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2013年3月31日日曜日

「リアルなもの」(志村正彦LN10)

 『音楽とことば ~あの人はどうやって歌詞を書いているのか~』(P-Vine BOOKs、企画・編集 江森丈晃、ブルース・インターアクションズ刊、2009年3月25日初版。私が参照しているのは2010年12月1日二刷の版)は、日本語のロックの「歌詞」に焦点を絞って、志村正彦を含む13人のアーティストを対象に8人のインタビュアーが取材した貴重な書物である。

 志村の「取材と文」を担当したのは青木優氏で、24頁にわたる貴重な証言となっている。彼の歌詞について考えたい者にとっては必読の文献であろう。このインタビューは、志村の「今日は歌詞についての取材ということで、自分なりに考えをまとめてきました」という、彼らしい生真面目な言葉から始まる。彼は歌詞の本質についてこう語る。

 僕が歌詞について、いちばん大切だと思うのは、その初めにあるのも、終わりにあるのも、単にそれが、メッセージであるのかどうかということだけです。メッセージであるのであれば、なんでもいい、っていう結論なんです。

 青木氏は、その「いきなりの結論」に対して「なんでもいい……ですか?」と問いかける。志村はこう答える。

 歌詞というのは、どんなものでも、何を書いてもいいものではあるんだけど、実は、なんでもよくはない。そこにリアルなもの、本当の気持ちが込められていなければ、誰の気持ちにも響いてくれないと思うんです。

 「リアルなもの」「本当の気持ち」が歌詞の中に込められているかどうかが、決定的に重要なのだという発言は、志村が熟慮の末に発したものであり、彼の歌を読み解く際の鍵となる言葉であることは間違いない。ただし、多くのアーティストがこの発言には共感するであろうから、その意味で特別な言葉だというわけでもない。しかし、これに次ぐ箇所には、志村正彦というアーティストにしか語ることのできないような、きわめて重い言葉がある。

 そこで僕が悩んだことはですね、歌詞の中の自分と、実際の自分の間に距離があると、それは、メッセージにはならないのかな、ということなんです。

 「歌詞の中の自分」とは、この連載の用語では、《人物》、歌詞の中の《主体》としての「自分」のことであり、「実際の自分」とは現実の《作者》、志村正彦その人のことである。(補足すれば、この二人の「自分」の間に、作品ごとに設定される、一つひとつの歌の《話者》としての「自分」がいる。)彼は、この二つの「自分」の間の「距離」について自覚的であった。二つの「自分」の間で揺れたり引き裂かれたりすることを、「一種の矛盾」が生じてしまう事態だとして、さらに具体的に述べている。

 僕はそういう(「自分のリアルな日常の」引用者注)楽しみよりも、メッセージのリアリティの方をとってしまったということです。だから、自分らしい歌詞を書くために、僕は結婚していないし、彼女もいない、とも言えるんです。バンドの中身、つまりは歌詞に込めたメッセージに伴う自分になるために、自分を変えていったというか……。

 「結婚していないし、彼女もいない」という発言は、日常の会話では聞き流してしまうようなものかもしれないが、志村が語ると、とてつもなく「リアル」に響く。現実の自分を歌詞のメッセージに伴う自分に近づけるために、「自分を変えていったというか……」の「……」に込められた、文字通り言葉にならない想いも、どうしようもなく痛切に響く。「距離」や「矛盾」を解消しようとして、現実の自分の方を変えていくことは、結果として、かなりのところまで自分を追い込んでいくことになる。     
(次回に続く)

2013年3月29日金曜日

「鏡」「予言書」「謎」としての歌(志村正彦LN 9)

 志村正彦は、『FAB BOOK』の「若者のすべて」について触れた箇所で、歌詞について非常に印象深いことを述べている。

   歌詞は自分を映す鏡でもあると思うし、予言書みたいなものでもあると思うし、謎なんですよ

    作品というものは、LN6で書いたように、「歌を創造した作者にとっても、歌が完成した時点で、その歌はある意味では作者から離れ、一つの作品として自立していく」。歌詞を始め、言葉で表現された作品は、自分の内部にあった言葉が、声や文字として外部に現れ、形あるものとして定着されていく。表現後は、録音された声や印刷された文字は、作者から独立した作品となり、それを聴いたり読むことを通して、作品の方が逆に、作者自身に語りかけるようになる。内部から外部へという動きが逆転し、外部から内部へという動きが生まれる。それは、鏡面という外部にある自分の像がそれを見る自身に送り返される「鏡」というものに喩えられる働きであろう。志村正彦が言うように、歌詞そのものが「自分を映す鏡」となる。鏡に反射される自分の像との対話を重ねることで、新たな言葉や歌が創り出される。

 「予言書みたいなもの」という言葉は、すでに彼の生涯を知っている現在という時点では、彼の歌を愛する人々に、深い悲しみとある種の驚きをもたらすであろう。彼の死という厳然たる事実から、彼の詩の言葉をすべて意味づけるような行為については慎重にならなければならない。だがそれでも、彼の言葉から、志村正彦の生涯の軌跡とまではいかないまでも、その道筋の断片のようなものが、あらかじめ歌われているような、不思議な想いが起きることが私にはある。中原中也を始めとする夭折した詩人の優れた作品から同様のことを感じる。

 この言葉の解明など、もちろん不可能なのだが、ただ一つ言えることは、例えば『桜の季節』で、「桜の季節過ぎたら」「桜のように舞い散ってしまうのならば」というように、未来のある時点を設定したり、仮定したりして、物語を述べることが彼の歌の特徴の一つになっているということだ。未来の出来事やその仮定から始まり、逆に現在や過去の方へと遡っていくような、逆向きの時間の通路が敷かれている。そのような不思議な時間の感覚が存在していることが、「予言書みたないもの」という発言とどこかつながるのではないだろうか。そのような仮定ができるだけである。

 志村正彦が「予言書みたいなもの」と思った理由や経緯は、彼自身にしか分からない、というか、彼にとっても分からない「謎」であったのだろう。そのことは私たちにとっても、「問い」として存在し続けている。「自分を映す鏡」から始まり、「予言書みたいなもの」そして「謎」で締め括られる言葉の連なりから、彼が歌詞についてどのような思考を回らしていたのか、その輪郭が浮かび上がってくる。

2013年3月27日水曜日

「Fujifabric International Fan Site 」への感謝と語り合いの場(志村正彦LN 8)

  このところ、2,3日に1回の割合で「志村正彦LN」を掲載している。その間隔の時間の中で考えが深まったことを書くようにしているが、そのような進行では、ブログの持つ「断章」という形式が有り難い。字数は1200字位から多いときで2000字程、原稿用紙換算では3枚から5枚といったところか、このくらいの字数で何とか一つのことを書き終わることができる。断章という形式とこの位の字数によって、どうにか進んでいけそうな気がする。

 しかし、書き終わった一つのことと次に書く一つのこととの間に、つながりが見えにくい場合もある。今、「若者のすべて」について書きつつあるのだが、そのたどりつく先が私自身まだ見えてこない。逆に言うと、見えてこないからこそこうして書いているのだが。方法や分析、言葉のアイディア。そして、本や雑誌で発表されている彼自身のコメント、ドキュメンタリー映像やライブ映像。断片的な言葉や素材が頭の中を駆けまわっているのだが、それを一つ一つ整理し、どのように展開していくか、試行錯誤を重ねている。読む立場からすると、論の方向が見えない、「行き当たりばったり」感があるかもしれないが、いろいろな話に飛びながらも、次第にリズムを整え、築いていくつもりなので、どうかご理解ください。
 
 というように書く準備をしていたところ、Jack Russell さんが主催する「Fujifabric International Fan Site」で、この「偶景web」を紹介していただいた。その上、過分な言葉
までいただき、非常に恐縮したのだが、私なりの方法でしっかりと書き続けていくようにという、優れた先行者からのあたたかい激励だと考える。Jack Russell さんには深く感謝を申し上げたい。すでに、LN3コメント欄で次のように書いたが、この言葉をそのまま再掲させていただく。

そもそも、私がこのようなblogを始めたのも、Jack Russellさんの「Fujifabric International Fan Site 」に出会ったことが大きなきっかけとなっています。志村展を始めとする様々なイベントや動きについての的確で丁寧でそして配慮の行き届いた文章、そして彼の歌を世界へ伝えていこうとする翻訳という行為、そのようなあなたの試みから「勇気」をいただいて、《偶景web》を作り、「志村正彦ライナーノーツ」を歩み始めることを決意しました。 

 「書く」ことへと踏み出したのは、この通りの経緯からである。「Fujifabric International Fan Site 」の他にも、インターネット上で、志村正彦の歌を愛する人々が心のこもった文を書いている。私もいろいろなことを教えられている。特に、彼と同世代のリアルタイムで聴いてきた若者の言葉にあふれる、非常に切実な想いには、心を動かされることが多い。たくさんの人々が、多様な視点で、自由に、志村正彦の歌について語り合うこと。《偶景web》もそのような場の一つになることを願っている。

2013年3月24日日曜日

《作者》《話者》《人物》としての「僕」 (「志村正彦LN 7」)

  「志村正彦ライナーノーツ」のLN4から6にかけて、志村正彦の歌についての予備的考察や方法論の説明を重ねてきた。理屈が先行しているようで心苦しいのだが、この試みの最後に歌の語りの問題に言及したい。LN2ですでに次のように書いた。

 「若者のすべて」の語りの枠組みは複雑であるが、「街」を「そっと歩き出して」歩行する「僕」の視点から語られている、とひとまずは言えるだろう。歩行しながら、いくつかのモチーフが語られる

 「語りの枠組み」と書いてあるが、この言葉はあまりなじみがないかもしれない。いわゆるストーリーの「5W1H」、「When(いつ) Where(どこで)Who(誰が) What(何を) Why(なぜ)したのか」という、物語の形式面に留意した捉え方と考えてもらえればよい。また、「街」を「そっと歩き出して」歩行する「僕」の視点、と述べているが、この「僕」は、「若者のすべて」で展開していく物語の「語り手」でもあり、語られる物語の世界の「作中人物」「主人公」「主体」でもあるという特性を持っている。「僕」という言葉には、物語を語る「僕」と物語で語られる「僕」の二重性がある。

 これから私が進めていく論では、語る「僕」のことを《話者》としての「僕」、語られる「僕」つまり作中人物としての「僕」のことを《人物》としの「僕」、時には《主体》としての「僕」と呼ぶことにしたい。さらに付け加えると、《話者》としての「僕」、《人物》としの「僕」の背後に、この歌を創造した《作者》としての「僕」つまり志村正彦という現実の作者、歌い手が存在している。

 《作者》志村正彦が物語性のある歌を創作する際には、《話者》としての「僕」やどのように物語を語っていくか、物語の枠組みをどう設定するかを考えるであろう。その行為を通じて、その《話者》によって語られる《人物》としての「僕」の輪郭が見えてくる。「僕」とはいったいどのような存在であるのか。《話者》「僕」による「僕」に対する問いかけが始まり、《人物》としての「僕」、歌の世界の《主体》としての「僕」が登場してくる。

 このような方法、《作者》、《話者》、《人物》としての「僕」という三つの区分を設けることで、志村正彦の歌の解明が少しでも進むのではないかと私は考えている。しかしこの区分は、作品ごとに具体的に設定されなければならないし、論者によって区分が異なることもあるので、あくまで方法的なものだということを断っておきたい。方法が重要なのではない。どのような方法であっても、結果として、言葉が志村正彦の歌の深い部分までたどりついているかどうかが本質的なことだということは言うまでもない。

2013年3月22日金曜日

「解釈が違うんですよ 同じ歌詞なのに」(志村正彦LN6)

   2007年12月の両国国技館ライブの映像で、志村正彦は『若者のすべて』を歌う前のMCで次のように語っている。

歌詞ってもんは不思議なもんで
作った当初はまあ作って詞を書いているときと
曲を作って発売して今またこう曲を聴くんですけれども 自分の曲を
あのー解釈が違うんですよ 同じ歌詞なのに
解釈がちがうんだけど共感できたりするという 自分で共感してしまうという


   歌詞の解釈について志村自身が述べた貴重な証言である。歌を創造した作者にとっても、歌が完成した時点で、その歌はある意味では作者から離れ、一つの作品として自立していく。作者ですらその歌の聴き手の一人として、歌を聴き解釈する。その解釈も時に変化していく。それだけでなく、完成した時点より前の段階、創作の過程でも、歌い手と聴き手の位置を絶えず交換させ、様々な解釈を見いだしながら、歌は創造されていく。

 また一般的に言っても、歌を作るのは歌い手、歌の作者であるのは自明であるが、歌い手と共に、ある意味では歌い手以上に、聴き手も歌の創造に関わるというのが真実であろう。聴くという行為がなければ、歌は存在しないも同然である。

  志村正彦にとって、『若者のすべて』の解釈がどのように違ってきたのか。そして、この歌に対する共感がどのように変化したのか。知るすべもなく、私たち聴き手は想像するしかないのだが、一人ひとりにそのような行為を誘う「問い」である。

2013年3月20日水曜日

「複合体」としての歌そして言葉(志村正彦 LN5)

 今回から、『若者のすべて』の歌そのものに焦点を当てていきたい。「志村正彦LN 3」で書いたような、イベントの「場」に立脚して、「偶景」のようなものに触発されながら歌を「語る」のではなく、歌そのものを「論じる」ことに踏み込むことにする。その前に、歌を論じる際の「方法」について述べたい。
 
 志村正彦の創造した作品はすべて、歌われた「歌」である。歌は、歌詞という形に結実した言語記号としての「言葉」の部分、メロディーやリズムなどの純粋な「音」の部分、発声やアクセント、言葉の句切り方や響きを含む「声」の部分、そして歌を歌うパフォーマンスを担う歌い手の「身体」の部分、歌われる「場」そのものなどの、多様な要素から成る「複合体」として存在していると仮に言うことができる.。複合体としての歌は、一つの全体としてあり、それを構成している言葉、音、声、身体、場などの個々の部分に還元することはできない。個々の部分を分析し、個々の側面から歌を照射しても、一つの複合体としての歌を再現することは不可能である。
  
 そのような前提は、歌を論じようとする者にとって困難な壁として立ち塞がる。ただし、高度な水準で言葉、音、声、身体、場などを分析しうる才能であれば、各々の部分を正確に分析し、それらを組み合わせ、立体的な像を形作り、その歌に限りなく近づくことも可能かもしれないが、非才の私には無理なことである。

 そもそも、音楽を奏でたことも学んだこともない私のような者が志村正彦の歌を論じる資格などない。そう考えれば沈黙しかないのだが、沈黙より言葉を紡ぎ出す方をどうしても選びたいという切迫した想いがあるので、わずかばかりではあるが、私が学んできた方法である、詩や物語の枠組やその話法の分析に依拠して、歌の言葉という側面から論を進めさせていただきたい。

 志村正彦の場合、前回述べたように、歌の言葉の組織の仕方の中に空白部がある。歌そのものが、言葉によって、空白部を含む複合体のように構築されている。複合体としての歌の内部に複合体としての言葉がある。だから言葉を中心にして分析していっても、複合体の構造へある程度までたどりつけるかもしれない。そのようなことを漠然と考えたことも理由の一つとしてある。

 難しげな言葉と苦しげな記述が続いているかもしれない。もとより、論を難しくしたいのではない。しかし、志村正彦が造りあげた、極めて高度であり、聴き手に自由に開かれている作品群に接近するには、方法と言葉をある水準まで練り上げていくことがどうしても必要である。この種の言葉には考える機能と伝える機能の二つがある。厳密に考え、わかりやすく伝えること。この二つを共存させられるのかこころもとないが、この「志村正彦ライナーノーツ」と共に、言葉のレッスンに励みたい。

2013年3月18日月曜日

志村正彦の歌の分かりにくさ(志村正彦LN4)

 志村正彦の歌、その言葉の世界には、ある特有の分かりにくさがある。言葉の意味をたどっていっても、その意味がたどりきれない。その言葉が展開される文脈、背景が理解しにくい。歌が繰り広げられる舞台が明瞭でない。通常「僕」「私」という言葉で指示される、歌の話者や歌の世界の中の主人公としての主体の把握が難しい。そのような想いを抱いたことがある聴き手が多いであろう。少なくとも私にとって、彼の歌はそのように存在している。例えば、『桜の季節』はその代表ともいえる歌であろう。

 もともと、歌や詩の言葉には、意味の飛躍があり、文脈も複雑である。隠喩の解釈が難しい場合もある。しかし、志村の場合、隠喩などの表現は比較的少なく、難解で抽象的な言葉もほとんど見あたらない。にも関わらず、歌の言葉全体を通して聴くと、どこかで意味が意味として結実していかないことがある。あるいは複数の意味が考えられ、どれかに決定できないこともある。このことも志村正彦の歌のある種の分かりにくさとなっている。

 しかし、その分かりにくさは、分かることを阻むような、あるいは、分かろうとする者を拒むような、閉じられた狭隘さではなく、歌の構築の仕方が背負わざるを得ないような、不可避のものであり、その分かりにくさは、むしろ、分かろうとする行為や解釈の空白部として、聴き手に開かれている。

 志村正彦の歌の聴き手はそのような空白部に触れることによって、彼の歌の魅力に惹きつけられ、彼の歌と対話することになる。分かりにくさの迷路のようなものをたどっていくうちに、聴き手はやがて、その空白を、自分自身の空白としても感じ、それを重ね合わせることで、聴き手にとっての歌の意味が浮かび上がってくる。

2013年3月11日月曜日

夕方5時のチャイム-2012年12月24日-(志村正彦LN3)

  去年12月24日の午後、妻と二人で、甲府から富士吉田に向かった。

 正直に書くと、今回の企画を初めて知ったときは、企画者の志に敬意と感謝を抱きながらも、その意図に反し、そのチャイムがどこか寂しいもの、あるいは浮いたものになってしまわないかという危惧を少し感じた。どのような音色でどのようにアレンジされるのか、防災無線の音質が繊細なメロディに耐えられるのか、何よりも、志村正彦のことを知らない地元の人々の反応はどうか、などという不安や懸念を、記憶に残るチャイムになってほしいという願いと共に抱いてしまった。そのような想いのまま車で出かけた。少し雲が広がっていたが、天候が崩れる心配はなかった。寒さもそんなに厳しくなく、いつも通りの冬の日であった。

 1時間ほどで市民会館の展示室に着いた。彼が父親から譲り受けたギター、『虹』のビデオクリップのラストシーンで高く掲げていたあの黒のギターが特に印象に残った。演奏会場では、2008 年5 月、この場所で開かれたコンサートで着ていた黒地にカラフルなプリントが施されたTシャツが私たちの席のすぐ左側のボードに掛けられていた。そのシャツをしばらくの間見つめていた。彼の不在そのものを強く感じた。演奏会の最後には「若者のすべて」を皆で歌うことができ、会場全体にやわらかなものが漂っていた。そのように時を過ごし、午後5時が近づいてきた。

 駐車場に、スタッフを含め百数十人の人々が集まってきた。南の方角に防災無線が設置されていた。その向こう側に見えるはずの富士の山は雲で覆われていたが、夕暮れ近くになり、青色の空が次第に灰色へと霞んでいき、雲と調和していた。気温は低くなり、その分、空気の感触がほどよい冷たさとなった。チャイムの音を待つ緊張感に、少しばかりその場にいる皆が充たされていた。皆が「同じ空」を静かに見上げていた。その静寂が、志村正彦の音楽にふさわしいような気がした。

 夕方5時、チャイムの音が空の彼方から、舞い降りてきた。『若者のすべて』の、あの聴き慣れた音階をたどるように、耳を澄まそうとしたが、耳というよりも、身体の中を染み渡るように、空から舞い降りてくる音が一音一音、響いた。

 上方から身体に下降してくる静かな音と音の連なりと共に、身体の底の方から何かこみ上げてくるものがあった。何か言葉を探そうとするのだが、すぐには言葉にはたどりつけない。彼の家族でも友人でも知人でもない、単なる一人の聴き手にすぎない私のような者にとっても、あえて言葉にするのなら、「祈り」に近い何かであったと言える。命日に鳴ったチャイムは、あの場にいた誰もがそう感じていたように、鎮魂の響きを持っていた。西欧の教会のカリヨンにも似た音と空を見上げる皆の眼差しも、そのような想いにつながっていた。

 同時に、祈りとはいっても、祈りという言葉だけに収斂させたくはないという考えが迫ってきた。その生が閉じられてしまった彼に対する祈りはある。しかし、この瞬間も、『若者のすべて』のチャイムがこの場に鳴り響いている。彼の歌は生きている。志村正彦は祈りの対象として向こう側にいるのではなく、こちら側に、私たちの側に存在し続けている。

 1分程であろうか、チャイムが終わってしまうと、非現実的な夢の時間から覚めたような気がした。実行委員長の心のこもった挨拶が始まると、現実へと戻ることとなった。彼らのご尽力によって、特別なチャイムを経験することができた。当初の危惧は必要なかった。少なくとも、あの場にいた人々にとって、あのチャイムはいつまでも記憶に残るものとなるに違いない。深く感謝を申し上げたい。

 イベントが終了するとすぐに、あたりは夕暮れの闇につつまれた。昨年と今年の展示会を通じて出会うことができた、かけがえのない人たちに別れの挨拶をして、私たちも甲府への帰途についた。『若者のすべて』の一節が今日のこの想いをあらかじめ語ってくれているような気がした。

  街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ
  途切れた夢の続きを 取り戻したくなって  

2013年3月7日木曜日

冬の季節の『若者のすべて』 (志村正彦LN 2)

  「夕方5時のチャイム」 のイベントの数日前、『若者のすべて』のビデオクリップをある場所で久しぶりに見ていた。画面には志村正彦の穏やかな表情。彼に向けた視線を少しだけ右に傾けると、奥にある窓の外から12月の富士の山が、唐突に視界に入ってきた。甲府盆地でも、富士吉田に比べるとこじんまりとした姿にはなるが、冬の秀麗な富士が見える。
 
 偶然の構図によって、映像がその周囲の現実の風景と思いがけない合成の像として現れることがある。『若者のすべて』の志村正彦の声の抑制された響きと、モノクロームに近い色調の映像と、富士のやや霞がかった白と灰色のグラデーションが解け合い、あたかも富士の山を背景に志村正彦が歌っているかのような像がもたらされた。偶々現れた光景、いわば「偶景」のようなものが、私の心の中のスクリーンに投射されたのである。

 その瞬間、『若者のすべて』が冬の歌のように感じられた。詩の中の「最後の花火」は「冬の花火」かもしれないという、ありえない想像にとらわれた。冬の花火には、たとえようのない寂しさや儚さもあるのだが、夏の花火にはない、清澄であるがゆえの静けさと透明感、外気の冷たさゆえの光の和やかさや温かさがある。

 「真夏のピークが去った」と詩の一節にあるように、この歌の舞台が夏の終わりであることはまちがいない。「冬の歌」のように感じたというのは、聴き手の恣意的な想像にすぎない。でも、しばらくの間、その空想と戯れたかった。冬の光をまとった「冬の花火」。さらに、非現実的な形容ではあるが、モノクロームのような色調の花火、「色のない花火」、というように、連鎖していった。

 空想の連鎖に終止符を打って、少し考えてみることにした。『若者のすべて』の語りの枠組みは複雑であるが、「街」を「そっと歩き出して」歩行する「僕」の視点から語られている、とひとまずは言えるだろう。歩行しながら、いくつかのモチーフが語られるが、「夕方5時のチャイム」と「街灯の明かりがまた一つ点いて 帰りを急ぐよ」というフレーズが、歌の時の推移の一つの可能性を示している。

 夕方5時、そして街灯の明かりが点き、「帰りを急ぐ」というのは、季節の中では最も冬にふさわしい状況ではないのか。日の短い、すぐに暮れてしまう冬の季節に、私たちはそれぞれの場所に帰りを急ぐ。
 この歌にはもともと多層的な響きがある。『若者のすべて』の「すべて」には、夏も冬も含すべての季節感が込められているのかもしれない。強引な解釈をするつもりはないが、そのような読みを誘発する、言葉の連なりの独特さが志村正彦の歌には存在している。
      
 『若者のすべて』は2007年の11月に発売されている。リリースの順によって偶々そうなったようだが、冬の入り口のような季節にこの歌は世に誕生した。5年前の冬にリリースされたこの歌は、3年前の冬にその作者を失った。そしてこの冬、チャイムにアレンジされて、作者の故郷で奏でられる。冬の季節の『若者のすべて』、そのような想いを心に包み込みながら、富士吉田に出かける日を待つことにした。            

2013年3月4日月曜日

「志村正彦ライナーノーツ」の始まり (志村正彦LN 1 )

 志村正彦の生が原因不明の身体の異変によって、突然閉じられてしまってから三年を超える月日が経つ。彼の喪失の重みは、むしろ時間がたつにつれて、日本語の歌の世界において増してきているように思われる。

 昨年末も、彼の御友人や有志の尽力、御家族の協力によって、一昨年の『志村正彦展 路地裏の僕たち』を継承しつつ、装いを変えて、追悼するイベントが行われた。

 12月22日から24日までの三日間、富士吉田で、夕方5時を告げるチャイムが志村正彦の『若者のすべて』をアレンジしたものに変更された。『若者のすべて』には「夕方5時のチャイム」という一節がある。歌の中の一つのモチーフを、その曲そのものを活かす形で、現実の世界に出現させる、という極めて珍しく、というかほとんどあり得ないような貴重な試みと、それにあわせた、展示会や演奏会が開かれた。

 一人の歌い手を語る方法には様々なものがあるだろうが、ある「場」で生起したものを、その「場」に即しながら、自由に多角的な視点で語ることによって構築していく方法がある。そのような手法で、志村正彦と彼の歌の軌跡を、言葉として定着させること。全体としてかなりの分量になることが予想され、書き手自身もその行きつく先が分からないこのシリーズの名は、「志村正彦ライナーノーツ」とさせていただく。

 今回、私も志村正彦の歌を愛する聴き手の一人として、富士吉田に出かけ、「夕方5時のチャイム」を経験してきた。あの日の富士吉田を「場」として、その前後の日々のことを含め、見て、聴いて、感じ、考えたことを何回かに分けて、このブログに書くことから、《偶景web》の「志村正彦ライナーノーツ」を始めたい。(時に「ライナーノーツ」は「LN」と略記させていただく)