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2021年4月30日金曜日

『桜並木、二つの傘』ABCDのかたち[志村正彦LN272]

 四月が終わる。今朝の朝日新聞「天声人語」では、北海道函館の五稜郭公園のソメイヨシノが盛りを迎えた、とあった。史上2番目の早さということだ。

 この園内1500本の大半は樹齢60年以上で衰えが目立ってきたので、昨年から「お礼肥(ごえ)」プロジェクトを始め、ボランティアを募って老木に肥料を挙げたそうだ。「桜が枯れた頃」とならないように桜を大切に養生する。記事は「今年の桜前線は列島を常ならぬ早足で駆け抜け、めでる余裕もなかった。来年こそは心穏やかに花の盛りを迎えたい。過度の負担を幹や根にかけぬよう気をつけながら」と結ばれていた。同感である。コロナ禍があり、桜を静かに眺めるという心のゆとりがもなかった。でも昨年も「来年こそは」という言葉が交わされていた気がする。ここ山梨の地元放送局テレビ山梨は、『若者のすべて』を音源にして「STAY HOME」のCMでそのようなメッセージを流していた。コロナ禍を含め、未来がきわめて不透明な時代だ。先が見通せない辛い現実がある。

 志村正彦・フジファブリックの『桜並木、二つの傘』のことを続けて書きたい。現代詩作家の荒川洋治は、『詩とことば』 (岩波現代文庫 2012.6、原著2004刊)で、詩の基本的なかたちを次のように示している。(p102)


 詩は、基本的に、次のようなかたちをしている。
    こんなことがある      A
  そして、こんなこともある  B
  あんなこともある!     C
  そんな ことなのか      D

 いわゆる起承転結である。Aを承けて、B。Cでは別のものを出し場面を転換。景色をひろげる。大きな景色に包まれたあとに、Dを出し、しめくくる。たいていの詩はこの順序で書かれる。あるいはこの順序の組み合わせ。はじまりと終わりをもつ表現はこの順序だと、読者はのみこみやすい。


 このABCDは確かに起承転結のかたちだが、それを〈こんなことがある→そして、こんなこともある→あんなこともある!→そんな ことなのか〉と述べているところが愉快だ。荒川洋治的な語り口がある。このABCDのかたちを志村正彦・フジファブリックの『桜並木、二つの傘』にあてはめてみよう。


1A あれはいつか かなり前に君を見たら 薄笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう
1B 偶然街で出会う二人 戸惑いながら 照れ笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう

1C 切り出しそうな僕に気付いたのなら 君から告げてはくれないのか
1D 降り出しそうな色した 午後の空が 二人の気持ちを映してるかのようで

2A されど 時が経てば覚めてしまうもので  そうなってはどうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう
2B 何か少し期待外れの部分見つけ 膨らんではどうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう

2C 解りきった会話続くわけもない 苛立つ僕はタバコに火をつけ
2D 強く降り出した通り雨の音 二人の沈黙を少し和らげた

3C DO DA DO DA DI VA DA VA DO DA 最後に出かけないか
3D 桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト

*リフレインの部分は省略


〈A こんなことがある〉
1A あれはいつか かなり前に君を見たら 薄笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう
2A されど 時が経てば覚めてしまうもので  そうなってはどうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう

〈B そして、こんなこともある〉
1B 偶然街で出会う二人 戸惑いながら 照れ笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう
2B 何か少し期待外れの部分見つけ 膨らんではどうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう

〈C あんなこともある!〉
1C 切り出しそうな僕に気付いたのなら 君から告げてはくれないのか
2C 解りきった会話続くわけもない 苛立つ僕はタバコに火をつけ
3C DO DA DO DA DI VA DA VA DO DA 最後に出かけないか


〈D そんな ことなのか〉 
1D 降り出しそうな色した 午後の空が 二人の気持ちを映してるかのようで
2D 強く降り出した通り雨の音 二人の沈黙を少し和らげた
3D 桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト


 三つのブロックがあるので、1,2,3の番号を付けた上でABCDに分けて靑色の字で示した。3にはABがなくCDのみがあると考えた(分け方はいろいろあるだろうが)。それをABCD別に再配置したのが赤字の部分である。

 そうするとこの歌詞も、荒川洋治の言う「ABCD」の基本的かたち、起承転結の構成を持つことが分かる。1と2のABは、過去や現在の状況をめぐる「何故なのだろう」という問いかけである。123のCでは、「僕」は別れを「君から告げてはくれないのか」と思い、「会話」が続くわけもないので「僕」は苛立ちタバコに火をつける。スキャットを挟んで、「最後に出かけないか」と「君」を誘う。3は明らかに転換の箇所である。そして物語の中の行動の箇所である。「僕」は苛立ち、そして急いでいる。123のDは、空・雨・桜並木というように、気候や季節の感触を活かして「二人」の情景を描いている。天気が「降り出しそうな色した 午後の空」から「強く降り出した通り雨の音」へと移ると共に、「二人の沈黙」が少し和らいでいく。空と雨に呼び込まれるようにして、「傘」のモチーフが現れる。そして、「桜並木」はこの歌詞全体の終わりの舞台として登場する。「桜並木と二つの傘」の姿と色が「きれいにコントラスト」をなすことでこの歌詞はエンディングを迎える。

 この『桜並木、二つの傘』では、志村正彦はサウンドに急き立てられるかのよう歌う。自分で自分の言葉を追いかける。そして、「二人」の物語を語るというよりもむしろ語らないままで追い越してしまう。この歌には、ABCDという起承転結のかたちはあるのだが、ほとんどかたちだけであり、具体的な物語は浮かび上がらない。

 志村は物語を置き去りにしてまで、「桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト」という情景へ疾走したかったのだろうか。

 『桜の季節』では、「桜が枯れた頃」という遠い時間が設定されていた。桜をめぐる循環した時間があった。その時間の中で「遠くの町に行くのかい?」「その町に くりだしてみるのもいい」という「町」がそこにはあった。その町にはそれなりに自然の景観が広がっている。そんな雰囲気がある。それに対して『桜並木、二つの傘』の場は、「町」というよりも「街」のように感じる。それも都会の街であり、街の桜並木だろう。時間もせわしく流れている。

 『桜並木、二つの傘』と『桜の季節』。志村正彦の二つの桜の歌は、時と場が、きれいにコントラストをなしている。


2021年4月25日日曜日

『桜並木、二つの傘』[志村正彦LN271]

  甲府では桜の季節はとうに過ぎ去ったが、今回から、志村正彦・フジファブリックの『桜並木、二つの傘』について書いてみたい。

 この作品は、2002年10月21日リリースのフジファブリックの1stミニアルバム『アラカルト』に収録された。その後、2004年4月14日、1stシングル『桜の季節』のカップリングとしてリメイクされた。この二つの曲にはアレンジや演奏の違いがあり、聞き比べるのも興味深い。

 他の四季盤のA面とB面(メインとカップリング)の曲が、テーマが明確に異なるのに対して、この春盤では、「桜」というテーマが一致している、しかも「別れ」というモチーフまでも共通している。なぜこのような組合せにしたのか。それこそ、この歌の一節「何故なのだろう」という気分である。あえて言うのなら、同一のテーマとモチーフによって、『桜並木、二つの傘』の一節で言うのなら「きれいにコントラスト」を作ったのだろうか。

 フジファブリック Official Channel に『アラカルト』の音源がある。これはありがたい。Vo./Gt. 志村正彦、Gt. 萩原彰人、Ba. 加藤雄一、Key.  田所幸子、Dr. 渡辺隆之の編成によるインディーズ時代の通称「第2期フジファブリック」の録音。その後のメジャーデビュー時のフジファブリックでは失われた独特のグルーブ感がある。志村の声も若々しい。

 桜並木、二つの傘 · FUJIFABRIC アラカルト

℗ 2002 Song-Crux Released on: 2002-10-21
Lyricist: Masahiko Shimura Composer: Masahiko Shimura


 

歌詞の全文を引用しよう。


 桜並木、二つの傘
 作詞・作曲:志村正彦

あれはいつか かなり前に君を見たら
薄笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう
偶然街で出会う二人 戸惑いながら
照れ笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう

切り出しそうな僕に気付いたのなら
君から告げてはくれないのか
降り出しそうな色した 午後の空が
二人の気持ちを映してるかのようで

されど 時が経てば覚めてしまうもので
そうなってはどうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう
何か少し期待外れの部分見つけ
膨らんではどうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう

解りきった会話続くわけもない
苛立つ僕はタバコに火をつけ
強く降り出した通り雨の音
二人の沈黙を少し和らげた

DO DA DO DA DI VA DA VA DO DA
最後に出かけないか 桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト

切り出しそうな僕に気付いたのなら
君から告げてはくれないのか
降り出しそうな色した 午後の空が
二人の気持ちを映してるかのようで

DO DA DO DA DI VA DA VA DO DA
最後に出かけないか 桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト
DO DA DO DA DI VA DA VA DO DA
最後に出かけないか 桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト

AH〜


 1番目のブロック。冒頭の「あれはいつか かなり前に君を見たら」という一節。「あれはいつか かなり前に」という過去の時間設定。それに続いて、「君を見たら」という過去における出来事の仮定というのか、ある種の提示があり、それに対して「薄笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無いのは 何故なのだろう」という帰結がある。「あれはいつか かなり前に君を見た時に 薄笑いを浮かべて 相手が気になり仕方が無かったのは 何故なのだろう」が通常の表現だろう。この表現であれば、過去の回想と現在の「何故なのだろう」という問いかけがきっちりと分離されている。しかし、志村正彦の選択した表現は、時間にも構文にも、奇妙なねじれがある。ある意図が込められたのだろうが、それは判然としない。続く「偶然街で出会う二人 戸惑いながら」の「偶然」「戸惑いながら」という状況との関係から選択されたのだろうか。このあたりの表現の機微は、志村正彦的なあまりに志村正彦的な、とでも言うしかない。そして「薄笑い」にしろ「照れ笑い」にしろ、自分が自分を笑う。そのような位置の取り方をしている。

 2番目のブロックには、「切り出しそうな僕に気付いたのなら/君から告げてはくれないのか/降り出しそうな色した 午後の空が/二人の気持ちを映してるかのようで」とあり、「僕」「君」「二人」という人称代名詞やそれに類する言葉が出そろう。「僕」は「君」に対して、「切り出しそうな僕に気付いたのなら」「君から告げてはくれないのか」と心の中で呟く。ここでも「たのなら」「てはくれないのか」という仮定とその帰結という形式を取っている。「降り出しそうな色した 午後の空が/二人の気持ちを映してるかのようで」とあり、雨が降り出しそうな午後の空の色が描かれる。その色は「二人の気持ちを映してるかのようで」と捉えられるが、「かのようで」とあることから、歌の主体「僕」があたかもこの場面の外側にいて、その外側の視点から、「空の色」と「二人の気持ち」を「かのようで」で接続していると受けとめられる。つまり、「僕」と「君」が居合わせる「二人」の場と、それを眺める「僕」との間には、分離、隔たりがある。「二人」の場面をカメラのフレーム、枠組みの中に収めている「僕」がいる。「僕」はそのフレームの向こう側とこちら側の両方にいる。冒頭の時間と構文のねじれようなものは、このことに起因しているのかもしれない。

 3番目のブロックは、「されど」で始まる。ここで「僕」の想いの方へと焦点が当てられていく。歌の物語の転換である。「時が経てば覚めてしまうもので」「何か少し期待外れの部分見つけ」という「二人」の関係の変化。そのようにして「どうにもこうにもならなくなってしまうのは 何故なのだろう」と、自分が自分に問いかける。

 4番目のブロックで、一連の出来事がひとまずの収束を迎える。「解りきった会話続くわけもない/苛立つ僕はタバコに火をつけ」と、志村正彦の歌詞では珍しい「苛立つ」という直接的な感情表現がある。その感情は、「強く降り出した通り雨の音」によって少し鎮められたのだろうか。通り雨の「音」が「二人の沈黙を少し和らげた」とある。「降り出しそうな色した 午後の空」から「強く降り出した通り雨の音」への空模様の変化は、時間の進行を示している。

 5番目のブロック、サビの「DO DA DO DA DI VA DA VA DO DA/最後に出かけないか 桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト」は「僕」の内心の呟きというか静かな叫びなのだろう。「通り雨の音」と「二人の沈黙」の音をめぐるコントラストが、二人のいる室内にある。そこから外に出ることを「僕」は想像している。「最後に出かけないか」と「僕」は「君」を誘う。おそらく「二人」の別れの場面だろう。でもこの歌の中で、そこに到る物語が語られることはない。物語は覚めてしまって、期待外れに終わっている。「僕」の心の中には「桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト」という「最後」の情景が浮かび上がる。これははあくまでも僕が想像している光景である。その光景はあくまでも「きれいにコントラスト」を成していなければならない。そうでなければ、「二人」の物語の「最後」の光景が完結しないかのように。

 『桜並木、二つの傘』は、本編の物語がほとんど欠落している。(あるいは隠されていると言うべきかもしれないが)「桜並木と二つの傘が きれいにコントラスト」を成すラストシーンだけが上映される短編映画のような作品である。そのラストシーンへの展開、時間の凝縮の仕方が、志村正彦の語りの技術でもある。

      (この項続く)


2021年4月11日日曜日

奥田民生『拳を天につき上げろ』『すばらしい日々』

 奥田民生MTR&Yの山梨公演の収録映像が、「RAMEN CURRY MUSIC RECORDS」のyoutubeチャンネルに載せられている。オープニング曲『拳を天につき上げろ』だ。


 奥田民生 - 拳を天につき上げろ  Live at YCC県民文化ホール(山梨) 2021.1.31



 

    拳を天につき上げろ       作詞・作曲:奥田民生
   
              雨も日差しも とけてながれた
              今日の時間を 振り返っている
              失敗の 場面を なげき
              因憊の 体を ほめる

              誰か見てるか 誰も見てない
              誰かが見てるさ かくれて見てるさ
              いっぱいの 期待をあつめ
              心配の 元をたつのさ

              カンパイ 拳をつき上げて
              カンパイ カンパイ 言いたい事はそれだけ

              闇と光と かわりばんこさ
              闇も光も 泡にまみれた

              カンパイ 夜空の星に向け
              カンパイ カンパイ 言いたい事はそれだけ

              カンパイ 拳をつき上げて
              カンパイ カンパイ ただそれだけ
              カンパイ 夜空の星に向け
              カンパイ カンパイ 言いたい事はそれだけ


 『拳を天につき上げろ』は労働歌だ。聴き手の喉の渇きを潤すかのように、歌が体に染み込んでくる。

 一日を振り返り、失敗をなげく。誰も見てないようで、誰かがかくれて見てる。時間も視線も追いかけてくる。そんな働く男や女に、歌い手は〈カンパイ 拳をつき上げて〉と呼びかける。疲労困憊の体がほぐされ、心配の元がうすめられていく。毎日、〈闇と光〉は〈かわりばんこ〉に現れる。働く者の実感だ。〈カンパイ〉の〈泡〉にまみれて、闇が光になる。時には光が闇になるのだろうが、それでも〈夜空の星〉、闇の中の光に向けて〈カンパイ カンパイ〉と奥田民生は歌う。

 〈失敗〉〈困憊〉〈いっぱい〉〈心配〉そして〈カンパイ〉と韻を踏んだキーワードが物語の情景を織りなす。聴き手は「コール・アンド・レスポンス」のようにして、歌い手に応答するのがよいかもしれない。〈言いたい事はそれだけ〉なのだから。

 ユニコーン初期の傑作『大迷惑』『働く男』『ヒゲとボイン』そして『すばらしい日々』も労働歌、労働者ロックだ。『拳を天につき上げろ』もその系譜に属している。この歌は2012年1月リリース。サッポロビールの企業CMタイアップ曲だったようだ。タイアップという枠組の中で労働歌を作る。奥田民生らしい拳の挙げ方だ。初期の歌とは異なり、この歌にはある種の諦念があるが、これは成熟とも言えるのだろう。

 MTR&Yバンド。ボーカル&ギター奥田民生・ベース小原礼・キーボード斎藤有太・ドラム湊雅史のユニットの音はとても心地よい。2021年の今、ここではロックが生き生きと呼吸している。


 もう一つ、最近のライブ映像を紹介したい。

奥田民生 - すばらしい日々(UNICORN)  I Live at Zepp Tokyo 2020.11.25



 奥田民生ライブツアー 『ひとり股旅 2020』Zepp Tokyoのツアーファイナル公演の映像である。一人で歌うのとバンドで歌うのとは印象がまったく異なる、不思議なほどに。なぜだろう。

 55歳になった奥田民生の『すばらしい日々』は、歌詞そのものは同じだが、その独特な時間の感覚が以前よりも凝縮されている気がする。


  なつかしい歌も笑い顔も すべてを捨てて僕は生きてる

  それでも君を思い出せば そんな時は何もせずに眠る眠る

  朝も夜も歌いながら 時々はぼんやり考える

  君は僕を忘れるから そうすればもうすぐに君に会いに行ける


 繰り返しになるが、彼の歌は時間の捉え方が独特だ。〈そんな時は何もせずに〉〈時々はぼんやり〉と、時という言葉が繰り返される。時を加速させたり、静止させたり、振り返ったり、解き放ったりして、時が動いていく。時が進むのも戻るのも、忘れるのも想いだすのも、別離も再会も、『拳を天につき上げろ』の一節で言うなら、どれも〈かわりばんこさ〉と囁くかのように。


2021年4月4日日曜日

『桜の季節』-奥田民生と志村正彦[志村正彦LN270]

 今年の桜の季節の到来は早かった。その割りには長い間、花が保たれていた。2日、大学の入学式があった。昨年度は中止だったが、今年は時間をかなり短縮して挙行された。大学の周りには美しい桜の並木がある。すでに満開は過ぎていたが、幸い、花は新入生を待っていてくれた。帰る頃には、風に吹かれて、桜が舞い散り始めていた。キャンパスの小さな池に花筏のように広がっていた。

 奥田民生・ユニコーンの「すばらしい日々」のことを続けて書いていきたい。


  君は僕を忘れるから その頃にはすぐに君に会いに行ける

  君は僕を忘れるから そうすればもうすぐに君に会いに行ける


 「君は僕を忘れるから」という出来事、未来の状況が想定される。その未来の時点を「その頃」と指し示した上で「その頃にはすぐに」、あるいは「そうすれば」という未来の仮定のもとに「そうすればもうすぐに」、「君に会いに行ける」という帰結を述べる。

 時間の配列が独特だ。未来の状況、未来の時点から、すべてを振り返る。逆向きに現在に帰着する。そうして、その現在から未来の可能性、「君に会いに行ける」という未来の出来事を語っていく。願いのように、あるいは予言のようにして。

 そのような時間の捉え方が奥田民生の時へのまなざしである。「君」との別離をめぐるモチーフが、時の流れ方のモチーフと絡み合い、複雑な情感を伝えていく。


 今回、この歌を久しぶりに聴いて、志村正彦・フジファブリックの『桜の季節』の時間の設定と語り方が思い浮かんできた。


  桜の季節過ぎたら 遠くの町に行くのかい

  桜のように舞い散って しまうのならばやるせない


  その町に くりだしてみるのもいい

  桜が枯れた頃 桜が枯れた頃

 

 この歌の時間の捉え方についてはすでに、〈「桜が枯れた頃」 -CD『フジファブリック』6 [志村正彦LN73]〉2014/3/16 に書いた。そのまま引用してみたい。

桜が花を咲かせる時ではない。桜の花が散る時でもない。桜の季節自体が過ぎてしまうという時の設定は、普通の桜の歌にはありえない。時間の捉え方が独創的だ。「桜の季節」「過ぎたら」、その未来に設定された時間の中で、主体は誰とも分からない他者に対して、「遠くの町」に「行くのかい?」と問いかける。そして、歌の主体「僕」は「やるせない」とも感じる。この感情は、「桜のように舞い散って」「しまうのならば」という未来の時間においてのある仮定を先取りする形で、歌の主体に訪れる。

 第3ブロックに入ると、歌の主体「僕」の相手である他者が「行く」「遠くの町」に「くりだしてみるのもいい」という、やはり未来の時間が仮定されているが、それは「桜が枯れた頃」という季節だ。この楽曲で最終的に歌われているのは、「桜が枯れた頃」、その季節の風景だ。その解釈は難しい。桜の「冬枯れ」の季節なのか、桜の樹そのものの「枯死」を迎える季節なのか。どちらにしろ、「桜が枯れた頃」の情景には、桜の「死」が濃厚に漂う。おそらく、「桜が枯れた頃」に「その町」に「くりだしてみる」のは不可能なのだ。すべては遅すぎる。歌の主体は「その町」にたどりつくことはできない。歌の主体は「その町」に住む他者と再び会うことはない。


 これを書いた時点では、奥田民生『すばらしい日々』のことはまったく視野に入らなかった。ある歌とある歌とが響き合うことは、いきなり訪れてくる。

 「君は僕を忘れるから その頃にはすぐに君に会いに行ける」と歌う奥田。「桜が枯れた頃」「その町に くりだしてみるのもいい」と歌う志村。

 君が僕を忘れる頃も、桜が枯れた頃も、これから過ぎ去っていく時間を前提にしている。そうしてその未来のある時点で、「君に会いに行ける」、「その町に くりだしてみるのもいい」とする。ただし、「行ける」は可能性、「みるのもいい」も選択の可能性だ。成就するかどうかは分からない。未来の出来事を想定して、そこから遡行して、現在の想い、未来の出来事への想いが歌われるのだが、その想いの成就はあくまでも可能性に留まる。錯綜するような語り方である。随分と迂回するような想いでもある。『すばらしい日々』と『桜の季節』との間に直接的な関係があるわけではないだろうが、奥田民生と志村正彦との間には、その独特な語り方と想いのあり方が共鳴し合っている。


 奥田民生(RAMEN CURRY MUSIC RECORDS)のyoutubeチャンネルに、彼が歌う『桜の季節』がある。



 2004年10月30日、広島で行ったライブ『ひとり股旅スペシャル@広島市民球場』収録の映像である。この時、奥田民生は39歳になっていた。(現在、このDVDは [SING for ONE ~Best Live Selection~] (期間生産限定盤) の一つとして廉価版で販売されている)

 この映像は画質と音声がとてもクリアだ。奥田「ひとり」の声が、広島市民球場にのびやかに広がっていく。興味深いのは、「坂の下 手を振り 別れを告げる/車は消えて行く/そして追いかけていく/諦め立ち尽くす/心に決めたよ」というブロックが歌われていないことだ。別離の描写のシーンだが、あえて歌わなかったのかもしれない。

 当日、志村正彦は現地にいて、奥田民生が歌う『桜の季節』を聴いていた。現実の出来事として、『桜の季節』という歌を媒介にして、志村正彦と奥田民生とが共鳴し合った。


2021年4月3日土曜日

ユニコーン「すばらしい日々」/1993年8月 CSA改めSMAちゃん祭り

 1月31日の奥田民生甲府公演<MTRY TOUR 2021>の生配信ライブについて以前書いたが、そのレポートが「DI:GA ONLINE」に載っていた。タイトルは〈奥田民生、3年ぶりのバンドツアー「MTRY TOUR 2021」がスタート!ツアー初日をレポ〉、取材・文は兵庫慎司。志村正彦やフジファブリックについての記事をたくさん書いているライターだ。こうしたレポートを読むと、記憶に刻まれやすくなる。

 僕が初めて奥田民生・ユニコーンのライブを見たのは、1993年8月1日、富士急ハイランド・コニファーフォレストで開催された「サウンドコニファー229 CSA改めSMAちゃん祭り1993」だった。「サウンドコニファー229」は富士急行グループ主催の野外フェスティバル、SMAはSony Music Artistsの略称。この日はユニコーンを中心とするSMA所属バンドのフェスとなった。この年の9月、ユニコーンの解散が発表されたので(その後再結成されているので、最初の解散と言うべきか)、その一月ほど前の貴重なライブとなった。

 30年近く前のことなので、記憶はすでにかなり失われている。ネットで調べたがあまり情報がない。どうしたものかと思っていたところ、「ロケンローラーはお熱いのがお好き?/CSA改めSMAちゃん祭り1993●夏」(「ARENA37℃」1993年10月号臨時増刊号、音楽専科社)という雑誌が見つかったので、早速注文した。表紙の写真には90年代前半の雰囲気が濃厚にある。本文を読んでいくと、当日の断片のようなシーンがいくつか浮かんできた。



 甲府から車で出かけた。とにかく暑い日だった。富士北麓とは思えないくらいに日光がとても強かった。暑さでクラクラするなかで、富士急の会場には爆音が響いていた。出演者は、Dr.StrangeLove、真心ブラザーズ、SPARKS GO GO、すかんち、ユニコーン、そして全員によるセッション。この順でステージに立った。

 ユニコーンの演奏曲は次の通りだ。

  おかしな雪が降レゲエ町
  あやかりたい'65
  時には服のない子のように
  薔薇と憂鬱
  裸の王様
  感謝ロック
  すばらしい日々
  大迷惑


 僕のお目当ての曲は「すばらしい日々」だった。この年、1993年4月リリース。この曲の歌詞は、それまでの日本語ロックにはない世界を創り上げていた。奥田民生の言葉の才能は抜きん出ていた。演奏されることを期待して行ったのだが、それは叶った。富士急という会場でこの歌を生で聴くことができ、僕にとってすばらしい日となった。

 付言すると、この2年後の1995年8月19日、同じ会場の「SOUND CONIFER 229 エレキな若大将たち! 」で、志村正彦は奥田民生の音楽に遭遇した。

 当時のミュージックビデオである。



    

        すばらしい日々  作詞・作曲:奥田民生


  僕らは離ればなれ たまに会っても話題がない
  いっしょにいたいけれど とにかく時間がたりない
  人がいないとこに行こう 休みがとれたら
  いつの間にか僕らも 若いつもりが年をとった
  暗い話にばかり やたらくわしくなったもんだ
  それぞれ二人忙しく汗かいて

  すばらしい日々だ 力あふれ すべてを捨てて僕は生きてる
  君は僕を忘れるから その頃にはすぐに君に会いに行ける

  なつかしい歌も笑い顔も すべてを捨てて僕は生きてる
  それでも君を思い出せば そんな時は何もせずに眠る眠る
  朝も夜も歌いながら 時々はぼんやり考える
  君は僕を忘れるから そうすればもうすぐに君に会いに行ける


 君は僕を忘れる。君の中で僕が忘却される。そして、君の中で僕が不在になる。どれほどの時が流れるのだろうか。ようやく、「その頃」という時にたどりつく。その時が到来すれば、僕は「すぐに君に会いに行ける」。

 「君」の中で「僕」が不在になり、その不在が行き渡ることによって初めて、僕は君と再会できる。その時、その不在はひとつの在へと変わるのだろうか。その時間の歩みは「すばらしい日々」となるのだろうか。

 不可思議な世界と時間を創り出したこの歌の魅力は、三十年近い時が経った今日でも失われていない。