昨夜、パティ・スミスがノーベル賞授賞式でボブ・ディランの代わりに『はげしい雨が降る』(A Hard Rain’s A-Gonna Fall)を歌った。もうすぐ七十歳になるパティを見ると別の感慨も覚える。
公式の映像がyoutubeにある。1:03頃から1:11頃までがそのシーンだ。
パティは緊張のせいか2番の途中で詰まってしまう。「ごめんなさい。とてもナーバスになっています」と言うと、会場からあたたかい拍手。それに促されるようにして、少し戻ったうえでもう一度歌い始めた。
パティの声を通じてディランの言葉が会場に静かにしかし強く広がっていく。歌詞に触発されたのだろうか、涙ぐむ女性も映されていた。真摯であたたかい雰囲気に包まれていた。歌詞の一節を引きたい。拙訳を付す。
Heard the song of a poet who died in the gutter,
Heard the sound of a clown who cried in the alley,
And it's a hard, and it's a hard, it's a hard, it's a hard,
And it's a hard rain's a-gonna fall.
側溝で死んだ詩人の歌を聞いた
路地で泣いた道化の声を聞いた
激しい激しい激しい激しい
激しい雨が降る
ボブ・ディランの歌が「文学」であるかどうかというつまらない議論があるようだが、言葉が私たちに作用していく作品は、文字であれ音声であれ、すべて「文学」だと考える。書かれた文学の歴史はまだまだ浅い。もともと歌謡や口承文芸がその根源にある。
ディランのノーベル賞授賞は、彼の歌、そして広く、ロックの歌、ロックの詩に出会う人が増えていくことに最大の意義があるのだろう。
【付記】
昨夜放送のNHKスペシャル『ボブディラン ノーベル賞詩人 魔法の言葉』 は非常に興味深かった。タルサにある「ボブ・ディラン アーカイブ」に取材に行き、あの『ブルーにこんがらがって』(Tangled Up in Blue)の創作過程を資料に基づいて解説していた。ディランがどれだけの時間をかけて作品を完成していったのかの一端が分かる。12月17日(土) 午前0時10分から再放送される。この番組については回を改めて書いてみたい。
また、今夜23:00からNHKBSプレミアムで 『BOB DYLAN Master Of Change~ディランは変わる~』も放送される。
2016年12月11日日曜日
2016年10月13日木曜日
ボブ・ディラン「新しい詩的表現」
今夜帰宅後、ノーベル文学賞が気になってテレビをつけてみた。BSフジの「プライムニュース」がストックホルムからの映像を生中継していた。
午後8時、発表者から読み上げられた名は「Bob Dylan」だった。英語での説明がゆっくりした発音だったので「new poetic expressions」「the great American song tradition」という言葉が耳に入ってきた。数年前から候補に挙がっていたことは知っていたので意外ではなかった。それよりも「偉大なアメリカの歌の伝統」の中で「新しい詩的表現」を創造したという授賞理由に心が強く動かされた。
志村正彦の歌詞・詩を中心に日本語ロックの歌詞について語り続けてきたこのblogの主催者としては、現在のロックやフォークの歌詞の最も大きな源流であるボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したことは率直に嬉しい。ノーベル賞という大栄誉、大権威から承認されることは「ロック」的でないという野暮な意見もあろうが、そんなことはどうでもいい。ロックやフォークの言葉はもっと多くの人に親しまれるべきだ。その契機となるならこの受賞には大きな意義がある。
朝日新聞の記事によると、発表したサラ・ダニウス事務局長は「彼の詩は歌われるだけでなく、読まれるべきものだ。非常に巧みに伝統を取り込みつつ、常に自分自身の殻を破ってきた」と述べたそうだ。「読まれるべき」詩という捉え方には大いに共感する。
今年の4月、渋谷オーチャードホールでボブ・ディランを聴いたことは以前このblogに記した。1978年2月武道館以来の2度目のディラン体験だった。その時書いたように、僕は「70年代のディラン・ファン」ではあるが、ずっと聴き続けているという意味での本来のファンではない。それでも断続的ではあるが、彼の軌跡を追っていたとは言える。
あの日のディランは、アメリカ音楽の伝統を一身にまとう「シンガー」だった。自分の書いた文をそのまま引用する。
ディランは20世紀のアメリカ音楽の厚い伝統に守られている。その言葉も英米文学やユダヤ・キリスト教の言葉の伝統に支えられている。それは事実であり、それ以上でもそれ以下でもない現実なのだろうが、正直に言うと、そのことに違和というか疎隔されるような感覚も持った。孤高の単独者というより、伝統のそれもかなり自由な(これが彼らしいが)体現者としてのボブ・ディラン。自分自身に対する固定的な捉え方、その枠組みからたえず抜け出そうとしてきた彼の軌跡の到着点なのだろうか。
60年代から70年代にかけての「孤高の単独者」の影を追いかけてしまうのは、僕たちの世代の幻影、一種の病のようなものかもしれないが、それは自ら引き受けるものなのだろう。ディランを源流とするロックやフォークの言葉。その伝統と現在は今だ転がる石のように動き続けている。世界のあらゆるところで、この日本でも。僕たちには志村正彦という稀有な「ロックの詩人」がいる。
志村正彦は、日本語ロックの伝統に「新しい詩的表現」を与えた革新者だ。日本語の伝統や季節の感性を受けとめた上で、それを超える言葉の綴れ織りと新しい話法を編み出した。一つ一つ、彼の言葉の軌跡をたどっていきたい。
午後8時、発表者から読み上げられた名は「Bob Dylan」だった。英語での説明がゆっくりした発音だったので「new poetic expressions」「the great American song tradition」という言葉が耳に入ってきた。数年前から候補に挙がっていたことは知っていたので意外ではなかった。それよりも「偉大なアメリカの歌の伝統」の中で「新しい詩的表現」を創造したという授賞理由に心が強く動かされた。
志村正彦の歌詞・詩を中心に日本語ロックの歌詞について語り続けてきたこのblogの主催者としては、現在のロックやフォークの歌詞の最も大きな源流であるボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したことは率直に嬉しい。ノーベル賞という大栄誉、大権威から承認されることは「ロック」的でないという野暮な意見もあろうが、そんなことはどうでもいい。ロックやフォークの言葉はもっと多くの人に親しまれるべきだ。その契機となるならこの受賞には大きな意義がある。
朝日新聞の記事によると、発表したサラ・ダニウス事務局長は「彼の詩は歌われるだけでなく、読まれるべきものだ。非常に巧みに伝統を取り込みつつ、常に自分自身の殻を破ってきた」と述べたそうだ。「読まれるべき」詩という捉え方には大いに共感する。
今年の4月、渋谷オーチャードホールでボブ・ディランを聴いたことは以前このblogに記した。1978年2月武道館以来の2度目のディラン体験だった。その時書いたように、僕は「70年代のディラン・ファン」ではあるが、ずっと聴き続けているという意味での本来のファンではない。それでも断続的ではあるが、彼の軌跡を追っていたとは言える。
あの日のディランは、アメリカ音楽の伝統を一身にまとう「シンガー」だった。自分の書いた文をそのまま引用する。
ディランは20世紀のアメリカ音楽の厚い伝統に守られている。その言葉も英米文学やユダヤ・キリスト教の言葉の伝統に支えられている。それは事実であり、それ以上でもそれ以下でもない現実なのだろうが、正直に言うと、そのことに違和というか疎隔されるような感覚も持った。孤高の単独者というより、伝統のそれもかなり自由な(これが彼らしいが)体現者としてのボブ・ディラン。自分自身に対する固定的な捉え方、その枠組みからたえず抜け出そうとしてきた彼の軌跡の到着点なのだろうか。
60年代から70年代にかけての「孤高の単独者」の影を追いかけてしまうのは、僕たちの世代の幻影、一種の病のようなものかもしれないが、それは自ら引き受けるものなのだろう。ディランを源流とするロックやフォークの言葉。その伝統と現在は今だ転がる石のように動き続けている。世界のあらゆるところで、この日本でも。僕たちには志村正彦という稀有な「ロックの詩人」がいる。
志村正彦は、日本語ロックの伝統に「新しい詩的表現」を与えた革新者だ。日本語の伝統や季節の感性を受けとめた上で、それを超える言葉の綴れ織りと新しい話法を編み出した。一つ一つ、彼の言葉の軌跡をたどっていきたい。
2016年4月28日木曜日
ボブ・ディランと岡林信康
一昨日26日、渋谷オーチャードホールでボブ・ディラン。昨日27日、甲府桜座で岡林信康。二日間連続で日米のフォーク、フォークロックの原点の存在のライブに行ってきた。連続となったのは偶然なのだが、色々な意味でこの二人の現在を聞き比べることができた。
僕がディランに最も親しんだのは、70年代中頃の作品、1974年『プラネット・ウェイヴズ』1975年『血の轍』、1976年『欲望』の時代だ。1983年の『インフィデル』あたりまでは一作ごとに追いかけたが、その後は遠ざかっていった。だから、少なくとも70年代のディラン・ファンだとしても、本来の意味でのディラン・ファンではないのだろう。
26日、勤めを少し早く終え、4時に甲府を出発。6時半に渋谷に到着。オーチャードホールの座席は2階席の奥ほぼ中央、かなり遠くからディランを見下ろすような位置だった。観客はほぼ満員。やはり60歳代くらいの方が多い。勤め帰りのサラリーマンも目立つ。
ディランの登場。スーツ姿にハットを被る。立ち姿はもうすぐ75歳になる年齢とは思えない位、率直に格好いい。だが、ステージで歩き出すとひょこひょことした何とも言えない歩きになる。年齢相応、つまり「おじいさん」の歩き方だ(ちょっと可愛くもあるのだが)。そんなことも超然として、あのしゃがれ声で力強く歌う。時にハーモニカやピアノも奏で、音楽を存分に楽しんでいる。
心を動かされたのは、やはり『ブルーにこんがらがって』。70年代のあの頃、最も良く聴いていた歌の一つだからだ。でもパフォーマンス自体にはあまり満足できなかった。もとから期待してはいないのだが、さびしい、残念な気持ちが残る。
最近のディランのことはほとんど知らないので、雑駁な印象を記すが、この日の彼はアメリカ音楽の伝統を一身にまとう「シンガー」だった。
2部構成、長めの休憩を挟んで2時間ほどのコンサートが終わり、甲府に帰ると12時を過ぎていた。さすがに疲れた。
岡林信康についても、僕は1977年リリースの『ラブソングス』で出会った「遅れてきた世代」の一人だ。やはり70年代の後半となる。その後は時々消息を聞くくらいで、遠い存在だった。
27日、勤め帰りに桜座に。近いことは有り難い。この日は150人ほど詰めかけ、満員。年齢は60歳代後半が中心、70歳代前半と思しき方も少なくない。今年70歳を迎える岡林の同世代のファンが集ったことになる。それにいつもと違い、県内の方が多いようだ。これはうれしかった。岡林が甲府に来たのは30年ぶりのことらしい。
初期の歌から最新作まで、軽妙でユーモアのある語りをまじえ進んでいく。岡林の方も2部構成、休憩を挟む2時間のステージだった。
一番心に響いたのは『26ばんめの秋』。季節の風景に対するまなざしと心の内側への問いかけが自然にとけあう。歌の純度の高さにあらためて気づくことができた。
また、歌は聴き手のものだということを話題を変えながら繰り返し語っていたことが印象深かった。この発言については回を改めて書いてみたい。
ディランは20世紀のアメリカ音楽の厚い伝統に守られている。その言葉も英米文学やユダヤ・キリスト教の言葉の伝統に支えられている。それは事実であり、それ以上でもそれ以下でもない現実なのだろうが、正直に言うと、そのことに違和というか疎隔されるような感覚も持った。孤高の単独者というより、伝統のそれもかなり自由な(これが彼らしいが)体現者としてのボブ・ディラン。自分自身に対する固定的な捉え方、その枠組みからたえず抜け出そうとしてきた彼の軌跡の到着点なのだろうか。
岡林にはディランが身にまとう重厚な音楽の伝統はない。あるのだとしても、この国のフォークやロックの未だに豊かとは言えない伝統というか蓄積だけだ。そのことは僕たち聴き手も共有している。
それでも、岡林信康の歌から、そのたぐいまれな純度が持続していることが伝わってきた。それは小さなものにすぎなく、厚みがないものかもしれないが、彼の歌のいくつかに純粋な力を感じとることができた。
ボブ・ディランと岡林信康。偶然、二日続いて二人を聴いた。数の規模は違えど、熱心なファンに恵まれ、幸せな歌い手だ。彼らの歌についてあらためていつか書いてみたい。
僕がディランに最も親しんだのは、70年代中頃の作品、1974年『プラネット・ウェイヴズ』1975年『血の轍』、1976年『欲望』の時代だ。1983年の『インフィデル』あたりまでは一作ごとに追いかけたが、その後は遠ざかっていった。だから、少なくとも70年代のディラン・ファンだとしても、本来の意味でのディラン・ファンではないのだろう。
26日、勤めを少し早く終え、4時に甲府を出発。6時半に渋谷に到着。オーチャードホールの座席は2階席の奥ほぼ中央、かなり遠くからディランを見下ろすような位置だった。観客はほぼ満員。やはり60歳代くらいの方が多い。勤め帰りのサラリーマンも目立つ。
ディランの登場。スーツ姿にハットを被る。立ち姿はもうすぐ75歳になる年齢とは思えない位、率直に格好いい。だが、ステージで歩き出すとひょこひょことした何とも言えない歩きになる。年齢相応、つまり「おじいさん」の歩き方だ(ちょっと可愛くもあるのだが)。そんなことも超然として、あのしゃがれ声で力強く歌う。時にハーモニカやピアノも奏で、音楽を存分に楽しんでいる。
心を動かされたのは、やはり『ブルーにこんがらがって』。70年代のあの頃、最も良く聴いていた歌の一つだからだ。でもパフォーマンス自体にはあまり満足できなかった。もとから期待してはいないのだが、さびしい、残念な気持ちが残る。
最近のディランのことはほとんど知らないので、雑駁な印象を記すが、この日の彼はアメリカ音楽の伝統を一身にまとう「シンガー」だった。
2部構成、長めの休憩を挟んで2時間ほどのコンサートが終わり、甲府に帰ると12時を過ぎていた。さすがに疲れた。
岡林信康についても、僕は1977年リリースの『ラブソングス』で出会った「遅れてきた世代」の一人だ。やはり70年代の後半となる。その後は時々消息を聞くくらいで、遠い存在だった。
27日、勤め帰りに桜座に。近いことは有り難い。この日は150人ほど詰めかけ、満員。年齢は60歳代後半が中心、70歳代前半と思しき方も少なくない。今年70歳を迎える岡林の同世代のファンが集ったことになる。それにいつもと違い、県内の方が多いようだ。これはうれしかった。岡林が甲府に来たのは30年ぶりのことらしい。
初期の歌から最新作まで、軽妙でユーモアのある語りをまじえ進んでいく。岡林の方も2部構成、休憩を挟む2時間のステージだった。
一番心に響いたのは『26ばんめの秋』。季節の風景に対するまなざしと心の内側への問いかけが自然にとけあう。歌の純度の高さにあらためて気づくことができた。
また、歌は聴き手のものだということを話題を変えながら繰り返し語っていたことが印象深かった。この発言については回を改めて書いてみたい。
ディランは20世紀のアメリカ音楽の厚い伝統に守られている。その言葉も英米文学やユダヤ・キリスト教の言葉の伝統に支えられている。それは事実であり、それ以上でもそれ以下でもない現実なのだろうが、正直に言うと、そのことに違和というか疎隔されるような感覚も持った。孤高の単独者というより、伝統のそれもかなり自由な(これが彼らしいが)体現者としてのボブ・ディラン。自分自身に対する固定的な捉え方、その枠組みからたえず抜け出そうとしてきた彼の軌跡の到着点なのだろうか。
岡林にはディランが身にまとう重厚な音楽の伝統はない。あるのだとしても、この国のフォークやロックの未だに豊かとは言えない伝統というか蓄積だけだ。そのことは僕たち聴き手も共有している。
それでも、岡林信康の歌から、そのたぐいまれな純度が持続していることが伝わってきた。それは小さなものにすぎなく、厚みがないものかもしれないが、彼の歌のいくつかに純粋な力を感じとることができた。
ボブ・ディランと岡林信康。偶然、二日続いて二人を聴いた。数の規模は違えど、熱心なファンに恵まれ、幸せな歌い手だ。彼らの歌についてあらためていつか書いてみたい。
2015年6月29日月曜日
『ディランにはじまる』-浜野サトル4
前回紹介した浜野サトル『終わりなき終わり ボブ・ディラン』(『都市音楽ノート』1973年12月10日、而立書房)の最後は、次のように閉じられている。
だが、いずれわれわれはディランの彼方へと向かうことになるだろう。ボブ・ディランの時代は終わった。
ディランの時代の終わりを告げるこの批評はそれ自体、あの時代、60年代から70年代前半までの時代において、表現者も受容者も共に抱えていたある共通の困難や苦悶を物語っている。「ディランの彼方」へ向かうとあるが、その彼方がどこにあるのかは、むろん分からない。一つの意志、一つの試みとして、それは述べられている。浜野のこの結語はやや性急な断言のようにも受けとめられるが、ディランに向かってというよりも、自分に向かって、自身に対して言い聞かせているようにも響く。
しかし、『都市音楽ノート』から五年ほど後に刊行された著書『ディランにはじまる』(1978年3月10日、晶文社)の「あとがき」にはこうある。
ぼくは、六十年代という時代がその後半にさしかかったころ、ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」との出会いを通して、この種の音楽の世界に入った。そして、次の時代のはじめに、ディランがアクチュアリティを失うと、ぼくは一度彼の音楽を離れ、それ以後、新たなシンボルを探し出そうとする試みを続けた。だがしかし、彼の歌や存在とぼくとの間には結局は絶つことのできないつながりがあり、ディランは今再び、ぼく自身が時代をながめ返すための、ひとつの水晶体になろうとしている。
著書『都市音楽ノート』の刊行日付からすると五年、『終わりなき終わり ボブ・ディラン』の執筆時1970年10月から数えると七年。70年代初めから70年代後半までの年月の間に、浜野サトルのディランへの関心は再び高まってきた。彼の内部で再び「ディランの時代」が歩み始めた。何が起こったのか。これには、表現者としてのディラン自身の変化と共に受容者としての浜野サトルの変化の二つが関係している。
最初にディランの歩みをふりかえりたい。
60年代中頃がディランの第1のピークだとすると、1974年から76年にかけての時代は第2のピークだったと言える。1973年、アサイラム・レコードに移籍。ディランは重要な転機を迎える。1974年『プラネット・ウェイヴス』、1975年『血の轍』、1976年『欲望』と立て続けに素晴らしいスタジオ作品を発表。この間、ザ・バンドとの全米ツアーや「ローリング・サンダー・レヴュー」ツアーも行い、それらを収録したライブ盤、1974年『偉大なる復活』、1976年『激しい雨』もリリース。日本のディラン・ファンにとっては、1978年の初来日が大きな出来事となった。
この第二のピークが、浜野サトルにディランを問い直す契機を与えたことは間違いない。(私自身のディラン体験をふりかえると、74年、『プラネット・ウェイヴス』で彼のアルバムに出会い、78年の武道館で彼の生の声を聴くことができた。だから今に至るまで、私にとって70年代のディランの存在が大きい。)
あの時代のロック音楽の深化を同時人として経験している者からすれば、一年一年という時の歩み、一作一作という作品の歩みがほんとうに濃縮されたものだった。変化も激しいものだった。
次に、この時期の浜野サトルの批評の軌跡をたどりたい。
彼は『ディランにはじまる』の「あとがき」で「ぼくはぼくなりに、小さな実験を繰り返してきたようだ」と述べている。それは彼も触れているように、「文体」の変化にも伺える。具体的には、『都市音楽ノート』では「書き手」を示す一人称代名詞が「私」、一人称複数代名詞が「われわれ」だったのに対して、『ディランにはじまる』では各々「ぼく」「ぼくら」に変わった。
文体に関わる方法の面でも変化が見られる。『都市音楽ノート』では、論理が論理を追究し掘り下げていくような硬質で切実な様式だったのが、『ディランにはじまる』では、「歌」に関する具体的な文脈や背景から語り始め、歌い手やその作品のテーマやモチーフを少しずつ解きほぐしていく、よりやわらかいスタイルへと発展していった。
この文体や方法の実験は、対象である「歌」との対話や言葉の摺り合わせという地道な試みによって可能となったのだろう。
『ディランにはじまる』冒頭には『ハイウェイ』というディラン論が収められている。(『ワンダーランド』1973年8月号で発表。初出時の題名は『ハイウェイ ディラン体験とヘンリーたち』。『ワンダーランド』(WonderLand)は植草甚一編集の音楽・サブカルチャー雑誌。3号目から誌名が「宝島」に変更された。その後、この雑誌や増刊号は日本のロックのメディアとしても活躍した。)
この批評は、ロバート・マリガン監督『ハイウェイ』(1964年)の主人公ヘンリーの物語から始まる。駆け出しのミュージシャンであるヘンリーは、アメリカ中西部の田舎町に住み、ある事件を起こす。彼の「走り出し、挫折する」物語をひとつのアレゴリーのようにして描き出しながら、浜野は自らの都市生活者としての音楽への欲望とその享受のあり方についてふりかえる。歌のあり方への根源的な問いかけがあるこの批評の内容については別の機会に論じることにして、ここでは、浜野サトルがディランについてのスタンスを述べた箇所を引用したい。
ディラン体験について、ぼくは語りたい。そのためには、聴衆の ひとりとしての自分をできるだけ裸にしてゆくようつとめなければならないだろう。というのも、体験はいうまでもなくつねに個人的な体験としてあるのだから。そして、それは個人的なコンテクストを通して自分をひらいてゆくことを意味しているにちがいない。
73年という時点で「ディラン体験」があらためて、「ぼく」と人称代名詞によって語り出された。
「個人的な体験」「個人的なコンテクスト」を通じて「自分をひらいてゆく」ことを媒介にして対象を語っていくのは、この時期の彼の姿勢であり方法である。それは、いわゆる「私語り」や個人的な挿話ではない。そこにある「個人」「自分」というのは、きわめて方法的な「場」である。この方法や文体の達成が、この『ハイウェイ』というディラン論であり、第1・2回で述べた『ポールサイモン パッケージされた少年時代』であろう。
[付記]
四回続けた「浜野サトル」ノートもここで一休止し、次は彼の「うた」論に焦点をあてて再開したい。
浜野サトルは現在も、「浜野智」という名で(彼が編集者という立場で記す名だと思われる)、「One Day I Walk」( http://onedaywalk.sakura.ne.jp/ )というサイトを開設している。
その中の「青空文庫分室」には、「新都市音楽ノート」という旧作だが必読の批評が載せられている。最近は更新されていないが、音楽エッセイ中心の「蟹のあぶく」。
そして、日々書き継がれている「毎日黄昏」からは、六十歳代後半となった彼の日常や文学作品への多様な関心と共に、「歌」の言葉やこの世界の現実への真摯な「問いかけ」が伝わってくる。
だが、いずれわれわれはディランの彼方へと向かうことになるだろう。ボブ・ディランの時代は終わった。
ディランの時代の終わりを告げるこの批評はそれ自体、あの時代、60年代から70年代前半までの時代において、表現者も受容者も共に抱えていたある共通の困難や苦悶を物語っている。「ディランの彼方」へ向かうとあるが、その彼方がどこにあるのかは、むろん分からない。一つの意志、一つの試みとして、それは述べられている。浜野のこの結語はやや性急な断言のようにも受けとめられるが、ディランに向かってというよりも、自分に向かって、自身に対して言い聞かせているようにも響く。
しかし、『都市音楽ノート』から五年ほど後に刊行された著書『ディランにはじまる』(1978年3月10日、晶文社)の「あとがき」にはこうある。
ぼくは、六十年代という時代がその後半にさしかかったころ、ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」との出会いを通して、この種の音楽の世界に入った。そして、次の時代のはじめに、ディランがアクチュアリティを失うと、ぼくは一度彼の音楽を離れ、それ以後、新たなシンボルを探し出そうとする試みを続けた。だがしかし、彼の歌や存在とぼくとの間には結局は絶つことのできないつながりがあり、ディランは今再び、ぼく自身が時代をながめ返すための、ひとつの水晶体になろうとしている。
著書『都市音楽ノート』の刊行日付からすると五年、『終わりなき終わり ボブ・ディラン』の執筆時1970年10月から数えると七年。70年代初めから70年代後半までの年月の間に、浜野サトルのディランへの関心は再び高まってきた。彼の内部で再び「ディランの時代」が歩み始めた。何が起こったのか。これには、表現者としてのディラン自身の変化と共に受容者としての浜野サトルの変化の二つが関係している。
最初にディランの歩みをふりかえりたい。
60年代中頃がディランの第1のピークだとすると、1974年から76年にかけての時代は第2のピークだったと言える。1973年、アサイラム・レコードに移籍。ディランは重要な転機を迎える。1974年『プラネット・ウェイヴス』、1975年『血の轍』、1976年『欲望』と立て続けに素晴らしいスタジオ作品を発表。この間、ザ・バンドとの全米ツアーや「ローリング・サンダー・レヴュー」ツアーも行い、それらを収録したライブ盤、1974年『偉大なる復活』、1976年『激しい雨』もリリース。日本のディラン・ファンにとっては、1978年の初来日が大きな出来事となった。
この第二のピークが、浜野サトルにディランを問い直す契機を与えたことは間違いない。(私自身のディラン体験をふりかえると、74年、『プラネット・ウェイヴス』で彼のアルバムに出会い、78年の武道館で彼の生の声を聴くことができた。だから今に至るまで、私にとって70年代のディランの存在が大きい。)
あの時代のロック音楽の深化を同時人として経験している者からすれば、一年一年という時の歩み、一作一作という作品の歩みがほんとうに濃縮されたものだった。変化も激しいものだった。
次に、この時期の浜野サトルの批評の軌跡をたどりたい。
彼は『ディランにはじまる』の「あとがき」で「ぼくはぼくなりに、小さな実験を繰り返してきたようだ」と述べている。それは彼も触れているように、「文体」の変化にも伺える。具体的には、『都市音楽ノート』では「書き手」を示す一人称代名詞が「私」、一人称複数代名詞が「われわれ」だったのに対して、『ディランにはじまる』では各々「ぼく」「ぼくら」に変わった。
文体に関わる方法の面でも変化が見られる。『都市音楽ノート』では、論理が論理を追究し掘り下げていくような硬質で切実な様式だったのが、『ディランにはじまる』では、「歌」に関する具体的な文脈や背景から語り始め、歌い手やその作品のテーマやモチーフを少しずつ解きほぐしていく、よりやわらかいスタイルへと発展していった。
この文体や方法の実験は、対象である「歌」との対話や言葉の摺り合わせという地道な試みによって可能となったのだろう。
『ディランにはじまる』冒頭には『ハイウェイ』というディラン論が収められている。(『ワンダーランド』1973年8月号で発表。初出時の題名は『ハイウェイ ディラン体験とヘンリーたち』。『ワンダーランド』(WonderLand)は植草甚一編集の音楽・サブカルチャー雑誌。3号目から誌名が「宝島」に変更された。その後、この雑誌や増刊号は日本のロックのメディアとしても活躍した。)
この批評は、ロバート・マリガン監督『ハイウェイ』(1964年)の主人公ヘンリーの物語から始まる。駆け出しのミュージシャンであるヘンリーは、アメリカ中西部の田舎町に住み、ある事件を起こす。彼の「走り出し、挫折する」物語をひとつのアレゴリーのようにして描き出しながら、浜野は自らの都市生活者としての音楽への欲望とその享受のあり方についてふりかえる。歌のあり方への根源的な問いかけがあるこの批評の内容については別の機会に論じることにして、ここでは、浜野サトルがディランについてのスタンスを述べた箇所を引用したい。
ディラン体験について、ぼくは語りたい。そのためには、聴衆の ひとりとしての自分をできるだけ裸にしてゆくようつとめなければならないだろう。というのも、体験はいうまでもなくつねに個人的な体験としてあるのだから。そして、それは個人的なコンテクストを通して自分をひらいてゆくことを意味しているにちがいない。
73年という時点で「ディラン体験」があらためて、「ぼく」と人称代名詞によって語り出された。
「個人的な体験」「個人的なコンテクスト」を通じて「自分をひらいてゆく」ことを媒介にして対象を語っていくのは、この時期の彼の姿勢であり方法である。それは、いわゆる「私語り」や個人的な挿話ではない。そこにある「個人」「自分」というのは、きわめて方法的な「場」である。この方法や文体の達成が、この『ハイウェイ』というディラン論であり、第1・2回で述べた『ポールサイモン パッケージされた少年時代』であろう。
[付記]
四回続けた「浜野サトル」ノートもここで一休止し、次は彼の「うた」論に焦点をあてて再開したい。
浜野サトルは現在も、「浜野智」という名で(彼が編集者という立場で記す名だと思われる)、「One Day I Walk」( http://onedaywalk.sakura.ne.jp/ )というサイトを開設している。
その中の「青空文庫分室」には、「新都市音楽ノート」という旧作だが必読の批評が載せられている。最近は更新されていないが、音楽エッセイ中心の「蟹のあぶく」。
そして、日々書き継がれている「毎日黄昏」からは、六十歳代後半となった彼の日常や文学作品への多様な関心と共に、「歌」の言葉やこの世界の現実への真摯な「問いかけ」が伝わってくる。
2015年6月21日日曜日
『終わりなき終わり ボブ・ディラン』-浜野サトル3
二回続けて、浜野サトルの四十年前ほどの批評をこの《偶景web》で紹介したことは、やや唐突に感じられたかもしれない。
これまで、「志村正彦ライナーノーツ」を中心に音楽やそれをめぐる出来事についてこのwebに書いてきた。音楽をどのように語ることも自由だ。インターネットという場では、日々、音楽についての語りが量産されている。メディアであれ、個人であれ、音楽を語る欲望は尽きることがない。しかし、「語る」というよりも「語らされる」、あるいは語りに語りを「重ねていく」、という状況ではないだろうか。
ジャック・ラカンによれば、私たちの欲望は他者の欲望である。音楽を語る欲望も、その言葉も、根源的には他者から与えられる。今、志村正彦を語る自分自身の欲望をふりかえると、そこには浜野サトルという他者が存在している。単に影響を受けたという以上のものがあるような気がする。それが何か。年月が経ち、わかるところもあるのだが、まだわからないところも多い。わからないからこそ、今回このような文を書き、彼の批評を読み直し、自分の言葉を問い直している。彼の文を読んでいくと、当時は気づいていなかった論点が幾つか浮上してくる。過去に書かれたものであっても、現在進行形で読まれうる。鋭敏な批評の特徴にちがいない。
また、欲望や言葉をめぐるラカンの教えに踏みこまずに一般論で言っても、すでに半世紀を超える蓄積のある日本語のロックの「歌」について語ることは、これまでそれがどのように語られてきたのかという歴史との対話が不可避である。
浜野サトルの「歌」論の中心にある対象、根源にあるモチーフは、ボブ・ディランである。
『終わりなき終わり ボブ・ディラン』という論が、彼の最初の著書『都市音楽ノート』(1973年12月10日、而立書房)に収録されている。執筆は70年10月、初出は『ニューミュージック・マガジン』1971年2月号。『終りなき終り-ボブ・ディラン・ノート』という題で掲載され、『都市音楽ノート』所収の本文とは若干の異同がある。もともとこの原稿は『ボブ・ディラン論集』という書籍に収録され発表される予定だったが、結局刊行されずに終わったそうである。
(私は高校生の頃『都市音楽ノート』を読み、この論に出会った。しかしあの当時、ディランに対する理解が浅いこともあって、この論を正確に読むことはできなかった。)
彼はこの論で、「ボブ・ディランの歌が深化してゆく過程の内在的な構造 」を少しずつ解き明かして、「単独者」としてのディランの歩みを語っていく。表現者としてのディランと受容者としての自分自身の関係を測定することを絶えず意識しながら、次の認識にたどりつく。
フォーク・ロックと呼ばれたものは、二重の意図をもっていた。ひとつは、さまざまな楽器の導入によって、曲全体を補完し、肉づけしてゆくこと。そして、もうひとつ、これこそ重要な点だが、ロックのリズムを呼び込むことによって、歌詞とメロディの組織力を激化させることであった。いま「ライク・ア・ローリング・ストーン」のディランを聴くとき、そこではさまざまな未熟さが目につく。しかし、あたかも言葉それ自身が解き放たれようとするかのような この動きの感覚こそ、われわれの待望していたものだったのだ。
彼は、60年代半ばフォーク・ロックに変化していったディランの音楽を、「歌詞とメロディの組織力」を強化する「ロックのリズム」という基本構造によって説明する。ディランの「歌」の可能性の中心が、言葉が自ら解き放たれる「動きの感覚」にあることを強調する。
しかし、60年代後半のディランについては、言葉・歌詞とメロディ・リズムの間の「緊張関係」の停滞や退行があると指摘し、次のように述べている。
『ナッシュヴィル・スカイライン』の背後には、深い絶望ともいうべきものが存在している。そこに、われわれは、一個人のもつ可能性の限界と単独者の宿命的な挫折を見出すべきだろう。円環は、閉じられた。
60年代から70年代初頭にかけてのディランの「変化」が、「円環は、閉じられた」という厳しい断言で締めくくられる。これはディランの歩みに対する批評ではあるが、それと同時にあるいはそれ以上に、受容者・聴き手としての自らの経験をふりかえる自己批評でもある。
なお、この論は、湯浅学『ボブ・ディラン ロックの精霊』(岩波新書、2013年11月)で紹介されている(156頁)。湯浅は、浜野を「慧眼である」とし、先ほどの引用部分の一部について、「この原稿の三三年後に書かれるボブの『自伝』をすでに読んでいたのか、と思える指摘だ」とその先見性を高く評価している。浜野サトルの初期の仕事の「再評価」という気運があるのかもしれない。そうであれば、とてもうれしい。
70年代、浜野サトルは他の誰よりも音楽批評の「単独者」であった。彼の歩みの軌跡をたどりなおすことは、音楽についての批評が衰弱しているこの時代にこそ必要とされるのではないだろうか。
(この項続く)
これまで、「志村正彦ライナーノーツ」を中心に音楽やそれをめぐる出来事についてこのwebに書いてきた。音楽をどのように語ることも自由だ。インターネットという場では、日々、音楽についての語りが量産されている。メディアであれ、個人であれ、音楽を語る欲望は尽きることがない。しかし、「語る」というよりも「語らされる」、あるいは語りに語りを「重ねていく」、という状況ではないだろうか。
ジャック・ラカンによれば、私たちの欲望は他者の欲望である。音楽を語る欲望も、その言葉も、根源的には他者から与えられる。今、志村正彦を語る自分自身の欲望をふりかえると、そこには浜野サトルという他者が存在している。単に影響を受けたという以上のものがあるような気がする。それが何か。年月が経ち、わかるところもあるのだが、まだわからないところも多い。わからないからこそ、今回このような文を書き、彼の批評を読み直し、自分の言葉を問い直している。彼の文を読んでいくと、当時は気づいていなかった論点が幾つか浮上してくる。過去に書かれたものであっても、現在進行形で読まれうる。鋭敏な批評の特徴にちがいない。
また、欲望や言葉をめぐるラカンの教えに踏みこまずに一般論で言っても、すでに半世紀を超える蓄積のある日本語のロックの「歌」について語ることは、これまでそれがどのように語られてきたのかという歴史との対話が不可避である。
浜野サトルの「歌」論の中心にある対象、根源にあるモチーフは、ボブ・ディランである。
『終わりなき終わり ボブ・ディラン』という論が、彼の最初の著書『都市音楽ノート』(1973年12月10日、而立書房)に収録されている。執筆は70年10月、初出は『ニューミュージック・マガジン』1971年2月号。『終りなき終り-ボブ・ディラン・ノート』という題で掲載され、『都市音楽ノート』所収の本文とは若干の異同がある。もともとこの原稿は『ボブ・ディラン論集』という書籍に収録され発表される予定だったが、結局刊行されずに終わったそうである。
(私は高校生の頃『都市音楽ノート』を読み、この論に出会った。しかしあの当時、ディランに対する理解が浅いこともあって、この論を正確に読むことはできなかった。)
彼はこの論で、「ボブ・ディランの歌が深化してゆく過程の内在的な構造 」を少しずつ解き明かして、「単独者」としてのディランの歩みを語っていく。表現者としてのディランと受容者としての自分自身の関係を測定することを絶えず意識しながら、次の認識にたどりつく。
フォーク・ロックと呼ばれたものは、二重の意図をもっていた。ひとつは、さまざまな楽器の導入によって、曲全体を補完し、肉づけしてゆくこと。そして、もうひとつ、これこそ重要な点だが、ロックのリズムを呼び込むことによって、歌詞とメロディの組織力を激化させることであった。いま「ライク・ア・ローリング・ストーン」のディランを聴くとき、そこではさまざまな未熟さが目につく。しかし、あたかも言葉それ自身が解き放たれようとするかのような この動きの感覚こそ、われわれの待望していたものだったのだ。
彼は、60年代半ばフォーク・ロックに変化していったディランの音楽を、「歌詞とメロディの組織力」を強化する「ロックのリズム」という基本構造によって説明する。ディランの「歌」の可能性の中心が、言葉が自ら解き放たれる「動きの感覚」にあることを強調する。
しかし、60年代後半のディランについては、言葉・歌詞とメロディ・リズムの間の「緊張関係」の停滞や退行があると指摘し、次のように述べている。
『ナッシュヴィル・スカイライン』の背後には、深い絶望ともいうべきものが存在している。そこに、われわれは、一個人のもつ可能性の限界と単独者の宿命的な挫折を見出すべきだろう。円環は、閉じられた。
60年代から70年代初頭にかけてのディランの「変化」が、「円環は、閉じられた」という厳しい断言で締めくくられる。これはディランの歩みに対する批評ではあるが、それと同時にあるいはそれ以上に、受容者・聴き手としての自らの経験をふりかえる自己批評でもある。
なお、この論は、湯浅学『ボブ・ディラン ロックの精霊』(岩波新書、2013年11月)で紹介されている(156頁)。湯浅は、浜野を「慧眼である」とし、先ほどの引用部分の一部について、「この原稿の三三年後に書かれるボブの『自伝』をすでに読んでいたのか、と思える指摘だ」とその先見性を高く評価している。浜野サトルの初期の仕事の「再評価」という気運があるのかもしれない。そうであれば、とてもうれしい。
70年代、浜野サトルは他の誰よりも音楽批評の「単独者」であった。彼の歩みの軌跡をたどりなおすことは、音楽についての批評が衰弱しているこの時代にこそ必要とされるのではないだろうか。
(この項続く)
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