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2024年4月27日土曜日

葉桜の季節、小さな旅 [志村正彦LN345]

 一昨日、妻と二人で富士吉田へ出かけた。

 車で甲府を9時半頃に出て11時に吉田に到着。道が混んでいつもより時間がかかった。すぐに「白須うどん」へ。もう三十数年前になるが、ここで初めて「吉田のうどん」というものを食べた。かけうどんが三百円以下だったと記憶している。コシがしっかりとして、キャベツがたくさん入っていた。当時は民家そのものの店だった。生活感のある風情があったが、数年前にリニューアルして普通の食堂風になった。少し残念だが、大勢のお客さんに対応するためには仕方がなかったのだろう。今、かけうどんは五百円。小麦粉高騰のせいで値上がりしているが、それでもリーズナブルな値段。美味しかった。記憶にかすかにある味と変わらない。「吉田のうどん」の原点とでもいうべき味ではないだろうか。

 お腹がいっぱいになって白須うどんを出た後、シフォンケーキが有名な「シフォン富士」に寄った。定番の「ふじフォン」をお土産に買う。軽やかな食感と爽やかな甘みが良い。それから富士山駅に向かって、Q-STAヤマナシハタオリトラベルmill shop店内にある黒板当番さんの絵を見た。彼のXに「フジファブリック 志村正彦メジャーデビュー20周年記念」のために、『唇のソレ』『桜の季節』の2曲をイメージした黒板絵でお祝いしているとあったからだ。二つの黒板絵の他に、小さな志村正彦が並んでいるコーナーがあった。九つの絵がとても可愛らしい。(その写真を掲載させていただきます)





 この後、新倉富士浅間神社へ。おそらくもう葉桜になってしまったのだろうが、その景色を見たいと思った。すでに「桜まつり」は終了していて、駐車場が使えるはずだったが、けっこう車もたくさん走っていて、少し遠い臨時駐車場に何とか駐車できた。そこから歩いて神社へ向かったのだが、想像をはるかに超える人が押し寄せていた。そのほとんどは海外からの方だ。異国の言葉が飛び交う。ニュースで知っていたが、自分の目で目撃するのは初めて。なんだか別の世界に迷い込んだような気がした。

 神社に参拝した後、階段近くの桜を眺めた。やはり、葉桜になっていた。葉桜のその向こう側には、雲がかかってしまった富士山と青い空、吉田の街が広がる。桜の色はないが、緑と青と白の色のハーモニーが美しい。枝の形は文字のように見えた。




 志村は「桜の季節」でこう歌っている。

  oh その町に くりだしてみるのもいい
  桜が枯れた頃 桜が枯れた頃      

 歌詞の〈その町〉がこの地を指しているわけではないのだろうが、通常の解釈を超えて、〈その町〉とはこの地、新倉富士浅間神社とその公園の桜が咲く地であるような気がする。つまり、〈その町〉とはこの町、この地である。
 この日のこの地の現実の景色からは、引用した歌詞の一節にあるような情緒や感慨はまったく感じられなかったが、それでも、葉桜の光景には、過ぎ去っていくもの、枯れてしまうかもしれないものの、微かな残響のようなものもあった。

 志村はまた「浮雲」でこの地を「いつもの丘」と呼んでいる。当時の「いつもの丘」はいつもではないような丘になった。特にこの桜の季節、異次元の丘に変わっている。日本ではあるのだが、世界への通路にもなる不思議な場所への変貌。時には、この町にくりだしてみるのもいい。そう呟いた。


 四月なのに夏日という天候もあって、帰り道を急いだ。その途中、御坂で山梨県立博物館で開催中の「富士川水運の300年」展を見た。

 富士川は、山梨県の大きな二つの川、笛吹川と釜無川とが甲府盆地の南端で合流して、静岡県へと流れていく川である。その水運は、江戸時代から明治そして昭和初期まで、山梨と静岡を結ぶ「川の道」として発展した。この展示会は、17世紀初頭から20世紀前半に至るまでの富士川水運の300年間の歩みを振り返るものだった。

 展示資料は地味だが非常に充実していた。最後のコーナーの「富士川下り疑似体験コーナー!」が格別だった。正面、左側面、右側面の三面にプロジェクターによる映像が映し出されて、まるで富士川を舟下りしているような疑似体験ができる。このような手法の展示映像を初めて見たが、とても効果的な方法である。

 展示室を出て、二月にオープンしたばかりの「Museum café Sweets lab 葡萄屋 kofu」に寄った。五十層ものパイに旬の果実、山梨の桃と苺をのせたケーキを堪能した。フルーツ王国山梨ならではのスイーツ。この店には博物館の外の公園側からも入ることができる。お洒落で美味しいカフェでおすすめである。

 甲府から富士吉田へ。白須うどん、ふじフォン、志村正彦の黒板画、新倉富士浅間神社の葉桜。帰り道、御坂の県立博物館での「富士川下り」の疑似体験、旬の果実のケーキ、そして甲府へ。
 葉桜の季節の小さな旅を楽しんだ一日だった。

2024年4月14日日曜日

二十年目の「桜の季節」[志村正彦LN344]

 2004年4月14日、志村正彦・フジファブリックの「桜の季節」がメジャー・デビュー・シングルとしてリリースされた。すでにこの年の2月、ミニアルバム『アラモルト』がメジャーのプレデビュー盤として発売されているが、これはインディーズ時代の既発曲の再録音盤だ。新曲の「桜の季節」によって、フジファブリックはメジャーデビューを果たした。今日はその二十年目の日となる。

 「桜の季節」についてはすでに30回ほどエッセイを書いてきた。今日はそのすべてを読み直してみた。この曲に初めて言及したのは志村正彦ライナーノーツの第4回。2013年3月18日の日付である。「志村正彦の歌の分かりにくさ」と題したそのエッセイの冒頭部を引いてみたい。


 志村正彦の歌、その言葉の世界には、ある特有の分かりにくさがある。言葉の意味をたどっていっても、その意味がたどりきれない。その言葉が展開される文脈、背景が理解しにくい。歌が繰り広げられる舞台が明瞭でない。通常「僕」「私」という言葉で指示される、歌の話者や歌の世界の中の主人公としての主体の把握が難しい。そのような想いを抱いたことがある聴き手が多いであろう。少なくとも私にとって、彼の歌はそのように存在している。例えば、『桜の季節』はその代表ともいえる歌であろう。


 志村の言葉の世界のある特有の分かりにくさの代表例として「桜の季節」があげられているが、この捉え方は基本として今も変わらない。ただし、分かりにくいというよりも、むしろ、言葉の世界を捉えようとしてもその向こう側に言葉が遠ざかっていくような感覚とでもいうべきかもしれない。分かる/分からないという対立ではなく、その対立を言葉自体が超えていってしまう。

 そうは言っても、「桜の季節」の世界を何とかして捉えてみたいという気持ちもある。二十年を迎えた機会にその試みをあらためて書いてみよう。


 この歌は〈桜の季節過ぎたら/遠くの町に行くのかい?〉という二人称に対する問いかけと〈桜のように舞い散って/しまうのならばやるせない〉という一人称へ回帰する想いとがループのように綾をなす。このループがグルーブとなって楽曲を貫いていく。この問いかけや想いのループには具体性がほとんどない。具体性が欠如しているからこそ、聴き手は「桜の節」の世界に召喚される。

 しかし、ある程度具体的な出来事が描写されている、ひとまとまりの場面がある。


  坂の下 手を振り 別れを告げる
  車は消えて行く
  そして追いかけていく
  諦め立ち尽くす
  心に決めたよ


 〈坂の下〉と示された場がこの場面の舞台となる。歌の主体〈僕〉は手を振る、別れを告げる。〈車〉は消えて行く。〈僕〉は追いかけていく、諦め立ち尽くす。〈僕〉の一連の動作が現在形で叙述されている。〈僕〉が別れを告げた相手は車に乗って視界から消えてゆく。

 この場面は〈心に決めたよ〉という完了の助動詞〈た〉と相手に対する呼びかけの助詞〈よ〉で終わっている。この〈心に決めた〉ことは何であるのか。この歌のすべてがその回答であるような気もするが、歌そのものはつぎのように展開していく。


  oh ならば愛をこめて
  so 手紙をしたためよう
  作り話に花を咲かせ
  僕は読み返しては 感動している!


 歌の進行からすると、〈心に決めた〉ことはすぐ次のフレーズ、〈oh ならば愛をこめて/so 手紙をしたためよう〉が該当すると考えるのが自然だろう。〈oh〉と〈so〉という間投詞的な表現から始まるこの二つのフレーズは、この歌の中でも最もエモーショナルな部分だ。まさしく、〈心に決めたよ〉という声の残響が聞こえてくるようだ。


 歌の主体〈僕〉は別れの相手に対して〈手紙〉をしたためることを決意する。その〈手紙〉には〈愛〉がこめられている。ここで終わればよくある恋愛物語になるだろう。しかし、志村の場合、物語は折れ曲がる。〈僕〉は屈折する。〈作り話に花を咲かせ/僕は読み返しては 感動している!〉とあるように、〈手紙〉のなかでは〈作り話〉が〈花〉を咲かせている。作り話とは志村が作る物語だ。つまり、物語の花が咲く。その花は舞い散ることも、枯れることもある。「桜の季節」は、「手紙の、作り話の、物語の季節」のことでもある。


    (この項続く)