2014年11月24日月曜日
歩行-『赤黄色の金木犀』と『若者のすべて』-[志村正彦LN95]
寒さが厳しくなり、甲府盆地の北側の山々の紅葉も終わりに近づいている。それほど高い山ではないので鮮やかではないが、その分おだやかな「赤色と黄色」の風景が続いている。
ここ数年、相対的に暑い季節と、相対的に寒い季節という、暑さ寒さの感覚からすると、「二つの季節」に変化しているようにも感じる。夏と冬という季節が際立ち、その狭間に春と秋という季節が佇む、そんな印象なのだが、風景には、やはり、春、夏、秋、冬という「四つの季節」が色濃く反映されているようだ。秋の色彩は、金木犀の花の「赤黄色」で始まり、山々の樹木の「赤色と黄色」で終わろうとしている。
歌われる世界において、歌の主体をどのように動かすのか。作者の好む型があるが、志村正彦の場合、歌の主体は歩行することが多い。
『赤黄色の金木犀』では、第2ブロックの「僕は残りの月にする事を/決めて歩くスピードを上げた」が「行動の型」の土台をなすだろう。「何故か無駄に胸が/騒いでしまう帰り道」とあるように、この歩行は「帰り道」にあり、「いつの間にか地面に映った/影が伸びて解らなくなった」とあるように「地面」の「影」を見つめる視線もある。歌の主体「僕」は、「歩くスピード」を上げて、「地面」の「影」と共に、「帰り道」を歩行している。
「僕」は「過ぎ去りしあなた」を想起しながら歩いている。この「あなた」は、もしかすると、純然たる他者ではなく、自己自身、「僕」の影が投影されているのかもしれない。「過ぎ去りしあなた」には「過ぎ去りし僕」が不可分に結びついている。だから、この歩行は時間をさかのぼる行為でもあるのだ。
志村正彦の歌には、「歩く」「僕」、《歩行》する主体がよく現れる。それは歌の中の現実の場面であったり、過去の回想シーンの中の出来事であったりする。
茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました
晴れた心の日曜日の朝 誰もいない道 歩いたこと 『茜色の夕日』
歌いながら歩こう 人の気配は無い
止めてくれる人などいるはずも無いだろう 『浮雲』
すりむいたまま 僕はそっと歩き出して 『若者のすべて』
『茜色の夕日』の主体は、「日曜日の朝」「誰もいない道 歩いたこと」を想い出している。『浮雲』では、「歌いながら歩こう」とする主体がいる。『浮雲』は「いつもの丘」、彼の実家近くの眺めのいい「丘」が舞台となり、高校時代の経験を元に作られた歌だ。また、『茜色の夕日』の「歩いたこと」の回想も、彼の故郷での出来事のような気がしてならない。この二つの歌が彼の初期作品であることも関係している。
7月に開催された「ロックの詩人 志村正彦展」では、志村正彦の母妙子さんによる『上京の頃』と題したパネルが展示された。「自炊のために料理を習ったり、家の中や近くの道、富士吉田の街や自然を慈しむように眺めていたりした姿」という、母親でしか捉えられない視点からの大切な証言である。(「ロックの詩人 志村正彦展」web「ご両親・ご友人・恩師の言葉」(http://msforexh.blogspot.jp/2014/07/blog-post_26.html)
志村正彦は、散歩することが好きで、故郷の街や丘をよく歩いていたようだ。特に上京前には、富士吉田の風景を記憶に刻みつけるように歩いていたに違いない。それは、その時点の眼前の風景であると共に、すでにその時点では過去となり回想となった出来事の風景も含まれていた。そのような彼の経験が、『茜色の夕日』、『浮雲』、そして『赤黄色の金木犀』には映し出されているのだろう。少年期から青年期にかけての、その時代にしか持ち得ない「孤独」の影のようなものが滲み出ている。
これらの初期の作品に比べて、『若者のすべて』の「歩き出して」からはむしろ、都市の街中を歩き出そうとする主体の決意のようなものが伝わってくる。一連の『若者のすべて』論で、《歩行》の系列という枠組を《縦糸》にして、《花火》の系列、「最後の花火」を中心とするモチーフを《横糸》にして、『若者のすべて』の物語は織り込まれている、と書いた。
彼は『音楽と人』2007年12月号で、「一番言いたいことは最後の〈すりむいたまま僕はそっと歩き出して〉っていうところ。今、俺は、いろんなことを知ってしまって気持ちをすりむいてしまっているけど、前へ向かって歩き出すしかないんですよ、ホントに」と述べている。この時期の彼にとって、歌詞のモチーフという以上に、彼自身の人生において、「歩き出す」ことの意味が重要となっていいる。
《歩行》というモチーフは彼が初期から追い続けてきたものだが、そのモチーフの歩みの到達点が『若者のすべて』だ。両国国技館ライブのMC「BGMとか鳴らしながら、歩きながら、感傷にひたるってのがトクじゃないかな、って思って。だから言ってしまえば、止まってるより、歩きながら悩んで」と作者が語っているように、歌の主体は、「歩きながら」、「感傷」や「悩み」との対話を試みる。そして、歌の主体は心のスクリーンに、「僕」と「僕ら」の物語を上映していく。
作者志村正彦はある種の成熟を経験したのだろう。そのことによって、歌の主体の《歩行》もある種の自由と自在さを手に入れた。それは『若者のすべて』の楽曲にも影響を与えている。ピアノを中心とするリズムはのびやかでゆったりとした雰囲気をもたらしている。聴き手にある種の「解き放たれた」感覚を与えるというか、あるいは、ある種の「眠り」へと導くような効果もあるかもしれない。切なくやるせないが、同時に、ここちよく漂うような感覚とも言えよう。
それに対して、『赤黄色の金木犀』のリズムは終わりに向けて次第に早くなる。歌詞の言葉も、メロディもリズムも、歌詞の一節に「歩くスピードを上げた」「何故か無駄に胸が騒いでしまう」とあるように、その速度を上げていく。ミュージックビデオの志村正彦の眼差しも、次第に何かに追い立てられるように見えてしまう。アウトロになると、その進行は押さえられ、ひとまずの安らぎを覚えるのだが。
『若者のすべて』と『赤黄色の金木犀』の言葉とリズムの違いは、モチーフとなっている《歩行》の律動の差異から起きているのだろう。《歩行》についてのさらなる考察は、他の楽曲を含めて、別の機会に設けたい。
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