耳慣れない言語〉で語っている。夢独自の話法と言語によるメッセージというロジックは、ジークムント・フロイトの『夢解釈』を想起させる。フロイトによれば、夢は無意識の夢思考のメッセージである。私たちの潜在的夢思考から私たちが実際に見る顕在的夢内容が作られる。

 われわれの目には、夢思考と夢内容とは、同じ一つの内容を違う二つの言語で言い表しているように見える。あるいは次のように言ったほうがよいかもしれない。すなわち、夢内容とは、夢思考を違う表現様式の中へと転移させたもののように思われる。われわれとしては、これらの原本と翻訳とを比べ合わせて、書き換えにあたっての記号法と統語法とを学ばなければならないのである。 (フロイト『夢解釈』第6章夢工作)


 夢独自の話法と言語によって夢思考を夢内容に変換するのが夢工作の過程である。夢解釈はその逆をたどる。夢内容を分析し、その話法と言語を明らかにして、夢思考を構築する。フロイトの実践を読むと、夢解釈は複雑で難しく、忍耐と根気のいる仕事であることがよく分かる。

 《街とその不確かな壁》物語の〈夢読み〉である〈僕〉もまたその困難と向き合い、ひとつひとつの夢の〈歓びや悲しみや怒り〉を受けとめようとして、夢を読みとっていく。

      (この項続く)

2026年1月25日日曜日

〈僕〉と〈影〉―『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』舞台と小説1

 先日、舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の東京公演を見てきた。  

 原作の村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が、脚本高橋亜子、演出・振付フィリップ・ドゥクフレ、主演藤原竜也でホリプロによって舞台化された。


 この日の東京は厳しい寒さが予想されたので、午後1時過ぎに甲府駅を発った。新宿で降りて、SOMPO美術館の開館50周年記念「モダンアートの街・新宿」を見た。最も好きな画家、中村彝の「頭蓋骨を持てる自画像」と、三十年ぶりほどになるだろうか、再会することができた。佐伯祐三や松本竣介の名作もあった。新宿という場におけるモダンな絵画の歴史を概観できる展覧会だった。

 新宿を後にして池袋に向かった。会場は東京芸術劇場プレイハウス。午後6時半からの開演だった。




 この舞台について語る前にまず、原作について述べたい。

 村上春樹の長編小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は1985年6月の刊行だからすでに四十年を超える年月が経つ。僕は刊行直後に読んで感銘を受けた。単行本で六百頁を超える分量、話者兼人物の「私」が語る「ハードボイルド・ワンダーランド」の章と話者兼人物の「僕」が語る「世界の終り」の章が交互に配列され、全四十章で構成されるなど、本格的で実験的な長編小説だった。現在という時代、東京を舞台とする画期的な作品であり、当時はまだ東京で暮らしていたのでこの小説をリアルタイムで愉しんだ。

 「世界の終り」のパートは『文學界』1980年9月号に発表された中編小説『街と、その不確かな壁』が原型となっている。村上はその「世界の終わり」パートに新たに書いた「ハードボイルド・ワンダーランド」パートを複合させて『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を作った。さらに2023年4月、『街と、その不確かな壁』を書き直して第一章にした上で第二章と第三章を新たに書き加えて、長編小説『街とその不確かな壁』を刊行した。

 つまり、《街とその不確かな壁》の物語は、1980年の『街と、その不確かな壁』、1985年の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終わり」パート、2023年の『街とその不確かな壁』と三度にわたって書き直され、書き継がれていった。


 《街とその不確かな壁》物語は三つのヴァージョンがあるが、その共通するあらすじについて簡潔に述べたい。

 一人称の話者兼人物である〈僕〉が、現実とは異なる世界、無意識の領域にある世界、高い〈壁〉に囲まれた〈街〉の世界に入り込む。その際に自身の〈影〉が門番によって引き剥がされる。〈影〉は人の〈心〉を表している。

 舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では冒頭近くで、〈門番〉が〈僕〉から〈影〉を切り落とすシーンが演じられた。小説ではそれまでの過程が語られるのだが、舞台では突然の出来事としての演出効果を狙ったのだろう。〈僕〉とその〈影〉の切断からこの舞台は始まる。


 〈壁〉のある〈街〉ので〈僕〉は〈君〉に再会することができた。そして、古い〈夢〉を読みとる〈夢読み〉の仕事に就く。(この〈君〉は、現実世界で〈僕〉がかつて愛していた少女であり、ある時消え去ってしまったが、〈街〉の世界で図書館で働いているという設定。この〈街〉の世界では〈君〉も〈影〉、〈心〉を失っている)

 〈僕〉は〈君〉の〈心〉を取り戻そうとするが、それは極めて難しい。その試みをめぐる〈僕〉と〈君〉の交流が物語の中心軸となる。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、〈君〉が自らの〈心〉、自らの過去を想起する契機となるのは、母親が口ずさんでいた音階のある言葉すなわち歌であった。また、歌は「世界の終り」パートと「ハードボイルド・ワンダーランド」パートを媒介するものとなる。「ハードボイルド・ワンダーランド」パートの最後では、〈私〉はボブ・ディランの『激しい雨』を聴きながら深い眠りに入る。

 「世界の終り」パートの最後の場面で〈僕〉の〈影〉は、〈僕〉に対して、一緒に〈街〉から脱出しようと提案する。ここが最後の場面となる。〈僕〉はどうするのか。〈僕〉のこの選択が 《街とその不確かな壁》物語の中心的テーマとなる。

 この結末部は三つの作品で異なる。

 〈僕〉と〈君〉はどうなるのか。〈僕〉はどうすればよいのか。〈僕〉は、〈影〉と一緒に現実世界へ戻るのか、それとも〈君〉と一緒に〈街〉の世界で暮らしていくのか、それとも〈影〉とはいったん離れてから単独で現実世界に回帰するのか。その選択によって物語は変化していく。

      (この項続く)

2026年1月18日日曜日

11月・12月のBe館『見はらし世代』『ボンヘッファー ヒトラーを暗殺しようとした牧師』『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』『殺し屋のプロット』

 もう新年を迎えてしまったが、昨年の11月と12月にシアターセントラルBe館で見た映画について書きとめておきたい。


見はらし世代



 監督・脚本、団塚唯我。再開発されていく東京・渋谷の風景を経糸に、ランドスケープデザイナーである父・初(遠藤憲一)、母・由美子(井川遥)、主人公・蓮(黒崎煌代)、姉・恵美(木竜麻生)の家族を緯糸にして、風景と人物の物語が織り込まれている。
 家族再会の場面で天井の電球が落下する瞬間に、物語が転換する。脚本も演出も新しい感覚に満ちていて、ラストシーンも独自の味わいがあった。


ボンヘッファー ヒトラーを暗殺しようとした牧師



 監督・脚本、トッド・コマーニキ。ドイツの実在の牧師・神学者、ディートリヒ・ボンヘッファーの伝記映画。幼年時代から、ナチスの独裁者ヒトラーをー暗殺する計画に加担し処刑される1945年4月までの人生を追う。第2次世界大戦中のナチス政権に加担した牧師や神学者たちに危機感を抱いた牧師ボンヘッファーは、ナチズムを崩壊させるため「ヒトラー暗殺計画」に加担するが、捕らえられる。実話に基づく極めて厳しい内容の作品だった。 
 大学生の時、哲学の岩波哲男先生の教養演習というゼミ形式の授業で、半年の間、ボンヘッファーのテキストを読んだことがあった。軽井沢のセミナーハウスで夏の合宿もしたので非常に印象に残っている。もともと文学よりも哲学に関心のあった僕にとって、この授業は限界状況におけるキリスト者の倫理について考える契機となった。そういう経緯からこの映画には特別の関心があったのだが、特にボンヘッファーの最後の姿に胸を打たれた。


 ザ・ザ・コルダのフェニキア計画


 ウェス・アンダーソン監督。ヨーロッパの富豪ザ・ザ・コルダが娘で修道女のリーズルとともに、架空の大独立国「フェニキア」のインフラを整備する大プロジェクトを進めようとする。
 様々な出来事が起きるのだが、それぞれのプロットの最後がほとんど省略されて描かれない。全体の展開がよく分からないままフィナーレを迎えるのだが、とりあえずハッピーエンドといったところだろうか。本物の美術作品をたくさん使った演出がとても豪華だった。物語よりも映像そのものを純粋に見ることを愉しむ作品だろう。


殺し屋のプロット


 監督・主演・製作、マイケル・キートン。急速に記憶を失う病によって数週間以内にすべてを忘れてしまうという運命の殺し屋ジョン・ノックスは、息子のマイルズが娘をレイプした男を殺した罪を隠すために人生最後の完全犯罪に挑む。
 考え抜かれた脚本ときめ細かい演出によって、優れたサスペンス映画になっていた。エンディングのシーンでのおそらくすべての記憶を失ってしまった男の表情が印象深かった。


 2025年5月のシアターセントラルBe館の再開の後、年末までに24本の映画を見たことになる。この映画館のセレクトが素晴らしく、どの映画も十二分に愉しむことができた。2026年も、甲府の街中の映画館に足を運び、スクリーンで見ることにこだわっていきたい。