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2019年12月31日火曜日

2019年[志村正彦LN246]

 12月下旬になっても志村正彦・フジファブリックの関連番組は続いている。
 BSプレミアム「The Covers’Fes.2019」ではフジファブリックが『ひこうき雲』(荒井由実)カバーと『手紙』を演奏した。NHK甲府のラジオ番組「かいラジ」12月号『フジファブリック 志村正彦を語りつくす』を「らじる★らじる」で聴くことができた。昨夜はBSフジで『LIFE of FUJIFABRIC<完全版>』が放送された。この二つの番組から、富士ファブリック時代のメンバー、関わりの深かった音楽家、EMIのディレクタ-、様々な関係者、そして現在のメンバーの貴重な証言を得られた。今回はその証言に言及しないが今後活かす機会もあるだろう。

 今日で2019年が終わる。あらためて『「15周年」への違和感 [志村正彦LN243]』に寄せられた二人の方のコメントについて考えてみたい。
 最初の方は「声を上げなくとも違和感を感じている人、また、なんとか受け入れようと努力している人もたくさんいると思います」と書かれた。もうひとりの方は「私は志村さんがいなくなってから、現実を受け入れられずフジファブリックからは離れていて」「今年のMステを見てからまた志村さんの歌を聴き始めました」と述べられた。二人の素直で自然な想いに心を打たれた。二人とも志村正彦が健在だった時代の熱心なファンだと推測される。僕のような遅れてきたファンとは関わり方の深さが異なる。2009年からのこの十年の時の過ごし方もおのずから異なっている。

 『LIFE of FUJIFABRIC<完全版>』の最後に大阪城ホールを終えた三人のメンバーのインタビューがあった。彼らがある達成を得たことは確かだ。彼らの粘り強い活動があり、それを支えたファンの存在があった。そして、志村がのこした作品の力が大きかったことは間違いない。

 音楽の作り手・送り手、メンバーや事務所の観点からすると、「フジファブリック」の存続は当然の選択だっただろう。その結果が2019年を15周年とするプロジェクトまでつながった。
 しかし、音楽の聴き手・受け手は異なる。志村正彦のフジファブリックを愛した者の十年には複雑な軌跡がある。聴き続けた人、聴くことができないでいた人。継続を受け入れた人、受け入れようとした人、受け入れることができなかった人。聴き手一人ひとりのフジファブリックは異なる。フジファブリックの経験という時間も異なる。だからこそ少なくとも、音楽の聴き手にとっては「継続」が当然の自明の選択だとは言えない。「15周年」という捉え方は、聴き手一人ひとりの時間の差異を消し去ってしまう。

 フジファブリックは作り手だけのものではない。聴き手のものでもある。音楽だけでなくあらゆる芸術作品は作り手と受け手が共同で創造する。たとえば小説は作者と読者が創り出す。読者が読むという行為がなければ小説は成立しない。音楽も同様である。声や音、歌詞の言葉を聴いて受けとめて、自らの心と体で音楽を生成させる。その行為があってはじめて音楽は音楽として成立する。

 最後になるが、『LIFE of FUJIFABRIC<完全版>』の冒頭の映像について書いておきたいことがある。「ほんとうにフジファブリックを作ってくれた彼に感謝したいと思います」と山内総一郎が大阪城ホールで語るシーン。観客の拍手が続く中、志村正彦が座席にひとりで腰掛けている映像(両国国技館ライブでの撮影だろう)がインポーズされる。彼の眼差しと立ち上がり去ろうとしている姿。この冒頭シーンに続いて本編が始まっていく。そういう演出だった。
 この映像のモンタージュに番組制作者のどういう意図が込められているのかと考えこんでしまった。山内と志村の時空を超えた応答を演出したのか。それとも特別な意図はなかったのか。あるいは想像もできない別の意味が込められていたのか。演出の意図はつかめないが、強い違和感が残った。

 この番組だけではない。この一年間を通じて、志村正彦・フジファブリックに関する番組や音楽メディアの記事に違和感を覚えることが少なくなかった。貴重な証言や映像を得られた反面、番組や記事の構成に疑問を抱いた。「15周年」という視点を中心にある種の「物語」を描いていた。(このblogは批評的エッセイを試みている。率直な違和や疑問が批評の原点をつくる。)

 2020年はどういう年になるのか。志村正彦・フジファブリックの音源や映像が発売されることはあるのだろうか。昨年の大晦日には『シングルB面集 2004-2009』を独立したCDとして発売してほしいと書いた。今年実現しなかったので来年への願望としてここにふたたび記した。
 『セレナーデ』も『ルーティーン』もシングルB面集に収められている。この素晴らしい作品群をアルバムとしてリリースしていただきたい。

2019年12月28日土曜日

チャペルアワー 『セレナーデ』の祈り [志村正彦LN245]

 チャペルアワーという奨励の時間が山梨英和大学にはある。毎週火水木の三日、教職員や学生、時には地元教会の牧師がチャペルアワーの奨励を受け、15分程度の講話を行う。奨励題(テーマ)は自由だが、祈りの奨めになる話をしてそれに促されて祈ることができればよいらしい。今年は「志村正彦の歌-フジファブリック『セレナーデ』の祈り」、関連して旧約聖書の「コヘレトの言葉12:01・12:02」、賛美歌552番「若い日の道を」を選んだ。
 十一月中旬、僕の担当する日が来た。会場のグリンバンクホールは礼拝や講演会で使われ、正面に十字架がある。厳粛な雰囲気の場である。最初に『セレナーデ』の音源を再生した。小川のせせらぎ、虫の音に続いて、志村正彦の声が静かに広がっていく。没後十年の年であり、彼を追悼するチャペルアワーだという意味を僕個人としては見出していた。
 今日は、その時に配った資料の本文をやや長くなるが紹介したい。以前このblogで書いたものをまとめたものである。



 志村正彦の歌-フジファブリック『セレナーデ』の祈り


   フジファブリック『セレナーデ』
   (作詞・作曲:志村正彦)

   1a 眠くなんかないのに 今日という日がまた
     終わろうとしている さようなら

   2a よそいきの服着て それもいつか捨てるよ
     いたずらになんだか 過ぎてゆく

   3b 木の葉揺らす風 その音を聞いてる
     眠りの森へと 迷い込むまで

   4c 耳を澄ましてみれば 流れ出すセレナーデ
     僕もそれに答えて 口笛を吹くよ

   5a 明日は君にとって 幸せでありますように
     そしてそれを僕に 分けてくれ

   6b 鈴みたいに鳴いてる その歌を聞いてる
     眠りの森へと 迷い込みそう

   7c 耳を澄ましてみれば 流れ出すセレナーデ
     僕もそれに答えて 口笛吹く

   8c そろそろ 行かなきゃな お別れのセレナーデ
     消えても 元通りになるだけなんだよ


 フジファブリック『セレナーデ』は、2007年11月7日、シングル『若者のすべて』のカップリング曲としてリリースされた。ここでは分析のために2行の各連に1a-2a-3b-4c-5a-6b-7c-8cという数字と記号を付ける。1~8の数字は歌詞の連の順番を、a・b・cはメロディの差異を表している。
 歌詞とメロディの展開から、『セレナーデ』の構成を1a-【[2a-3b-4c]-[5a-6b-7c]】-8cと捉えてみよう。[2a-3b-4c]と[5a-6b-7c]という二つの[a-b-c]のブロックを1aと8cという大きな枠組が包み込んでいる。[2a-3b-4c]と[5a-6b-7c]には繰り返しの部分と微妙に変化する部分があり、『セレナーデ』の時間の推移を表すと共に物語の舞台を形作っている。1aは真夜中の時を、8cは夜明けの時を指し示す。真夜中から夜明けへという時間の中に『セレナーデ』の物語が広がる。

 [1a-2a]では、1a「今日という日」、2a「いたずらになんだか過ぎていく」日々という流れの中に、歌の主体「僕」の日々の想いが重ねられていく。「よそいきの服」のモチーフは文脈を読みとるのが難しい。
 [3b-4c]で「僕」は、「眠りの森」へと「迷い込む」まで「木の葉揺らす風」の「音」を聞いている。「僕」は今日という日に別れを告げて眠りにつこうとしている。だが、すぐには眠れない。耳を澄まして外界の音を聞いていると、「木の葉」が揺れて「風」が吹いている。自然の音が旋律と律動を作り、その音は眠りへと誘う効果を持つ。「流れ出すセレナーデ」は「眠りの森」から聞こえてくる。「僕」はその音に誘われ、「口笛」を吹くようになる。口笛のメロディは次第に言葉を伴う「歌」へと変わっていく。

 [5a]の一節はこの歌の中心に位置づけられるだろう。

5a 明日は君にとって 幸せでありますように
  そしてそれを僕に 分けてくれ

 「明日」は「君」にとっての「幸せでありますように」と、「僕」は祈る。そして、「それ」を「僕」に「分けてくれ」と願う。あくまで「君にとって 幸せでありますように」という祈りが先にあり、その後に「それを僕に 分けてくれ」という願いがある。「君」に向けた祈りの言葉、「僕」へと帰ってくる願いの言葉は、「君」と「僕」の二人を包み込むより大きな存在、他なる存在に届けられようとしているのかもしれない。

 [6b-7c]では、「僕」は「眠りの森」へと「迷い込みそう」になる。3bでは「眠りの森へと 迷い込むまで」とあり、まだ眠りに入る前の時間を描いている。それに対して、6bの「眠りの森へと 迷い込みそう」ではもうすぐにでも「僕」は眠りに入っていく。また、4cの「口笛を吹くよ」に対して、7cでは「口笛吹く」というように、「を」「よ」という助詞が消えている。「口笛を吹くよ」では、「を」という格助詞によって、「僕」の動作「吹く」とその対象「口笛」との関係が明示されている。「よ」という終助詞にも「僕」の意志や判断が添えられている。それに比べて、7c「口笛吹く」では「を」や「よ」という助詞が失われ、「僕」の意識の水位が落ちてくる。作者は、「迷い込むまで」から「迷い込みそう」へ、「口笛を吹くよ」から「口笛吹く」へと表現を微妙に変化させて、「僕」が眠りへ入り込むまでの時間の推移や意識の変化を描いた。

 セレナーデに誘われるようにしておそらく、「僕」は眠りについたのではないだろうか。「僕」は夢の中でもそのまま「セレナーデ」を聞いている。木の葉の音、風の音は夢の中の音へと変わっていく。この曲は冒頭から、虫の音、小川のせせらぎ、自然の音がずっと鳴り続けている。自然の奏でる音と楽曲の音とが混然一体となっていく。
 言葉では語られていない部分を想像で補う。「僕」の夢の中で「僕」は「君」に会いに行く。「僕」と「君」との束の間の逢瀬がどのようなものかは分からない。すべては夢の中の出来事。起きたことも、起こりつつあることも、これから起きることも、夢から覚めた後に消えてしまう。夜明けが近づく。「僕」の夢が閉じられる。「セレナーデ」も終わりを迎える。夢からの覚醒の直前であろうか、「僕」は「君」に最後の言葉を告げようとする。

8c そろそろ 行かなきゃな お別れのセレナーデ
  消えても 元通りになるだけなんだよ

 「お別れのセレナーデ」が響く。「僕」はどこに行くのか。夢の中の出来事であれば「消えても 元通りになる」。「僕」は「君」にそう言い聞かせる。夢の中の世界は消えても、元の世界はそのまま在り続ける。この言葉もまた、虫の音や小川のせせらぎの重なる自然の音の群れに溶け込んでいく。『セレナーデ』の音が次第に消えていくのだが、「消えても 元通りになるだけなんだよ」という一節は聴き手の心の中のどこかにこだまし続ける。

 志村正彦は短い生涯の中で、消えていくもの、無くなるもの、不在となるものを繰り返し歌ってきた。それと同時に、現れ出でるもの、在り続けるものについての祈りのようなものも歌ってきた。
 彼は『FAB BOOK』という書物の中で歌詞について非常に印象深いことを述べている。

 歌詞は自分を映す鏡でもあると思うし、予言書みたいなものでもあると思うし、謎なんですよ

 「予言書みたいなもの」という言葉は、すでに彼の生涯を知っている現在という時点では、深い悲しみとある種の驚きをもたらす。しかし、彼の死という事実から彼の詩の言葉をすべて意味づけるような行為については慎まなければならない。だがそれでも彼の作品から、彼の生涯とまではいかないまでも、その軌跡の断片のようなものがあらかじめ歌われている、そのような想いが浮かぶことが私にはある。




2019年12月24日火曜日

「愛」 [志村正彦LN244]

 今日は三つの歌を引きたい。すでにこのblogで触れた歌であるが、youtubeに発表された順で映像や音源をもう一度載せたい。


 メレンゲ 『火の鳥』     2011/10/25


 
 GREAT3  『彼岸』  2012/10/30



 堕落モーションFOLK2  『夢の中の夢』   2013/06/13


 
 『火の鳥』の映像では花の束が海辺に打ち上げられ、『彼岸』では彼岸花が咲き、『夢の中の夢』の絵では花々が雨のように降り、地面を彩っている。
 「花」を想う。


 各々の歌詞の一節を引用したい。

  メレンゲ『火の鳥』 
    世界には愛があふれてる 夜になれば灯りはともる
    それでも僕ら欲張りで まだまだ足りない
                     クボケンジ

 GREAT3 『彼岸』
   年を重ねることは残酷で 繰り返す別れにも慣れて行く
   誰かのために 自分を捨てて 愛したい 諦めず命燃やそう 
                      片寄明人

   堕落モーションFOLK2 『夢の中の夢』
   友達は今日も 夢の中の夢で
   始まらない 恋を 嘆き続けてる
   変わらない 愛を 祈り続けてる   
           安部コウセイ


 「世界には愛があふれてる」「誰かのために 自分を捨てて 愛したい」「変わらない 愛を 祈り続けてる」。三つの歌で「愛」が歌われている。

 今夜は「愛」を祈る。



2019年12月23日月曜日

コメントへの返信

 今朝、「偶景web」のデザイン画面を見ると、「新しい Blogger をお試しください」「まずは、[統計]、[コメント]、[テーマ] の各ページで新しいデザインをお試しください」とあった。早速試してみると、そこで初めて一年以上にわたって送付されたコメントに気づいていないことが分かった。勘違いをしていたのか、何か設定を間違えていたのかは分からない(以前はグーグルメールを通じてコメント通知があったはずだがそれがなくなっていた)コメントを送っていただいた方には大変申し訳ない気持ちでいっぱいになった。昨年の10月から昨日までの五つのコメントに対して、先ほど返信を書かせていただいた。かなりの時間を経てからの返信なので、コメントを送られた方が気づかない可能性があるので、このblogの記事としてもこの件を書かせていただく。

【付記】コメントにはとても感謝しております。特に、昨日書いた『「15周年」への違和感』という記事に対して早速コメントしていただいたのはありがたかったです。なかなか書きにくかったことなので、同じような想いを抱いてる方の存在を知って、心強く感じました。これからも信念と勇気を持って書き続けようと思います。「偶景web」を読んでいただいている方々へあらためて感謝を申し上げます。

2019年12月22日日曜日

「15周年」への違和感 [志村正彦LN243]

 12月13日のNHK甲府『ヤマナシ・クエスト 若者のすべて~フジファブリック志村正彦がのこしたもの~』の後、この一週間の間、志村正彦、フジファブリック関連の番組が続いた。12月16日、フジテレビ「Love music」にフジファブリックが登場し、バカリズムとのコラボユニット「フジファブリズム」の作品『Tie up(フジファブリズム)』(作詞:バカリズム、作曲:山内総一郎、編曲:フジファブリック)を披露した。

 12月20日の夕方、NHK甲府放送局のラジオ第1「かいラジ」で、志村正彦ゆかりの人々を招いて志村を語る50分間の番組が放送された。僕は大学で講義中で聞けなかったが、12月23日(月)正午から30日(月)正午まで「NHKラジオ らじる★らじる」で「聞き逃し配信」されるそうなのでそれを待っている。

 20日の夜は、wowowで『フジファブリック 15th anniversary SPECIAL LIVE at 大阪城ホール2019 「IN MY TOWN」』も放送された。10月20日大阪城ホールでのデビュー15周年記念公演の収録である。特別番組『フジファブリック 15周年記念番組 "手紙"』も続いた。この番組内で山内の地元のライブハウス「JACK LION」での12月7日の凱旋ライブの映像も紹介された。金澤ダイスケ、加藤慎一も駆けつけていた。12月7日ということは、新宿ロフトのROCK CAFE LOFTで『アラカルト』『アラモード』レコード先行試聴トークライブ&「エフエムふじごこ 路地裏の僕たちでずらずら言わせて『アラトーク』」公開収録トークライブが開催された日でもある。

  情報を整理し追いかけることも大変なくらいに、たくさんのライブや番組やイベントがあったが、2019年が志村正彦と現在のフジファブリックにとって重要な年であったことの証左である。それらの試みは事実として、「志村正彦没後十年」、「フジファブリック15周年」、その二つの観点のどちらに重点を置いているかによって分かれていたとも言える。

 『フジファブリック 15th anniversary SPECIAL LIVE at 大阪城ホール2019 「IN MY TOWN」』を見た感想は、「山内総一郎のフジファブリック」を見たという一言につきる。このライブに行っていないので映像だけでの感想ではあるが。僕が金澤、加藤、山内の3人体制によるフジファブリックを実際に見たのは2014年11月の武道館だけである。今まで音源や映像には接してきたが、繰り返し聴いたり見たりしたわけではない。このblogで現在のフジファブリックを語ることも少なかった。何かを語るには内的な必然性がなければならないからだ。

 今振り返れば、2010年以降のフジファブリックの歩みは「山内総一郎のフジファブリック」確立への軌跡だったと捉えられる。大阪城ホールに9000人のファンを集めたのは、メンバーやスタッフの功績である。wowowの映像にはファンが楽しむ様子が何度も挿まれていたが、ファンの喜びは祝福されるべきだろう。事務所やレコード会社にとっては音楽ビジネスという今や困難な仕事の成功でもある。全体として会場が微笑みに包まれていたことには好感を持った。この時代のライブには明るい光のようなものの共有が不可欠なのだろう。

 しかし、僕はこのwowow映像を見ていて何かが違うという感じを持った。2019年のフジファブリックは何かが決定的に変わっていた。志村正彦が創ったフジファブリックとの大きな隔たりを感じた。何かが失われていた。分析を試みるのは可能だがここではそれを控えたい。あくまでも感覚として述べてみたい。現在のフジファブリックが歌い奏でる現実の場においても、志村正彦のフジファブリックは永遠に還ってこない。奇妙な言い方になるが、そのような喪失感、欠落感かもしれない。

 批評的に考察すると、2010年以降のフジファブリックはある種のプロジェクトだと捉えられる。それを「プロジェクト・フジファブリック」と呼んでみたい。このプロジェクトには二つの目的があった。志村正彦の作品を継承すること。山内総一郎のフジファブリックを確立すること。
 そして次第に、このプロジェクトの進行によって「志村正彦」の存在は象徴的なものに変化し、それと共に、フジファブリックの音楽の内実も変化していった。今後はさらに「志村正彦」が、創始者という名、創始者としてのアイコンのようなものに換えられていく。そのような予感もする。
 この問題についての結論を最後に記したい。

 フジファブリックは2009年12月でその円環が閉じられた。
 志村正彦のフジファブリックと2010年以降のプロジェクト・フジファブリックとの間には、作品そのものの根本的な差異がある。2004年から2019年までの時間には決定的な断絶がある。「15周年」というように時が流れていたのではない。


【付記】今回は「15周年」という捉え方に対する違和感について考えてきた。一昨年、この「15周年」とその「記念」という言葉を目にしたときからずっと違和感を抱いてきた。この一年間この感覚と向き合ってきたが、違和感はむしろ高まってきた。今年が終わる前にそのことを書きとめておきたかった。
 志村正彦のフジファブリックがのこしたものは、周年や記念という区切りを超えて、いつまでも存在し続ける。

2019年12月15日日曜日

「志村正彦がのこしたもの」[志村正彦LN242]

 一昨日12月13日、『ヤマナシ・クエスト 若者のすべて~フジファブリック志村正彦がのこしたもの~』を見た。

 山梨県限定の放送だったのでご覧になっていない方が多いと思われる。録画その他の方法で視聴できる機会もあるだろうから、内容についてここで記すことは控えたい。数々の貴重な映像や証言があったので、志村正彦そしてフジファブリックのファンにとって必見の番組である。
 NHK甲府放送局のHPではこう紹介されていた。


NHK甲府放送局では、志村が亡くなってから10年となる2019年12月、ミュージシャン志村正彦が私たちに一体何を残したのか?志村の生涯や彼が生んだ音楽に心を動かされた人々への取材を通じ、番組でお伝えしていきます。


 確かにその通りの構成だった。時間をかけて丁寧に取材されていた。NHK甲府放送局の制作スタッフには敬意を表したい。しかし一言だけ率直な感想を書かせていただく。やはり、焦点が絞り切れていなかった気がする。どうしてなのか。「志村正彦が私たちに一体何を残したのか?」というのが難しいテーマであるからだ。そこに行き着く。一つの番組が追いかけるられるものには自ずから限界があるので、それはそれでいいとも言えるが。NHK甲府には今回だけでなく今後もこのテーマを追究してもらえればありがたい。

 繰り返すが、「志村正彦が私たちに一体何を残したのか?」というのは深くて重いテーマである。それは彼の作品を愛する私たち一人ひとりの心の中にある。これからもあり続ける。

 この番組を見終わって、「志村正彦」が「僕」に何を残したのかという問いが浮かんできた。意外なことでもあるが、このような問いかけを自らに課したことは今までなかった。どう答えたらいいのだろうか。さまざまな言葉が去来するのだが、単純な一つのものが最もふさわしいことに気づいた。今、《偶景web》という場でこの文を書いている行為そのものである。
  2012年12月にこの場は始まった。7年が経つ。持続することが応答することだと信じている。




2019年12月12日木曜日

チャペルアワー「やすかれ、わがこころよ」

 山梨英和大学にはチャペルアワーという時間が毎日ある。昨日12月11日、中村哲氏を追悼する礼拝が行われた。学生や教職員が数十名集まった。壇上の横には氏の写真が置かれていた。

 「讃美歌21」の532番『やすかれ、わがこころよ』がパイプオルガンで演奏され、皆で祈りを込めて歌った。「やすかれ、わがこころよ、なみかぜ猛るときも、恐れも悲しみをも みむねにすべて委ねん」という歌詞が胸に刻まれた。その後、ヨハネによる福音書12章24節「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」が朗読された。

 中村氏と親交があった宗教主任が、短い時間ではあったが、中村哲氏を追悼した。1987年の出会いの時には、中村氏は日本キリスト教海外医療協力会からパキスタンのペシャワールにある「ペシャワール・クリスチャン・ホスピタル」に派遣され、ハンセン病の治療のために働いていた。その後思うところがあって、ペシャワール会を立ち上げたそうである。8月の山梨英和130周年記念講演会のことも振り返った。

 ここ一週間ほど様々なメディアで報道された中村氏の言葉を読んできた。今日は二つの記事を紹介したい。一つ目は、日本での最後の講演となった11月19日北九州市での講演会の記事である(朝日新聞デジタル2019.12.5)。支援者が海外で受け入れられる要点という質問に対する中村氏の返答を引用する。


援助する側の『頭の高さ』が気づかずに出ることがある。それを取り除かないと相手の心は開かれない。地元の習慣や文化に偏見なく接すること、我々の物差しを一時捨てることが必要では。


 援助する側の『頭の高さ』を取り除くこと。我々の物差しを一時捨てること。特別な支援という状況だけではなく、どのような場面であっても、私たちが人と応対するときに心に刻み込むべき言葉であろう。生活でも仕事でも、「頭」を高くしないこと。このようなブログを書くときでも、そのことを戒めとしたい。
 そして、自分の「物差し」を時には捨て去って考えていくことも大切である。そのことも肝に銘じたい。考えるためには一つの「物差し」を作る必要があるが、時にはその「物差し」から離れる必要もある。ある物差しともう一つの物差し、さらに異なる他の物差し。それらの対話から考えることは展開していく。

  二つ目は、HUFFPOST(2019.12.7)に掲載された、世界的なロックバンド「U2」が5日、13年ぶりの来日公演で、アフガニスタンで銃撃され死亡した中村哲医師を追悼した、という記事である。以下引用する。


観客らが撮影したとみられるTwitterに投稿された動画によると、会場のさいたまスーパーアリーナは照明が落とされ、ボーカルのボノさんが「この会場を大聖堂に変えよう。携帯をキャンドルに変えよう」と呼びかけた。呼びかけに応じた観客が、スマートフォンのライトを点灯させ、無数の光が揺れた。(中略)
ボーカルのボノさんは5日のライブ中に「偉大な中村医師を追悼するひとときを持とう」「中村哲さんのために」と中村さんを追悼。ボノさんは、楽曲の合間にも何度も「テツ・ナカムラ」「ペシャワール会」と祈るようにつぶやいた。ライブでは、アメリカの公民権運動の指導者で、1968年に暗殺されたマーティン・ルーサー・キング牧師に捧げて作ったと言われる「プライド」も歌われた。「プライド」には「彼らは命を奪ったが、誇りまでは奪うことはできなかった」という歌詞がある。


 言うまでもなく、ロック音楽、ロック文化と60年代以降の欧米での反戦平和運動、現在に至る世界人権保護活動には密接な関係がある。ロックの根本にはそのような「志」がある。志村正彦は『東京、音楽、ロックンロール』(志村日記2008.01.25)で次のように述べている。


「ロック」…何それ。知らない。どーでもいい。から、しょうもないことをつらつら書きます。「ロック」とは、何かを打ち破ろうとする反骨精神、逆らうべきところは逆らうという精神じゃねえのかな~。でもこれ、さんざんみんな言ってるね。だから…分かりやすく例えるならば、PUNKSが頭を逆立てるのはロックなのであり、PUNKなのであります。なぜなら地球の重力に逆らっているから。


 「ロック」とは、何かを打ち破ろうとする反骨精神、逆らうべきところは逆らうという精神、という言葉は、志村らしくないようであるが、本質的にはきわめて志村らしい表現だと言える。彼の音楽は、日本語ロックの限界を打ち破ろうとする意志によるものだった。二十九年という短い生涯の中で「逆らうべきところは逆らう」姿勢で、彼は闘ったのである。

 志村正彦を追悼する番組が、明日12月13日、NHK甲府で放送される。その「ヤマナシ・クエスト 若者のすべて~フジファブリック志村正彦がのこしたもの~」という番組が今夜の甲府局「Newsかいドキ」で3分に及んで紹介された。没後十年、志村正彦がのこしたものを受けとめたい。

2019年12月8日日曜日

「平和を実現する人々は幸いである」

 今日は、中村哲氏の講演について書きたい。

 八月の最後の日、私は甲府で中村氏の講演を聴いた。勤め先の山梨英和大学の法人である山梨英和学院の130周年記念事業として、中村哲氏の講演会「平和を実現する人々は幸いである」が開催されたのである。山梨英和は、1889年、カナダの女性宣教師と甲府教会の信徒や地域の人々によって山梨英和女学校として設立された。今年、創立130年を迎えた。

 中村哲氏はキリスト教徒だった。本学の宗教主任と親交があり、一時帰国中の忙しいスケジュールにもかかわらず講演を快諾していただいた。

 講演会で中村氏は穏やかで落ち着いた語り口で自らの仕事を振り返りながら、農業用水路の灌漑事業、現地を尊重する支援のあり方、アフガニスタンの厳しい現実について二時間を超えて話しをされた。ところどころ写真や映像が映し出された。自ら重機を操って水路を作る姿。九州筑後川の山田堰の技術を用いた話。砂漠が緑豊かな風景に変わっていく映像。農地が生まれてくる過程は奇蹟のように感じた。

 中村氏の語りは心の中に深く染み込んでいった。職業のせいか講演や講義を聴く機会が多いが、内容は当然だが、それ以上に講演者の語り口や語る姿勢の方に関心を持つようになってきた。中村氏の語り口は、声高なところも気負ったところも全くなかった。実直でやわらかい口調が信頼の根底を築いていた。
 
 本学のギッシュ・ジョージ理事長・院長がHPに寄せた文書を引用させていただく。教職員を代表しての哀悼の言葉である。


中村哲先生のご逝去の報に接して心から哀悼の意を表します。
中村哲先生は去る8月31日の山梨英和学院創立130周年記念講演会の講師としてお招きしたばかりでした。中村哲先生は講演テーマであり創立130周年記念の標語でもある「平和を実現する人々は幸いである」(マタイによる福音書5章9節)の言葉をまさに体現する方でした。(中略)中村哲先生はご講演で、まだ仕事は途上であると語っておられたので、このような痛ましい形で天に召されることになり、どんなにか心残りであったと思います。しかし、「平和を実現する人々は幸いである」の言葉のとおり、アフガニスタンの地において数多くの「平和」を実現されて来られた中村哲先生のご生涯は、まことに幸いなご生涯であったと思います。
新約聖書ヨハネによる福音書12章24節には「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」とあります。先生を失ったことは大きな損失です。しかし、アフガニスタンにおける事業は残されたペシャワール会の方々と共に、現地のアフガニスタンの人々の手によって確実に継続されていくことでしょう。また、一方で、講演を聞き訃報を聞いた私たちは、各々働きの場、活動するフィールドは違っても、個々人が置かれた場所でどのように「平和」の実現を成し得るかを考えさせられる事となりました。その意味で私たちは中村先生の死を無駄にしてはならないと思います。(中略)
最後に、残されたご遺族とペシャワール会のご関係の皆様の深い悲しみが少しでも早く癒されることを心よりお祈りいたします。


 ギッシュ理事長は「中村哲先生のご生涯は、まことに幸いなご生涯であったと思います」と述べている。キリスト教の信者ではない私にはこの言葉の深い意味合いはまだ読みとれないが、それでも、「ご生涯は」の後に一度「、」という読点が打たれ、「まことに」と続いていく叙述については立ち止まって考えた。読点の後の一瞬の空白。そこにはあらゆる想い、祈りが込められている。そして「まことに幸いなご生涯」だという捉え方がキリスト教の神髄であることはこちらに伝わってくる。

 中村氏は「平和を実現する」ためには、ふつうの食事が得られること、家族が仲良く暮らせること、この二つがあればよいと語っていた。食料を得るための農業、そのための水路、というように実直に根本に向かっていった。先進的な技術や設備をただ与えるのではなく、現地の人が自力で工事したり補修できたりする伝統的な技術を伝えた。「平和を実現する」のは、思想や運動ではなく、ひとつひとつの行為の積み重ねであった。

 今日12月8日は、日本が太平洋戦争を始めた日である。今、私たちの国には、人々の尊厳を傷つける現実がある。人々を侮蔑する空気がある。生活を逼迫させる貧困がある。生きること、日常の平和が損なわれつつある。そのような現実に抗して、私の置かれている場所で、ひとつひとつの行為を積み重ねていきたい。