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2021年11月21日日曜日

志村正彦の母校での講義 [志村正彦LN297]

 先週、志村正彦の母校の山梨県立吉田高等学校で、志村正彦の歌詞についての出張講義を行ってきた。担当の先生から山梨英和大学に直接の依頼があった(ロックの歌詞に関する私の講義を聴いた吉田高校出身の学生が、その内容を母校の先生に話してくれたことがきっかけになったそうである)。志村の母校からの依頼はとても嬉しかった。光栄でもある。そもそもフジファブリックは高校時代のバンドが元になっている。この高校での出会いや様々な経験は、志村正彦という人間の形成にとって重要なものとなった。

 この講義は、1学年の総合的な探究の時間「富士山学Ⅰ」、スポーツ・観光・国際・芸術文化・街づくり・防災の6分野の講座のうちの一つだった。今年度のテーマは「地域を知ろう!」。担当の先生の教科が音楽であり、芸術文化の分野だったことことから、富士吉田出身、吉田高校の卒業生である志村正彦がテーマとして選ばれた。

 担当の先生とメールや電話で打ち合わせをした。「若者のすべて」教科書採用の話題で盛り上がった。合唱部も指導していて、「若者のすべて」の四部合唱もすでに試みたそうである。来年度からの吉田高校の音楽の授業では、「若者のすべて」が重要な教材になることは間違いない。吉田高校でも志村正彦の知名度が上がり、関心が高くなっている。放送部でも志村に関する番組を制作したそうである。音楽の授業で「若者のすべて」を歌い奏でる。部活動で志村正彦を探究していく。吉田高校の今後の活動がとても楽しみである。

 当初はオンライン遠隔授業の予定だったが、山梨県ではコロナ感染者も激減していたので(最近は感染者ゼロが続いている)、高校での対面授業に変更することができた。せっかくの機会なので、私も担当の先生も対面の方が良いと判断した。

 生徒の事前アンケートが送られてきて、志村正彦の存在は知ってるが、その作品はあまり聴いたことがないということが分かった。昨年、山梨県内では、「若者のすべて」が「STAY HOME」のCMで繰り返し流されていたので、この曲は知っているようだった。この高校は進学校であり、富士吉田市以外の市町村からも入学してくる。そのような事情も影響しているかもしれない。

 今回の講義では、音楽の教材となる「若者のすべて」と共に、「富士山学」の「地域を知ろう!」というテーマから、富士北麓地域の風景や季節感とのつながりが深い四季盤の作品、「桜の季節」「陽炎」「赤黄色の金木犀」「銀河」も取り上げることにした。「志村正彦・フジファブリック-四季盤と「若者のすべて」の歌詞を読む-」というテーマを設定して、特に四季盤については新たにSLIDE資料32枚を作成した。授業時間は45分と短いので、その全てを講義することはできない。講義では要点を話し、SLIDEは印刷資料やpdfにして配付するように計画した。そのSLIDEの一枚を紹介したい。(ABCという記号は三項から成る構造の各要素を示している)



 四季盤の春夏秋冬は、〈桜→陽炎→金木犀→銀河〉と変化していく。その季節の舞台となっている場は、〈坂の下→路地裏→帰り道→丘〉と移動していく。志村は具体的な地名や場所を記してはいないが、富士吉田がその場としてあるいは原風景としてイメージされていることは確かであろう。今回、四季盤の曲を繰り返し聴いていくうちに、富士吉田という場の中で四季の変化と具体的な場所の移動が循環しているように感じた。そのような時と場の循環のなかで、歌の主体(僕)は、言葉では伝えることのできない想いを抱えている。そのような観点に基づいてSLIDE資料を構成した。「桜の季節」「陽炎」「赤黄色の金木犀」「銀河」の四つの作品の構造を個別に分析する資料を作成した。

 当日は甲府から車で吉田に向かった。あいにく富士山は雲に隠れていた。吉田高校は二十年ほど前に校舎が新築された。この校舎に入るのは初めてだった。その前の旧校舎で志村は学んでいた。三十年ほど前、僕の友人が吉田高校に勤めていたときに、旧校舎に一度だけ行ったことがある。そんなことも思い出した。

 受付を済ませ待機していると生徒が迎えに来てくれた。1年生の教室は四階にあった。廊下の窓から周辺の山々が見えた。ところどころ紅葉していて美しい。教室に入ると生徒でいっぱいだった。コロナ禍での外部講師による出張講義ということもあり、生徒はやや緊張している様子だ。教室の後に数名の先生もいらしたのでこちらも少し緊張する。

 プロジェクターでSLIDEを投映しながら、〈志村正彦は富士吉田の坂の下や路地裏や丘を繰り返し歩いたのだろう。帰り道は高校から自宅までの道のりかもしれない。そして、春に桜を見て、夏は陽炎が揺れ、秋の金木犀の香りに包まれ、冬は銀河のきらめく星を眺める。季節の移ろう中で歌の主体(僕)は、誰か大切な人に想いを伝えようとするのだが、言葉で伝えることは難しい。そのような高校時代の経験が四季盤の歌詞に反映されているのではないだろうか〉というように、生徒に直に語りかけた。

 いつも心がけていることだが、こういう講義の場合、私自身の歌の解釈を示すことは最小限にとどめている。歌詞を聴き、読む上で参考となる語り方の構造やモチーフの関係の分析と、作品についての志村の証言に限定している。歌の解釈は聴き手のものである。歌の意味は、歌い手と対話しながら、究極的には、一人ひとりの聴き手が作りだすものである。この講義は一つの参考資料にすぎない。生徒自身が志村正彦・フジファブリックの言葉と楽曲を経験して、その世界を味わって読みとってほしい。吉田高校の生徒にそのことを伝えたかった。

 吉田高校のHPの新着情報に、吉高フォトダイアリー(1学年総合的な探究の時間「富士山学Ⅰ」)という記事がUPされていた。当日のいろいろな分野の講義の写真が十数枚掲載されている。そのなかに、黒板に「ロックの詩人 志村正彦展」のポスターが小さくだがかすかに見えるものがある(SLIDEは文字と図が中心なので、このポスターを掲示していただいた)。ポスターの横で私が立っている。当日の雰囲気が伝わる大切な記念写真となった。

 2011年、当時勤めていた高校で志村正彦の歌詞の授業を始めた。ちょうど十年後に彼の母校で授業を行った。この間、勤務先の高校や大学でこのテーマの授業を続けてきた。今年はすでに三つの高校で出張講義をした。拙い講義を受講してくれた生徒・学生、そして高校・大学という場に感謝したい。あらためて十年という時の重みを想う。

 


2021年11月7日日曜日

〈消えないでよ 消えないでよ〉-「ペダル」と「自転車泥棒」[志村正彦LN296]

 2007年11月7日、「若者のすべて」「セレナーデ」「熊の惑星」の3曲を収録したフジファブリック10枚目のシングルCDがリリースされた。今日は14回目の誕生日。人間の成長に見立てれば「若者のすべて」も14歳になる。TEENAGERの真ん中の季節にたどりついた。

 「ペダル」を冒頭に置いたアルバム『TEENAGER』について、志村はこう述べている。(【フジファブリック】時間はかかってしまったけど 無駄なことはひとつもなかった OKMusic編集部    取材:岡本 明、2008年01月20日


中学生~?高校生のはちきれんばかりのパワーってあるじゃないですか。あの集中力に負けてはいけないと思ったんです。いろんなことを経験して、あの時とまったく同じことはできないけれど、これからも追い続けていくっていうことを象徴した曲が「TEENAGER」。アルバムもそうしたいと思ったんです。ロックをやる限り、永遠にロック少年でいたいという決意がありますから。26?27歳で少年というのもどうかと思いますけど(笑)、潔く言っちゃう。ジャケット写真は女の子がぶら下っていて、顔も引きつってる。それがロック。ロックの定義は重力に逆らうことなんです。丸くならないで尖っていたい、逆らい続けることがロックですから!


 同様のことが、『東京、音楽、ロックンロール』(志村日記)の「ジャケ深読み」(2008.01.25)にも書かれている。『TEENAGER』は、中学生から高校生そして大学生くらいまでの十代の若者、そして〈逆らい続けるロック〉をテーマとするコンセプトアルバムだと捉えられる。「ペダル」から最後の「TEENAGER」まで、歌詞の言葉にもゆるやかなつながりがある。志村は確固たるコンセプトを持ってこのアルバムを制作したのだろう。

 「ペダル」は、ユニコーンの「自転車泥棒」(作詞・作曲:手島いさむ)からの影響があると言われてきた。今回はその点について少し考察したい。まず「自転車泥棒」の歌詞を引用したい。


遠い昔 ふた月前の夏の日に
坂道を 滑り降りてく二人乗り
ずっとふざけたままで

手を離しても 一人で上手に乗れてた
いつのまにか 一人で上手に乗れてた

髪を切りすぎた君は 僕に八つ当たり
今は思い出の中で しかめつらしてるよ
膝をすりむいて泣いた 振りをして逃げた
とても暑過ぎた夏の 君は自転車泥棒

白い帽子 陽炎の中で揺れてる
いつのまにか 彼女は大人になってた

本気で追いかけたけど 僕は置いてけぼりさ
お気に入りの自転車は そのまま君のもの

髪を切りすぎた君は 僕に八つ当たり
今は思い出の中で しかめつらしてる しかめつらしてるよ
膝をすりむいて泣いた 振りをして逃げた
とても暑過ぎた夏の 君は自転車泥棒


 冒頭で〈遠い昔〉〈ふた月前の夏の日〉という二つの時が設定されている。この二つの時間の関係が読みとりにくいが、〈遠い昔〉という大きな枠組の中で、その昔のある現在時から〈ふた月前の夏の日〉という時、小さな枠組が設定されていると、とりあえず考えてみたい。その〈ふた月前の夏の日〉に、〈坂道を 滑り降りてく二人乗り〉の自転車に、〈僕〉と〈君〉が乗っていたのだろう。二人はおそらく十代の若者。しかし、その〈君〉は自転車泥棒のように〈僕〉から去って行く。〈いつのまにか 彼女は大人になってた〉とあり、まだ大人になりきれない〈僕〉とすでに大人になっていった〈彼女〉との擦れちがいを読みとれる。ここで〈君〉という二人称ではなく〈彼女〉という三人称になっていることに注目したい。その出来事を客観的に見つめる視線がある。この言葉は、作者がこの歌を作った現在の時点から語られているのだろう。十代の男女には、大人になるための時の進み方の差がある。〈本気で追いかけたけど 僕は置いてけぼりさ〉とあるように、たいていは男の方が置き去りにされる。作者はその時の光景を〈白い帽子 陽炎の中で揺れてる〉と描写し、回想している。〈自転車泥棒〉とは、投げやりで激しくもある言葉だが、やるせない切ない言葉でもある。突然、泥棒に奪われてしまうかのように、〈坂道を 滑り降りてく二人乗り〉の〈僕〉の大切な出来事が消えていく。二人の〈お気に入りの自転車は そのまま君のもの〉になってしまう。


 次に、「ペダル」(作詞・作曲:志村正彦)の歌詞を引用する。


だいだい色 そしてピンク 咲いている花が
まぶしいと感じるなんて しょうがないのかい?

平凡な日々にもちょっと好感を持って
毎回の景色にだって 愛着が湧いた

あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ

上空に線を描いた飛行機雲が
僕が向かう方向と垂直になった
だんだんと線がかすんで曲線になった

何軒か隣の犬が僕を見つけて
すり寄ってくるのはちょっと面倒だったり

あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ
駆け出した自転車は いつまでも 追いつけないよ

そういえばいつか語ってくれた話の
続きはこの間 人から聞いてしまったよ


 作品の全体としては、手島いさむの「自転車泥棒」と志村正彦の「ペダル」はそれぞれ固有の世界を表現している。明確な影響の関係はない。ただし、〈自転車〉とそれに関わる〈坂道〉〈滑り降りてく〉〈追いかけた〉という一連のモチーフが、潜在的な次元として何らかの影響を与えているかもしれない。むしろ、〈白い帽子 陽炎の中で揺れてる〉の表現が、別の曲ではあるが、あの「陽炎」(シングルおよび1stアルバム『フジファブリック』収録曲)の〈陽炎は揺れてる〉につながる。志村正彦は奥田民生から決定的な影響を受けたことを何度も語っているが、ユニコーンの他のメンバーによる作品からも影響を受けていると考えてもよいだろう。

 歌詞には、トポス(topos)としての言葉、定型的表現が多く含まれる。トポスは《場所》を意味するギリシア語由来の言葉。主題や論題のことだが、月並みな表現という意味もある。和歌の歌枕もある意味ではトポスである。季語にもトポスの性格がある。

 〈陽炎〉を一つのトポスとして捉えてみよう。日本語のロックやポップスの枠内で探しても、はっぴいえんど「花いちもんめ」(作詞:松本隆・作曲:鈴木茂)の〈おしゃれな風は花びらひらひら/陽炎の街/まるで花ばたけ〉、荒井由実「ひこうき雲」(作詞・作曲:荒井由実)の〈白い坂道が 空まで続いていた/ゆらゆらかげろうが あの子を包む〉などたくさん挙げることができる。〈陽炎〉は曖昧で不安な心象のトポスである。「自転車泥棒」の他の言葉では、〈坂道〉〈髪〉〈自転車〉〈帽子〉もトポスの言葉であり、数限りない用例がある。そのようなトポスとしての言葉をどのように表現するか。表現者が最も苦心するところだ。

 「自転車泥棒」は、〈坂道〉〈髪〉〈自転車〉〈帽子〉というようなトポスを歌詞の基盤に置いているが、〈遠い昔〉〈ふた月前の夏の日〉の二つの時間の設定、〈君〉〈彼女〉という人称の工夫や視点の転換によって、ロックの歌が陥りがちな定型性を免れている。優れた歌だと言えよう。〈自転車泥棒〉は苦いユーモアも含まれる巧みな比喩だが、結局、その比喩に〈僕〉の想いは回収される。〈僕〉と〈君〉の世界はそこにそのまま閉じられていく。

 「ペダル」も、〈僕〉と《君》(歌詞で明示されていないので《》を付す)の世界が根底にある。〈毎回の景色〉、〈花〉〈飛行機雲〉〈自転車〉などの《見えるもの》のなかで、《君》は歌詞の中の言葉としては登場しない。しかし、《君》という二人称は《見えないもの》として「ペダル」の世界に存在している。志村は《見えないもの》として描き出すことを意図したのではないだろうか。《見えるもの》のなかで《姿》としては描かれないものがほんとうに見たいものであり、《見えるもの》を通して《見えないもの》が浮かび上がってくる、というように。その《見えないもの》は《消えてしまうかもしれないもの》あるいは《消えてしまったもの》でもある。そして、それが〈消えないでよ 消えないでよ〉の対象となる。「自転車泥棒」とは異なり、〈僕〉と《君》の世界が過去の世界に閉じられることはない。〈駆け出した自転車は いつまでも 追いつけないよ〉というように、〈僕〉の想像力はいつまでもどこまでも追いつこうとしている。 〈消えないでよ〉と追い求めている。この想像力、繊細なものの見方、対象の多層的な現れ方が、作者志村正彦の個性である。トポスとしての言葉を独創的な表現へと変換している。

 最後の間奏の後の部分、手紙の「追伸」にあたるところの〈そういえばいつか語ってくれた話の/続きはこの間 人から聞いてしまったよ〉では、歌の主体である一人称の〈僕〉、〈いつか語ってくれた話〉を〈僕〉に話した二人称の存在(この人が《君》なのだろう)、〈僕〉がその話の〈続き〉を〈この間〉〈聞いてしまった〉当人である三人称の〈人〉、という三人の人間が関係している。ここにも複雑な人間の関係と場面の設定がある。志村正彦ならではの追伸だ。〈いつか語ってくれた話の/続き〉は〈消えないでよ〉と思わずにはいられない話だったのかもしれない。


 今回「ペダル」を聴き直す中で、〈消えないでよ〉は、アルバム『TEENAGER』全体を通したキーワードだと考えるようになった。冒頭に紹介した志村のコメントを受けとめるならば、まず第一に〈TEENAGER〉の世界そのものが〈消えないでよ〉の対象だが、〈逆らい続ける〉ロックもまた〈消えないでよ〉の対象だろう。アルバム全体という枠組ではなく、個々の作品、たとえば「若者のすべて」にも〈消えないでよ〉というキーワードが共鳴している。「最後の最後の花火」は消えてしまうものではあるが、〈消えないでよ〉と思い続ける光、その残像でもある。

 アルバム『TEENAGER』2曲目の「記念写真」には、〈記念の写真 撮って 僕らは さよなら/忘れられたなら その時はまた会える〉というユニコーンの「すばらしい日々」(作詞・作曲:奥田民生)を想わせるフレーズがあり、〈消えてしまう前に 心に詰め込んだ〉という一節がある。〈消えないでよ〉を反転させる〈消えてしまう〉というモチーフが歌われている。「若者のすべて」のカップリング、B面曲「セレナーデ」はアルバム『TEENAGER』には収録されなかったが、この時期のきわめて優れた作品である。歌詞の最後はこう結ばれる。


そろそろ 行かなきゃな お別れのセレナーデ
消えても 元通りになるだけなんだよ


 「セレナーデ」では、〈僕〉が〈君〉に〈消えても 元通りになるだけなんだよ〉と呼びかけるのだが、それはそのまま〈消えないでよ〉という言葉をこだまのように反響させる。そして、聴き手は〈消えないでよ〉を召喚するだろう。