ページ

2019年1月31日木曜日

無垢なるものの軌跡-『陽炎』10[志村正彦LN208]

 昨年の夏から断続的にフジファブリック『陽炎』(作詞作曲:志村正彦)について書いてきたが、十回目の今回でひとまず区切りとしたい。
 『陽炎』はこのように終わる。


  遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる

  陽炎が揺れてる


 「陽炎が揺れてる」は三度繰り返されるが、歌い方はかなり異なる。最後の歌い方はどうだろうか。揺れているものが静止していくように感じられないだろうか。陽炎は揺れてやがて消えていく。過去の物語も現在の物語も、過去の回想も現在の回想も静けさに包まれる。志村正彦はそのように歌い終えている。

 志村の歌が消えていくとかなり長いアウトロの演奏が続く。ライブではメンバー紹介の時間でもあった。歌い終わった『陽炎』の世界の残像を、コーラス、ギター、ベースそしてピアノが追いかけていくかのように。最後にピアノの鍵盤が残像を打ち切るかのように敲かれ、音が途切れるように消えていく。何度聴いてもこの金澤ダイスケの演奏は素晴らしい。『陽炎』が揺れて消えていく。動き続けている何かが終わってしまったという感覚が強く残る。ミュージックビデオは女性が目覚まし時計を地面に落とすシーンで終わっている。時が揺れて静止する。

 前回まで二回続けて、荒井由実と志村正彦について考えてきた。デビューした時代や男女の性差を超えて、プログレッシブロック風味の翳りのある楽曲とともに、この二人には「無垢なるもの」をどう描いていくかという歌詞のテーマにつながりがある。


 無垢なるものが失われていくことを予感のように抱えながらも、まだ失われていないもの、自らの中にあり続けるものを見つめること。失われていくものをいつまでも抱えるのではなく、それを受けとめ、歌に表現することによって、無垢なるものの彼方へと、次第に自己を解き放っていくこと。


 この二人の歌からそのような感受性の軌跡が聞こえてこないだろうか。実際の音楽家としての人生には大きな違いがあるのだが。荒井由実は荒井由実から離れて、松任谷由実へと自ら変身していった。荒井由実の世界はおおかた失われてしまったが、その残像のようなものは松任谷由実にも引き継がれている。
 志村正彦の場合、『茜色の夕日』から『若者のすべて』へ、アルバムで言えば1st『フジファブリック』から3rd『TEENAGER』へと、「無垢なるもの」の世界のあるものは存続しあるものは消失していった。

 そのような観点から『陽炎』を振り返ると、次の一節があらためて浮かび上がってくる。


  きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
  きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう


 「今では無くなったもの」と「あの人」の対比は、具体的な物語や人物があるのだろうが、作者の内面に光を当てると、失われてしまったもののとまだ失われていないで自らの中にあり続けるものとの対比とも捉えられる。その喪失の対象は具体的な文脈を超えれば「無垢なるもの」の世界だといってもいい。「無垢なるもの」が揺れているのだ。

 『陽炎』はフジファブリックのライブの最後で演奏されることが多かった。特に2008年5月の富士吉田市民会館でのライブ映像が記憶に残る。アンコールの2曲目、全体の最後の曲が『陽炎』だった。志村正彦はステージの前に出て,ギターを激しくかき鳴らす。彼の中にある種の激しさが解き放たれてゆく。無垢なるものの彼方へと自己を解き放つかのように。

 アンコールの1曲目で『茜色の夕日』は、無垢なるものを愛おしむように歌われていた。志村にとってのこの曲の存在の大きさがあらためて感じられた。2曲目『陽炎』は、失われてしまった無垢なるものとまだ失われていないで自らの中にあり続けるもの、そして無垢なるものの向こう側へと解き放たれていくもの、その三つの動きが感じられた。
 故郷富士吉田のライブでは、『茜色の夕日』から『陽炎』へと、無垢なるもののとその彼方への軌跡が歌われ、奏でられていった。
 志村正彦にとっての必然であった。

2019年1月23日水曜日

荒井由実と志村正彦-『陽炎』9[志村正彦LN207]

 荒井由実『ひこうき雲』の一番の歌詞を再び引用したい。


  白い坂道が 空まで続いていた
  ゆらゆらかげろうが あの子を包む
  誰も気づかず ただひとり
  あの子は 昇っていく
  何もおそれない そして舞い上がる 

  空に 憧れて 空を かけてゆく
  あの子の命は ひこうき雲

   
 荒井由実『ひこうき雲』を聴いた者は誰でも、「誰も気づかず ただひとり/あの子は 昇っていく」「空を かけてゆく」という展開と「あの子の命はひこうき雲」という比喩から、「あの子」の「死」を描いた作品であると受けとめるだろう。

 この歌の背景には、小学校時代の同級生の男子が高校一年の時に無くなったという出来事がある。作者自身が『ルージュの伝言』(角川書店 1983/01)という本でそう述べている。その男の子は難病を患っていた。小学校以来会ったことはなく、葬儀で見た写真は高校生の顔をしていた。作者の知らない「あの子」の時の流れがあった。「何もおそれない そして舞い上がる」という詩句から、「あの子」の持つ強い意志のようなものも伝わってくる。何もおそれることなく自らの道を歩んでいく孤高の若者の存在が浮かび上がる。それにしても「何もおそれない」という言葉は重い。荒井由実の歌詞が優れているのはこのような断言の純粋な強さであろう。

 5行目までは「かげろう」に包まれて昇天していく「あの子」の生と死の描写であるが、6行目の「空に 憧れて 空を かけてゆく」では歌い方が幾分か転換する。「空」への「憧れ」は、「あの子」だけが抱いたものではなく、作者が抱いたものでもあるのだろう。そのように聞こえてくる。最後の7行目になると、「かげろう」というイメージが「ひこうき雲」に繫がっていく。「かげろう」が消えていき、「ひこうき雲」が大空に線を描いていく。それも次第に消失していき、「あの子の命」が虚空をかけてゆく。

 荒井由実は「あの子の命」を「ひこうき雲」に喩えた。飛行機のジェットエンジンによって生成された水蒸気の雲は自然の現象とも言えるが、その原動力は人工的なものである。飛翔する動力の軌跡である。
 日本の詩歌の伝統では、命や死を人工的な飛行機雲に喩えることはなかっただろう。死は自然の移ろいとして表現されてきた。「ひこうき雲」による比喩は新しい感受性の登場を告げている。飛行機雲が流れる現代の空の風景。その風景に若者の死が重ね合わされていく。70年代初頭の日本語ロック、ポップスはこのような表現を成し遂げたのだ。

 歌の主体は「あの子」の死に対して過剰な感情を込めているのではない。他者の死への過剰な感情の投影は、自己愛や自己憐憫の発露にもなりかねない。歌の主体は「かげろう」によって「あの子」の現実から隔てられている。作者が「あの子」の小学生から高校生までの時間から隔てられていたように。その隔たりの感覚がむしろこの美しい歌を純粋な哀しみの歌に昇華させている。

 荒井由実の声には透明感がある。彼女の声は、感情を伝えるというよりも感覚を伝える。この時代の都市音楽にふさわしい声の誕生だったかもしれない。イギリスのプログレッシブロック、特にプロコロハルムに影響されたという楽曲には硬質で透明な響きがある。ギター鈴木茂、ベース細野晴臣、キーボード松任谷正隆、ドラム林立夫というバックバンドは、その響きに潤いや柔らかさを与えている。よく言われることだが、イギリス的な端正で重厚な響きとアメリカ的なうねりのあるサウンドが綺麗に融合している
 昇天していくような多分にキリスト教的なイメージがあるが、ミッション系の中学高校で学び、パイプオルガンに親しんでいた荒井由実にとっては身近なものだったのかもしれない。

 前回言及したように、志村正彦は荒井由実のアルバム『ひこうき雲』を「ロックを感じるCD3枚」の1枚目に挙げている。
 『Rooftop』掲載の志村正彦(フジファブリック)とクボケンジ(メレンゲ)の対談、「新宿ロフトで出会い、共に“SONG-CRUX”卒業生の2人が語る内なる“ロック”的なもの」(2004.11.15 interview:Hiroko Higuchi)で、「ロックを感じるCD3枚」について、二人が一枚ずつコメントしている。志村の発言を抜き出してみる。


──では、志村君の1枚は?

志村 荒井由実の『ひこうき雲』です

──これはいつ頃手にしたの?

志村 2〜3年前です。比較的最近なんですよ。曲が良いのはもちろんなんですけど、バックの演奏とか凄いんですよね〜

クボ 何気に凄いよね

志村 バックがティン・パン・アレーなんですよね。凄いファンキーなんです。あと、少女が思ったことを真剣にやっている気がして。そういうの凄い好きだなぁって

クボ 女の子しか判らない世界っていいよね


 ちなみに志村の2枚目はブラジルのエドゥ・ロボの『エドゥ・ロボ』、3枚目はレッド・ツェッペリンの『PHYSICAL GRAFFITI』である。2004年というインタビューの時期からすると、『ひこうき雲』を入手した「2〜3年前」は2001から2002年ころになる。つまり、オリジナルの富士ファブリックからインディーズ時代のフジファブリックの時代だ。

 荒井由実+エドゥ・ロボ+レッド・ツェッペリン。日本語ロック・ポップスの新しい感性+ブラジル音楽のグルーヴ+ブリティッシュロックのビート。志村は正直に自らの系譜を語っている。初期のフジファブリックはこのようにして生まれていった。

2019年1月5日土曜日

荒井由実『ひこうき雲』-『陽炎』8[志村正彦LN206]

 2019年が明けて五日になる。ずっと快晴に恵まれ、甲府盆地から見える冬の富士が綺麗だ。新春という境地になる。

 時間を大晦日の紅白歌合戦に戻す。毎年その年の歌のトレンドを知るために見ている。平成最後が強調されていたが、歌合戦というよりもダンス合戦のような演出にはついていけなかった。suchmosの醸し出す「場違い感」だけがその流れを断ち切っていた。ロックだった。

 圧巻だったのは松任谷由実。教会風のセットを背景に『ひこうき雲』、突如NHKホールに移動して『やさしさに包まれたなら』を歌った。バックには鈴木茂、松任谷正隆、林立夫たち。ベースは細野晴臣ではなく小原礼。それでも四分の三「ティン・パン・アレー」ではないか。会場に呼びかけるユーミンと淡々と奏でるバンドメンバーのコントラストも見物だった。

 『ひこうき雲』の歌詞には「かげろう」が登場する。以前から気になっていたのだが、志村正彦・フジファブリック『陽炎』のエッセイを連載している今、この歌を取り上げてみたい。一番を引用する。
 誰もが知る曲だが、『荒井由実 - ひこうき雲 MUSIC CLIP』というオフィシャル映像があったので添付しておく。





  白い坂道が 空まで続いていた
  ゆらゆらかげろうが あの子を包む
  誰も気づかず ただひとり
  あの子は 昇っていく
  何もおそれない そして舞い上がる 

  空に 憧れて 空を かけてゆく
  あの子の命は ひこうき雲


 この映像は、砂田麻美監督によるユーミン×スタジオジブリのコラボレーションによるもので、映画『風立ちぬ』主題歌『ひこうき雲』のMUSIC CLIP(Short ver.)である。荒井由実時代のものか、それを意図した演出かは分からないが、回想的な映像が効果的に使われている。

 一番の歌詞を読んでいきたい。
 歌の主体は、「白い坂道」と「空」を見上げていくまなざしのなかで「かげろう」と「あの子」を描いていく。「かげろう」とひらがなで書かれているので、大気を揺らす現象を指す「陽炎」か、命のきわめて短い昆虫の「蜉蝣」が決めきれないところもあるのだが、「坂道」「空」「ゆらゆら」という表現との関連、この曲全体の雰囲気からするとすると「陽炎」と取る方が自然だろう。それでも、「昇っていく」「舞い上がる」という動きには、か弱くも宙を飛ぶ「蜉蝣」のイメージが入り込んでいるとも捉えられる。「陽炎」「蜉蝣」の二つが「かげろう」に重ね合わされている感じもある。半ば無意識的なものとして。

 『日本国語大辞典第二版』の「陽炎」の項目には次のような説明がある。

平安時代以降の和歌では、あるかなきかに見えるもの、とりとめのないもの、見えていても実体のないもののたとえとされることが多い。また、「かげろう(蜉蝣)」と混同して解され、はかないもののたとえとなることもある。

 「陽炎」は、「あるかなきかに見えるもの」であり、しかも語の混同により「はかないもの」の喩えともなる。実際に詩でも歌詞でも、「かげろう」にはこの二重の意味合いがあることが少なくない。『ひこうき雲』の「かげろう」にもそのようなニュアンスがある。

 解釈の枠組を作る際はどちらかの意味を基本とするかとりあえず決めなければならない。この論では「陽炎」という意味に取りたい。そうなると、「ゆらゆらかげろうが あの子を包む」は、「かげろう」がゆらゆらと揺れて、「あの子」を包んでいくというイメージが生まれる。しかし、歌の主体とそのまなざしの向こう側にいる「あの子」との間で「かげろう」が遮っているとも考えられる。「かげろう」が「あの子」を「ゆらゆら」と揺らすことで、有るか無きかの存在に見えてくる。
 その揺れの狭間で「あの子」の像が微かに現れるが、それはあくまでも儚い。「誰も気づかず ただひとり」とあるように、「あの子」は単独者として空に「昇っていく」。

 実は、志村正彦は『Rooftop』のクボケンジとの対談(2004.11.15 interview:Hiroko Higuchi)で「ロックを感じるCD3枚」の1枚目に、荒井由実のアルバム『ひこうき雲』を挙げている。次回はこのことを考えてみたい。

  (この項続く)