原作の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、単行本で618頁の分量の長編小説である。この舞台を見るにあったてまず関心があったのは、この長編小説をどのように脚本化していくのか、ということだった。「世界の終わり」パート(以下、「世界」パートと略記)と「ハードボイルド・ワンダーランド」パート(以下、「ワンダー」パートと略記)という二つが独立して交互に進行していく展開をどう構成するのか。この長編小説のたくさんの重要なシーンからどの箇所を選んでいくのか。舞台の演出以前の脚本の段階に興味があった。
結論から言えば、高橋亜子氏の脚本はこのかなり長い小説を2時間40分ほどの舞台に的確に集約させた。(もちろん、いろいろな脚本の可能性はあるだろうが)。 高橋氏はパンフレットの中で次のように述べている。
原作では「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」、それぞれの世界が交互に描かれます。脚本化にあたって核となるのは、このパラレルワールドをどう組み立てていくかです。膨大な原作の描写の中から私が抽出したのは"私と"僕”の心が、目の前で起きる出来事と呼応する場面です。”僕”は影と切り離され、次第に自分らしく感じることができなくなっていく。一方"私"は原作の猫写によると、ある地点から人生をねじまげるように生きており、心を閉ざした孤独な生活をしている。そんな二人の心が揺れる瞬間、それを辿っていけば、やがて物語の核心にたどり着けるはず。そう思いながらブロットを組み立てて行きました。
この舞台では、〈僕〉と〈私〉の〈二人の心が揺れる瞬間〉を辿ることで物語の核心にたどり着くという方針が貫かれていた。
舞台は「世界」パートから始まった。冒頭で金色に輝く〈一角獣〉が登場して、奇妙な動きを続けていたことがまず目を引いた。いくぶんか不気味であるが、照明の光と音楽の流れのもとで〈一角獣〉の動作やダンスの効果によって不思議な美しさと仄かなエロティシズムが醸し出されていた。さらに、〈門番〉が登場して、〈僕〉(駒木根葵汰/島村龍乃介、私が観劇した回は島村だった)からその〈影〉(宮尾俊太郎)を切り落とす。〈僕〉の〈心〉が文字通り揺さぶられて、本体と影に分裂する。
そのシーンがYouTubeの〈舞台『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 ゲネプロ〉の冒頭にある。
その後、〈僕〉は図書館で少女(森田望智)に出会うことになる。小説の「世界」パートではこの時、〈僕〉は次のように感じる。
僕は長いあいだ言葉もなくじっと彼女の顔を見つめていた。彼女の顔は僕に何かを思いださせようとしているように感じられた。彼女の何かが僕の意識の底に沈んでしまったやわらかなおりのようなものを静かに揺さぶっているのだ。しかし僕にはそれがいったい何を意味するのかはわからなかったし、言葉は遠い闇の中に葬られていた。
つまり、〈僕〉の意識の底に沈んでいるもの、無意識の世界にあるものが、〈彼女の何か〉によって静かに揺さぶられている。脚本はこのような揺れる瞬間を場面として切り取っていく。もちろん、舞台という性質上、詳細に示されることはないのだが。
冒頭場面の後で「ワンダー」パートが始まる。〈私〉(藤原竜也)は、「シャフリング」を開発した博士の孫娘、ピンク色の服を着た女性(富田望生)によって地下にある博士の研究所に連れて行かれる。その後〈私〉は図書館で司書の女性(森田望智、一人二役)に出会うことになる。このように、小説の中の重要なシーンが的確に脚本化されて、舞台で演出されていた。
先ほどの引用で高橋氏は、原作の「世界」パートの〈僕〉は〈影と切り離され、次第に自分らしく感じることができなくなっていく〉、「ワンダー」パートの〈私〉は〈ある地点〉から〈心を閉ざした孤独な生活をしている〉と延べている。この〈ある地点〉での出来事が重要なのだが、原作でも舞台でも、当初はそれが明示されることはない。「ワンダー」パートでは最後まで全く語られることがなく、「世界」パートでは次第におぼろげに示されるだけである。
この点について、原作小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の言葉を使って説明したい。
「世界」パートの最初の章「金色の獣」には〈僕が最初にこの街にやって来た頃〉という記述だけがある。〈僕〉は〈街〉でしばらく過ごした後で、門番の〈ここは世界の終わりなんだ〉という言葉を受けて、次のように考える。
世界の終わり。
しかしどうして僕が古い世界を捨ててこの世界の終りにやってこなくてはならなかったのか、僕にはその経緯や意味や目的をどうしても思いだすことはできなかった。何かが、何かの力が、僕をこの世界に送りこんでしまったのだ。何かしら理不尽で強い力だ。そのために僕は影と記憶を失い、そして今心を失おうとしているのだ。
つまり、〈僕〉が何のためにどのようにして〈街〉にやってきたかという理由や経緯は不明である。〈僕〉にとっての〈君〉という存在の意味も明示されない。そのような設定があり、〈僕〉は〈僕〉と図書館の女性〈君〉がかつての記憶、そして〈心〉を取り戻そうとする過程が「世界」パートの中心的なモチーフとなる。小説「世界」パートの16章の「冬の到来」でやっと、図書館司書の〈君〉が四歳と一七歳の時の出来事の記憶ををかすかに思い出すことになる。
これに対して中編小説『街と、その不確かな壁』(以下中編『街』と略記)では、この〈ある地点〉は、〈僕〉が〈十八歳の夏〉の時に〈川縁の草の上〉で〈君〉が〈本当の私が生きているのは、その壁に囲まれた街の中〉と言う地点に該当する。なお、長編小説『街とその不確かな壁』(以下長編『街』と略記)では〈十七歳〉であり、人称代名詞も〈ぼく〉と〈きみ〉という表記に変わっている。
中編『街』の〈僕〉はおそらくまだ若者であるころに〈君に会いたかった〉せいで〈壁〉に囲まれた〈街〉に行く。長編『街』では一八歳の少年〈ぼく〉は書籍取次会社に務める中年男の〈私〉になり、四五歳になってまもなく〈穴〉に落ちて〈壁〉に囲まれた〈街〉に入る。〈私〉は〈きみ〉に再開する。失われた〈きみ〉に再開するために、〈私〉が〈壁〉に囲まれた〈街〉に入り込むというのが基本的な設定である。
つまり、中編『街』と長編『街』では初めから、〈私・僕・ぼく〉は、〈君・きみ〉を失った出来事を覚えていて〈君〉と再開するために意識的無意識的に〈街〉を訪れようとするのだが、「世界」パートの〈僕〉はその記憶を失ったままなぜか〈街〉に入り込んでしまい、次第に記憶をたぐり寄せていく。記憶に対する関わり方が大きな違いとなっている。
(この項続く)