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2022年8月28日日曜日

2022年夏、黒板当番『若者のすべて』 [志村正彦LN314]

 夏が終わろうとしている。毎年この時期に志村正彦・フジファブリックの『若者のすべて』について書いてきたので、今年も続けたい。『茜色の夕日』論は一休止とする。

 今夏も、地元局テレビ山梨の花火の映像のBGMでこの曲を聴いた。特に八月の最後になると、テレビやラジオで『若者のすべて』が再生されることが多い。ネットでもその報告が増えている。

 今年に関して言えば、『若者のすべて』についての報道は特段なかったようだ。この春から高校音楽の教科書に採用されて以降、この曲に関するニュースは特に見当たらない(見落としている可能性もあるが)。

 そのような状況だが、黒板当番さんがこの夏に描いた『若者のすべて』の画が印象深かった。今日はこの黒板画を取り上げてみたい。すでに見た方も未見の方も、この素晴らしい作品をぜひご覧ください。

 僕は実際の画をまだ見ていない。ネットの画像、そしてこの画について作者が書いた文章(@kokuban_toban Aug 7)から考えたことを記したい。


 黒板当番さんは、『若者のすべて』の二人について次のように述べている。

この絵の中心となる男女二人の顔は、一番思い悩んだ表現でした。単純に考えるとこの歌は再開を願っていた彼女についに出会い、一緒に花火を見上げているハッピーエンドに聴こえます。しかし「話すことに迷うな」というだけでは、二人が互いに目を合わせて言葉を交わしたかどうかは怪しい、と思いました。もしかしたら彼女の存在を確認しただけで、声を掛けられないまま別れたかも知れないし、彼女は志村さんに気付いてすらいないかも知れない。さらに志村さんの妄想癖を考えると、彼女が本当にそこにいたかどうかも分からない。記憶の中の彼女をリアルに想像して、まいったな、と言っているだけかも知れない。志村さんの歌詞は、このような複数の世界線を同時に成り立たせるような「空白」を巧みに言葉に込めているように思えます。


 黒板当番さんは、〈ないかな ないよな なんてね 思ってた/まいったな まいったな 話すことに迷うな〉という所謂《再会》のシーンについて、〈この二人が互いに目を合わせて言葉を交わしたかどうかは怪しい〉〈彼女の存在を確認しただけで、声を掛けられないまま別れたかも知れない〉と考えている。

 このシーンについては以前、「志村正彦LN300」で、「「僕」は〈まいったな まいったな 話すことに迷うな〉と躊躇い、そのままその場を通り過ぎようとする。その一瞬に、「僕」の視線はその想い続けていた人に向けられる。「僕」とその人との間で、眼差しが交わされる。眼差しによる再会」という解釈を示したことがある。

 黒板当番さんはさらに〈彼女は志村さんに気付いてすらいないかも知れない〉〈さらに志村さんの妄想癖を考えると、彼女が本当にそこにいたかどうかも分からない〉と考察を深める。〈気付いてすらいない〉可能性はあると僕も考えていたが、〈妄想〉によって〈彼女が本当にそこにいたかどうかも分からない〉〈記憶の中の彼女をリアルに想像して、まいったな、と言っているだけかも知れない〉という捉え方は、思ってもみなかった。斬新で独創的な解釈である。確かに、志村正彦の作品には、彼特有の妄想や想像の力によって描かれた世界がいくつもある。


 夏の夜の花火大会だとすると、花火を美しく見せるために会場の照明は少なく、ほの暗い。大勢の人々で賑わっているが、人々の顔の表情はよく見えない。時折光る花火の光。その一瞬一瞬、光が輝く以外の時には、近くの人が誰であるのかも分からない。

 会いたい誰かがいるとしよう。たまたま、面影が少し似ている人を見かける。はっきりとは分からない。だからこそ、思う気持ちが強ければ強いほど、その見かけた人をその人自身と思いこむことがあるかもしれない。現実よりも、思う気持ちの方が勝る。そうなると妄想にも似てくる。

 あるいは、「真夏の夜の夢」のような夢想。花火の鮮やかな光や大きな音の中で、夢見心地の世界が現れる。現実と夢の狭間のような世界。〈ないかな ないよな きっとね いないよな〉〈ないかな ないよな なんてね 思ってた〉という〈ない〉のリフレインは、現実でも〈ない〉、夢でも〈ない〉、その狭間の世界を歌っているのかもしれない。

 『若者のすべて』の物語は、主体の「僕」が〈まぶた閉じて浮かべているよ〉と歌うように、閉じられたまぶたの裏側にあるスクリーンに投影されている夢物語のようでもある。

  シェイクスピア『真夏の夜の夢』(A Midsummer Night's Dream、『夏の夜の夢』という訳もある)は、真夏の熱に浮かされた恋の祝祭の物語である。最後に妖精パックは、〈夜の住人、私どもの、とんだり、はねたり、もしも皆様、お気に召さぬとあらば、こう思召せ、ちょいと夏の夜のうたたねに垣間みた夢まぼろしにすぎないと〉と語る。『若者のすべて』にも、花火によって高揚する感触、静かな祝祭の感覚がある。シングル『若者のすべて』のカップリング曲・B面の『セレナーデ』にもそのような感覚の陰影がある。


 黒板当番さんは、志村正彦の歌詞を〈複数の世界線を同時に成り立たせるような「空白」を巧みに言葉に込めている〉と考えて、次のように「若者のすべて」黒板画を構想したそうである。

このような空白を尊重したいと思ったので、この絵に二人の姿を具体的に描く上で、明らかに隣に並んでいると分かる構図の絵は描けない、と考えました。そこで出た答えが、絵の中で二人が別々のカメラで撮られたように描くことでした。すぐ隣にいるかも知れないし、離れたところにいるかも知れない。同じ花火を見上げているかも知れないし、記憶や想像の中の彼女かも知れない。本当にそこにいたとしても、彼女は懐かしい志村さんに出会っていないかも知れないし、出会うことを想定すらしていないかも知れない。そこで、彼女の髪型や服装は、特に再会への期待を感じさせない、いつもの飾らない普段着風にしました。彼女の表情も再会の有無に関係なく、花火の美しさだけに集中しているように見えるよう描きました。志村さんの方は、再会に喜んではにかんでいるようにも、また再会を妄想してニヤけているだけのようにも見えるよう気を付けました。また、二人の顔の影が少し違うのは、花火を見ている場所が違うかも知れないことを示唆しています。


  作品の画像を見ると、確かに、〈絵の中で二人が別々のカメラで撮られたように〉描かれていることが分かる。カメラの比喩で言うと、カメラの被写体とカメラの撮影者がいる。〈別々のカメラ〉とあるので、ハリウッド映画の撮影のように、同一シーンを複数カメラで撮影している感じかもしれない。映画ではカットのモンタージュで編集するが、絵画では同一画面でつなぎ合わせることになる。

 この二人の描き方による画には、《パララックス・ヴュー》、パララックス(視差)による二つの像の間に生じる見え方の差異、ギャップのようなものがある。それは、志村正彦的な何かにつながるような気がした。

 この黒板画には、富士吉田の「いつもの丘」の山と高円寺の駅前、高円寺の陸橋、八月末の天気図、『若者のすべて』CDジャケットの観覧車など、いくつもの風景や景物が同時に織り込まれている。画を描く人の視線もまたそこに織り込まれる。

 僕の目には、チョークのドットが花火の光の粒子に見える。この画全体が花火の一瞬の輝きのようでもある。上部の風景の中に、かすかに、富士山の姿を感じたのだが、これは幻かもしれない。


 文章の場合、結局、対象の構造を分析したり概念を提示したりすれば、とりあえず句点を打つことができる。だから、ある種の逃げになることもある。このblogの文章もそれを免れない。

 しかし、絵画の場合、具体的であっても抽象的であっても、像を描かなければならない。線と色を選択しなければならない。これは当然の前提だろう。しかし、あらためて、黒板当番『若者のすべて』を見て、絵を描く人の決断と勇気といったものを考えさせられた。


2022年8月21日日曜日

第5ブロックの時間、第1と第4ブロックとのつながり-『茜色の夕日』3[志村正彦LN313]

   前回、『茜色の夕日』の第1~4ブロックのフレーズを構成要素abcdに分けた。第1~4ブロックは、基本として回想であり、歌の主体が回想する出来事が述べられている。それに対して、第5ブロックは回想というよりも、歌の現在時における主体の想いが表出されている。構成要素abcdとは独立した関係にあるので、eという新しい要素を付した。


 第5ブロックを引用する。

5e  僕じゃきっと出来ないな
5e  本音を言うことも出来ないな
5e  無責任でいいな ラララ そんなことを思ってしまった


 第1~4ブロックの回想は〈そんなことを思っていたんだ〉と語られるが、第5ブロックは〈そんなことを思ってしまった〉と述べられる。第5ブロックの〈思ってしまった〉の方は、今まさしくそのようなことを〈思ってしまった〉という、思う行為が完了した時点を示している。〈そんなこと〉は、歌の主体の現在時に近い出来事になる。それに比べて、第1~4ブロックの〈思っていたんだ〉は〈そんなこと〉を思い、その思いが持続していたという時の流れを示している。〈そんなこと〉は、歌の主体にとって、近い過去から遠い過去までの出来事になる。

 つまり、〈そんなことを思ってしまった〉とされた第5ブロックの想いは、歌の現在時のものと言ってもよいだろう。その内容も、〈僕じゃきっと出来ないな〉〈本音を言うことも出来ないな〉〈無責任でいいな〉という〈僕〉と〈僕〉自身との対話であり、現在の思いであろう。その自己対話を〈ラララ〉と受けとめながら、〈そんなこと〉と捉えた上で、〈思ってしまった〉と結んでいる。ここでは表現の観点で分析したが、この第5ブロックの意味については後に論じたい。


 第1~4ブロック全体を再度引用する。


1a  茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました
1b  晴れた心の日曜日の朝 誰もいない道 歩いたこと
1c
1d

2a  茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました
2b  君がただ横で笑っていたことや どうしようもない 悲しいこと
2c  君のその小さな目から大粒の涙が溢れてきたんだ
2d  忘れることは出来ないな そんなことを思っていたんだ

3a  茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました
3b  短い夏が終わったのに今、子供の頃の寂しさがない
3c  君に伝えた情熱は呆れるほど情けないもので
3d  笑うのをこらえているよ 後で少し虚しくなった

4a
4b
4c  東京の空の星は見えないと聞かされていたけど
4d  見えないこともないんだな そんなことを思っていたんだ


 第1ブロックには、abの構成要素はあるが、それに続くcdはない。

 歌の主体ははじめに、〈茜色の夕日〉という光景を〈眺めてたら〉と語り始める。〈てたら〉は、〈ている〉という現在進行形を含む〈ていたら〉であるので、この眺める行為は、今、進行中、継続中の事態や行為である。そして、眺める行為の帰結は〈少し思い出すものがありました〉という想起となる。回想される出来事は、〈晴れた心の日曜日の朝〉という過去の日と、その過去の時点で〈誰もいない道 歩いた〉という行為である。

 〈晴れた心の日曜日の朝〉という表現は独特だ。〈晴れた日曜日の朝〉という通常の表現に〈心の〉が繰り込まれている。おそらく、〈晴れた心〉(心が晴れやかだ)と〈晴れた日曜日の朝〉(天気が晴れている、日曜日の朝)が複合されているのだろう。続くフレーズは〈誰もいない道 歩いたこと〉。つまり、歌の主体は〈日曜日の朝〉に〈誰もいない道〉を歩いている。この〈歩行〉のモチーフを、志村正彦は繰り返し表現している。『茜色の夕日』全体を通じて、〈歩行〉が続いているようなリズムがある。逆に、立ち止まる、佇立する、休止のポイントもある。歩いて立ち止まる。立ち止まって歩き出す。このモチーフとリズムは、『若者のすべて』などの他の作品に引き継がれている。

 第2ブロック・第3ブロックで焦点化されるのは〈君〉であり、〈君〉との出来事である。注目したいのは第4ブロックである。cdの構成要素はあるが、それ以前のabがない。その意味で、第1ブロックと第4ブロックは対照的である。ここで一つの仮説を提示したい。第1ブロックのabと第4ブロックのcdにはつながりがある、というものだ。第1ブロックのabと第4ブロックのcdとを接続させて、一つのブロックを作るとこのようになる。


1a  茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました
1b  晴れた心の日曜日の朝 誰もいない道 歩いたこと
4c  東京の空の星は見えないと聞かされていたけど
4d  見えないこともないんだな そんなことを思っていたんだ


 第1ブロックのabで回想される出来事は〈晴れた心の日曜日の朝〉という過去と、その時点で〈誰もいない道 歩いたこと〉という行為である。歌の主体はどこかを歩いている。この〈歩行〉の場、〈誰もいない道〉は、歌の主体の故郷にある道のような気がする。根拠はないのだが、そのように感じられる。

 第4ブロックのcdで〈東京の空の星〉が登場する。作者志村正彦が、東京という具体的な場を表現することは極めて珍しい。それは〈見えないと聞かされていたけど〉〈見えないこともないんだな〉と、〈ない〉という否定と〈ないこともない〉の二重否定による肯定がある。〈ない〉という表現は三度重ねられる。第1ブロックにも〈誰もいない道〉という〈ない〉による否定がある。

  第1ブロックのabと第4ブロックのcdとを接続させると対比的な構造が現れる。〈晴れた〉〈日曜日の朝〉と〈見えないこともない〉〈東京の空の星〉。晴れて見えないこともないもの。そして、〈朝〉と夜という時間。そのような構造を想定すると、この歌詞の展開において、第1ブロックのabと第4ブロックのcdとの間につながりがある、という仮説が成り立つかもしれない。


2022年8月14日日曜日

歌詞の構成要素-『茜色の夕日』2[志村正彦LN312]

  『茜色の夕日』(作詞・作曲:志村正彦)の歌詞は、歌詞カードによって異同があるが、ここでは、『志村正彦全詩集新装版』(パルコ 2019/8/28)収録の本文を引用する。


茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました
晴れた心の日曜日の朝 誰もいない道 歩いたこと

茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました
君がただ横で笑っていたことや どうしようもない 悲しいこと

君のその小さな目から大粒の涙が溢れてきたんだ
忘れることは出来ないな そんなことを思っていたんだ

茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました
短い夏が終わったのに今、子供の頃の寂しさがない

君に伝えた情熱は呆れるほど情けないもので
笑うのをこらえているよ 後で少し虚しくなった
東京の空の星は見えないと聞かされていたけど
見えないこともないんだな そんなことを思っていたんだ

僕じゃきっと出来ないな
本音を言うことも出来ないな
無責任でいいな ラララ そんなことを思ってしまった

君のその小さな目から大粒の涙が溢れてきたんだ
忘れることは出来ないな そんなことを思っていたんだ
東京の空の星は見えないと聞かされていたけど
見えないこともないんだな そんなことを思っていたんだ


 この歌詞も、他の志村の歌と同様に、具体的な物語の展開がたどりにくい。反復されるフレーズが多いことも影響しているだろう。把握しにくいのではあるが、歌われている出来事、物語がないことはない。その出来事、物語をこのblogでよく使っている歌詞の構成要素abcd(いわゆる「起承転結」に相当する)によって分析してみたい。

 現代詩作家荒川洋治『詩とことば』 (岩波現代文庫 2012.6、原著2004刊)の次の箇所を参考にした。その部分を引用する。

 詩は、基本的に、次のようなかたちをしている。

  こんなことがある           A
  そして、こんなこともある   B
  あんなこともある!      C
  そんなことなのか         D

 いわゆる起承転結である。Aを承けて、B。Cでは別のものを出し場面を転換。景色をひろげる。大きな景色に包まれたあとに、Dを出し、しめくくる。たいていの詩はこの順序で書かれる。あるいはこの順序の組み合わせ。はじまりと終わりをもつ表現はこの順序だと、読者はのみこみやすい。

 この論ではABCDを小文字のabcdに置き換えて、歌詞の展開の基本要素にする。

 物語の展開および楽曲の展開から、五つのブロックに分けた。1~4の四つのブロックには、各々、abcdの構成要素を付したが、1と4については空白の行を設定して、それぞれcd、abを付した。また、1~4の展開から独立したブロックは5として、eという構成要素を新たに付けた。このeは、起承転結的な展開からは独立した部分、歌の主体の思いが直接表現されているところを示している。abcdそしてeの差異を明らかにするために、フォントの色を分けてみた。


1a  茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました
1b  晴れた心の日曜日の朝 誰もいない道 歩いたこと
1c
1d

2a  茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました
2b  君がただ横で笑っていたことや どうしようもない 悲しいこと
2c  君のその小さな目から大粒の涙が溢れてきたんだ
2d  忘れることは出来ないな そんなことを思っていたんだ

3a  茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました
3b  短い夏が終わったのに今、子供の頃の寂しさがない
3c  君に伝えた情熱は呆れるほど情けないもので
3d  笑うのをこらえているよ 後で少し虚しくなった

4a
4b
4c  東京の空の星は見えないと聞かされていたけど
4d  見えないこともないんだな そんなことを思っていたんだ

5e  僕じゃきっと出来ないな
5e  本音を言うことも出来ないな
5e  無責任でいいな ラララ そんなことを思ってしまった


2c  君のその小さな目から大粒の涙が溢れてきたんだ
2d  忘れることは出来ないな そんなことを思っていたんだ
4c  東京の空の星は見えないと聞かされていたけど
4d  見えないこともないんだな そんなことを思っていたんだ


 第1ブロックから第4ブロックまでのabcdの構成要素を要素別に配列してみると、歌詞の物語構造が明確になる。


1a  茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました
2a  茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました
3a  茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました
4a

1b  晴れた心の日曜日の朝 誰もいない道 歩いたこと
2b  君がただ横で笑っていたことや どうしようもない 悲しいこと
3b  短い夏が終わったのに今、子供の頃の寂しさがない
4b  

1c
2c  君のその小さな目から大粒の涙が溢れてきたんだ
3c  君に伝えた情熱は呆れるほど情けないもので
4c  東京の空の星は見えないと聞かされていたけど

1d 
2d  忘れることは出来ないな そんなことを思っていたんだ
3d  笑うのをこらえているよ 後で少し虚しくなった
4d  見えないこともないんだな そんなことを思っていたんだ


 〈a〉は、この歌の起、イントロダクションであり、すべての回想が引き起こされる。このフレーズは1~3にかけて、そのまま反復される。〈茜色の夕日〉という光景を〈眺めてたら〉という主体の行為。夕方という現在時。〈少し思い出すものがありました〉という回想は、思うに任せない現実に気を揉むような焦慮が変化していったものだと考えられる。焦慮が回想へと転換されていくことで、次第に、主体の想いが動き始めるといってもよい。

 〈b〉は、〈a〉の回想を受けて展開される。その回想される出来事、それと共に、その出来事の時間や時代が表される。〈誰もいない道 歩いたこと〉〈君がただ横で笑っていたこと〉〈どうしようもない 悲しいこと〉〈子供の頃の寂しさがない〉という出来事。〈晴れた心の日曜日の朝〉〈短い夏が終わった〉〈今〉という時間や時代。

 〈c〉で、ある種の転換が起きる。〈君〉が焦点化されて、その〈君〉と歌の主体〈僕〉との間にある大切な出来事が語られる。また、〈東京〉の〈空〉の〈星〉というもう一つの重要なモチーフが登場する。

 〈d〉は、そのブロックの結となる部分である。〈そんなことを思っていたんだ〉という語り口で、それぞれの回想が終わる。そして、歌の主体の現在の想いが語られる。〈忘れることは出来ないな〉の〈な〉、〈笑うのをこらえているよ〉の〈よ〉、〈そんなことを思っていたんだ〉の〈んだ〉と添えられた言葉。志村正彦が愛用した表現である。その〈な〉、〈よ〉、〈んだ〉は、歌の主体と出来事とのあいだの一種の距離を示しているとも感じとれる。

2022年8月7日日曜日

焦燥から焦慮へ、1stアルバム『アラカルト』-『茜色の夕日』1[志村正彦LN311]

 志村正彦・フジファブリックは、2002年10月21日、インディーズでデビューを果たした。1stミニアルバム『アラカルト』がロフトプロジェクト主宰のレーベルSong-Cruxから発売。今年2022年はそのデビューから20年となる。

  インディーズに在籍したことのあるアーティストのデビュー時期をインディーズにするかメジャーデビューにするかという問題がある。各々独立したデビューとして考えればよいのかもしれないが、志村正彦の場合、2022年のインディーズデビューを、表現者としての活動開始、デビューとして捉えたいと私は考えている。『アラカルト』収録作品は6曲。いずれも、「習作」的な段階を超えた水準にある作品であり、何よりも独創性が光っている。作品の観点からすると、そのディストリビューションがインディーズかメジャーかということは本質的なことではない。サブスクリプションの時代を迎えて、今後はさらにその識別は無意味になるだろう。

 今年は志村正彦・フジファブリックのデビュー20周年。『アラカルト』から20年。このアルバムの代表曲が『茜色の夕日』であることは多くの聴き手が同意するだろう。だから、『茜色の夕日』20周年と捉えてもよいだろう。

 『茜色の夕日』については、このblogの作品indexをみるとすでに19回ほど書いてきた。ただし、2014年武道館LIVEの志村正彦の《声》による『茜色の夕日』。様々な番組で取り上げられた『茜色の夕日』。『茜色の夕日・線香花火』のカセットテープ。『茜色の夕日』のカバー。映画の作中歌『茜色の夕日』。下吉田駅の『茜色の夕日』というように、この十年間のこの歌をめぐる様々な出来事を主に記してきた。

 このblogでは、作品そのものを論じる場合、通番を付している(例えば『若者のすべて』で通番を付したものは24回ある)が、『茜色の夕日』について通番を付したことはない。つまり、作品そのものを本格的に論じたことはこれまでなかったといってよい。なぜか。私にとって端的に、この歌がつかみづらい、ということに帰する。もっと正直に言えば、これまでこの歌についてどのように論じてよいのか分からなかった。ずっとこのことは気になっていた。この歌が『アラカルト』でCD音源としてリリースされて20年となる今、この歌について通番を付して論じていきたい。


 ここであらためて1stミニアルバム『アラカルト』の曲を振り返りたい。このアルバムにもアルバムとしてののストーリーというものが、そこはかとなく、ある。

 収録曲は全六曲。すべての作詞・作曲は志村正彦。

1.線香花火
2.桜並木、二つの傘
3.午前3時
4.浮雲
5.ダンス2000
6.茜色の夕日




 『線香花火』『桜並木、二つの傘』『ダンス2000』の三曲には共通するモチーフがある。


線香花火のわびしさをあじわう暇があるのなら
最終列車に走りなよ 遅くは 遅くはないのさ      『線香花火』

最後に出かけないか 桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト       『桜並木、二つの傘』

いやしかし何故に いやしかし何故に
踏み切れないでいる人よ                『ダンス2000』


 〈走る〉〈出かける〉〈踏み切る〉という移動や運動の動詞群。〈走りなよ〉〈出かけないか〉。その逆の〈踏み切れないでいる〉。二十歳前後の青年である歌の主体の〈今〉〈ここ〉からの離脱あるいは脱出の願望、それが遂げられない焦燥感が独特のグルーブ感によって歌われている。何かに追い立てられる。それが何かは分からないままにとにかく、どこか外へと出て行くこと。所謂「初期衝動」的なモチーフといってもよい。最も初期の志村正彦の世界がここにある。

 この四曲に対して、『浮雲』『茜色の夕日』は異なる次元へと踏み出している。一つの方向性が定まる。(『茜色の夕日』は最も初期の作と言われているが、ここでは、現実の制作時期についてはあえて問わないことにしたい)移動や運動の動詞はそのまま継承されている。しかし、『線香花火』『桜並木、二つの傘』『ダンス2000』の三曲にみられた「焦燥感」、思い通りにならない現実に対する苛立ちや焦りに駆られることから、思うに任せない現実に起因する不安が内面をめぐることへと変化していく。後者は「焦慮」の感覚と捉えることもできる。アルバム『アラカルト』全体を通じて、歌の主体の「焦燥」から「焦慮」へという想いや感覚の転換が描かれているといえるかもしれない。


 『アラカルト』の三曲目に『午前3時』がある。次の一節が注目される。


鏡に映る自分を見ていた
自分に酔ってる様でやめた


 〈自分〉が、〈鏡に映る自分〉とそれを〈見ていた自分〉とに分離されている。ここでは〈自分に酔ってる様でやめた〉とされているが、このような鏡像との対話は繰り返されたのだろう。志村の場合おそらく、自己陶酔や自己愛に閉じられていくのではなく、自分自身を見つめるもう一人の自分が形成されていった。これはもちろんどの人間にもある経験だが、志村の場合、その経験を自ら深めていった。自分に対する〈他者〉としての自分という存在ががある強度を持って形成されていった。〈他者〉としての志村正彦の誕生である。


 『浮雲』『茜色の夕日』には次の一節がある。


独りで行くと決めたのだろう
独りで行くと決めたのだろう                  『浮雲』


茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました
晴れた心の日曜日の朝 誰もいない道 歩いたこと        『茜色の夕日』


 『浮雲』では、〈独りで行く〉ということを、歌の主体は自分自身に対して〈決めたのだろう〉と問いかける。自らに問いかけるのではあるが、〈独りで行く〉ことは、すでに決められていたように思える。

   『茜色の夕日』では、〈茜色の夕日眺めてたら/少し思い出すものがありました〉と語りかける出来事は、〈晴れた心の日曜日の朝/誰もいない道 歩いたこと〉、歩みの記憶である。〈…ものがありました〉という語りかけは、まず第一に自らに対するものだ。〈…たのだろう〉の問いかけと、〈…ものがありました〉の語りかけ。その問いかけと語りかけの話法によって、〈独りで行く〉という主体の決意と、〈歩いたこと〉という主体の歩みの記憶が伝えられる。

 『浮雲』の主体は、現在の自分、故郷の「いつもの丘」にいる自分が、未来の自分自身に対して問いかける。現在の自己と未来の自己という二つの自己の分離とその二者間の対話がある。『茜色の夕日』では、現在の自分、おそらく東京の街にいる自分が、故郷にいる自分、過去の自分へと語りかける。現在の自己と過去の自己という二つの自己の分離とその二者間の対話がある。


 2002年の1stミニアルバム『アラカルト』収録の『浮雲』と『茜色の夕日』の二曲が、一人の青年志村正彦を一人の表現者志村正彦へと転換させていった。

 柴宮夏希による『アラカルト』ジャケット画をもう一度見てみよう。近景に花々、中景に白銀の富士、遠景に赤色と黄色の太陽が描かれているように見える。この二つの太陽が茜色の夕日の象徴なのかもしれない。あるいは、この赤色と黄色のコントラストが何かと何かの対比を表している、とも捉えられる。どちらにしろ、この対比的構造は志村正彦・フジファブリックの始まりを象徴的に表している。