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2017年5月29日月曜日

花の季節

 このブログを書いているテーブルからは窓越しに小さな花壇が見える。小さい花たちが惜しみなく彩りを風景に放っている。赤のチェリーセージ、薄紫のジャーマンアイリス、ピンクのバレリーナという名のバラ。冬からなんとか持ちこたえているパンジーとビオラ。少し気温が上がり過ぎ、その強い日差しに耐えているが、そろそろ終わりそうな気配も漂う。
 この花の季節が過ぎたら初夏を迎えるのだろう。

 『セレナーデ』の一節、「明日は君にとって 幸せでありますように/そしてそれを僕に 分けてくれ」に込められた《祈り》について考えあぐねている。そんな時は書くのを止めてほんとうに好きな作家を読むようにしている。例えば須賀敦子の散文。《祈り》という主題であれば須賀の言葉ほどふさわしいものはない。

 『須賀敦子全集』を読み返すのは三度目か。ゆっくりと読み進めていく。第8巻の書簡に次の手紙が収められていた。1960年2月21日、ローマにいる須賀敦子がミラノの住むペッピーノにあてたものだ。現代作家の書簡を読むのは私生活をのぞきこむようで後ろめたい気持ちにもなるが、もともとイタリア語で書かれたものを翻訳者が訳したものなので、《作品》として受けとめることもできる。

 ミラノではまだ雪が降っているのでしょうか。こちらでは、私の窓の下のスイス人学校の庭のアーモンドの花はもう終わりました。ヨーロッパの大部分の花と同じように「ビジネスライク」に咲くのです!こうした、ただたんに果実を得るためだけに花を咲かせるということを、こうもあからさまに示す樹木を見ていると、なんだか悲しい気持ちにさせられるものがあります。私には、日本の花の独特の美しさは、少なくとも部分的には、その花の、まるで花開きながら遊ぼうとでもしているような、そんな咲き方にあるように思えるのです……こんな説明の仕方でわかっていただけるでしょうか。
 いずれにしても、なにもかもありがとうございます、そして私のためにたくさん祈ってください。私のために、遊びのように、祈ってください……。

 「ビジネスライク」なヨーロッパの大部分の花に対して、「花開きながら遊ぼうとでもしているような」日本の花。対比の感受が独特だ。そのような花の捉え方が、「私のために、遊びのように、祈ってください」という《祈り》に重ねられていく。
 このとき須賀敦子は三十一歳。後に夫となるペッピーノ(ジュゼッペ・リッカ)と毎日のように手紙を交換していた。年譜を読むと「ミラノでペッピーノと祈りについて語り合う」という記述もある。イタリアのカトリック左派の拠点であったコルシア書店という場で二人は出会った。

 小さな花壇を見ているときに、この手紙の言葉が風景に重なってきた。花のような存在に向けた《祈り》があるとしたらそれはどのようなものか。ぼんやりと想いが巡るだけで、言葉はつながらない。そうこうしているうちに、志村正彦の歌詞が浮かんできた。


  蜃気楼… 蜃気楼…

  この素晴らしき世界に僕は踊らされている
  消えてくものも 生まれてくるものもみな踊ってる

  おぼろげに見える彼方まで
  鮮やかな花を咲かせよう        (『蜃気楼』)


 「蜃気楼」がゆらめく世界の彼方まで「鮮やかな花を咲かせよう」とは、いうまでもなく《祈り》の言葉である。聴き手はそれを意識しないが、意識しないがゆえに、それはそのものとしてたどりつく。

2017年5月5日金曜日

『セレナーデ』と『夜汽車』 [志村正彦LN158]

 志村正彦・フジファブリック『セレナーデ』について調べようとしたが、雑誌でもインターネットでも関連記事が見つからない。一つだけ、ドラムを担当した城戸紘志が自身のwebで、「フジファブリックの10thシングルは珠玉のバラードです。セレナーデでは、いつかしてみたかった一人オーケストラに挑戦しました。」と述べていた。この「一人オーケストラ」が具体的に何を指すか分からないのが残念だがが、彼のドラムが『セレナーデ』の重要なアクセントになっていることは間違いない。
 歌詞の[3b-4c][6b-7c]のブロック、「セレナーデ」が「僕」を「眠りの森」へと誘い込む場面で、城戸の敲くリズムは催眠のような効果を果たしている。bcメロディの展開と反復を彼のドラムが支えていると言ってもよいだろう。


 あらためて『セレナーデ』を聴くと、最初から最後まで通奏音のように流れる虫の音や小川のせせらぎがいつどこで録音されたのか、という問いが生まれる。
 志村正彦は、高校の教室の音や高速道路の音を録音していたというエピソードがあるように、相当な録音マニアだったようだ。『セレナーデ』の自然の原音についての事実は知らないが、何となく、彼の故郷の地で録音されたものではないかなどと想像してしまう。僕の住む甲府でも、虫の音で季節の変化を感じ取ったり、時には虫の音の大きさに眠りが邪魔されたりすることがある。眠りにつこうとする意識が外の世界、自然の世界へと少しずつ連れ出されそうになる。そのうち虫の音にも慣れていき、眠りの世界に落ちていくのだが。

 虫の音や小川のせせらぎ、自然の奏でる通奏音。言葉のない世界の「鈴みたいに鳴いてる その歌」に誘われるように、「僕」は「口笛」を吹き、自らの声で歌い始める。その言葉は、[1a-2a-5a]そして[8c]に結実している。それは「僕」が「君」に伝えようとする「本当の事」なのだろう。ここで「本当の事」という言い回しをしたのは『夜汽車』という作品が念頭にあるからだ。
 『夜汽車』の歌詞の一部を引用する。志村作品の中で「眠りの森」という表現が出てくるのは、『夜汽車』と『セレナーデ』の二つだけである。


  話し疲れたあなたは 眠りの森へ行く

  夜汽車が峠を越える頃 そっと
  静かにあなたに本当の事を言おう   (『夜汽車』) 


 夜汽車の車中で、「あなた」は「眠りの森」へ入り込む。歌の主体はその「あなた」に向かって、「そっと静かに」「本当の事」を言おうとする。でもおそらく、「眠りの森」の中にいる「あなた」に「本当の事」が伝わることはない。そもそも「本当の事」を「言おう」としても、それが声として語られることはないようにも思われる。「本当の事」とは何か。『夜汽車』の聴き手であれば、その問いを抱え続けるだろう。
 今回書き続けていくうちに、それに近い言葉があるとするのなら、『セレナーデ』のこの一節ではないだろうか、という想いが浮かんできた。それも「眠りの森」の夢の舞台で、そっと静かに語られたような気がする。「本当の事」は本当の想いであればあるほど、面と向かって相手には伝えられない。『セレナーデ』は夢の世界を設け、現実を隔てることで、「本当の事」を歌った。夢の中の言葉であるから、「君」に届くことはなく、消えてしまうのかもしれないが。「僕」と「君」の夢の記憶としていつまでも残り続ける。そう祈りたい。


  明日は君にとって 幸せでありますように
  そしてそれを僕に 分けてくれ      (『セレナーデ』)