ページ

2018年6月24日日曜日

「渚」の脱構築-『NAGISAにて』1[志村正彦LN183]

 先週の日曜日、山中湖の平野に所用で行った。梅雨の季節のせいか人通りは少ない。このあたりはテニスコートが多いが閑散としている。少し時間があったので車で湖畔を一周していくと、すぐに「山中湖交流プラザきらら」を通り過ぎた。あの「SWEET LOVE SHOWER」の会場。何年前だろうか。フェス当日にたまたまこの道を通ったことがあるが、すごい賑わいと渋滞だった。会場から漏れる音が車内まで届いていた。

 山中湖というといつも思い浮かべる光景がある。子供の頃の夏休み、毎年のように湖畔の会社寮に出かけた。親戚が集まり、東京に住む従兄弟と会えるのが楽しみだった。60年代後半の頃だろう。ある年の夏、湖畔の砂浜に大勢の若者たち、二十歳前後の男女が夏のカラフルな装いをしているのを見かけた。山梨には海がないので、湖畔の浜辺が海のそれを代用していたのだろう。夏の水際の若者たちの姿がずっと記憶に残っている。
 
 山中湖のかつての光景からの連想で、今日はフジファブリック『NAGISAにて』(詞・曲:志村正彦)を取り上げたい。2004年7月14日、2ndシングル『陽炎』のB面としてリリース。アルバム『シングルB面集 2004-2009』にも収録されている。
 レトロなポップス風の軽快な楽曲に、捉えかたによってはかなり複雑な物語がのせられた不思議な作品。最初に聴いた時の戸惑いを思いだしながらこの歌について書いてみたい。


  お嬢さん お願いですから泣かないで
  ならどうぞ 宜しければどうぞ ハンカチを

  辺りを埋める 潮風の匂い

  お嬢さん 泣いてるお暇が有るのなら
  すぐちょっと 気晴らしにちょっと 散歩でも

 「NAGISA」で「お嬢さん」が泣いている。
 理由は分からない。この情景と状況がこの歌のモチーフをなす。「お嬢さん」という古風で丁寧な物言いにまず戸惑う。ラブソング的な展開が自然に浮んでくるのだが、最初から紆余曲折が予想される。歌の主体と「お嬢さん」との間の距離を伝えているようでもある。

 歌の主体は「お願いですから泣かないで」と思う。
 ここまでであればひとまず、歌の主体と「お嬢さん」との間の男女の物語が浮かび上がる。しかし、次の一節に移ると、この物語は不思議な展開をしていく。「ならどうぞ」そうであるならばどうぞと、主体は次の行動を用意する。(「なら」「ならば」というのは、作者の志村正彦がしばしば使う「つなぎの言葉」だ)その行動は「宜しければどうぞ ハンカチを」というものだ。この二人はどういう関係なのかというと聴き手は問いかけるだろう。少なくとも恋愛関係にある相手に対して「宜しければどうぞ ハンカチを」と差し出すのは奇異だ。もしかすると、この「お嬢さん」はこの渚でたまたま出会った女性なのかもしれない。とにかく、歌の主体と「お嬢さん」との関係性が読み取りにくい。

 さらにこの物語は不思議な展開をする。
 「お嬢さん」が「泣いているお暇が有るのなら」という条件のもとで、歌の主体は「すぐちょっと 気晴らしにちょっと 散歩でも」と呼びかけようとする。「お暇」ゆえの「気晴らし」ゆえの「散歩」の提案。この二人にはどうやら何の関係もないことが確かになる。「ハンカチ」と「散歩」は見知らぬ女性に対する男性のアプローチの言葉ともとれる。それも古風な小説のようで生き生きした現実感がない。すべてが歌の主体の想像あるいは妄想のような気もしてくる。
 「辺りを埋める 潮風の匂い」とあるので、歌の主体と「お嬢さん」が潮風の匂いが立ちこめる「NAGISA」にいることは間違いないのだが、それすらも何か幻のようにも感じられる。

  言える訳もない 言える訳もないから

 続く一節で歌の主体は「言える訳もない」を二度繰り返している。
 なぜ「言える訳もない」のだろうか。言うことが全く不可能なのだろか。この疑問に立ち止まると、ここにまで至る物語の展開が、歌の主体の純然たる「想像」あるいは「妄想」だという可能性がにわかに高まってくる。想像あるいは妄想であれば、歌の主体は「お嬢さん」に言葉を投げかけ、「ハンカチ」を上げて「散歩」に誘うこともできるだろう。しかし、歌の主体は何も言えない。言う欲望がないのか、言う勇気がないのか。すでに想像してしまったのであえて言う必要がないのか。どのような「訳」があるのか分からないが「言える訳もない」。そして「言える訳もないから」こそ、主体は「言う」存在から「見る」存在へと転換していく。

  渚にて泣いていた 貴方の肩は震えていたよ
  波風が駆け抜けて 貴方の涙 落としてゆくよ

 歌の主体はこの光景を眺めている。
 「お嬢さん」は「貴方」へと言い換えられる。主体は、「貴方」の肩が震えたり涙を落としたりする光景を見ることのできる位置にいるのだが、「貴方」と歌の主体との距離はより広がっている。主体は「見る」存在、「貴方」は「見られる」存在に固定されている。主体の眼差しの中に「貴方」は捉えられる。映画のカメラのフレームの中に収まるかのように。

  渚にて泣いていた 貴方の肩は震えていたよ
  波音が際立てた 揺れる二人の 後ろ姿を

 最後の一節で「揺れる二人」が登場する。
 それも「後ろ姿」であるので、この「二人」を背後から見つめる「眼差し」がある。映画のカメラのフレームが拡大していき、より広い情景が映し出される。この情景を眺めている者はだれか。カメラの視線を操る者は誰なのか。

 少なくとも二つの捉え方がある。
 一つ目は作中人物としての歌の主体が眺めているという捉え方だ。主体は一貫して「貴方」の方向を見ているが、この場面で「二人」が登場するとしたら、「お嬢さん」の隣に新しい第三の人物が現れると解釈できる。その新しい登場人物こそが「お嬢さん」の恋人なのかもしれない。あまりに唐突な第三の人物の登場ゆえに、この捉え方にはかなりの無理があるだろうが。

 もう一つの捉え方がある。
 この最後の一節で、歌の作中人物としての「主体」と歌の物語を語る「話者」(作者の分身)が分離して、歌の話者が、歌の主体と「お嬢さん」の二人を眺めているという捉え方だ。この場合、歌の話者と歌の主体はどちらも作者の分身であろう。作者が話者(物語の語り手)となって、物語の世界の中の自分(想像の中の自分)を語っているという構造である。
 筆者は後者の捉え方をしたいが、前者も可能だろう。もっと別の考え方もあるだろう。志村のつくる「歌=物語」の豊かさ、面白さである。

 物語のラストシーンで登場する「二人」。
 先ほど述べたように、この「渚」には、歌の主体と、彼が渚で遭遇し妄想の関係を結ぶことになった「お嬢さん」の「二人」がいると仮定しよう。彼らが「揺れる二人」であることがこの情景の中心のイメージとなっている。この二人の間に何かの関係性があって「揺れる」のではない。この二人の間には何もない。出来事は起きない。二人が言葉を交わすことなく、「波音」だけが聞こえてくる。そうだとすると、一人ひとりがおのおのの理由で「揺れる」。そのようにして二人が揺れている。奇妙な解釈かもしれないがあえてそうしたい。そうすると、おのおのの孤独だけが浮かび上がってくる。この「渚」にはおのおのの孤独を抱えた二人、交わらない男女がいるのだ。

 『NAGISAにて』のサウンドは、60年代の「湘南ポップス」やグループサウンズを再解釈した楽曲である。歌詞の世界も、数多くある「渚」のラブソングの物語を反転させている。かつての若者が熱狂した現代思想的な語彙を使うならば、作者の志村正彦はラブソングを「脱構築」したと言えよう。だからこそ『渚にて』ではなく『NAGISAにて』という題名を与えたのかもしれない。

2018年6月18日月曜日

花を植えたい 『ムーンライト』[志村正彦LN182]

 フジファブリック『ムーンライト』は、『蜃気楼』と共に6thシングル『茜色の夕日』のカップリング曲としてリリースされた。アルバムでは『シングルB面集 2004-2009』に収録されている。このところこのCDをよくかけるのだが、『蜃気楼』の次が『ムーンライト』という曲順なので、この二曲を続けて聴くことになる。
 『ムーンライト』(詞・曲:志村正彦)の歌詞を引用してみよう。


  今日はなんか不思議な気分さ
  大きなテーマを考えたいのさ

  そう例えば 人類の夢とか
  想像は果てなく続く

  ムーンライトが照らした

  いつの日かクレーターに潜ってみたり
  惑星を眺めつつ花を植えたい

  さあ行こうか 大空
  ワープですり抜けて 飛び出して行こう

  ムーンライトが照らした

  いつの日かクレーターに潜ってみたり
  惑星を眺めつつ花を植えたい


 いかにも不安で下降していく音調の『蜃気楼』が終わり、明るく軽快に上昇していくかのような『ムーンライト』のイントロが奏でられると、曲が流れる部屋の雰囲気が一変する。
 「今日はなんか不思議な気分さ/大きなテーマを考えたいのさ」「そう例えば 人類の夢とか/想像は果てなく続く」という志村の声に促されるように、こちらもおおらかな気持ちになっいく。そうか、「夢」とか「想像」を自由に広げていけばよいのだ。のびやかなメロディやリズムに乗って、想像のスクリーンにいろいろなものを浮かべて。聴き手にそのような遊びを与えるのはこの歌の素晴らしさだ。

 志村のスクリーンには「ムーンライトが照らした」世界が登場した。この歌の主体は「ワープですり抜けて」「大空」に飛び出して行く。宇宙飛行や宇宙遊泳という夢の世界が背景となっているが、歌詞の舞台はあくまで「ムーンライト」、「月」という場に限定されている。「月」は彼が繰り返し表現したモチーフだが、志村は「月」や「月の光」の情感を何よりも愛した。月の海の「クレーター」に潜ってみたり、「惑星」を、これは月から見た地球のことだろうが、眺めてみたり、月面での遊泳は、重力から解き放されたように、軽やかに戯れることができる。そしてここで「花を植えたい」という表現が現れ出る。
 「花」という言葉の反復。「僕は読み返しては感動している」、『桜の季節』の歌詞に倣ってそのように記してもよいだろうか。

 「志村正彦の花」とでも名付けたい花々がある。部屋の窓ごしの花、野に咲く花、路地裏の花。その花々に、『蜃気楼』では「おぼろげに見える彼方」に咲く「鮮やかな花」が、さらに『ムーンライト』では月面か宇宙のどこかに植えたい「花」が加わる。部屋の窓や路地裏という身近な小さな場所から空の彼方、月や宇宙へと、花の咲く空間が広がっていく。花に対する想像力が自由に羽ばたいていく。これはこれで花についての「大きなテーマ」になるのかもしれない。

 人間の織りなす世界から遠く隔てられているからこそ花は美しい。人間にとって他なるものであるからこそ花には恵みがある。微少なものかもしれないが恩寵がある。志村は花を慈しみ、花を歌い続けた。

2018年6月9日土曜日

もう一つの短編映画-『蜃気楼』10[志村正彦LN181]

 フジファブリック『蜃気楼』について断続的に書いてきたが、今回でひとまずの区切りにしたい。これまでの考察と重複するところもあるが、完結編として記述してみたい。

 『スクラップ・ヘブン』パンフレット(オフィス・シロウズ、2005/10/8)掲載の「DIALOGUE  李相日×志村正彦(フジファブリック)」という対談の冒頭の部分には、この曲の依頼の経緯についての重要なコメントがある。


『スクラップ・ヘブン』パンフレット表紙


李  最初に、エンディングに劇中音楽を流した状態で見てもらったんですよね。

志村 エンディングテーマを作るというのが初めてだったんで、まずは映画を見てから返事をさせてくださいって言って。映画は……素人っぽい感想なんですけど、見ていてすごいハラハラしました。

李  (笑)

志村 僕自身、「こうなったらいいな」とか「こうならなくてよかったな」とか思うことが、実際の生活の中でも夢の中でもよくあるんですけど、そのふたつって紙一重だと思うんですよね。どっちに踏み出すかによって結果が変わってくるんだけど、『スクラップ・ヘブン』にはその両方が描かれているというか。ヒーローになりたい気持ちがありながら、逆の方向に転んでしまったり。そういう紙一重なところが、普段僕が考えていることと通じる気がしました。

李  最初の打ち合わせの時、ふたりきりなら志村さんも素直に感想を言えたんだろうけど、まわりに人がいっぱいいたからお互いあんまり話せなくて、「後はこっそりメールで」ってことにして。

志村 メールでやりとりできたのがよかったですね。

李  具体的に何を書いたのか覚えていないけど、「この映画って、見終わってはてなマークが出る人が大勢いるだろうから、そこを曲でカバーしてください」みたいなお願いのしかたでしたよね、確か。エンディングの画が終わったら、そこから先は別ものっていう考え方の監督もいるけど、僕はエンディングテーマもひっくるめて一本の映画というふうにしたくて。エンドロールって、映画の余韻を味わったり振り返ったりするコーヒータイムみたいなものだと思うんです。

志村 読後感っていうんですか、そういう「映画を見終わった感」が出せればいいなと思って、同時に曲単体でもいいものを作りたかった。結果的にはその両方ができてよかったなと。


 李監督が最初に流した劇中音楽は、映画DVDに六曲のサウンドトラックとして収録されている。音楽監督の會田茂一による80年代のインダストリアル・ロック調の曲で、會田茂一、中村達也、佐藤研二、生江匠、二杉昌夫が演奏している。映画の鬱屈した雰囲気とテンポを巧みに表しているが、すべてインストルメンタルで歌詞もない。エンディングのテーマ曲にはふつう歌詞があるので、この劇中音楽をそのまま使うことはできなかったのだろう。

 李監督が「見終わってはてなマークが出る人が大勢いるだろうから」と述べているのは、志村正彦が繰り返し言及している言葉によれば、「絶望」と「希望」あるいはそのどちらともいえない状況、その「紙一重」の状況があるからだ。映画のエンディングをどのように受けとめるのか。その意味合いをどう解釈したらよいのか。どちらともいえない、いいきれないような「決定不能」のところがある。それゆえに監督は「そこを曲でカバーしてください」と志村に依頼した。テーマ曲にゆだねようとした。そういうわけで、エンディングの映像とテーマ曲を複合させ、ある種の補填や相乗の効果によって映画『スクラップ・ヘブン』を完結させる、そのような重大な使命が志村に課せられた。彼自身この映画を相当に気に入ったようで、その使命を受け制作する決断をした。

 「こうなったらいいな」「こうならなくてよかったな」というような紙一重の状況。実際の生活の中でも夢の中でも、そのような紙一重の状況に遭遇すると答えているのが興味深い。志村の作品には、二つの状況や系列、テーマやモチーフが同時に進行して、ある時に重なりある時に離れていくという展開がしばしば見られるが、このような展開は、この彼自身の「紙一重」という感性の在り方に影響されている。

 志村は制作の過程で『スクラップ・ヘブン』の世界、受け入れがたい今日の世界の在り方をまずはじめに自らの鬱屈した声と不気味な楽曲の音色で描いていった。その次の段階で、声と楽曲の陰鬱な調子と歌詞による言葉の世界を分離させていき、「こうなったらいいな」という希望の物語を紡ぎ出していった。

 もう一度、 フジファブリック『蜃気楼』のCD収録のオリジナル音源(以下「CD版」と記す)と映画のエンディング使用音源(以下「映画版」と記す)の二つの歌詞の色分けして引用したい。CD版のみにあって映画版にはない部分を赤字で示す。


   三叉路でウララ 右往左往
   果てなく続く摩天楼

   喉はカラカラ ほんとは
   月を眺めていると

   この素晴らしき世界に降り注ぐ雨が止み
   新たな息吹上げるものたちが顔を出している

   おぼろげに見える彼方まで
   鮮やかな花を咲かせよう

   蜃気楼… 蜃気楼…

   この素晴らしき世界に僕は踊らされている
   消えてくものも 生まれてくるものもみな踊ってる

   おぼろげに見える彼方まで
   鮮やかな花を咲かせよう

   蜃気楼… 蜃気楼…


 CD版と映画版の差異は、第2連から5連までの赤字の部分の有無である。映画版にはない部分は「この素晴らしき世界」に降り注ぐ「雨」が止むという情景が鍵となる。『陽炎』や『虹』もそうであるように、志村正彦は雨上がりの世界をよく歌った。雨が降りやむと新しい風景や出来事が現れる。『蜃気楼』の場合、「新たな息吹上げるものたち」が顔を出す。この息吹、命あるものは歌詞の展開上、「鮮やかな花」であろう。
 初期の作品『花』には「つぼみ開こうか迷う花 見ていた」という一節がある。花の開花する過程、その時間を見つめている。『蜃気楼』にも「息吹上げる」という過程への眼差しがある。花の生育の過程を志村は愛おしく感じていたのだろう。

 「おぼろげに見える彼方」には、楽曲の風景の核にある「蜃気楼」というイメージが投影されている。蜃気楼には色彩感があまり感じられない。空の薄暗い灰色やかすかな青色が混じり合ったような世界、どちらかというと色のないモノクロームの風景のような気がする。その彼方に登場する「鮮やかな花」は、色彩感のあまりない蜃気楼の風景の中でひときわ鮮やかに輝く。花の鮮やかな彩りが蜃気楼の世界に新たな命を吹き込むかのように。そして、映画のエンディングの欠落したシーンを補填するかのように。
 映画版の歌詞にはこの赤字の部分が省略されているのでこのプロセスがつかみにくいが、CD版の歌詞を補うことで「鮮やかな花」の出現する意味合いをたどることができる。

 『スクラップ・ヘブン』には「世界の消滅」というテーマがある。登場人物の三人、偶然出会ったテツ、シンゴ、サキはおのおの「世界を一瞬で消す」欲望のために行動する。世界の消滅への欲望は反転すると、自己自身に回帰してくる。この物語も停滞したり遅延したりしていく。見いだしたものが失われていく。失われたものが再び見いだされる。混乱し錯綜していく。

 映画のラストシーン。シンゴは意を決したかのように、サキが製造した「世界を一瞬で消す」小瓶を空に放り投げる。その小瓶はたまたま通りがかった廃品回収のトラックにそのまま落下する。ゴミがクッションになって破裂することはなかった。「世界の消滅への欲望」はそのようにして終わる。呆気なく、まるで憑き物が落ちたかのように。テーマの中心がずらされていく。何が一体起こったのだろうか。何がこれから起こるのだろうか。
 このラストシーンからは、「世界の消滅への欲望」から「消滅」という項目が脱落してしまったとも考えられる。そうすると不思議なことに、「世界の消滅への欲望」が「世界への欲望」へとゆるやかに反転していく。シンゴは新たに「世界への欲望」へと歩み始めねばならない。そのような未来の方向も読み取れるかもしれない。映画の観客も一人ひとり、その方向を想像していくように促されている。

 志村正彦は上記の対談で「エンディング曲」と共に「曲単体」としても良い作品であることを求めたと述べている。「結果的にはその両方ができてよかったなと」と発言しているが、確かに、というか志村の評価以上に、『蜃気楼』はその二つの目的が高い次元で達成されている。
 志村自身は新たな「世界への欲望」を「鮮やかな花を咲かせよう」という欲望として描いた。自らの想像力によって、映画の結末の彼方に「蜃気楼」と「花」を出現させた。
 だから実質的には、『スクラップ・ヘブン』という2時間の映画の本編終了後に、『蜃気楼』という作品、もう一つの『スクラップ・ヘブン』、あり得るかもしれない数分の短編映画を創り上げたとも考えられる。