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2014年5月25日日曜日

「角」の原風景 [志村正彦 LN84]

 
 昨日、富士吉田に行って来た。5月上旬に続いて、今月は2度目となる。
 天気が良く、初夏を思わせる気候。通り抜ける風がさわやかだ。日に日に、富士山の雪解けも進んでいる。

 数日前の地元ニュースで、山梨を訪れた外国人観光客が前年より34・5%増え、その理由の半数近くが富士山の世界文化遺産登録だったことが伝えられた。確かに、河口湖から富士吉田へと向かう途中で、外国人の姿をたくさん見かけた。アジア諸国の若者が多い印象だ。観光は山梨の大切な資源であり、産業でもある。観光という形であっても、人々の交流が進むのは大歓迎だ。

 昨日の目的のひとつは「志村正彦を巡る小さな小さな旅」。今までも何度か訪れたことはあるのだが、今回は志村正彦が中学生の頃まで暮らしていた実家跡を起点として、幼少年期から小学校中学校までのゆかりの場をたどっていくという道筋を選んだ。彼の視線から見える風景を再体験する旅、最近の言葉で言い換えるなら「志村正彦フットパス」とで言える試みだ。

 彼の通った保育園、小学校、神社、路地と路地裏。
 小学校の校庭。野球団に入りたくてたまらない少年がそこから一人で寂しそうに眺めていたという石段。そこに座り、前方を眺める。細長いグランド、白線、向こう側には小室浅間神社の樹木が並ぶ。友達とよくその境内で遊んだらしい。

 『陽炎』の舞台となった駄菓子屋跡。細い路地が続く。直線は少なく、微妙に折れ曲がった道筋。路地の角が視界をふさぐ。角を曲がると新たな風景が開けてくる。振り返ると、それまでの風景は消えていく。幾分か、迷路を歩いているような感覚にとらわれる。富士の裾野のなだらかな斜面、北側の山々からの斜面と、傾斜がゆるやかに続くことも、この路地の形を複雑にしている。

 「角」が歩行にリズムを与える。『ペダル』の一節、「あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ」を想いだす。消えないでよと望む対象と自分自身を隔てるものとしての「角」。この町並そのものに、「角」のモチーフが隠されている。

 しばらく歩く。路地の薄暗がりを抜けると、小さな橋と川に遭遇する。陽の光が射し込み、川辺の緑がまぶしい。遠く山の稜線。時には富士山の一部が視界に入る。路地の壁と壁の間に切り取られた富士山。この界隈ならではの富士の姿だろう。

  原風景としての「角」。下吉田、月江寺界隈の路地では、「角」を起点として、それまでとは異なる小さな小さな世界が連続して出現する。同じようでどこかが違う路地。川、池、山、空の自然の風景。断片としての富士。灰、青、緑、茜、色調の変化。風景が転換し、風景の複雑なファブリックが形作られる。

 多種多様な「転調」が志村正彦の楽曲の特徴だと言われている。転調や変拍子の多用はプログレッシブロックの手法だ。彼もプログレやその他の音楽の転調の手法を学んで作曲したのだろう。
 しかし、そもそもの感性のあり方としても、彼は曲調の複雑な変化を好んだのではないのか。幼少年期の風景は、人の感性に強い影響を与える。

 彼の場合、それは楽曲だけにとどまらず、言葉の選択、物語の話法にも及んでいる。楽曲と言葉の転換が微妙に絡み合いながら、あの独特の詩的世界が立ち現れる。志村正彦の原風景をたどるとそのような仮説が浮かんでくる。

2014年5月20日火曜日

反響-4/13上映會6 [志村正彦LN 83]

 上映會から一月以上経つ。このレポートも今回で完結としたい。

 4月13日は、穏やかな日和ではあったが、風にはまだ少し寒さが残っていた。この頃の風には寒さはもう無くなり、爽やかさがある。風の感触、風そのものの「風合い」が季節の実感を伝え、すでに初夏を思わせる気候となっている。『桜の季節』から『陽炎』へと、季節が歩み始めている。甲府盆地から見る富士山も雪解けが進み、夏の山へと姿を変えつつある。

 あの日、富士吉田に集った800人ほどの人々は、何を心に刻み、各々帰途へついたのだろうか。少数の知人を除くとすべて見知らぬ人々。言葉を交わすこともなく、ただ眺めるに過ぎない人々。でもなんだか、志村正彦・フジファブリックを中心とする「聴き手の共同体」の一員として、仲間意識のようなものも芽生えた。おそらく、皆、一生、志村正彦・フジファブリックを聴いていくのではないだろうかという確信と共に。

 当日夜、NHK甲府のローカル・ニュースが、「フジファブリックライブ映像上映」と題して1分半ほど取り上げていた。「志村さんにとって最初で最後の凱旋ライブ」と紹介され、『桜の季節』のシーン、展示会の様子、二人の女性のコメントが放送された。(昨年の「がんばる甲州人」の志村特集と同様、NHK甲府の報道は有り難い)

  2008年のライブも見ていたという方は、「この会場でもう一回見ることができたのが本当にうれしくて」と述べた。もう一人の方は「大切に大切に大切に聴いていきたいと思います」と話していた。「もう一回見る」ことのできた有り難さ、嬉しさ、そして「大切に」を三度繰り返した想いは、あの日に集った皆が共有するものだろう。

 5月4日付の山梨日日新聞では、沢登雄太記者が「フジファブリック故志村正彦 故郷でライブ上映 ほとばしる情熱”再燃”」と題する記事を書き、「志村がステージにいて、バックスクリーンに彼が映っているのかと錯覚してしまうほどだった」と記していた。ある女性の「志村君はいないけど、いる」というコメントも載せられていた。「いないけど、いる」。この言葉もまた、あの日集った人々の想いを代弁している。

 見かけた人も多かっただろうが、あの日は友人や仲間の音楽家たちがたくさん富士吉田を訪れてくれた。クボケンジ・木下理樹・曽根巧の3人が寄り添うようにして歩いていた。城戸紘志、足立房文そして同級生の渡辺隆之もいた。初代、2代目、そしてサポートではあるが実質的には3代目のドラマーが集っていた。おおげさだよと照れながらも、志村正彦は喜んでいたにちがいない。

 クボケンジは「メレンゲブログ」4/26/2014 (http://band-merengueband.blogspot.jp/)で、それにしても「お前はよく頑張ったね」と言ってやりたいのだ、と語っている。志村のMCの言葉に触発されて、「ずっと宿題を抱えてるみたいな気分なんだ。作詞作曲して歌うってのは一歩間違えるとすごくかっこ悪くて恥ずかしい。なので自分が思ってる以上にストレスなり体力を使う」と吐露しているのがとても印象深かった。表現者という立場を維持する限り、そのことに追われる日々が続く。(表現の第一線から退却した「元表現者」であっても、この国のファンは優しいので、それなりに活動を続けられる事例も多いが)
 「お前はよく頑張ったね」という言葉には、一人の表現者がもう一人の表現者に贈る、語ることのできない想いが刻み込まれている。

 表現は過酷で、時には深淵が待っている。

 上映會、そして『FAB BOX Ⅱ』という美しく豊かな果実。
 新しい楽曲が作り出されることはないという現実のもとで、「大切に大切に大切に」愛しむように、私たちは志村正彦の遺した楽曲を聴き続けていく。
 聴く行為が絶えない限り、「いないけど、いる」という形で、彼はここに存在し続けるのだから。

2014年5月11日日曜日

陽炎-4/13上映會5 [志村正彦LN 82]

 アンコールの2曲目、『陽炎』が始まる。最後に富士吉田で歌われるのにふさわしい歌だ。

  あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
  英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ        
  

 遠く、遠く、遠く、この場ではないどこか遠いところから、志村正彦の歌が聞こえてくる。
 彼はここにはいない。映像の中にもいない。もっともっと遠いところへ彼はたどりつき、その遠いところから、こちら側をふりかえる。
 過去でも未来でもない、時の果てのような場に彼は佇む。そこから、「あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ」と歌い出す。2008年の観客に向けて歌われているのだが、同時に、私たち2014年の観客にも歌われているかのようだ。
  二つの時、2008年、2014年の隔たりを超えて、私たちに届けられる。

 あらかじめ断っておくが、非現実的な出来事として書いているのではない。『陽炎』を歌い出した瞬間、私の心に去来したものだ。何故かは分からない。「偶発的な小さな出来事」のように、「偶景」のように、過ぎ去り、消えていくものをありのままにここに今記した。

  また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ
  残像が 胸を締めつける


 現実とその残像との間、過ぎ去ったものと過ぎ去ったものからこぼれ落ちるものとの狭間。そこに彼はいる。「そうこうしているうち」「次から次へと浮かんだ」「残像」。「胸を締めつける」苦しみ。
 それが何なのか。確かなことは分からない。分かる必要もない。分かることよりも、受け止めることが大切だ。言葉そのものを聴き取ること。そのことが忘れられている。

  そのうち陽が照りつけて
  遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる

 陽の光が照りつける。空気の流れが変わり、光の屈折が乱れる。陽炎の向こう側に有るもの。それを陽炎がゆらゆらと遮る。有るものの姿をあいまいにさせ、視界から遠ざける。逆に、本来そこには無いもの、無いものの姿が出現する。
 古来、陽炎という言葉は、あるかなきかに見えるもの、儚いもののたとえとして使われてきた。志村正彦が繰り返し描く風景には、陽炎のようなものがいつもどこかに潜んでいる。
 照明が暗転する。鍵となるモチーフが歌われる。

  きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
  きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう


  遠い遠いところから、彼は2008年と2014年の二つの時、二つの観客に向けて歌いかける。
 「今では無くなったもの」という表現が、作者志村正彦その人をも包み込む。自ら発した言葉が、時を超えて、自らに回帰する。彼が彼自身に語りかける。
 眩暈のような時のあり方だが、彼の歌には時折見られる光景でもある。
 志村正彦は自らの宿命に向かって、人として、音楽家として、成熟していった。

 『陽炎』が終わる。映像が消え去る。無音になり、タイトルバックが流れる。会場が静寂に浸される。『live at 富士五湖文化センター上映會』が閉じられる。
 上映會の映像は陽炎のように消えていった。志村正彦自身もひとりの陽炎なのかもしれない。そして、私たち聴き手も陽炎のような時を過ごしたのかもしれない。そのような想いが次から次へと浮かぶ。
 有るものと無いものとの間にあるもの、その間を揺れ続けるもの、陽炎。彼は自らの内にある陽炎を繰り返し繰り返し歌い続けてきた。そして儚いものの美しさを表現し続けた。

2014年5月5日月曜日

ロックの言葉-4/13上映會4 [志村正彦LN 81]

 
 当日の印象の空白部を『Live at 富士五湖文化センター』DVDで補いながら、上映會について書き進めていきたい。

 セットリストは、Openingの「大地讃頌」を除くと、全19曲。ツアーのテーマである3rd『TEENAGER』から10曲(『Strawberry Shortcakes』『パッション・フルーツ』『東京炎上』を除く)、他のアルバムから9曲という構成。志村正彦作詞作曲の代表曲である、『茜色の夕日』と『桜の季節』『陽炎』『銀河』という春・夏・冬の四季盤(『赤黄色の金木犀』は残念ながら歌われなかった。ライブではほとんど歌われない曲ではあるが)に、『唇のソレ』『線香花火』『浮雲』という志村にとって思い入れのある曲が選ばれた。 
 アンコール以外の本編は、『ペダル』で始まり、『TEENAGER』で終わっている。アルバム『TEENAGER』と同じスタートとエンドで、あくまで『TEENAGER』ツアーの一つのライブという位置付けは変わらないが、富士吉田を意識した選曲と配列でもあることは間違いない。

 『ペダル』が終わる。志村正彦が富士吉田に帰省した際、同級生の友人に凄い曲ができたからと言って聞かせたのがこの『ペダル』だという話を想い出す。地元でのライブの幕開けにこれだけふさわしい曲はない。何かが始まる予感にも満ちている。
 フェードアウトした瞬間、『記念写真』が始まる。「ちっちゃな野球少年」という言葉が耳にこだまする。彼の歌は、どれも幾分か、彼のクロニクル、年代記の要素を含む。「記念の写真 撮って 僕らは さよなら/忘れられたなら その時はまた会える」という一節からは、遠く、15歳の彼が決定的な影響を受けた奥田民生の作詞作曲、ユニコーンの『すばらしい日々』の「君は僕を忘れるから そうすればもうすぐに君に会いに行ける」がこだましてくる。
 奥田民生その人も志村正彦の大切なクロニクルだ。代表曲以外にも、『浮雲』『線香花火』『唇のソレ』といった曲にも彼の年代記がにじみでてくる。
 上映會で言葉を追い、一つひとつに反応してしまう自分に気づく。しかし、そのことをすべて書き記していくと、このエッセイはどこまでも続いてしまう。歌単独で論じる機会に譲りたい。

 ライブが進むと次第に、過去の映像を今眺めているという「額縁」の感覚が薄れていく。2008年と2014年という二つの時の区別が徐々に消え、2008年という一つの時の内部に入っていく。その大きな要因は、演奏のすばらしさだ。様々に調整されて仕上げられた音響の臨場感も相まって、「ライブ」の感覚、今そこで演奏されているというような擬似的な感覚が高まる。実際にホールにいて、周りに観客がいることもその印象を加速させる。

 加藤慎一のベースが躍動している。にこやかでとても楽しそう。金澤ダイスケにはやはり、この年代のロックキーボディストとして抜群のセンスがある。戯けたMCにも優しさが光る。ギタープレーに徹した山内総一郎のストイックな姿。高度な演奏技術と明るい音色の調和が、志村の歌を最大限に活かしている。城戸紘志はやはり城戸紘志。彼のドラムの波動がフジファブリックのサウンドをまさしくドライブしている。引き締まった表情でコーラスを歌うメンバーの姿も微笑ましい。
 このバンドのリズムの感覚は卓越している。聴き手をぐいぐいと押す力を持つ(城戸のドラムに押され、ほんの少しテンポが速い気もするが、それもまた味わいだ)。そのリズムの感覚の中心にあるのは、志村正彦の身体感覚だ。そして、彼の身体感覚を支えているのは、彼の歌、言葉そのもののリズム感だ。

 コンサートの全体を通じて、60年代から70年代までのロックの黄金期のサウンドが鳴り、リズムが轟いている。80年代以降のコンピュータのリズムを土台とする音楽とは一線を画している。(今、四十歳代から六十歳代までの年齢のかつての洋楽ロックファンで、志村正彦在籍時のフジファブリックをまだ知らない人に聴いてもらいたいと強く思う。彼らが納得できる水準のロック、それも日本語のロックがあったことに驚くだろう)

 志村正彦が大切にしたのは、コンピュータではなく、人の身体に基づくリズムだ。
 コンピューターによるリズムとその感覚の変化はしばしば言及されるテーマではあるが、このリズムの問題はサウンドに限定されずに、歌う言葉、歌詞にも影響を与えているのが最近の状況ではないかと私は考えている。言葉に込められた自然なリズムが失われ、画一的なリズムに支配される。それと共に、言葉で表現する行為自体に、「切り取り」と「貼り付け」、いわゆるコピペの作業が蔓延してくる。表現される世界もまた、どこかで見たことのあるイメージのコピーだらけになる。

 志村正彦の言葉が表現する世界の独創性については繰り返し書いてきたが、彼の言葉そのものが、歌い方を含めて、リズムの感覚に優れている(彼の歌には確かに音程の不安定な時があるが、リズム自体はサウンドに上手に乗っている)。アフリカと欧米由来のロックのリズムと日本語本来のリズムを融合させた歌だ。(志村正彦の作る歌のリズム、言葉の拍子の問題については、時間をかけて検討していきたい。まだ、具体的に書ける段階ではないので、これからの課題にしたい)

  ロックの本質はその「言葉」にある。そして、「言葉」をどう伝えていくのか、その「器」がロックのサウンドだ。優れたロック音楽には「言葉」がある。その「言葉」が失われていったのが、ロック音楽の衰退の原因だろう。

 志村正彦、フジファブリックは、ロックの本質を体現している。
 何故か。一言で答える。
 「言葉」が存在しているからだ。