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2013年8月31日土曜日

志村正彦の夏 (志村正彦LN 47)

 
 志村正彦にとって、夏は特別な季節である。夏を舞台としない歌の中でも、時に触れられることがある。

  短い夏が終わったのに 今 子供のころのさびしさが無い (『茜色の夕日』)

  冷夏が続いたせいか今年は なんだか時が進むのが早い (『赤黄色の金木犀』)

  真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた  (『若者のすべて』)

 「短い夏」「冷夏」そして「真夏のピーク」。夏はいつものように過ぎ去るが、彼は佇立し続ける。彼はたたずみ、季節を言葉と音に織り込んでいく。
 夏の記憶の織物は、フジファブリックの作品となって、ここ十年の間、私たちに贈られてきた。なかでも『陽炎』は志村にしか表現しえない世界を確立した歌である。

   あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
    英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ           (『陽炎』)

 夏は、想いの季節である。夏そのものが私たちに何かを想起させる。「街並」「路地裏」という場。「英雄」、幼少時代の光景。楽しかったり、寂しかったりした記憶が「次から次へ」と浮かんでくる。
 夏は、ざわめきの季節でもある。人も、物も、風景も、時もざわめく。「陽」が「照りつけ」ると共に、何かが動き出す。そのとき、「陽炎」が揺れる。

  窓からそっと手を出して
  やんでた雨に気付いて
  慌てて家を飛び出して
  そのうち陽が照りつけて
  遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる            (同)

 『陽炎』はここで転調し、詩人の現在に焦点があてられる。

   きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
   きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう

  またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
   出来事が胸を締めつける                      (同)  

 今では「無くなったもの」とは何か。特定の他者なのか。風景なのか。十代や青春という時間なのか。あるいは、過去の詩人そのものなのか。そのすべてであり、すべてでないような、つねにすでに失われている何かが「無くなったもの」ではないのか、などと囁いてみたくなる。

 喪失という主題は青春の詩によく現れるが、大半は、失ったものへの想いというより、失ったものを悲しむ自分への想いに重心が置かれる。凡庸な詩人の場合、喪失感は自己愛的な憐憫に収束するが、志村の場合は異なる。
 彼の詩には、そのような自己憐憫とは切り離された、失ったものそのものへの深い愛情と、失ったものへ、時に遠ざかり、時に近づいていく、抑制された衝動がある。そして、喪失を喪失のままに、むしろ喪失を生きなおすように、喪失を詩に刻んでいった。それは彼の強固な意志と自恃に支えられていたが、「胸を締めつける」ような過酷な歩みでもあった。

 四十年を超える日本語のロックの歴史の中で、志村正彦は絶対的に孤独である。その孤独ゆえに、今、私たち一人ひとりとつながり続ける、永遠の作品として屹立している。


付記

 8月31日。この日を迎えるといつもなら、暦の上ではいち早く終止符が打たれ、夏が去る時節になろうが、今年の甲府盆地はこれまで経験したことのない酷暑が続き、今日も、「真夏のピーク」が過ぎ去るような気配はない。

 今回は、『志村正彦の夏』を掲載させていただく。この文は、2011年12月の「志村正彦展 路地裏の僕たち」で展示させていただいた。その後、杉山麻衣さんの「Fujifabric International Fan Site」で紹介していただいたので、[ http://fujifabinbkk.blogspot.jp/2012/01/blog-post_27.html ]ネット上では既出だが、私が初めて志村正彦について書いた「原点」のテキストなので、いつか《偶景web》にも載せたいと考えていた。末尾の2行は、「夏」という主題から離れてしまっているのが気がかりだが、修正せずにそのままにさせていただく。  

 今年の夏を振り返りたい。富士吉田市の「広報ふじよしだ7月号」(富士山世界遺産登録を祝す号)に、「若手職員プロジェクト・志村正彦」「夢中で駆け抜けた路地裏で思い出を紡ぐ 路地裏の僕たち」の二つの記事が掲載されたこと。7月10日から14日までの、富士吉田市夕方6時の『茜色の夕日』チャイム。13日と14日の「志村正彦を歌う会」、ご家族からのメッセージ、『茜色の夕日』の歌とトークの再生。15日、『山梨日日新聞』の『宝物の思い出を歌に』(「白球の夢半世紀 山日YBS杯県少年野球」)』。15日夜、フジテレビのドラマ『SUMMER NUDE 』で『若者のすべて』が物語の鍵となる曲として使われたこと。16日、『山梨日日新聞』第1面のコラム「風林火山」。23日、NHK甲府の「まるごと山梨」の「がんばる甲州人」で「ロックミュージシャン志村正彦さん」が特集されたこと。「一期一会」という大切な言葉の披露。25日から27日までの『若者のすべて』チャイム。8月1日、「がんばる甲州人」を元にする番組がNHK総合「情報まるごと」で全国に放送されたこと。22日 、高校野球決勝の中継で「夏 輝いた君たち」と題するダイジェスト映像のBGMに『若者すべて』が流され、映像と見事にシンクロナイズしていたこと。

 2013年の夏は「志村正彦の夏」だった。
 私たちにとって、この7月8月の様々な出来事は「何年経っても思い出してしまう」ことになるだろう。

2013年8月26日月曜日

メレンゲ『Ladybird』 (志村正彦LN 46)

 前回「クレーター」について書いた後、PCやオーディオセットで何度も聴いたが、大音量の方が曲の本質が伝わる曲だ。「すべて欲しがって そこに星があって」の「ホシガ ッテ」「ホシガアッテ」の微妙なずれを含む音韻の反復、「すべて」「そこに」の照応など、クボケンジは巧みに美しく言葉を操っている。宇宙への欲望とでも言うことになるだろうが、アニメ『宇宙兄弟』のオープニングテーマという条件の下で、依頼されたテーマと自分自身のモチーフをなめらかに融合できるところに、音楽家としての確実な成長が見られる。

 21日深夜、テレビ東京『ロック兄弟』のインタビューでは、「メレンゲっていうものの考え方は、自分、僕自身のストーリーなんだろうなあとも思っているんで」「いつも課題にしているのは、やっぱり前作った曲より良い曲をというのがいつも自分の中では課せられるし」と述べていた。そして、「宇宙」という言葉は以前の曲にもけっこう多く、「遠くにあるものが好き」だと語っていた。クボは「もっと遠くまで」(『ビスケット』)たどりつこうとすると同時に、無限の遠方、彼方から自分を見つめ直すストーリーを追いかけているようだ。

 シングルの2曲目『Ladybird』は複雑な歌詞を持つ。

   明け方の道
   散らかってるゴミ
   どうせ誰かが片付けるのだろう

 この3行からなる節を前後の枠にした上で、その枠組の内部に、ある恋愛の終わりの物語を配置している。クボがtwitterで「僕の渾身の情けない大人のラブソングです。。。不倫を助長しているわけではないのですが。。。」と呟いたことが、解釈の方向を与えている。枠内にある物語は、短編小説の場面を抜粋したように描かれていて、聴き手は断片的な像しかつかめないが、逆に、断片を自分でつなぎあわせて物語を作っていくことができる、とも考えられる。

 それにしても前後の枠の部分が耳にこびりつく。早朝、路上に散乱しているゴミを見た時の経験を思い返してみる。そのゴミの方から見つめられているような、何だか居たたまれないような、罪深いような想いに捉えられたことがある。そのゴミは自分とは無関係なのだが、関係がないとは言えないような、むしろ関係があるかのような、不思議な痛みと自己嫌悪のような感覚と共に。

 『Ladybird』の歌の主体「僕」も、「明け方の道 散らかってるゴミ」を見つめているのだが、逆に、そこに散乱している「廃棄されたもの」の側から見つめ直されているように感じたのではないだろうか。そのような眼差しの逆転から、「僕」の眼前にはどのような光景が広がっているのか。都市の早朝。捨てられた恋、失われた愛、廃棄された欲望。それらもやがて他者の手によって片付けられ、回収される。そのようにして、他者から他者へとゆだねられる。恋愛も欲望も循環する。独りよがりの解釈だろうが、そんな光景が浮かんできた。

  もうこれ以上先はすすめない すべてに意味を持ってしまう
  終わりを告げる夜明け 黒いセダン 黒いセダン

 「すべてに意味を持ってしまう」、これはクボケンジの詩の世界と方法の鍵となるような言葉だ。
  歌い手も聴き手も、「すべてに意味を持ってしまう」振る舞いから逃れられない、というか、それを求めてしまう。私たちもクボの歌に「志村正彦」という意味を見いだしてしまう。もちろん、どのような意味を見いだしたとしても、その見いだし方は聴き手の個々の自由だ。「志村正彦」という意味を見いだしても見いださなくても、そのような自由をクボケンジの歌は織り込んでいる。そうであるならむしろ、クボと志村正彦との対話は深まっていると言える。
 時は「終わりを告げる夜明け」から「明け方の道」へと流れ、「黒いセダン」(この言葉は最も謎めいている)と共に、「君」は「君の帰り待ってる僕の知らない所」へと帰っていく。断片的であるゆえに妙に喚起的である物語が終わる。

 最後に、2つの新曲、DVDの3曲のライブを通じて、メンバーのタケシタツヨシ、ヤマザキタケシ、サポートの大村達身、皆川真人による演奏の調和と抑制がとれた美しさに感嘆したことを付言したい。「歌」を大切にした上で、この水準のバンドアンサンブルを維持できるバンドはなかなか無いだろう。『バンドワゴン』のフィナーレは、あの『ビスケット』のイントロに続いていた。あの素晴らしいリズムを聴くと、メレンゲ『星めぐりの夜 in 日比谷野外音楽堂』完全版DVDへの欲望が高まる。リリースを切に願う。

2013年8月21日水曜日

メレンゲ『クレーター』 (志村正彦LN 45)

 昨夜、夜10時過ぎに車で帰宅途中のことだった。たまたまFM-FUJIをつけていたのだが、突然、「メレンゲ」という言葉が聞こえてきた。3人がシングルCD『クレーター』のプロモーションで番組に出演していたのだ(FM-FUJIの本社は甲府にあるのだが、この収録は東京で行われたようだ)。トークと『クレーター』と『Ladybird』の2曲を聴くことができたが、車中だったので、曲の雰囲気を味わうことが精一杯だった。そうして、明日21日が『クレーター』の発売日だったことに気づいた。早速、AMAZONのお急ぎ便で、日比谷野音ライヴのDVD付の初回生産限定盤『クレーター』を注文した。今夜この作品を聴き、考えるところがあったので、今回はそれを書いてみたい。

 メレンゲ、クボケンジの作詞作曲の歌、言葉の何処かに、「志村正彦」の痕跡を求めてしまう、ということが志村正彦のファンの自然な所作になっているのかもしれない。私もそのような一人である。しかし、そのようなあり方は聴き手の身勝手な欲望のような気がしないでもない。抑制しなくてはという気持ちもある。クボケンジがいつもそのような聴き手の欲望に晒されていることは、一つの束縛になってしまうかもしれないからだ。

 そのようなことを考えながら、CDとDVDがパッケージされた『クレーター』を開けると、歌詞カードのクレジットの「special thanks to 」の第1行目に、「Masahiko Shimura, Akito Katayose」とあった。クボケンジと志村正彦そして片寄明人、この3人の絆、トライアングルは強固だということを今回も確認することができた。先ほど書いた聴き手の欲望の問題など、クボケンジは「強がりと本音」(歌詞の一節にある言葉)で軽々と克服して、もっと遠い空間にまでたどりついているのかもしれない、そんなことを考えさせられた。

  『クレーター』を聴き始める。冒頭の「詰め込んだ分だけ重くなるカバン」という言葉を聞いた瞬間、志村正彦『東京、音楽、ロックンロール』のあるコメントにワープしてしまった。

かばんが重いのは、夢が詰まってますから。僕は昔から言っているのですけど、かばんの荷物が少ないやつは夢が少ないっていう。氣志團の團長だっていつもすごい荷物持っていたし、某女性アーティストもすごい荷物持っていたし。だから、フロントマンというか、いろんなものを背負っている人は荷物が多いんだと思います。(『東京、音楽、ロックンロール 完全版』224頁)

 そして、志村正彦が持っていた大きな重いカバンについてのある挿話を実際に語ってくれたある人の言葉も浮かんできた。
  志村正彦の痕跡を探してしまう、そのような行為を意識的に行うというより、自然にほとんど瞬間的に、関連する彼の言葉を想起してしまう。これはすでに無意識的な欲望になっているのかとも考えてしまったが、このことはもう少し考えていきたい。

  『クレーター』に戻る。クボケンジは「カバン」について第2ブロックで次のように歌う。

 詰め込んだ分だけ重くなるカバン
 果たして持って歩けるモノなのか?
 あきらめた分だけ軽くなるはず
 なのに何故だ 前よりしんどいな

 あきらめた分だけ軽くなるはずのカバン。しかし何故か、歌の主体は「前よりしんどい」と感じる。この隠喩が何を語っているのか。一人ひとりの聴き手の解釈が待たれる。
 自分の欲望にも向き合いながら、歌の言葉にも向き合う。そんなことを考えてしまった。

2013年8月18日日曜日

「会ったら言えるかな」「話すことに迷うな」-『若者のすべて』6 (志村正彦LN 44)

 歩行の系列の最後の言葉「すりむいたまま 僕はそっと歩き出して」を経て、『若者のすべては』は「最後の花火」の系列、第3と第4のブロックにたどり着く。ここで、「最後の花火」系列の歌詞全体を引用する。(1・2は録音時の歌詞ノートにあったが、3・4とサビのα・βは筆者が論述のために付加したものである)

1.サビα) 最後の花火に今年もなったな
                 何年経っても思い出してしまうな
  サビβ) ないかな ないよな きっとね いないよな
        会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ

2 サビα) 最後の花火に今年もなったな
         何年経っても思い出してしまうな
  サビβ) ないかな ないよな きっとね いないよな
        会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ

 3 サビα)  最後の花火に今年もなったな
                   何年経っても思い出してしまうな
   サビβ)  ないかな ないよな なんてね 思ってた
                  まいったな まいったな 話すことに迷うな

 4 サビα)  最後の最後の花火が終わったら
                  僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ

 1~3のサビαの部分、「最後の花火に今年もなったな 何年経っても思い出してしまうな」が、「最後の花火」系列のモチーフを形作っている。「今年もなったな」「何年経っても」という時間の経過の設定により、回想や想起という方法が歌の内部のもう一つの枠組みを形成している。この回想によって、「歩行」の系列と「最後の花火」の系列が接合されているとも言える。

 1~3のサビβの「ないかな ないよな」で始まる1行目は、歌の主体「僕」の状況や周りの風景の描写を主とする「歩行」の系列やサビαとは異なり、文脈を省略した呟きのような言葉で歌われている。その「ないかな ないよな」の「ない」とう声が「僕」の内面を覆い、通奏低音のように歌に鳴り響いている。『若者のすべて』は、「ない」ことを巡る呟きの歌なのだ。

  1・2のサビβの2行目の部分で、「僕」は「会ったら言えるかな」と繰り返し述べている。「会ったら言えるかな」は、ただ言葉を交わす挨拶のようなものか、それとも、何か大切な言葉を「言えるかな」と自分に問いかけているのか。後者の可能性が高いが、そうであるならば、再会時に何か大切なことを言うことが「僕」の目的かもしれない。何が言われるのか、聴き手には分からないが、「僕」がその情景を「まぶた閉じて浮かべている」とまで思い続けていることは確かに伝わってくる。まぶたを閉じて浮かぶ情景は、いくぶんか夢想に近いものとなる。

  構成上、1と2は同一の繰り返しであり、3の前半部も1と2の前半部の反復である。しかし、3の後半部から、大きな展開が起こる。「最後の花火に今年もなったな 何年経っても思い出してしまうな」の三度目の反復、それを受けて「ないかな ないよな」の三度目の反復が同じように続く。しかし、続く言葉「なんてね 思ってた」によって、この「最後の花火」の物語は大きな転換を迎える。  

 「ないかな ないよな」は、「なんてね 思ってた」と受け止められることで、「ない」が反転し、「ある」こと、あるいは「いる」ことが立ち現れる。不在が現前へと変化するのだ。思いがけないことであったせいか、歌の主体「僕」は「まいったな まいったな」と戸惑う。聴き手の方も、いったい何が起こったのかと戸惑うが、続く「話すことに迷うな」によって、事態をおおむね理解する。どうやら、「僕」はいつのまにか、誰かとの再会というか予期しない遭遇が果たせたようなのだ。ただし、「話すこと」そのものが「僕」をまだ迷いの中に閉じこめる。

  この現実の遭遇は、「まぶた閉じて浮かべているよ」という夢想と円環をなしている。「まぶた」を閉じた「僕」は、「まぶた」の裏の幻の対象に対して、「会ったら言えるかな」と囁く。「まぶた」を開けた「僕」は、その眼差しの向こうの現実の対象に対して、「話すことに迷うな」と呟く。不在と現前、夢想と現実の響きが、『若者のすべて』の中で、美しい織物のように編み込まれている。

  ロラン・バルトは『恋愛のディスクール・断章』で、恋愛対象の不在と現前、「あなたは行ってしまった」と「あなたはそこにいる」との間の「苦悶」について次のように述べている。

不在の人に向けて、その不在にまつわるディスクールを果てどなくくりかえす。これはまことに不思議な状況である。あの人は、指示対象としては不在でありながら、発話の受け手としては現前しているのだ。この奇妙なねじれから、一種の耐えがたい現在が生じる。指示行為の時間と発話行為の時間、この二つの時間の間で、私は身動きもならない。あなたは行ってしまった(だからこそわたしは嘆いている)、あなたはそこにいる(私があなたに話しかけているのだから)。そのときわたしは、現在というこの困難な時間が、まじり気のない苦悶の一片であることを知るのだ。

  ロラン・バルトは、「あなた」の不在と現前による「わたし」の「苦悶」を強調している。志村正彦も繰り返し、バルトの言うような文脈での不在と現前そして苦悶のモチーフを描いている。『陽炎』の「きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう」「またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ 出来事が 胸を締めつける」がその一例である。

 しかし、『若者のすべて』では、「会ったら言えるかな」という夢想から「話すことに迷うな」という現実への転換によって、「苦悶」というよりもある種の恩寵のような「悦び」が「僕」に訪れているような気がする。それは若者という時の過ごし方、そのあり方に特有の「悦び」かもしれない。

2013年8月12日月曜日

「一期一会」 (志村正彦LN 43)

 8月7日、「1番ソングSHOW」の「日本全国47都道府県 地元スター総選挙」という特集で、志村正彦が山梨県の5位になった。レミオロメンや宮沢和史(ザ・ブーム)より下位というのは、一般的な知名度からすると妥当なのだろう。とにかく、彼の名が上がったのは素直に嬉しい。

  前回触れたように、NHK甲府「がんばる甲州人」の「ロックミュージシャン志村正彦さん」には、アナウンサー泉浩司さんとキャスター小倉実華さんの二人による丁寧なコメントと、母志村妙子さんの取材に基づく「一期一会」という言葉と印象深いエピソードについての紹介があった。今回はそのことについて記したい。以下は、該当部分を放送から起こしたものである。(A=泉浩司、B= 小倉実華と略す)

A まず志村さんの音楽の持つ力ですよね、それが今地域の誇りとなってきている。なんかいいですよね。
B そうですよね。志村さんの独特な世界観がこの富士山の麓山梨で生まれたっていうことは素直に嬉しいですし、また山梨の誇りだなっていうふうに感じましたね。
A 今回はですね、色紙ではありません。志村さんのお母さま妙子さんからこんな言葉をいただきました。
一期一会
 (通常の「がんばる甲州人」では、本人が大切にしている言葉を記した色紙が披露される。今回はその代わりに、この言葉が画面に大きく文字として映し出された)
B 妙子さんから伺ったエピソードによりますと、志村さんは一度だけライブの直前に風邪をひいて、いいパフォーマンスができなかったことがあったそうなんです。その時に電話で妙子さん、次のライブで頑張ればいいじゃないと励ましました。すると志村さんは、次に同じお客さんに会えるかはまあ分からないと、だから今回限りの覚悟で演奏に臨まなくてはいけないんだと話していたそうなんですね。妙子さんそれが最も印象に残っていると話していました。
A はい、この放送自体が志村さんとの一期一会という方もいるかと思うんですよね。
B  そうですね。
A フジファブリックは志村さん亡き後も残った3人のメンバーで活動を続けています。

 「一期一会」、一生に一度だけの機会。志村正彦は、いつもこの言葉の通り、「今回限りの覚悟で演奏に臨まなくてはいけないんだ」と考えて、一つひとつのライブに向き合っていたのだろう。彼らしい「志」である。確かに、残されたどのライブ映像にも、そのような志を宿しているかのような眼差しと佇まいを感じ取ってしまう。歌い手としての責任が強く伝わる。

  ただし、茶道では、「一期一会」を「どの茶会でも一生に一度のものと心得て、主客ともに誠意を尽くすべきだ」という心得だと教えているようだ。この「主客ともに」というのを音楽にあてはめると、「歌い手聴き手ともに」ということになろう。だとすれば、「一期一会」の一つひとつのコンサートを成立させるのは、歌い手側だけではなく、聴き手側の一人ひとりも「誠意を尽くす」ことが不可欠となる。
 このことを、私たち聴き手も忘れるべきではないだろう。

2013年8月4日日曜日

志村正彦に関する番組について (志村正彦LN 42)

 1日、志村正彦に関する番組がNHK総合の「情報まるごと」の枠内で全国放送された。これは、7月23日にNHK甲府放送局で放送された「がんばる甲州人 ロックミュージシャン志村正彦さん」がそのまま「再放送」されるのだと思っていたが、そうではなく、いくつかの異なる点があった。県外の方はNHK甲府の「がんばる甲州人」を未見だろうから、両者の違いを以下示すことにする。(各々を「甲府版」と「総合版」と呼ぶ)

 ・「甲府版」と「総合版」の本編部分の映像は同じで、ナレーションの原稿も同じだが、ナレーターの声は異なるようだ。(断定できないが、ナレーションは新たに録音し直したように聞こえる)映像右上のインポーズ文字も、「ロックミュージシャン志村正彦さん」(甲府版)、「夭折のロッカー 富士吉田に”生きる”」(総合版)というように違っている。

 ・本編前後のアナウンサーによる語りの部分が異なる。「甲府版」では、本編前後にNHK甲府放送局のキャスター二人による丁寧なコメントと、母志村妙子さんによる「一期一会」という言葉と印象深いエピソード(このことについては後に触れたい)の紹介があった。「総合版」では、本編前後に、フジファブリック4人と志村正彦の写真と『陽炎』と『茜色の夕日』のCD音源が流され、キャスター1人によるコメントがあった。 また、番組最後に、視聴者からの「音楽でありながら、文学作品を読んでいるかのような素晴らしさがある」というメールが紹介され、これからも志村さんの音楽が人々に力を与えていく、という二人のキャスターによる暖かい言葉が添えられた。

・題名については、「甲府版」は、「がんばる甲州人」シリーズの1回分としての「ロックミュージシャン志村正彦さん」であるが、「総合版」では、「情報まるごと」の中の一つとしての扱いなので、独立した題名はなかったようだ。(勝手に名づけるなら、映像右上のインポーズ等を考慮して「フジファブリック志村正彦さん 夭折のロッカー富士吉田に”生きる”」になるだろうか)

  以上のことから、NHK総合は、「総合」という全国放送にふさわしいように、NHK甲府制作の番組を「再放送」するのではなく、「番組素材」にして、東京の視点から地域での動きを伝える、新たな番組として放送したように思われる。この方針自体は、番組のキャスターも異なり、全国放送という性格からいっても了解できるが、「志村正彦の特集番組」という期待で視聴された方の中には、ローカル色の濃い内容にやや違和感を持たれた方もいると思われる。このあたりの事情を含め、私が知っている、および書くことのできる範囲で、この番組について伝えるべきことをここで伝えておきたい。

  NHK甲府の「がんばる甲州人」というシリーズは、今この山梨という場で、様々なテーマについて「がんばる」人々(有名無名とか立場に関わらず)を取り上げるもので、すでに亡くなっている人物は対象外というのが基本のようだ。そのような原則から、志村正彦についての番組が実現できるかどうかという壁もあったが、担当ディレクターの熱意と努力によって、局内で了承を得ることができ、制作されることになったそうだ。

  「がんばる甲州人」の趣旨から、志村正彦の人生の軌跡や作品については、小学生の頃やインディーズ時代の写真、『若者のすべて』『茜色の夕日』ライブDVDの映像、実家の部屋の映像(少しだけ映されていたが、彼の楽器や機材、衣装や帽子、所蔵CD・DVD、ファンからの贈り物などの、言葉では言い尽くせないような「かけがえのないもの」が御家族によって大切に保管されている。今回の番組のために特別に公開されたもので、映像として紹介されたのは初のことだろう)、母妙子さんによる、ファンへの感謝や現在の心境が込められたコメントを中心に描かれることになった。
 

 そして、富士吉田を中心に、甲府を含め山梨という地域で、彼の歌を伝えていくことを目的とした活動が分量的にも多く取り上げられた。
 富士吉田で「志村正彦展」を主催し、市の若手プロジェクトと共に「夕方のチャイム」を企画している「路地裏の僕たち」(彼の同級生や先輩後輩たちのグループ)の中心メンバーである渡辺雅人さん(「非営利」という原則のもと、彼は幼馴染である「正彦」のために、純粋に活動を続けてきました)、「Fujifabric International Fan Site」の主催者で、彼の作品を翻訳し海外に発信している杉山麻衣さん(彼女がこの3年間自身のサイトで、翻訳をはじめ、地元での様々な動きを丁寧に粘り強く伝えてきたことをご存知の方は多いでしょう。今回の放送を機に彼女もブログで実名を公開されたので、ここでも実名で記させていただきます)、地域の高校で彼の作品を授業の教材にする試みをしていることから、私が出演させていただくことになった。
 富士吉田から甲府、山梨、日本そして世界へという場の広がり、行政・インターネット・教育という分野の展開、という視点を担当ディレクターが重視したからである。私たちもそのような視点に共感し、番組作りに協力させていただき、あのような構成となった。

 貴重なものとしては、自分の作詞の方法について述べた録音(2009年12月14日、亡くなる十日前に収録されたもので、関係者の特別な配慮により放送された)に残された彼の元気そうな声が、ファンにとって思いがけない大切な贈り物となっただろう。
 最後に、『茜色の夕日』のチャイム、新倉浅間神社で開催された「志村正彦を謳う会」、フランスから来た男の子による『タイムマシーン』の演奏シーン、あの場に集まった志村正彦を愛する人々の様子に焦点を当てて、志村正彦の歌が今も確かに人々の心の中で生き続けていることを伝えていた。担当ディレクター、出演者、そしてあの場にいたすべての人々の想いがあの番組には凝縮されていて、視聴した人々の記憶に残る番組となったと考えている。

  全国放送された「総合版」を視聴された方は、このような趣旨と経緯によって、今回の番組はあのような構成と内容になったことを御理解いただきたいと思います。(担当ディレクターを代弁するような言い方で申し訳ありませんが、出演者の立場からしてもそのように考えています) 今回の番組を契機にして、志村正彦に関するより本格的な番組を、時間を長くして、より多くの人に取材し、より多くの音楽や映像や資料を使って、制作し放送されることを、私自身が強く望んでいます。そして、そのように望む皆が、一人ひとり各自の声を届けていけばよいと考えています。

付記
 この《偶景web》は表現者としての私の場であるので、これまであえて、本職である教師の仕事については触れませんでした。この二つの立場は相互に独立してあるべきだ、というのが私の基本姿勢です。(もちろん、一人の同じ人間ですので重なってしまうことも時にはあるかもしれませんが、そのことには自覚的でありたいと考えています)
 教師としては、ここ2年半ほど、勤め先の高校の「小論文」という科目を中心に「志村正彦の歌について書き、語り合う」授業を実践してきました。ただし、このブログで書いているような私自身の解釈を授業で生徒に伝えることはしていません。そのような行為は、生徒が志村正彦の歌に向き合うことの妨げになるからです。生徒は、教師から受け取る先入観のない状態で、自由に素直に、彼の歌そして彼の歌を聴いている自分自身に向き合い、感じ、考えたことを書く。そして生徒同士で語りあう。これが私の授業の原則です。その結果、生徒は皆、私の予想を超えて、深い感受性と高い分析力を発揮し、すばらしい文を書きました。私自身、志村正彦の作品が十代の若者に与える力の大きさと、多様な解釈を生み出す豊かさと深さを実感しました。
 この試みが2011年6月に「山梨日日新聞」で沢登雄太記者によって紹介され、その記事がきっかけとなって、その年の12月の「志村正彦展 路地裏の僕たち」で生徒および私の文章がパネルとして展示されました。このときに、まったく思いがけなく、志村さんの御家族との出会いがありました。生徒の文を丁寧に読んでいただいたことを知り、とても感激し、このような授業をする上での励ましともなりました。また、杉山さんとも知り合うことができ、このようなブログを始める勇気をいただきました。
 ですから振り返ってみると、あの授業を始めたからこそ、かけがえのない出会いがあり、この《偶景web》の「志村正彦ライナーノーツ」が存在していることは確かです。