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2025年10月5日日曜日

飯田蛇笏・飯田龍太文学碑碑前祭/「若者のすべて」を詠む短歌 [志村正彦LN371]

  一昨日10月3日は、山梨出身で近代俳句を代表する俳人、飯田蛇笏の命日だった。この日、甲府の「芸術の森公園」で「飯田蛇笏・飯田龍太文学碑碑前祭」が開かれた。蛇笏の孫、龍太の息子である飯田秀實氏が理事長を務める「山廬文化振興会」が主催する会で、今年で十一回目を数える。蛇笏、龍太の碑のそれぞれに居宅だった「山廬」で摘まれた花が供えられた。

 この日のための「碑前祭句会」には国内外から566句の応募があり、最高賞の「真竹賞」には仲沢和子さん(山梨県北杜市)の「雲の峰父子それぞれの文学碑」が選ばれた。応募されたすべての句は冊子に閉じられて文学碑に献句され、俳人の瀧澤和治氏と井上康明氏がおのおの二人を偲ぶ話をされた。関係者や受賞者など60人ほどの参加者が飯田蛇笏と飯田龍太を追悼する特別な場であり、貴重な時間であった。

 

 「山梨県立文学館」の研修室での授賞式の後、私が「飯田蛇笏と芥川龍之介」という題で五十分ほどの講話を行った。飯田秀實理事長からの原稿依頼をいただいて、ここ一年半ほどの間、山廬文化振興会の会報「山廬」に四回に渡って「蛇笏と龍之介」という批評的エッセイを書いてきた。その原稿を元にしてスライドを作成して、二人の交流の軌跡を六つの観点を設定して振り返った。

  芥川龍之介は「ホトトギス」大正7年8月号の雑詠欄に「我鬼」の俳号で「鍼條に似て蝶の舌暑さかな」他一句を投句し、蛇笏が「雲母」大正8年7月号で「我鬼」が龍之介と知らないまま「鍼條に」句を「無名の俳人によって力作さるる逸品」と評価したことを契機として、二人の交流が始まる。手紙のやりとりや書籍・雑誌の贈答を通じてのものだったが、この二人には深いつながりやきずながあった。このテーマについては今後このブログでも書いてみたい。


 * * *


 〈甲府 文と芸の会〉を結成したこともあり、最近は地元の「山梨日日新聞」の短歌・俳句・川柳・詩の投稿欄を読むことを楽しみにしている。ほとんどが山梨県内の愛好者からの投稿であり、山梨の風景や生活に根ざした作品が多い。生活者の眼差しからの言葉に感銘を受けることや学ぶことが少なくない。毎週日曜日に掲載されるので、今日10月5日の朝、投稿欄に目を通すと、選者の歌人三枝浩樹氏に佳作として選ばれたある短歌に目が釘付けになった。


○「若者のすべて」が流れる夕暮れは若者だった頃を思いて   北杜 坂本千津子

 

 三枝氏は選評でこう述べている。


富士吉田市出身のフジファブリック、代表曲の「若者のすべて」の流れる夕暮れ。その歌に耳を澄まして「若者だった頃を」しみじみと想起する坂本さん。名曲は時代を超えて、かく人の心に甦る。


 三枝氏の選評がこの短歌のすべてを的確に語っているので、専門家でもない僕が付言することはないのだが、一つだけ触れるならば、志村正彦・フジファブリックの「若者のすべて」が短歌の中にこのように詠み込まれ、深い感慨を覚えたことである。山梨県北杜市在住の作者坂本千津子さんは「若者だった頃を思いて」とあるので、ある程度の年齢の方だと推測する。年齢や世代を超えたこの歌の広がりを感じる。

 実際、7月の「若者のすべて」と12月の「茜色の夕日」が富士吉田の夕方の防災無線で流れることはほとんど毎回、地元のNHK、YBS山梨放送、UTYテレビ山梨のニュースで放送され、山梨日日新聞に掲載される。山梨県民のかなり多くの方(ほとんどすべて、と言ってもよいくらいに)が志村正彦とその歌の存在を知っている。


 三枝浩樹氏の「名曲は時代を超えて、かく人の心に甦る」という言葉を記憶しておきたい。

 この「かく」はこの歌を聴いたすべての人のおのおのの心のなかにある。時の流れのなかにあるもの、大切なかけがえのない何かを、それぞれの姿で蘇らせる力が「若者のすべて」にはあるのだろう。


2025年7月10日木曜日

志村正彦と飯田龍太の「陽炎」[志村正彦LN364]

  今日7月10日は志村正彦の誕生日である。1980年、山梨の富士吉田市で生まれた。同じ7月10日に生まれた偉大な俳人がいる。飯田龍太。1920年、山梨の境川村で生まれた。

 六十年を隔てて、志村正彦は飯田龍太と同じ日に誕生した。時代も表現形式も一般的な知名度も異なるこの二人を同一の誕生日ということでエッセイの俎上に載せることに違和感を持つ方もいるかもしれないが、山梨の四季の風景に触発されてきわめて優れた言葉を紡ぎ出したことから、今日はこの二人の「陽炎」を表現した作品について書きたい。


 志村正彦・フジファブリックの「陽炎」は夏の名曲である。2003年の作。

 詩人は、「少年期の僕」の「残像」と「今の自分」にとっての「出来事」を描く二つの系列によって歌詞を構成している。まず「残像」系列を引用する。

  あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
  英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ
  また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ
  残像が 胸を締めつける

 「残像」の系列では、歌の主体「僕」は、過去へ、「あの街並」という場へ、「路地裏の僕」自身へと回帰していく。「英雄気取った」少年期を想起しているうちに「残像」が次々に浮かんでくる。この「残像」はもうすでにそこには残っていないが、消えてしまったにも関わらず、記憶に残り続けている心象や感覚のことであろう。「残像」は執拗に現れて、歌の主体の「胸を締めつける」。 次に、「出来事」の系列を引用する。

  きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
  きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう
  またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
  出来事が 胸を締めつける

 「今」、現在という時。「きっと今では」と「きっとそれでも」、「無くなったもの」と「あの人」、「たくさんあるだろう」と「変わらず過ごしているだろう」。対比的な表現によって、複雑な陰翳を帯びた「出来事」が次々と現れて、歌の主体の「胸を締めつける」。「あの人」に焦点化していくが、「あの人」が誰なのかは分からない。歌詞の一節にあるとおり、「あの人」は「陽炎」のように儚く揺れている。

  そのうち陽が照りつけて
  遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる
  陽炎が揺れてる

 最後のパートでは「陽炎が揺れてる」が三度繰り返されるが、歌い方が変化していく。揺れているものが静止していくように感じられる。陽炎は揺れてやがて消えていく。

 残像も出来事も、過去の物語も現在の物語も、揺らめきが消えてゆき、すべてが静けさに包まれる。志村正彦はそのように歌い終えている。


 飯田龍太にも「陽炎」を季語とする名句がある。

 

  陽炎や破れ小靴が藪の中


 1971年の作。第六句集『山の木』に収録されている。

 「陽炎」は春の季語。日光で地面が熱せられ、風景が細かくゆれたりゆがんで見えたりする。「陽炎」が揺らめくなかで、俳人の眼差しが「破れ小靴」に注がれる。「小靴」とあるので子どもの靴だと想像される。履きつくされて擦り切れて破れてしまったのか、「破れ小靴」がなぜか「藪の中」で見つかる。「破れ」たままでそこに在る。そこに在り続けている。しかし、時間の経過とともに朽ちはてていくようでもある。

 俳人はある痛みの感覚を持ってその「破れ小靴」を見つめている。時の流れについても儚さや痛ましさやを感じている。飯田龍太は三十六歳の時に五歳の次女を病臥一夜にして失う。この句にはその次女の面影が宿っているという説がある。俳人の眼差しには深い哀しみが込められているとも考えられる。

 「藪の中」はありのままの風景だろうが、この言葉は芥川龍之介の小説「藪の中」も想起させる。「破れ小靴」そのものが謎めいた物であり、謎の迷宮の中に陽炎のように存在しているとも考えられる。生と死に対する問いかけがあるのかもしれない。

 また、切れ字の「や」、「破れ」の「や」、「藪」の「や」という「や」の連鎖と「やぶ」音の反復が独自の韻律をつくる。さらに「の中」という語法を伴うことによって、音がループする感覚を奏でている。


 志村正彦の眼差しは少年期の「胸を締めつける」「残像」に、飯田龍太の眼差しは子どもの「破れ小靴」に注がれている。表現された世界は異なるが、胸が締めつけられるような痛みの感覚が共通している。そして、「陽炎」が揺れはじめる。生と死、過去と現在の迷宮のなかに表現主体が包み込まれる。


 今日は7月10日。志村正彦と飯田龍太。日本語ロックを代表する存在と現代俳句を代表する存在。山梨で生まれた二人の詩人が同一の誕生日である偶然を祝したい。


2021年3月13日土曜日

飯田龍太展 生誕100年

 山梨県立文学館で開催中の特設展「飯田龍太展 生誕100年」を観覧してきた。

 俳人飯田龍太は、1920年7月10日、山梨県笛吹市境川町で飯田蛇笏の四男として生まれた。1962年10月に蛇笏が亡くなると俳誌「雲母」の主宰となり、随筆・評論と活動を広げ、現代俳句を代表する存在となった。学生時代の数年を除くと山梨でずっと暮らし、2007年2月25日、86年の生涯を閉じた。その生誕100年を記念する展覧会である。

 文学館に勤めていた頃、仕事で数度、龍太さんにお目にかかったことがある。講演会の映像を撮影したこともある。当時、古井由吉の『山躁賦』について読売新聞山梨版に短い文を寄稿したことがあった。人づてにだが、龍太さんがその文章を読んだ感想をお聞きして、とても励みになったこともある。もうかれこれ三十年前のことだ。そのいくつかの想い出を浮かべながら、展示室に入っていった。数多くの原稿、書簡、書画、愛用品、展示パネルで構成され、生誕百年記念展にふさわしい充実した展示だった。

 youtubeに特設展「飯田龍太展 生誕100年」PR動画があるので、紹介したい。



 飯田蛇笏・龍太の自宅、「山廬」(さんろ)も撮影されている。龍太句の生まれた場所の雰囲気が分かるだろう。

 山梨県立文学館と隣の山梨県立美術館は「芸術の森公園」の中にある。展示を見た後、この公園を歩いた。すっかりと暖かくなり、気候はおだやかである。光がどことなく優しい。公園の東南側の一角で梅が咲いていた。白梅、紅梅。そのほのかな香りが鼻腔を抜けていく。春、三月。この季節を表現した飯田龍太の代表句がある。1954刊行の第一句集『百戸の谿』の冒頭近くに掲載されている。


   いきいきと三月生まる雲の奥


 〈雲の奥〉から、〈いきいきと〉〈三月〉という季節が生まれてくる。雲が次々と生まれる大空。春の日差しのなかでその雲は明るい色を帯びている。甲府盆地は高い山々によって四方を囲まれている。山々の稜線、その上方の雲、大空。視界のなかでそれらがある奥行を持って層を成し、その層の〈奥〉へと、俳人は視線を投げかける。あたかもその〈雲の奥〉の空間が〈三月〉を生成していくかのように、春の感触が捉えられている。この眼差しのあり方が飯田龍太の俳句を貫いている。

 飯田蛇笏・龍太の父子、そしてその門弟の俳人たちが、この山国の自然の風景、この盆地特有の景観、空、雲、山、川、谷を詠んできた。

 一つ、偶景webとして記しておきたいことがある。飯田龍太の誕生日は7月10日生まれだが、志村正彦も7月10日に生まれた。生年は1920年と1980年、ちょうど60年の開きがある。同じ誕生日というのは偶然の符合だが、志村の歌詞の源にも〈自然〉がある。『陽炎』の〈遠くで陽炎が揺れてる〉という描写や調べはどことなく俳句的でもある。「陽炎」は春の季語。春から夏にかけての空気の揺らめきを指す。

 特設展「飯田龍太展 生誕100年」は、3月21日(日)まで開催されている。