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2022年3月13日日曜日

木下惠介監督『笛吹川』

  二月の下旬以来、重苦しい日々が続く。自明だと考えていた世界の前提が壊されてゆく。沈鬱な気分に陥り、ブログを書くこともできなかった。

 昨日3月12日、山梨市の日下部公民館で木下惠介監督『笛吹川』(1960年)の上映会があった。原作は山梨出身の作家深沢七郎の同名小説である。上映前の短い時間ではあるが、この映画についての解説を担当させていただいた。この映画をブログで取り上げることには意義があるかもしれないと思えたので、今日は久しぶりに書いてみたい。

 日下部公民館の館長夫妻とは知人であり、私が大学の「山梨学」という科目のなかで「木下惠介と山梨」というテーマで講義をしていることもきっかけとなった。映画は専門ではないが、山梨出身やゆかりの作家について研究や教育をしてきた。木下監督の代表作『楢山節考』(1958年)も原作は深沢七郎であり、『二人で歩いた幾春秋』(1962年)という戦後の山梨を舞台にした優れた作品もある。山梨との関わりが深い映画監督といっても良いだろう。

 当日は、五十人ほどの参加者があった。コロナ禍なので、座席の間隔を開けて換気にも注意しての上映である。レンタルDVDさらにネットでの動画サイトが普及して、自宅で映画を自由に視聴できる時代ではあるが、今回のように公民会という場に集って、みんなで名作映画を鑑賞するのも良いものである。なんだか懐かしい雰囲気があり、忘れてしまった大切なものを思いだしたような気持ちになった。

 映画の舞台笛吹川は、山梨北部の山々の渓谷を源に、甲府盆地の東にある甲州市・山梨市・笛吹市を通って、やがて富士川に合流して、静岡へと流れていく。この名の由来は、濁流にのまれた母を笛を吹きながら探す途中で川で亡くなった「笛吹権三郎」の哀しい伝説にあり、この川の音が権三郎の吹く篠笛の音のように聞こえたことによる。そのせいか、映画にも小説にも、どこか音楽的な響きやリズムを感じる。

 映画『笛吹川』は、武田信虎・信玄・勝頼の武田家三代の時代を背景に、笛吹川の袂にある「ギッチョン籠」と呼ばれた家に暮らす貧しい農民、おじい(加藤嘉)・半平(織田政雄)・半蔵(大源寺龍介)・定平(田村高広)・惣蔵(市川染五郎)・久蔵(伊藤茂信)の六代にわたる六十余年の物語を描いている。この六代の男たちと共に、定平の妻おけい(高峰秀子)と妹タツ(荒木道子)が主要な人物である。「ギッチョン籠」の一族の多くは武田家の戦に巻き込まれていく。

 この映画はモノクロで撮影され、山々の稜線や川の風景が美しく描かれているが、ところどころモノクロに部分的に色を付ける手法が導入され、風景に対する異化の効果を与えている。実験的な映像である。

 長部日出雄『天才監督 木下惠介』によると、当初は山梨でロケハンしたがおもわしい場所がなく、長野県の千曲川の木橋の近くにギッチョン籠のオープンセットを建てて撮影された。この美しい木橋が、「ギッチョン籠」の生活の世界と外部の戦乱の世界とを媒介している。この橋を人や馬が通ると、何かが起きる。そのほとんどは死をもたらす出来事だ。その反対に、「ギッチョン籠」やその周辺の世界では、死と引き換えるようにして、「ボコ」(甲州弁の「子供」)が生まれる。

 笛吹川の橋は、生と死の世界の境界にある。そして、その生と死の反復が、『笛吹川』の通奏低音になっている。そして甲州弁で語られる台詞、「ボコ」「ノオテンキ」などの言葉やアクセントが独特の響きを作っている。まさしく、甲州そのものの世界なのだ。

 木下は「歴史に流れる人間の生命」という文で、『笛吹川』のテーマやモチーフについて次のように述べている。

この小説の主題は、個人でも事件でもない、すべては笛吹川の流れなのだ。歴史を通して流れる人間の生命、その哀しさと力強さが基本的テーマとなって訴えかけてくる。恐らく深沢さんが狙ったのは、今迄のドラマや小説作法では捉えられなかった人間、時代や歴史を越えて生き続ける人間の、業のようなものを描こうとしたのだろう。(略)これ迄に勇ましい武将や華やかな合戦を描いた映画は沢山あるが、その陰に生きた庶民や百姓を主人公とし、彼等の立場から歴史を描こうとした作品は一寸見当らない。そこで、この歴史の波にもまれ、その中に生きて行く百姓一家を主人公にした小説から、今迄とは違った歴史映画を掴み出そうと思っている。(略)歴史が変っても、永遠に続く人間本能のくりかえし、演出はここに焦点を合わせるが、その結果として、戦国時代を描きながら大変現代性の強い作品になると思う。元来、人間というものは、原始的な斗争本能を根強く持っており、常に平和であることを希いながら戦争をくりかえすのは、こうした人間の悲しい本能によるものではないだろうか。人間の心の中には、明暗二面がいつも斗っている。


  物語の筋をここで書くことは控えたいが、物語で語られている三つの闘いの姿については触れたい。この三つの姿は深沢七郎の原作に忠実ではあるが、木下監督の解釈や演出もある程度加えられている。

  一つ目は定平とその妻おけいの闘い。子供達が「お屋形様」武田家の戦に行くことに終始反対する。貧しい農民が戦に出かけて手柄を立てたとしても、結局は死が待っているからだ。おけいは武田軍の一行に入ってしまった子供たちを何とか家に戻そうとして何処までも追いかけていく。母親は子供たちが生き延びるために闘う。

 二つ目は定平の妹タツの闘い。タツは自分の母や夫を「お屋形様」に殺されたことから、武田家に恨みを抱き、その滅亡を願う。タツは絶対に許すことをしない。武田家滅亡のために心の中でずっと闘い続けることがタツの人生だったと言えよう。

 三つ目は定平とおけいの子供、惣蔵たちの闘い。彼らは「先祖代々お屋形様のおかげになっている」と考え、武田家に従って敵軍と闘う。観点を変えれば、武田家と運命を共にするための闘いである。そもそも「ギッチョン籠」の一族は武田家の理不尽な仕打ちの犠牲になってきた。武田家に恨みを抱きこそすれ、恩恵を受けてはいない。それにもかかわらず、武田家という支配者に服従し、殉ずるという一種の背理がある。この心理と行動が観客にとって理解しがたいのだが、現実にはこのようなことが起きる。支配者と被支配者との服従をめぐる複雑な関係である。


 木下惠介はこの三つの闘いの姿を描くことによって、「人間の心の中」の「明暗二面」を浮き上がらせる。後年、「スクリーンと観客席の距離がずっと大きくなるように撮りました」「合戦があっても、ドラマがあっても、観客はその中にとけ込まない。盛り上りもない。人物関係がわからなくてもいい」と回想している通り、『笛吹川』には映画的な盛り上りがほとんどなく、人物関係や物語自体もたどりにくい。木下は、映画に対する観客の欲望、登場人物への同一化や物語への一体化の欲望には迎合しない。映画監督しての自らの欲望にあくまでも忠実である。木下にはどこか突き抜けたもの、とてつもなく過剰なものがある。

  木下惠介監督はヒューマニズムの人と言われているが、そのヒューマニズムは単純で凡庸なものではない。透徹した眼差しによって、戦争とそれを巡る人間の本質を冷徹にえぐりだしている。