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2025年4月20日日曜日

NHK「心をつむぐオルゴール~山梨・盲学校の春~」

 今朝、NHK総合テレビの「Dear にっぽん」というドキュメンタリー番組で「心をつむぐオルゴール~山梨・盲学校の春~」が放送された。

 60年前から、山梨県立盲学校ではオルゴールが卒業生に贈られる。毎年、匿名の女性から卒業生の数を尋ねる電話があり、卒業式の前に学校に配達される。山梨ではローカルニュースでしばしば報道されていたので、このオルゴールのことを知っている方も多い。60年という年月の間続いていることもあり、以前、この贈り主は二代目の方だと新聞に書かれていたと記憶している。おそらく家族の方が引き継がれているのではないだろうか。

 匿名という行為のゆえに、もとより誰かに知られることを目的とはしていない。純粋な贈り物である。今日は全国放送で取り上げられ、広く知られることになっただろう。この事実が視聴者にも贈り物として届けられることになった。このかけがえのない贈り物はそのようにして《心》を贈り続けるのだろう。


 毎年、オルゴールの曲は変わる。三人の方とその家族が番組に登場し、パッヘルベルの「カノン」、「星に願いを」、ビートルズ 「レット・イット・ビー」のメロディが「心をつむぐ」ものとなっていく。盲学校卒業後の人生とオルゴールの曲が織りなされるように時が流れてゆく。

 番組のHPでは「女性は盲学校の生徒たちを思い、その気持を受け取った生徒たちもまた女性のことを思う心の交流が広がっています。「人を思いやる優しさ」や「人が人を思う尊さ」・・・大切な気持ちに気づかされます」とある。確かにその通りの内容なのだが、「優しさ」「尊さ」という言葉では言い表せないほど、心に深く深く迫るものがあった。


 再放送が4月24日(木) 午前1:25〜午前1:51にある。インターネットのNHKプラスでは、4月27日(日)午前8:49 まで配信される。 ぜひご覧になっていただきたい。


 我が家はこの盲学校の近くにある。この盲学校の隣には山梨ライトハウスや青い鳥支援センターという支援団体もある。高校生のときに自転車での通学途中で、バス停で白杖をついた男性をよく見かけた。その方の姿が強く印象に残っていた。

 やがてかなりの年月を経てから再びそのバス停の前を車で通勤するようになって、あるとき、その男性の姿を再び見かけた。髪の毛には白いものが混じっていた。白い盲導犬を伴っていた。

 元気でいらっしゃるのだ。そう心の中でつぶやいた。高校生のときからは二十数年くらいの時が経っていた。とても嬉しかった。そして懐かしいような気持ちにも包まれた。

 以前勤めていた高校では毎年、この盲学校と隣にある山梨県立甲府支援学校との交流会を行っていたので、生徒を引率して訪ねて交流したこともある。盲学校と支援学校の生徒が高校の学園祭に遊びに来ることもあった。そういう経験もあり、この二つの学校には親しみがある。

 このオルゴールの贈り物には、人の人生に寄り添い、さりげなく、ときには強く支える音楽の力を感じる。


2022年5月15日日曜日

沖縄復帰50年。島唄。

 5月15日。1972年のこの日に沖縄が日本に復帰してから半世紀が経った。当時の僕は中学生だったが、新聞やテレビのニュースで大きく報道されたことは記憶に残っている。

 山梨の僕にとっては、沖縄は遠い遠い地だった。70年代の半ばから、沖縄のロック、コンディション・グリーンや紫が注目されるようになった。二つのバンド共に、ハードロックやブルースロックなどの洋楽のサウンドだった。その後、喜納昌吉とチャンプルーズの「ハイサイおじさん」によって、沖縄民謡のリズムや音階に基づくロックも聴くことになった。僕にとっての沖縄は、音楽の比重が大きかった。

 高校生の頃、僕は『ミュージック・マガジン』や『話の特集』で竹中労の記事を読んだ。『琉歌幻視行 島うたの世界』(1975年)も読み、〈琉歌〉の存在を知った。労の父、竹中英太郎は山梨日日新聞社の記者だったことがあり、戦時中と戦後の一時期まで、労は甲府に住んでいた。労は甲府中学(現在の山梨県立甲府第一高等学校、僕の母校でもある)で学んだのだが、校長退陣運動で退学となる。高校の恩師が労の同級生だったので、その時の話を少しだけ聞いたことがある。


              表紙画:竹中英太郎


 竹中労には『美空ひばり』や『ビートルズ・レポート』など音楽に関する著書が多いが、70年代初頭から、琉歌沖縄民謡のレコードをプロデュースしたり、コンサートを企画したりして、嘉手苅林昌を始めとする島唄を紹介した仕事も特筆される。竹中労によって、島唄に出会った「本土」の人間は少なくないだろう。

 父の英太郎は甲府で暮らしたが、優れた挿絵画家でもあった。没後の1989年、労の監修による回顧展が甲府のギャラリーで開催された。当時は山梨県立文学館に勤めていたので、その仕事もかねて、展覧会を見に行った。会場に竹中労がいた。おだやかな表情をしていた。何か話しかけたかったのだが、結局、話しかけることはできなかった。その二年後、労は63年の生涯を閉じた。

 甲府市の湯村には、英太郎の娘、労の妹である竹中紫が館長を務める「竹中英太郎記念館」がある。英太郎の作品や労の資料が展示されている。竹中英太郎・労の父子にとって、甲府は第二の故郷ともいえる地だろう。今日5月15日の山梨日日新聞の「FUJIと沖縄」シリーズの「山梨関係者の足跡息づく」で、「竹中労 島唄を通し文化紹介 復帰問題問い続ける」という題の記事があった。その中で、竹中紫さんの「兄の後半生は島唄と共にあった。島唄を愛し、愛された人」という言葉が紹介されている。


 島唄というと、やはり、THE BOOM・宮沢和史の「島唄」が思い浮かぶ。ほとんどの音楽ファンにとっても同様だろう。「島唄」についてはこのブログで何度か書いてきたが、今日は、「THE BOOM - 島唄 (オリジナル・ヴァージョン)」の映像とオリジナルの歌詞を紹介したい。


      THE BOOM - 島唄 (オリジナル・ヴァージョン)



   THE BOOM  島唄
   作詞:宮沢和史 作曲:宮沢和史 

でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た 

でいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た 
くり返す悲しみは 島渡る波のよう 

ウージの森であなたと出会い 
ウージの下で千代にさよなら 

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ 
島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の涙 

でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ 
ささやかな幸せは うたかたの波の花 

ウージの森で歌った友よ 
ウージの下で八千代の別れ 

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ 
島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を 

海よ 宇宙よ 神よ いのちよ このまま永遠に夕凪を 

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ 
島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の涙 

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ 
島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を 


 「島唄」は、1992年1月22日リリースの4枚目アルバム『思春期』で発表された。このアルバムは「子供らに花束を」など聞き手に問いかける作品が多かったが、なかでも「島唄」は印象深い作品だった。

 前作、1990年9月発売の3枚目アルバム『JAPANESKA』に沖縄民謡・音階を取り入れた「100万つぶの涙」があったが、「島唄」はその歌詞の世界において、沖縄戦とその犠牲者への想いを歌っていた。宮沢の転機となる作品だという直観があった。しかし、その時点ではその後の展開はまったく想像できなかった。翌年1993年6月、この「島唄 (オリジナル・ヴァージョン)」シングルが発売されて、大ヒットとなった。この映像には若々しい姿と声の宮沢和史がいる。


 あらためてこの歌を聴くと、〈でいごの花が咲き〉〈でいごが咲き乱れ〉〈でいごの花も散り〉〈うたかたの波の花〉というように、〈花〉の表象の変化のなかに、沖縄戦の犠牲者への想いが表現されている。 宮沢和史の歌詞には、志村正彦や藤巻亮太と同じように、自然の風景や景物がよく描かれる。山梨のロックの詩人には、自然を描くことから、自己の存在、社会や歴史の出来事、世界の在り方を問いかける歌が多い。

     

  西日本新聞の記事〈「島唄よ海を渡れ」宮沢和史、歌い続け縮めた心の距離 沖縄復帰50年〉(2022/1/31)の中で、宮沢の想いが次のように述べられている。 


 完成しても発表には迷いがあった。「ヤマト(本土)の人間だし、戦争も知らないし」。山梨県出身の自分が歌っていいのか、不安を抱えながら世に送り出した。

 CDは150万枚超を販売する大ヒットとなる。応援の一方、批判の声も大きく響いた。「民謡をろくに知らないヤマトンチュ(本土の人)が」「ウチナー(沖縄)の音階を使うな」

 平和を希求する沖縄戦への鎮魂歌だ、と言いたい。でも、言葉でそれを訴えるのは音楽家として敗北だと思った。「歌い続ければ、本当の意味を分かってもらえる。いつかは心に染みていくはず」。そう信じた。


 沖縄復帰50年の今日、島唄と深い関わりのある山梨ゆかり・出身の二人の人物、竹中労と宮沢和史のことを書いた。竹中労が亡くなったのは1991年、宮沢和史「島唄」が生まれたのは1992年。山梨出身の青年が「島唄」を作ったことを労は喜んだに違いない。

 宮沢の〈歌い続ければ、本当の意味を分かってもらえる。いつかは心に染みていくはず〉という発言は重い。歌は、言葉による説明ではなく、歌うという行為であるのだから。

 歌が心に染みいることによって、何らかの形で、現実に働きかけることを信じたい。


2022年4月24日日曜日

現実

 2016年の夏、ロシアに旅行した。モスクワとサンクトペテルブルクの二つの都市を回った。

 モスクワの空港の手荷物検査は2回あった。自動小銃を持った警備員もいた。入国審査も他のヨーロッパの国に比べて厳しかった。凄いというほどでもないにしろ、何かしらの緊張感があった。

 サンクトペテルブルクといえば、ゴーゴリの『外套』そしてドストエフスキーの『白夜』。この二つの作品には思い入れがあるので、そのゆかりの場所を見た。エルミタージュ美術館のコレクションは素晴らしかったが、その割に観覧者が触れられそうな距離に展示されているなど、展示の仕方がおおらかなことに驚いた。

 モスクワ。赤の広場、クレムリン。私たちの世代では、この地はロシアというよりもソ連、ソビエト社会主義共和国連邦の中心地という印象が強いが、かつての社会主義の要塞といったイメージはなかった。観光客が多く、賑わいを見せていた。土産店には、ソ連・ロシアの歴代の指導者(書記長や大統領)から成るマトリョーシカがあり、人形の顔を見てその名を思いだしていった。

 空港でも街でも、ユーラシア大陸の様々な民族を見かけた。私もいきなりロシア語(だと思う)で話しかけられたことがあった。その時は少し特徴のある黒い帽子を被っていた。帰国して調べると、キルギス人の被る帽子に似ていたので、もしかしたら、キルギス人に間違えられたのかもしれない。キルギス人は日本人と似ていると言われている。ロシアは、多様な民族から構成されているユーラシアの大国であると妙に納得した。 

 学生時代を振り返る。ロシア・フォルマリズムの文学理論。ロマーン・ヤーコブソンの言語理論。構造主義、物語の構造分析、記号論の源流。そして、ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』。私たちの世代の学生で文学理論に関心のあるものにとって、必読の文献だった。ポリフォニーの理論は大きな影響を与えた。ロシアの文学理論は、1910年代から30年代、今から百年前に発展し、その後深化していった。

 私にとってロシアは何よりも、文学と言語の理論の国であった。


 ロシアのウクライナ侵略から二ヶ月が経つ。

 私が知っていることは、ニュース映像やネットの情報で得たものに限定されるが、その一部になんらかの虚構がある可能性を排除できないにしても、その情報源が多様な媒体からもたらされていることを考慮すると、総合的に判断して、それらの情報がこの侵略の〈現実〉を伝えていることは間違いないだろう。

 国際政治にも国際法にも全くの素人である私がこのブログに書くことがあるとしたら、日本という場でのこの現実をめぐる様々の言説、そこで使われる言葉の問題、日本の言論の在り方についてである。言葉や言説についての教育や研究に携わる者として、今日はこの点について書いてみたい。

 この間、特に違和感を持ったのは、〈戦争〉という言葉である。戦争の定義は、通常、〈武力による国家間の闘争〉である(実際にはいろいろな定義があるようだが)。国際法上は、戦争は〈宣戦布告〉により始まり、当事国間に〈戦時国際法〉が適用される。当事国のロシアは戦争ではなく〈特別軍事作戦〉と命名している。それゆえに、と言うべきだろうか、宣戦布告はいまだない。

 日本の言論での〈戦争〉という括り方に違和感を持ち、この問題について考えあぐねていたが、危機管理の専門家、福田充氏(日本大学危機管理学部教授)のツイッターの発言によって、考え方を整理することができた。

福田充 Mitsuru Fukuda@fukuda326 Apr 20
「戦争」というメディア的概念の誤用によって、侵略する側と、侵略される側という圧倒的な関係性の非対称性、権力的な非対称性、コミュニケーションの非対称性が無視されて全てごちゃごちゃに語られる日本の弊害の拡散に、一部の研究者や記者、思想家などインフルエンサーも加担しています。 

 副田氏は、戦争というメディア的概念を〈誤用〉(この誤用という表現は、恣意的な使用あるいは党派的な適用という意味だろうが、まだ充分には理解できていない)することによって、侵略する側と、侵略される側という圧倒的な関係性の非対称性を無視している日本の一部の言論を批判している。確かに、この非対称性を無視どころか否定さえしている論者もいる。

 現実を直視しないで、自分の固定観念だけで考えると、現実の関係性そのものを捉え損ねる。そうするとさらに、現実の関係性よりも、自分自身の理想や観念、主義やイデオロギーによって見出した関係性の方へと思考が横滑りしていく。副田氏の観点に拠るのであれば、関係の圧倒的な非対称性がある種の対称性へと整理されていく。〈侵略する側と侵略される側〉という非対称的な関係が、〈戦争する側と戦争する側〉少なくとも、〈戦争をする側と応戦した側〉という対称的な関係へと置き換えられる。歪められると言ってもよい。

 国際法の専門家、酒井啓亘氏(京都大学大学院法学研究科教授)は3月20日の時点で、次のようにツイッターで述べている。

酒井啓亘(Hironobu Sakai)@UtBeneVivas Mar 20
備忘録として。周知のとおり、国際法の観点からすると、ロシアが主張する個別的自衛権による武力行使の正当化が困難なのは、ウクライナによるロシアへの先行武力攻撃の不存在から明らか。国連憲章51条は、「武力攻撃が発生した場合」に自衛権行使を国連加盟国に認めているから。

 要するに、「先行武力攻撃の不存在」は明白であり、主権国家による主権国家に対する武力の一方的な行使、侵略である。国連憲章も正当な「自衛権行使」を認めている。侵略・攻撃とそれに対する自衛・反撃は、当然、非対称的なものである。この場合、非対称的な関係と対称的な関係との間には絶対的な差異がある。

 しかし、対称的な関係を見出す論者は〈戦争〉として捉えがちである。そうなると、戦争の〈当事国〉同士という対称的な関係によって、いわゆる「どっちもどっち論」によって、「喧嘩両成敗」的な論を提示しやすくなる。当事国に対する中立論や、各々の原因を想定した両論併記論にも陥りやすい。さらに、その背景としての「代理戦争」論や根拠のない陰謀論まで持ち出してくる。このような論によって、当事国を相対化する視線が強くなる。この思考の流れは、その論者をメタレベル的な視点に立たせる。

 このメタレベル的な視点は、結果として、その論者にある種の思考停止をもたらす。そのような傾向を持つ専門家、研究者が一定数いる。意外にも、と言いたいところだが、ある面ではこれは当然なのかもしれない。ある局面で思考停止する方が、自分の主張や学説の一貫性を保つことができるからだ。メタレベルからの俯瞰する視点によって、当事国各々の原因や背景という方向に思考が向かう。当事国が対称化され、結果として、相対化されてしまう。「どっちもどっち論」の循環による思考停止。この現状についての強い違和感がある。

 全ての出来事は、その原因をかなりの次元まで遡ることができる。様々な原因、理由、背景を指摘できるだろう。しかし、それはあくまでも〈論〉にすぎない。あらゆる論は、その論じる主体の姿勢をあからさまにする。無意識の在り方を露呈させる。


 2022年、日本の言説の世界に起こっているのはこのような事態である。専門家や研究者は大学の教員である場合も多いので、この現状には特に関心がある。

 論は論であり、現実は現実である。その現実を、前回紹介したピーター・ゲイブリエルの言葉を再度引用するなら、世界の目が、今、見つめている。そして、この世界の現実に対して、思考停止に陥ることなく、今、この場で、思考を深めていくこと。その思考が現実に対して少しでも何らかの作用を果たすこと。働きかけること。私がこの二ヶ月間で考えて特に伝えたいことをこのブログに書かせていただいた。


2022年4月10日日曜日

Peter Gabriel の言葉

 敬愛するピーター・ガブリエルがこう呟いていた。

 Peter Gabriel@itspetergabriel

 

Mar 16
This horrific, totally unnecessary and barbaric invasion should encourage us to imagine something different for the future - pg


この恐ろしい、全く不要で野蛮な侵略は、将来のために異なる何かを想像することを私たちに強く促しています。


 このメッセージの全文「Out of Ukraine」(15th March, 2022)が、petergabriel.comに掲載されているが、その最後の部分に「Japan」という言葉が突然現れて、驚いてしまった。日本の「金継ぎ」という技術に触れているのだ。


In Japan, kintsugi is the art of repair. It translates as ‘join with gold.’ It is the broken pot, put back together with gold, that has greater value than the original whole pot. Rescuing something, or someone, from destruction, from the edge of the void and from worthlessness, gives it, or them, greater value.

日本では、金継ぎは修理の芸術です。「金でつなぐ」という意味です。壊れた器を金でつなぎあわせることによって、元の器よりも大きな価値を持つようになります。何かを、あるいは誰かを、破壊から、虚無の淵から、無価値の状態から、救いだすことは、より大きな価値を与えます。


 金継ぎは、陶磁器の破損部分を漆によって接着し金などで装飾して仕上げる修復技法である。壊れた物、壊された物を修復するだけでなく、その修復された器の継ぎ目が調和としての美となり、大きな価値が生まれる。

 ピーター・ガブリエルは、この「金継ぎ」を「将来のために異なる何かを想像すること」の喩えにしている。そして、この現実の中で「何かを、あるいは誰かを、破壊から、虚無の淵から、無価値の状態から、救いだすこと」を強く訴えている。


  1980年、ピーター・ガブリエルは、南アフリカの反アパルトヘイト活動家スティーヴ・ビコをテーマとする「Biko」という歌を創った。音楽活動の外でも人権活動に積極的に取り組んできた。

 昨年2021年、彼は「Biko」リリース40周年とBlack History Monthを記念し、チャリティー・プロジェクトのPlaying For Changeと協力して、新しいヴァージョンを制作した。Playing For Changeは、この歌によって「世界の人々と団結、平和、希望のメッセージを共有します」とコメントしている。そのミュージックビデオを紹介したい。


 Biko | Peter Gabriel | Playing For Change | Song Around The World



  「Biko」の歌詞の最後はこう結ばれている。


    And the eyes of the world are watching now, watching now.
        
 そして、世界の目が今見つめている、今見つめている。


 今、現実に起きていることを、世界の目、つまり私たち一人ひとりの目が見つめている。



2020年6月5日金曜日

「Educate yourself」

 Sly & The Family Stone『Family Affair』が作られた1970年代の前半は、日本でもアメリカでも60年代後半の雰囲気を濃厚に残す時代だった。荒々しいものがまだうごめく動きと共に次第にその動きが収束していく。その二つの動きが交錯する時代だった。

 60年代後半から70年代後半の時代から50年、半世紀が経った。
 今、アメリカのミネソタ州ミネアポリスで警官に拘束されて死亡したアフリカ系アメリカ人ジョージ・フロイド氏の事件に抗議するデモが世界中に広がっている。「正義なければ平和ない」と、フロイドさんに連帯を示すデモは欧州各地で連日繰り広げられている。

 アメリカでは暴動や略奪も起きてしまった。そのことに対して、弟のテレンス・フロイド氏が「Educate yourself」と訴えていた。「自分自身を教育して、誰に投票するか決めるんだ」「別のやり方でやろう」という文脈の表現だった。この映像がネットに上がっているのでぜひ見てほしい。

 この「educate yourself」について考えてみた。「educate」の語源については幾つかの説があるが、「人を外へ(ex-)引っ張り(duco)伸ばしていくこと」が基本的な意味らしい。このことから、人の力と能力を育成し、開発していくことと捉えることもできる。この言葉の定訳である「教育」には、誰かが誰かに教え込むという意味合いがある。もともとはそうではなく、自らが自らを育てていくという方に近い。「educate yourself」となると、自分自身が自分の力を育て伸ばしていくことになる。自分が主体であり自分が対象である。誰かから、学校や教師から教えられるのではない。自分が自分自身を育てていく。自らの能力や知性を伸ばしていく。
 以前、ジョセフ・ジャコトとジャック・ランシエールの『無知な教師 知性の解放について』について書いたことがある。人間は本質的に平等であり、人間は自分で知性を育成し、自身を解放することができる。「educate yourself」はその教えにも重なっていく。

 テレンス・フロイド氏の「自分自身を教育して、誰に投票するか決めるんだ」という言葉は、私たちの国も激しく揺さぶる。
 私たち一人ひとりが「educate yourself」を実践することによって、この日本も変化していくだろう。いや、変化させなければならない。
 私たちも問われているのだ。

2020年4月5日日曜日

隔たりのある笑い

 前回、志村けんの姓「志村」について述べた。今回は志村けんの「芸」について触れたい。とは言ってもそのことを書ける知識も見識もないので。この間に読んで教えられることが多かった二つの記事を紹介したい。

  西条昇氏(フリーの放送作家、お笑い評論家を経て、現在は江戸川大学メディアコミュニケーション学部教授)は、『普遍的笑い、比類なき観察眼で 志村けんさんを悼む』(朝日新聞2020.4.1)という追悼文で次のように書いている。


 私が20代の時、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の構成作家を1年だけ担当しました。テレビで見るのとは全く違う、志村さんの笑いへの厳しい姿勢にとにかく驚きました。

 私たちが出したコント案が加藤茶さん、志村さんに次々に却下され、ゼロから考え直すことは日常茶飯事です。たばこの煙がモクモクとする会議室で、数時間も机に突っ伏しながらネタを考えます。志村さんは物静かに考えられていました。そんな中でアイデアの出発点となるのが、加藤さんと志村さんが「あの映画のこの場面が面白かった」と何げなくつぶやく一言でした。

 加藤さんもたくさんの映画を見られていましたが、志村さんの勉強量はすさまじかった。まだ日本で発売されていない海外のコント番組のビデオを輸入業者を通じて取り寄せておられました。自宅にはコメディー映画のビデオも大量にあり、早送りで見ながら面白い所だけ通常再生して確認すると伺ったこともあります。テレビ画面上では飲み屋の延長のようなノリで振る舞っておられましたが、志村さんの笑いはとてつもない知識量から生み出されたものなのです。


 「志村さんの勉強量はすさまじかった」「志村さんの笑いはとてつもない知識量から生み出され」ということを知ると、もう一人の「志村」のことを思いだざずにはいられない。あたりまえのことだが、この勉強量や知識量は表には出てこない。表に出てきたのでは「笑い」も「音楽」も「芸」として成立しないからだ。そのことはしかし、あまり省みられない。


 話題作『ポスト・サブカル 焼け跡派』の著者「TVOD」の一人であるコメカ氏は、『たけしと何が違うのか――コントで勝負した志村けんは、最後の世代の「喜劇人」だった』(文春オンライン)で、ビートたけしと対比しながらこう述べている。


 インターネット以降の世界では、芸人もミュージシャンも作家もみな生身の人間であることをわたしたちは実感として知っている。だが、70~80年代にテレビで活躍しその存在を確固たるものにした志村けんというキャラクターは、その生身の奥行を想像しにくい存在としてのコメディアンの、最後の一人だったのではないだろうか。

 だから私たちは、そういう平板な(これは揶揄ではない)キャラクターが消失してしまったことを上手くイメージできない。ミッキーマウスが生々しく死ぬ場面を想像できないのと同じことだ。

 70年代までの日本には、お茶の間のブラウン管を通し平板なキャラクターたちのドタバタ劇に笑っていられる状況が、良くも悪くもあった。その残滓の消失を、恐らく私たちはいま実感しているのである。


 「その生身の奥行を想像しにくい存在としてのコメディアン」というコメカ氏の捉え方には、なるほど、と頷くものがあった。
 同時代の視聴者としての実感としても、テレビのブラウン管の向こう側にいる存在は、端的に、向こう側の人だった。televisionという言葉どおり、その技術は「tele」遠くにあるものをこちら側に近づけた。日常を日常にもたらした。
 ザ・ドリフターズの時代のテレビ番組では、向こう側とこちら側はブラウン管で隔てられていて、その隔たりによって、「笑い」という非日常と日常がゆるやかに接していた。

 あの時代、ブラウン管のテレビという機械には確固たる存在感があった。茶の間で君臨していたが、それはある種の異物でもあった。電源ボランを押すと非日常が日常と接続し、離すと断絶していった。
 今日、ブラウン管が液晶などのフラットパネルに変わった。その形が象徴するかのように、向こう側とこちら側とはまさしく「フラット」に接続する。小さなフラットパネルをポケットに入れて持ち歩くこともできる。異物感はなくなり、接続が常態化される。そして、「tele」遠くにあるものをこちら側にもたらすのではなく、すべてのものが私たちの身体の近くに接しているような感覚をもたらす。

 ブラウン管のテレビが茶の間に君臨していたあの時代、ザ・ドリフターズや志村けんの時代を思い出す。あの笑いとあの隔たりの感覚が懐かしい。それはゆるやかさでもあった。
 笑いとは隔たりの感覚によって人を解放するものである。隔たりのある笑いがさらに遠ざかっていく。


2019年12月12日木曜日

チャペルアワー「やすかれ、わがこころよ」

 山梨英和大学にはチャペルアワーという時間が毎日ある。昨日12月11日、中村哲氏を追悼する礼拝が行われた。学生や教職員が数十名集まった。壇上の横には氏の写真が置かれていた。

 「讃美歌21」の532番『やすかれ、わがこころよ』がパイプオルガンで演奏され、皆で祈りを込めて歌った。「やすかれ、わがこころよ、なみかぜ猛るときも、恐れも悲しみをも みむねにすべて委ねん」という歌詞が胸に刻まれた。その後、ヨハネによる福音書12章24節「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」が朗読された。

 中村氏と親交があった宗教主任が、短い時間ではあったが、中村哲氏を追悼した。1987年の出会いの時には、中村氏は日本キリスト教海外医療協力会からパキスタンのペシャワールにある「ペシャワール・クリスチャン・ホスピタル」に派遣され、ハンセン病の治療のために働いていた。その後思うところがあって、ペシャワール会を立ち上げたそうである。8月の山梨英和130周年記念講演会のことも振り返った。

 ここ一週間ほど様々なメディアで報道された中村氏の言葉を読んできた。今日は二つの記事を紹介したい。一つ目は、日本での最後の講演となった11月19日北九州市での講演会の記事である(朝日新聞デジタル2019.12.5)。支援者が海外で受け入れられる要点という質問に対する中村氏の返答を引用する。


援助する側の『頭の高さ』が気づかずに出ることがある。それを取り除かないと相手の心は開かれない。地元の習慣や文化に偏見なく接すること、我々の物差しを一時捨てることが必要では。


 援助する側の『頭の高さ』を取り除くこと。我々の物差しを一時捨てること。特別な支援という状況だけではなく、どのような場面であっても、私たちが人と応対するときに心に刻み込むべき言葉であろう。生活でも仕事でも、「頭」を高くしないこと。このようなブログを書くときでも、そのことを戒めとしたい。
 そして、自分の「物差し」を時には捨て去って考えていくことも大切である。そのことも肝に銘じたい。考えるためには一つの「物差し」を作る必要があるが、時にはその「物差し」から離れる必要もある。ある物差しともう一つの物差し、さらに異なる他の物差し。それらの対話から考えることは展開していく。

  二つ目は、HUFFPOST(2019.12.7)に掲載された、世界的なロックバンド「U2」が5日、13年ぶりの来日公演で、アフガニスタンで銃撃され死亡した中村哲医師を追悼した、という記事である。以下引用する。


観客らが撮影したとみられるTwitterに投稿された動画によると、会場のさいたまスーパーアリーナは照明が落とされ、ボーカルのボノさんが「この会場を大聖堂に変えよう。携帯をキャンドルに変えよう」と呼びかけた。呼びかけに応じた観客が、スマートフォンのライトを点灯させ、無数の光が揺れた。(中略)
ボーカルのボノさんは5日のライブ中に「偉大な中村医師を追悼するひとときを持とう」「中村哲さんのために」と中村さんを追悼。ボノさんは、楽曲の合間にも何度も「テツ・ナカムラ」「ペシャワール会」と祈るようにつぶやいた。ライブでは、アメリカの公民権運動の指導者で、1968年に暗殺されたマーティン・ルーサー・キング牧師に捧げて作ったと言われる「プライド」も歌われた。「プライド」には「彼らは命を奪ったが、誇りまでは奪うことはできなかった」という歌詞がある。


 言うまでもなく、ロック音楽、ロック文化と60年代以降の欧米での反戦平和運動、現在に至る世界人権保護活動には密接な関係がある。ロックの根本にはそのような「志」がある。志村正彦は『東京、音楽、ロックンロール』(志村日記2008.01.25)で次のように述べている。


「ロック」…何それ。知らない。どーでもいい。から、しょうもないことをつらつら書きます。「ロック」とは、何かを打ち破ろうとする反骨精神、逆らうべきところは逆らうという精神じゃねえのかな~。でもこれ、さんざんみんな言ってるね。だから…分かりやすく例えるならば、PUNKSが頭を逆立てるのはロックなのであり、PUNKなのであります。なぜなら地球の重力に逆らっているから。


 「ロック」とは、何かを打ち破ろうとする反骨精神、逆らうべきところは逆らうという精神、という言葉は、志村らしくないようであるが、本質的にはきわめて志村らしい表現だと言える。彼の音楽は、日本語ロックの限界を打ち破ろうとする意志によるものだった。二十九年という短い生涯の中で「逆らうべきところは逆らう」姿勢で、彼は闘ったのである。

 志村正彦を追悼する番組が、明日12月13日、NHK甲府で放送される。その「ヤマナシ・クエスト 若者のすべて~フジファブリック志村正彦がのこしたもの~」という番組が今夜の甲府局「Newsかいドキ」で3分に及んで紹介された。没後十年、志村正彦がのこしたものを受けとめたい。

2019年12月8日日曜日

「平和を実現する人々は幸いである」

 今日は、中村哲氏の講演について書きたい。

 八月の最後の日、私は甲府で中村氏の講演を聴いた。勤め先の山梨英和大学の法人である山梨英和学院の130周年記念事業として、中村哲氏の講演会「平和を実現する人々は幸いである」が開催されたのである。山梨英和は、1889年、カナダの女性宣教師と甲府教会の信徒や地域の人々によって山梨英和女学校として設立された。今年、創立130年を迎えた。

 中村哲氏はキリスト教徒だった。本学の宗教主任と親交があり、一時帰国中の忙しいスケジュールにもかかわらず講演を快諾していただいた。

 講演会で中村氏は穏やかで落ち着いた語り口で自らの仕事を振り返りながら、農業用水路の灌漑事業、現地を尊重する支援のあり方、アフガニスタンの厳しい現実について二時間を超えて話しをされた。ところどころ写真や映像が映し出された。自ら重機を操って水路を作る姿。九州筑後川の山田堰の技術を用いた話。砂漠が緑豊かな風景に変わっていく映像。農地が生まれてくる過程は奇蹟のように感じた。

 中村氏の語りは心の中に深く染み込んでいった。職業のせいか講演や講義を聴く機会が多いが、内容は当然だが、それ以上に講演者の語り口や語る姿勢の方に関心を持つようになってきた。中村氏の語り口は、声高なところも気負ったところも全くなかった。実直でやわらかい口調が信頼の根底を築いていた。
 
 本学のギッシュ・ジョージ理事長・院長がHPに寄せた文書を引用させていただく。教職員を代表しての哀悼の言葉である。


中村哲先生のご逝去の報に接して心から哀悼の意を表します。
中村哲先生は去る8月31日の山梨英和学院創立130周年記念講演会の講師としてお招きしたばかりでした。中村哲先生は講演テーマであり創立130周年記念の標語でもある「平和を実現する人々は幸いである」(マタイによる福音書5章9節)の言葉をまさに体現する方でした。(中略)中村哲先生はご講演で、まだ仕事は途上であると語っておられたので、このような痛ましい形で天に召されることになり、どんなにか心残りであったと思います。しかし、「平和を実現する人々は幸いである」の言葉のとおり、アフガニスタンの地において数多くの「平和」を実現されて来られた中村哲先生のご生涯は、まことに幸いなご生涯であったと思います。
新約聖書ヨハネによる福音書12章24節には「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」とあります。先生を失ったことは大きな損失です。しかし、アフガニスタンにおける事業は残されたペシャワール会の方々と共に、現地のアフガニスタンの人々の手によって確実に継続されていくことでしょう。また、一方で、講演を聞き訃報を聞いた私たちは、各々働きの場、活動するフィールドは違っても、個々人が置かれた場所でどのように「平和」の実現を成し得るかを考えさせられる事となりました。その意味で私たちは中村先生の死を無駄にしてはならないと思います。(中略)
最後に、残されたご遺族とペシャワール会のご関係の皆様の深い悲しみが少しでも早く癒されることを心よりお祈りいたします。


 ギッシュ理事長は「中村哲先生のご生涯は、まことに幸いなご生涯であったと思います」と述べている。キリスト教の信者ではない私にはこの言葉の深い意味合いはまだ読みとれないが、それでも、「ご生涯は」の後に一度「、」という読点が打たれ、「まことに」と続いていく叙述については立ち止まって考えた。読点の後の一瞬の空白。そこにはあらゆる想い、祈りが込められている。そして「まことに幸いなご生涯」だという捉え方がキリスト教の神髄であることはこちらに伝わってくる。

 中村氏は「平和を実現する」ためには、ふつうの食事が得られること、家族が仲良く暮らせること、この二つがあればよいと語っていた。食料を得るための農業、そのための水路、というように実直に根本に向かっていった。先進的な技術や設備をただ与えるのではなく、現地の人が自力で工事したり補修できたりする伝統的な技術を伝えた。「平和を実現する」のは、思想や運動ではなく、ひとつひとつの行為の積み重ねであった。

 今日12月8日は、日本が太平洋戦争を始めた日である。今、私たちの国には、人々の尊厳を傷つける現実がある。人々を侮蔑する空気がある。生活を逼迫させる貧困がある。生きること、日常の平和が損なわれつつある。そのような現実に抗して、私の置かれている場所で、ひとつひとつの行為を積み重ねていきたい。


2019年7月21日日曜日

NHK『沁(し)みる夜汽車』

 昨夜、7月20日、BS1スペシャル『沁(し)みる夜汽車 2019夏』が放送された。NHKのwebで次のように紹介されている番組だ。

寝入りばなの一時、旅情ある夜行列車がゆく。鉄道にまつわる素敵なお話、心に染み入るエピソードを一日のおわりにお届け。出会い、別れ、日々の営み。鉄道はそれぞれの人生にとって大切な役割を担っている。その中でも、人々の心に“沁みる”物語を取り上げご紹介していく。番組は駅や路線にまつわる心温まるストーリー、本当にあった「沁みる話」を現場取材のドキュメンタリー部分と再現イメージで構成していく。

 制作者側から“沁みる”物語を強調されると、少し引いてしまう人が多いかもしれないが、この『沁(し)みる夜汽車』は僕のようなすれっからしの心にも沁みてきた。

 「沁」は常用外漢字なので「(し)みる」と読み仮名が当てられている。そのような表記を避けるために他の字で代用することをしないで、この「沁」の字をあくまで使ったことには意味がある。漢字の形はまさしく文字通りである。「氵」と「心」が織り込まれている。「氵」はそのまま「涙」と捉えてもいい。あるいは何か心の中で流れていくもの、静かに流動するものとも考えられる。なにかが心の中を流れていく。それが「沁みる」なにかなのだろう。

 昨夜の五つの物語はどれも素晴らしかったのだが、「親子をつなぐ鉄道画~西武鉄道~」「50歳からの再出発~紀州鉄道~」がとりわけ沁みてきた。ネタバレになってしまうので内容には触れないが、親と子のすれ違いの行方を追う物語であった。

 今回の番組は、4月に放送された『沁(し)みる夜汽車』の続編である。4月放送版の第1話は「49歳差の友情~JR中央線~」だった。5年前のJR中央線が舞台。山梨から東京に単身赴任してきた56歳の男性が、電車の中で具合が悪くなった小学1年生の男子を助けたことから交流が始まる。49歳の差を超えた不思議な友情の物語。あたたかくてやわらかなものが沁みてくる。

 題名に「夜汽車」とあるが、「夜汽車」が舞台となっているわけではない。タイトルバックなどの映像として流されていて、物語全体の象徴として使われている。その夜汽車のシーンを見ると、志村正彦・フジファブリックの『夜汽車』が僕の心の中で再生されてくる。


  長いトンネルを抜ける 見知らぬ街を進む
  夜は更けていく 明かりは徐々に少なくなる

  話し疲れたあなたは 眠りの森へ行く

  夜汽車が峠を越える頃 そっと
  静かにあなたに本当の事を言おう

 
 この歌についてはもう何度か書いてきた。新たに付加できることもないのだが、「FAB LIST I - 2004~2009」投票に関連して、歌の完璧な叙情性という観点からすると、『夜汽車』はベスト3に入る作品であろう。
 志村の歌う「夜汽車」の物語は、具体的な出来事としては語られることがない。「長いトンネル」「見知らぬ街」「夜」「明かり」「峠」と、通り過ぎる場と時が描かれるだけである。
 「眠りの森へ行く」「あなた」に「本当の事を言おう」とする歌の主体。主体の想いそのものが叙情に純化されて、聴く者に静かに届けられる。聴く者の心に沁みてくる。
 なにかが心の中を静かに深く流れていく。それが志村正彦の叙情である。


 BS1スペシャル『沁(し)みる夜汽車』はもともと一話10分の作品。昨夜は五本分まとめての総集編だった。明日7月22日午後10時40分から一話ずつNHKBS1で放送される。

2016年4月2日土曜日

最後の夕刊

 一昨日、最後の夕刊が届けられた。山梨県では「朝日新聞」の夕刊の配達が3月31日で終わりとなった。佐賀、大分に次いで3県目の終了となるそうだ。夕刊購読者の減少が直接の理由らしい。

 高校生の頃から、東京で暮らした時期も含めて四十年ほどの間、朝日の夕刊を読み続けてきた。朝食時に朝刊、夕食時に夕刊。習慣のリズムだった。これからもPC画面で「デジタル夕刊」を読むことはできるが、新聞紙という媒体ではもう読むことができない。さびしさがあるが、すぐに慣れてしまうのかもしれない。

 かつて朝日新聞の夕刊文化欄には、作家や研究者の質の高い寄稿が掲載されていた。しかし、十年ほど前から紙面の内容や構成が変わり、その魅力が失せてきた。時代や流行に迎合しすぎているように思えた。新聞は「新」聞ではあるが、むしろ紙と活字の媒体としての本質的な「古」さがその存在意義だということが理解されていない。

 インターネットの拡大が新聞の衰退を招いたと言われるが、それだけが原因ではない。朝日だけでなく他の全国紙や地方紙も軒並み、内容の水準が落ちている。読むに値する記事が減ってきた。教える仕事のために「教材」として目を通すこともあるが、使えるものが年々少なくなっている。逆説的だが、良い記事や寄稿に巡り合った時の価値は以前よりも増している。
 
 新聞記者も一般の人々も、ネットを情報源とする限り、情報の量と質はほぼ同一、等価になっている。もちろん記者は独自取材ができることが違うが、それがどこまで「独自」なのか、ほんとうに「取材」なのか、疑問に思うこともある。さらに踏みこんで言うと、思考や表現の質も似たような水準になってきたのではないか。わざわざ読むには値しないと判断されれば、読まなくなるのは自然の原理だ。

 今後、購読者が少ない県(山梨のように人口が少なく、経済力も弱い県)から次第に夕刊は終了となるだろう。最終的には、夕刊という制度そのものが終わりを迎える。宅配制度に支えられた朝刊はこれからも長い間存続するだろうが、その内容や形態は変革を余儀なくされる。おそらく現場の記者は相当な危機感を持っているだろう。

 これまで夕刊を我が家まで配達していただいた方々、長い間、ほんとうにありがとうございました。

2016年2月22日月曜日

Auf、解放の叫び。ー『新・映像の世紀』第5集

 昨夜、2月21日夜、NHKで放送された『新・映像の世紀』第5集の題名は『若者の反乱が世界に連鎖した』。60年代後半の若者の反乱やカウンターカルチャーの発掘映像が流れた。前半はどこかで見たことのあるような映像が多く、取り上げ方も紋切り型で期待はずれだった。ジャン・リュック・ゴダールがカンヌ映画祭開催の中止を要求する映像には惹きつけられたが。

 後半になって、ベルリンの壁崩壊に話題が移ると、その映像に釘付けになった。 1987年6月6日、デビッド・ボウイの西ベルリンでの野外コンサート。壁近くの共和国広場で開催されたライブの演奏とその状況を撮影した映像が放送されたのだ。数回前、このblogで言及したあの伝説的なコンサートの映像を見るのは初めてだった。4分ほどに編集されていたが、とても印象深いものだった。

 ボウイがドイツ語のMCで「今夜はみんなで幸せを祈ろう。壁の向こう側の友人たちのために」と語っていた。この場に最もふさわしい曲『ヒーローズ』が歌われていた。
 演奏の映像はほんの短いものだったが、東ベルリン側の様子を密かに撮影した映像が非常に貴重だった。ライブ数時間前のまだ明るい日中からブランデンブルク門近くに集まる若者たち。それを監視し警備する当局。ライブが始まる頃だろうか、夕暮れ近くになり、一人の男の叫ぶ大きな声が録音されていた。字幕では「ここから出せ!」と記されていたが、録画を再生すると、「Auf」と聞こえる。ブランデンブルク門の東側の広場に響く「Auf」。この短く鋭い言葉が耳に刻まれた。

 「Auf」の意味を辞書で調べてみてもしっくりとこない。妻の叔父はドイツで哲学を研究し、ドイツ人女性を伴侶としている。日本とドイツを行き来し、今は日本で暮らしている。時々、哲学や欧州の文化について教示してもらっている。そこで今夜電話して二人に「Auf」の意味を尋ねてみた。
 結論は、ブランデンブルク門、ベルリンの壁近くの場所であることを考慮すると、「門を開放しろ」「壁を解放しろ」という意味になるようだ。「Auf」には閉じられた門を開けるという用例があるそうだ。あの場所から数百メートル向こう側でボウイのコンサートは開催された。その東側にいた若者は、門を超えて壁を越えて、向こう側、西側にあるライブ会場に行きたいと叫んでいたことになる。
 ロックを聴くこと、ライブを見ることへの欲望、その自由を解放すること。「Auf」は「解放」への叫びだった。

 叔母によると、この出来事はドイツでは有名らしい。以前紹介した『朝日新聞』2016年1月24日付の記事には、〈「壁を倒せ」と叫ぶ若者が東独警察と衝突した、と当時の報道は伝える〉という説明があったが、そのような状況を裏付ける映像だった。このNHKの映像の出所は分からないが、貴重な発掘映像であることは間違いない。

 ブランデンブルク門周辺の画像を探してみた。wikipedeiaに壁建設中の1961年の写真が掲載されていた。

 ベルリンの壁建設(1961年秋) wikipediaより

  中央やや左にブランデンブルク門。その周辺を囲むように壁が建設されている。わかりやすく写真の左右で言うと、右側が西ベルリン、左側が東ベルリン。下側が北、上側が南だ。このフレームからすると、写真の撮影位置は西ベルリン側の国会議事堂(当時は議事堂としては使用されていないが)だろう。門の西側に広がるのはティーアガルテン公園。門の南側の広大な空地の奥の方がポツダム広場の跡だ。(今はここに「冨士山」を有するソニーセンターもある)
  ボウイのコンサート会場は、この写真の撮影位置が国会議事堂で正しいのなら、その前の広場になる。(この写真で言えば、フレームから外れた右下の場所になるだろうか)

 2000年の旅の際この辺りを歩いたのだが、国会議事堂の屋上にはドームができて、観光名所になっていた。裏側から上れないかと建物に入ろうとしたら警備員に注意された。結局上るのはあきらめたのだが、屋上ではこの写真のフレームに近い風景が眺められたのだろう。
 この写真が1961年、ボウイのライブは1987年、壁崩壊は1989年、ドイツ再統一は1990年。この場には、20世紀後半の歴史の記憶が渦巻いている。
 
 この番組には他に、1963年公民権運動の大集会でのボブ・ディラン、1967年ザ・ビートルズ“All You Need Is Love”のレコーディング風景などの貴重な映像もある。

 明日、火曜日の深夜[2月24日(水)00:10~01:00]再放送があるので、未見の方はご覧になられることをおすすめします。