ふじさんホール、全体の中央やや左よりの座席に座る。スクリーンと近すぎず遠すぎずちょうど良い位置だ。このホールは座席を始め大幅に改装されたが、舞台は当時のままらしい。その舞台上の大型スクリーンには、プロジェクターで投影された映像。送り出しは通常のBD・DVDプレーヤーのようで、アップコンバートして解像度を上げているようには見受けられない。デジタルテレビの高画質が標準になってしまった時代では、この輪郭の甘さは残念だった。
ただし、ややぼんやりした映像の質が、時の経過を告げているようで、これはこれでよいのかもしれないと、自らを納得させた。
反対に、音響は専用のPAを入れているようで、予想以上の大音量。音の残響も計算されているようで、臨場感がある。低域についてもほぼ満足できるレベルだった。ロックのコンサートの場合、低域の音圧が重要。音に関しては、現実のライブ演奏に近い質が保てていたと言える。
夢の中のようにややぼんやりした映像と、耳元に届き身体を揺らす充分な音量。視覚と聴覚のギャップのようなものにも、しばらくすると慣れてきた。
オープニングの「大地讃頌」合唱を受け継ぐ形で、『ペダル』が始まる。画面の中と外の観客の拍手が重なる。『ペダル』は、この「志村正彦ライナーノーツ」で最初に論じた作品(LN12,13,14 http://guukei.blogspot.jp/2013/04/ln12_5.html)。思い入れのある歌詞だ。3rdアルバム『TEENAGER』の冒頭曲で、この「live at 富士五湖文化センター」でも、ライブ自体のスタートを告げる楽曲となっていた。
平凡な日々にもちょっと好感を持って
毎回の景色にだって 愛着が沸いた
「平凡な日々」「毎回の景色」。富士吉田や東京での日々。再生映像と音響ではあるが、ホールという場の中で、800人の観客を前に、志村正彦の言葉がこだまする。
あの角を曲がっても 消えないでよ 消えないでよ
「消えないでよ 消えないでよ」の言葉がリアルに胸に響く。生涯、消えてしまうものを見つめ続け、消えてしまうものに対して消えないでよと呼び続けた志村正彦。この上映會を通して、通奏低音のように、「消えないでよ」のフレーズは鳴り響いている。
この言葉は、私たち聴き手が祈りのように、彼に対して今も囁き続けている言葉でもあるのだが。そんなことを考えていると、感情の渦の中に自分が消えてしまいそうになる。
照明の光量が上がる。白い光の中、二十八歳の若々しい顔立ち。時々見せる、透き通るような眼差し、あどけないような表情、高いキーを歌う際のやや苦しげな様子。
胸元が開いたU首のシャツ、その黒い地のシャツの図柄の一部、左右に走る斜めの線が一瞬、富士山の稜線の形に浮き上がる。ホールの舞台を踏みしめるように、歩きながらリズムを確かめる姿が印象深い。
ポリープ手術前ということなのか、声の調子はあまりよくないが、聴き手に伝えようとする歌詞の解釈と意志の力によって、歌には確かな説得力がある。
『ペダル』のbpmは志村の歩くテンポに合わせてある。加藤慎一、城戸紘志のリズムセクションに支えられ、金澤ダイスケ、山内総一郎の音色に彩りを与えられ、志村正彦の歩行のリズムが会場に溢れ出る。観客はフジファブリックのサウンドの律動に大きく包まれる。
駆け出した自転車は いつまでも 追いつけないよ
彼は「いつまでも 追いつけないよ」と歌う。映像のフレームの中の彼は再現前している。しかし、私たちはいつまでもどこまでも追いつけないでいる。たどりつけないでいる。「消えないでよ」と祈る。しかし、ここで佇むしかない。
『ペダル』が終わる頃になると、観客の手拍子や拍手も静かになってくる。皆が画面に集中していく。2008年5月31日と2014年4月13日という二つの時は次第に、2008年5月31日という一つの時に収斂していった。 (この項続く)
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