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2020年1月22日水曜日

新しいスポーツ-『熊の惑星』[ここはどこ?-物語を読む 10]

 ハリーポッターがベストセラーになったのは、何年前のことだったか。確かシリーズ続編の発売日には徹夜組も出るくらいの人気作だった。かくいう私は一作も読んでいない。流行に背を向けるひねくれた性格のせいだが、それも中途半端なひねくれ方なので、映画は観た。その中で一番印象に残ったのは、彼らが魔法学校で行う不思議なスポーツだった。一回観たきりなのでうろ覚えなのだが、空飛ぶホウキにまたがった少年たちが2つのチームに分かれ、何かをゴールに放り込んだり、羽の生えた球を捕まえたりして、点数を競うようなものだった。こういう新しいスポーツのルールや戦術を覚えて観戦するのが好きで、特にこれはぜひ自分でもやってみたいと思った。残念ながら空飛ぶホウキは手元になく、あっても重くて飛べないと文句を言われるかもしれず、それに忘れていたが、はしごの三段目から上に上がれない高所恐怖症だということもあって、実現は難しい。

 突然話は変わるが、ここ数年、家人はシングルのB面を集めたCDをよくかけていて、特に「セレナーデ」と「ルーティーン」は繰り返し聴いていた。どちらも代表曲にあげられることはあまりないが、聴けば聴くほど心の深いところに届いてくるような名曲である。そして「セレナーデ」と「ルーティーン」の間にはそれとは似ても似つかない一曲が流れてくる。その名も「熊の惑星」。このヴァリエーションの豊かさこそがフジファブリックと言えようか。

フジファブリックにとって初めての、加藤氏作(!) の曲が仕上がった。謎の曲。だから謎の歌詞を書いた。かなり好評。
(志村正彦『東京、音楽、ロックンロール』2007.7.12 「加藤曲」より抜粋)

 作詞者本人が書いているのだから間違いない。何度聴いても謎の歌詞である。歌が進むにつれて聴き手の予想はことごとくくつがえされる。


 世界初の貴重な映像 僕は感動
 動物界に君臨する巨大な王様


(聴き手=私予想)テレビでよくやる動物もののドキュメンタリーを見ているのだな。この一本を撮るためにどれほどの時間と労力が費やされたのか。まして動物界に君臨する巨大な動物(象? 熊? くじら? タイトルを思い出して熊だと確定)の世界初の生態はとても貴重で興味深い。なるほど。


 太刀打ちできる人間はほとんどいないね
 アジア一のワザの使い手ぐらいだろうねえ

 戦いが始まるぜ!
 北欧の熊に対するのはヒゲの太極拳野郎

(聴き手=私予想)動物と人間が戦うのか。格闘家が牛や熊と戦って勝ったという伝説があったけれど、そういう番組なんだな。(どこまで真剣勝負なのかはわからないが、大山倍達やウィリー・ウィリアムスなどが牛や馬と戦ったという話はある。市井の人でも山で熊に遭遇して撃退したという武勇伝も新聞で読んだ)。


 夢の対決を見てるんだ 旗を取り合うのよ

(聴き手=私予想)??? 旗を取り合うってどういうこと?

 
 私には見える。この最後の一行を書き終えたとき、志村正彦はにやりと笑ったに違いない。混乱する聴き手を思い浮かべながら、仕掛けたいたずらが成功した子供のように。
 熊と人間が格闘するのではなく、旗を取り合う戦い。これは全く新しいスポーツである。なにしろ動物と人間の戦いだからスポーツというのもおかしいが、他にことばが思いつかないので、とりあえずスポーツにしておく。 さてどんなスポーツなんだろう。


 ちょっと考えてみた。
 長距離の障害物競走。コースには高い壁や足を取られそうな網や蟻地獄のような砂の穴や幅の広い川や揺れる吊り橋などがある。最後つるつる滑る坂の上に旗が立てられていて、それを取った方が勝者である。普通にやれば熊が勝つに決まっているので、熊の苦手そうな障害をたくさん用意してある。北欧の熊が相手だから真夏なら少し人間に有利か。ただし、アウェイ(熊の惑星)での戦いとなれば、圧倒的に不利な気がする。

 あるいは、それぞれ自分の陣地に旗を立て、人間側は頭脳を使い、投石機とか落とし穴とか様々な防御態勢を整えて、「はじめ」の合図で熊人間双方が相手陣の旗を取りに行く。もちろんすんなりいかないようにお互いに防御しつつ、相手の隙をうかがって早く旗を取った方が勝ち。旗の周りを火で囲っておけば、熊は近づけないかもしれないが、さすがにそこまでするとちょっとずるい気もする。

 どちらも太極拳の動きで互角の戦いができるかは微妙である。はたして志村正彦は一体どんなスポーツを想定していたのだろうか。(何も考えていなかった可能性もあるが)。
 いずれにしても「太刀打ちできる人間はほとんどいない」のだし、ハリー・ポッターと違って、参加するにはかなり勇気のいるスポーツではある。

2020年1月13日月曜日

松任谷由実『ノーサイド』

 2019年は、ラグビーワールドカップで日本代表が大健闘した年としても記憶されるだろう。一ファンとしてWCを大いに楽しんだ。
 年が明けて、1月11日、新しい国立競技場でラグビー大学選手権が開催され、早稲田大学が明治大学に勝利し大学日本一になった。新国立も満員だった。12日にはトップリーグが開幕した。日本代表大活躍の影響で各会場とも観戦者がかなり増えた。今回のラグビー人気は本物になる予感もする。

 昨年大晦日の紅白歌合戦。流行り歌に疎いのでせめて紅白だけでもと毎年欠かさずに見ている。年々歌はつまらなくなっているというのが正直な実感だが、その中でひときわ歌として輝いていたのは、ラグビーをテーマにした松任谷由実の『ノーサイド』だった。ラグビー日本代表のメンバーも登場し、ワールドカップの映像が流れる中でユーミンが想いを込めて歌い上げた。G 鈴木茂、Ds 林立夫、B 小原礼、key 松任谷正隆が演奏した。松任谷正隆がローズピアノでイントロを弾くと、耳に馴染んだあのメロディーが広がっていく。
 歌詞の前半を引用したい。


   ノーサイド (作詞・作曲 : 松任谷由実)

 彼は目を閉じて 枯れた芝生の匂い 深く吸った
 長いリーグ戦 しめくくるキックは ゴールをそれた
 肩を落として 土をはらった
 ゆるやかな 冬の日の黄昏に
 彼はもう二度と かぐことのない風 深く吸った

 何をゴールに決めて
 何を犠牲にしたの 誰も知らず
 歓声よりも長く
 興奮よりも速く
 走ろうとしていた あなたを
 少しでもわかりたいから

 人々がみんな立ち去っても私 ここにいるわ


 眼差しの向こう側に「彼」がいて、こちら側に「私」がいる。「私」はただひたすら「彼」を見ているが、距離はある。グラウンドの中と外で隔てられている。その距離感がユーミンの歌の基底にある。
 「彼」が「枯れた芝生の匂い」を「深く吸った」とあるが、ここでは「私」は想像の翼によって「彼」に近づく。しかしその後「私」はふたたびグラウンド全体を見渡す場所に戻って、キックが「ゴールをそれた」軌道を追いかける。「彼」と「私」との距離は近づいたり遠のいたりする。

 次の連では、「歓声よりも長く 興奮よりも速く 走ろうとしていた あなた」に焦点が合う。「歓声よりも長く 興奮よりも速く」はなんと卓抜な表現なのだろう。ラグビーの得点シーンは、たとえばサッカーに比べると時間がかかる。何度もアタックする。ボールを回し、走り、起点を作り、その反復がある。もともとボールを後方に渡すという「理」に反した攻め方ゆえにラグビー固有の時間の流れ方がある。だからこそ、応援する側から言うとそのプレーに対する「歓声」は長い。しかし、インゴールにボールをグラウンディングする時間は一瞬の出来事として生起する。ゴールの「興奮」は時間が凝縮されている。だからこの「歓声よりも長く 興奮よりも速く」走るというのは、ラグビーの攻撃の描き方としてきわめて的確なのだ。そしてその走る姿が「あなた」に収斂していく。「彼」が「あなた」に転換されることによって、「私」と「彼=あなた」の距離が極限まで縮まるかのようだ。その「あなた」を「少しでもわかりたいから」、「人々がみんな立ち去っても私 ここにいるわ」と歌うのは、ラグビーに対する愛の賛歌となる。「あなた」はラグビーそのものなのだろう。

  「ノーサイドNO SIDE」は試合終了を示す。その瞬間、自陣と敵陣の区別はなくなり、勝者のサイドも敗者のサイドも無くなる。互いの健闘をたたえ合い、互いを尊重し合う。ノーサイドという境界を消失させる行為は、歪んだ対立が顕在化するこの時代に省みる価値がある。
 ふと思った。『ノーサイド』の歌詞の「彼・あなた」と「私」にある一種の距離や境界も最後に消えていったのではないかと。歌い手と歌われる存在や対象との間にある境界も、歌が終わる瞬間に消失していく。

 「しめくくるキックは ゴールをそれた」というシーンについても語りたい。これはかつての全国高等学校ラグビー大会決勝の「伝説の一戦」から素材を得ているようだ。決まれば同点で両校優勝となるゴールキックを左に外し、その直後ノーサイドの笛が鳴ったそうである。
 こういう劇的なシーンはラグビーで時に遭遇することがある。

 昨年のラグビーWCフランス対アルゼンチン戦を東京・味の素スタジアムで観戦した。山梨で合宿したフランスチームを応援するつもりで行ったのだが、会場に行く途中で陽気なアルゼンチンサポートとも出会い、はじめからノーサイドの気分だった。
 フランスが2点差でリードしている試合の終了間際、アルゼンチンがPGを獲得した。約50メートルのロングキックが決まれば劇的逆転だったが失敗した。まさしく「しめくくるキックは ゴールをそれた」。試合はノーサイドを迎えた。

 もうひとつ思い出を語りたい。もう二十年近く前の出来事だ。
 2001年12月旧国立競技場で、ラグビー関東大学対抗戦の「早明戦」早稲田大学対明治大学の闘いがあった。
 早稲田が1点のビハインドで迎えた後半ロスタイム、ペナルティーのチャンスを得て、武川正敏が蹴ったボールはポストの間を通り抜けた。キックはゴールをそれなかった。早稲田が土壇場で試合をひっくり返し、勝利を掴み取った。現地で僕は父と妻と一緒にこの試合を見ていた。僕が母校の早稲田大学ラグビーのファンだったので、父も熱心に応援してくれるようになっていた。勝利の瞬間の父の笑顔が忘れられない。翌年も観戦し、その次の年もチケットを購入したが、父は体調を崩し国立には行けなかった。その半年後父はなくなった。早稲田のラグビーを見ると父を思い出す。2001年の早明戦はいまだに最も記憶に残る試合だ。みんなで校歌をうたったことも胸に刻まれている。

 武川正敏は山梨のラグビー強豪校である日川高校の出身である。そのこともあり、あの日は特に彼を応援していた。彼は昨年から早稲田のヘッドコーチに就任している。あの日の伝説のキックの経験は後輩たちへ受け継がれていくのだろう。

 紅白歌合戦で歌い終わった後、田中史朗は「皆さんの支えがあってベスト8にいけたのでうれしいですし、ほんとうに日本がONE TEAMになって、この歌も聞けてほんとうにうれしいです。ありがとうございます」と言った。ユーミンは「たくさん勇気をもらいました。この曲にこんなチャンスを与えてくれてありがとう!」と涙ぐみながら選手に語りかけていた。
 「チャンス」を与えてくれたというユーミンの言葉に感銘を受けた。『ノーサイド』というひとつの歌が、ラグビーを祝福し、ラグビーから祝福されていた。


2020年1月5日日曜日

『ミュージック・マガジン』の「50年の邦楽アルバム・ベスト100」[志村正彦LN247]

 2020年の元日、フジファブリック・山内総一郎氏の慶事が伝えられた。今後、フジファブリックはさらに変化していくのだろう。
 2019年は志村正彦・フジファブリックにとって特別な年だったので、例年以上に集中して様々な事柄を追ってきた。年を越えてしまったが、今回は音楽雑誌『ミュージック・マガジン』について書きたい。

 去年2019年は、1969年4月創刊の雑誌『ミュージック・マガジン』の創刊50周年の年だった。2019年4月号は、特別付録として創刊号を復刻して同封した。久保太郎編集長は「『ミュージック・マガジン』は、創刊50周年を迎えました」という巻頭言でこう述べている。


 洋楽、とりわけロックを単なるエンターテイメントではなく、人々の意識を変え、社会変革をもたらすものと捉え、その音楽の紹介のみならず、批評のスタイルまでを文化として導入し、確立しようということが創刊の目的でした。その姿勢は、今回復刻した創刊号に色濃く表れていますし、後にロックだけでなく世界の様々なポピュラー・ミュージックや邦楽に批評の対象を広げても、本誌が一貫して持ち続けてきたものです。


 僕が読み始めたのは1974年頃だった。編集長の言葉にある通り、ロックは「人々の意識を変え、社会変革をもたらすもの」という意識が読者にもあった。当時は洋楽のロックが中心で、時代が経つにつれてワールドミュージックや邦楽も取り上げるようになった。以前も書いたが、僕にとって『ミュージック・マガジン』(『ニューミュージック・マガジン』の時代だが)は主に、浜野サトルの批評を読む媒体として位置づけられていた。     

 4月号の復刻に続いて、『創刊50周年記念復刻 Part 1 ニューミュージック・マガジン1969年5月号~8月号』『創刊50周年記念復刻 Part 2 ニューミュージック・マガジン1969年9月号~12月号』の復刻版も出された。
 5年ほど前、古書市場で1970年から2012年までの500冊ほどのセットを運良く購入できた。その後も空白の号を買い集め、現在は定期購読している。創刊年の1969年は数冊だけ持っていなかったが、今回の復刻版を含めると50年間のすべての号が揃ったことになる。この雑誌は比較的部数も多かったので古書の価格もそんなに高くないのが幸いだった。この雑誌は日本におけるロックの受容の歴史を語る上で必読の資料である。(日本文学の教員として、雑誌全号のコレクションの大切さを痛感している。インターネット以前の時代の資料は雑誌などの「物」としてあり、「物」として収集保管していかなければならないが、これがけっこう大変である。)

 2019年4月号の本編には、特集として「創刊50周年記念ランキング~2020年代への視点(3)~50年の邦楽アルバム・ベスト100」が掲載されている。あくまで「50年の邦楽」あり、ロック、ラップ、電子音楽、アイドルまで「ポップス」の枠に括られる全てが対象となった。50人の選者が各々50枚のベストアルバムを選出して集計した結果、1位から10位までは下記の通りである。


 1. はっぴいえんど『風街ろまん』
 2. シュガー・ベイブ『SONGS』
 3. 大滝詠一『ロング・バケイション』
 4. ゆらゆら帝国『空洞です』
 5. イエロー・マジック・オーケストラ『ソリッド・ステイト・サバイバー』
 6. フィッシュマンズ『空中キャンプ』
 7. ザ・ブルー・ハーツ『THE BLUE HEARTS』
 8. 細野晴臣『HOSONO HOUSE』
 9. 荒井由実『ひこうき雲』
 10. サディスティック・ミカ・バンド『黒船』


 リストは100位ではなく200位まで掲載されていたが、フジファブリックは一つも入っていなかった。50人の選者の各々のリストも載っていたので探してみると、志田歩氏の43位にフジファブリック『フジファブリック』、高岡洋詞氏の46位にフジファブリック『フジファブリック』、山口智男氏の19位にフジファブリック『TEENAGER』が挙げられていた。志田氏はこの雑誌でフジファブリックの記事を書いたこともあり、作品を高く評価していた。高岡氏と山口氏はおそらく若いライターだと思われる。この三人の見識によって3枚がリストアップされた。
 50人が50枚、合計2500枚のうちの3枚である。2500枚といってもかなりの重複があり、50年の間には膨大な数のアルバムがリリースされたことを考慮すると、3枚入っていたのは喜ぶべきなのだろう、と書きたいところだが、これは多いに不満であり疑問である。志村正彦・フジファブリックのアルバムに対する正当な評価があまりにも少ないのは、現在の音楽ジャーナリズム(そんなものがまだあるとして)の視野の狭さのせいであろう。

 10位までのリストに示されているように、いわゆる「はっぴいえんど史観」、細野晴臣やYMOを中心とする評価軸が強すぎるようだ。音楽は所詮「好み」の問題であるが、音楽ジャーナリズムの評価としてあまりに偏りすぎている。また、ジャックス『ジャックスの世界』がまったく入らなかったのは、この作品が1968年リリースで対象外だったからなのだろうが、少なくともこのアルバムが入るように1968年を起点にできなかったのか。(「はっぴいえんど史観」を徹底するために1968年を除外したとも考えられるが、まあこれは勘ぐりすぎだろう)

 年初なので僕も10枚を選ぶことにした。よく聴いたアルバムを選んだだけのきわめて個人的なリストである。ただし、起点は1968年にして、順位は付けずにリリース順に記した。


    ジャックス『ジャックスの世界』1968年9月
    荒井由実『ひこうき雲』1973年11月
    四人囃子『一触即発』1974年6月
    RCサクセション『シングル・マン』1976年4月
    PANTA & HAL『マラッカ』1979年3月
    フリクション『FRICTION(軋轢)』1980年4月
    ムーンライダーズ『青空百景』1982年9月
    THE BOOM『サイレンのおひさま』1989年12月
    早川義夫『この世で一番キレイなもの』1994年10月
    フジファブリック『フジファブリック』2004年11月


 リアルタイムで聴いたのは四人囃子『一触即発』以降である。『ジャックスの世界』と『ひこうき雲』は70年代後半に出会った。フジファブリックは『アラカルト』から『CHRONICLE』までの全アルバムを挙げたいくらいだが、メジャー1作目に代表させた。
 並べてみると「ロックの歌」「ロックの詩」が好きなのだとあらためて気づく。個々のアルバムについて触れる余裕はないが、いつかこのblogで書いてみたい。

 1968年の『ジャックスの世界』から2004年の『フジファブリック』まで36年の歳月を必要とした。早川義夫・ジャックスが日本語ロックの創始者であり、志村正彦・フジファブリックが日本語ロックの可能性を極めたというのが僕にとっての歴史である。