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2015年9月25日金曜日

雨と水と金木犀 [志村正彦LN113]

 今夜、仕事を終え、帰り道を歩き出した。
 昨日からの激しい雨は少し小降りになっていたが、まだ視界は雨の空気に覆われていた。
 歩き出すと、雨の匂いがする。ほのかに水の香りを感じる。霧雨のようでもある。鼻腔だけではなく、皮膚の周りにも、雨の水滴の感触のようなものが少しばかりまとわりつく。

 さらに歩き出す。
 やや広い空き地に踏みだしたとき、かすかに甘い香りがした。何かはわからない。花の香りであるようだが、水の香りと混じり合っていてすぐに識別できない。
 金木犀の香りが漂いだしたのだ、と気づいたのは、今が九月下旬であることが頭に浮かんできてからだ。九月の下旬という時節が、金木犀の季節を告げていた。

 ただし、雨と水の香りと溶けあっているようで、金木犀の香りは実に仄かだ。仄かではあるのだが、いや、仄かであるがゆえにだろうか、それは記憶を呼び覚ます。

 昨年のことを思い出した。確か、昼間、風に乗ってそれは訪れた。今年は、雨に運ばれるようにして訪れた。
 昨年も今年も、樹は見えない。「赤黄色」の花も見えない。見えないからこそ、香りだけが漂う。あたりが、少しずつ、金木犀に染め上げられる。


         赤黄色の金木犀の香りがして
    たまらなくなって
    何故か無駄に胸が
    騒いでしまう帰り道         ( 『赤黄色の金木犀』志村正彦 )



 年齢を重ねるということには絶対に抗しがたい何かがある。なすすべもなく、抗しがたく、感受性もうすまっていく。
 年を積み重ねることの遙か前の年月、むしろ時が進まないような、時が止まってしまうような年月にしか、(それを若さの時といえばそうなのだろうが)「何故か無駄に胸が騒いでしまう」という類の感受性と身体の感覚に包まれることはない。

 感受するとは、自分の身体の感覚を、心がくりかえし受けとることであるのなら、年を重ねると、感受性は自然にうすれていく。

 「何故か無駄に胸が騒いでしまう帰り道」、そのような帰り道を、志村正彦も、ある年齢を過ぎれば、歩むことはなかったのかもしれない。それが失われてしまっても、別の帰り道が待っていたかもしれない。

 そんなことをなぜか考えてしまった。

2015年9月22日火曜日

柴咲コウ、山梨・韮崎文化ホールで。

 9月19日、土曜日の夜、柴咲コウ『Ko Shibasaki Live Tour 2015 “こううたう”』の山梨公演に行ってきた。
 会場は韮崎市の「東京エレクトロン韮崎文化ホール」。大都市を回る全国ツアーにもかかわらず、なぜ山梨県のそれも韮崎市かと不思議に思っていたのだが、このホールを運営している「武田の里文化振興協会」の主催と聞いた。地域の文化振興の一つとして企画されているようだ。

 会場まで甲府から三十分ほどで到着。駐車場には、八王子、松本、静岡などの近県のナンバーの車も少なくない。チケットも比較的取りやすく、近県であれば日帰りも可能なので、山梨は穴場なのだろうか。
 以前ここで、奥田民生のライブを聴いたことを思い出す。調べると、2008年2月5日、「okuda tamio FANTASTIC TOUR 08」の時だった。アルバム『Fantastic OT9』は、私にとって奥田民生に「再会」した作品。渋さとしたたかさと優しさが溶けあう歌の世界。このホールは1000席ほどのキャパなので、客席との一体感があり、とても愉しめたことを覚えている。

 事前に4枚ほどCDを聴いて予習。アップテンポのポップな曲とバラード系の曲がほどよくミックスされているが、やはり、バラードの方が柴咲コウの声が活きる。ことのほか自作の歌詞が多く、言葉に向き合う姿勢が聴き手に伝わる。本当に歌が好きなのだという感触。女優の副業ではない。音楽家としての柴咲コウはなかなかの存在感を持つ。

 ライブのオープニング。いくつもの細長い垂れ幕のようなスクリーンが降りてくる。照明があたり、色が様々に変わる。薄いベールのようでもあり、時々、平仮名の文字が浮かび上がる。斬新で美しい。とてもコストのかかった演出で、通常よりはるかに高い水準だ。
 演奏メンバーの5人が奏で、ダンサーの2人が踊るうちに、赤色を主とする豪華な平安時代風の着物姿に、輝きのある白というか白銀の髪の毛をまとって、柴咲コウが登場。「月」の映像が背後のスクリーンに浮かび上がる。高貴な趣の女性と月。『竹取物語』の「かぐや姫」からの着想かもしれないととっさに思う。(ライブの最後に本人が『竹取物語』のモチーフで演出したと述べていたので、この想像は当たっていたのだが)

 ステージの進行とともに、何度も「お色直し」のように衣装を変えていく。(このようなスタイルに慣れていないので、とても感心してしまった)『こううたう』からも数曲が披露されたが、福山雅治『桜坂』が最も素晴らしかった。
 『若者のすべて』は残念ながら歌われなかった。期待していたのだが、CD音源になっただけでも満足すべきなのだろう。

 たっぷりと2時間、柴咲コウの多様なパフォーマンスを堪能できた。『こううたう』がリリースされなかったら、出かけることはなかったライブだが、時にはこのようなコンサートの経験も大切なのだと実感した。聴く音楽の領域を広げることは、独りよがりに陥ることをふせぐ。

 ライブが終わりホールに出ると、ちょうど『若者のすべて』が静かに流れていた。送り出しの曲として、『こううたう』の最初の曲からかけていたのだろうが、その偶然のタイミングが有り難かった。「街灯の明かりがまた一つ点いて帰りを急ぐよ/途切れた夢の続きをとり戻したくなって」という一節が心に響く。この歌は夜の帰路に合う。

 この日とても嬉しかったのは、入り口で『こううたう』カバー曲の選曲について述べたあの限定リーフレットが配られたこと。発売時のみの特定店舗での配布や予約特典だったので、入手をあきらめていたものだ。思いがけなく手に入れることができて、運営側の心配りに感謝した。
 表面は、初のカバーアルバムについて語った“こうはなす”、選曲について述べた“こうえらぶ”、最近読んだ本を紹介する“こうまなぶ”などが掲載され、裏面は柴咲コウの巨大ポスターという、A4サイズ8面の大きくて充実したリーフレット。座席に着いて早速読んだが、色々な想いが浮かんできた。
 未見の人がほとんどだと思われるので、『若者のすべて』の選曲理由のすべてを引用させていただく。


 NO1  若者のすべて  フジファブリック

意外性が欲しいなと思ったのもあるけれども、「ただ好きな曲だから」っていうのが、選曲した大きな理由。焦りや虚しさを感じながらも、それでも生きていくんだっていう男性の人生観を女性がさわやかに歌ったらどうなるかな?という興味もありました。「鎌倉の海岸沿いをドライブするのが好きなので、それに合うアレンジがいいなと思って。実際に、そこで花火を見たことがあるから、自分の人生とも完全にリンクしますね」


 「意外性」というねらいもあったことを素直に記しているが、それよりも「好きな曲」だというの最大の理由だったことがよく理解できる。志村正彦・フジファブリックの描いた物語を「焦りや虚しさを感じながらも、それでも生きていくんだっていう男性の人生観」と的確にとらえた上で、「女性がさわやかに歌ったらどうなるかな?」という視点で歌い方やアレンジを工夫していく。この作品を丁寧に歌うことへの意志と共に自分自身の声に対する自信や手応えも伝わってくる。
 「自分の人生とも完全にリンクしますね」という実感を持たせるのは、あらゆる歌にとっての願いでもある。「リンクする」力は、その歌が世に広がり、時を超えて伝わっていくために不可欠なものだろう。

 さらに “こうはなす”では、「私にとっていちばん大事だったのは、歌詞に共感できるかどうかっていうこと」であり、「カバーするにあたって、原曲のアーティストの方々に失礼があってはならないという思いもあったので、それぞれの曲に込められた思いや感覚的なものを大切にしつつ、自分の気持ちと声がマッチするように集中できたと思います」とも述べられている。

 柴咲コウが『若者のすべて』の言葉に深く共感し、志村正彦の世界と自分の世界との距離を測定した上で、自分自身の「声」によって、この歌に対する想いを注いでいった過程が伺える。あの透明な声とさわやかな歌い方には、このような背景と構築の方法があったのだ。
 

2015年9月14日月曜日

「逆らう」ジャケット写真-『若者のすべて』17 [志村正彦LN112]

  前回の問い、志村正彦がこの社会についてどのように考え、対峙していたのかという問いに進むにあたり、『若者のすべて』が収録されたアルバム『TEENAGER』(EMIミュージックジャパン、2008/1/23リリース)のCDジャケットについて言及した箇所から歩み始めたい。

 志村は『東京、音楽、ロックンロール』(志村日記)の「ジャケ深読み」(2008.01.25)で次のように書いている。

 今回のジャケットは上から逆さまに女の子をぶら下げています。実際に撮影現場にも、立ち会いましたが、かなりキツそうでした。頑張ってくれました。お疲れさまです。



『TEENAGER』ジャケット(表面)


 フジファブリックのCDジャケットをふりかえってみよう。
 1st『フジファブリック』は柴宮夏希が描くメンバー5人の画で、輪郭線が溶け出していくような不思議な作だ。2nd『FAB FOX』は題名の「FOX」をモチーフにした写真で、メンバー5人の顔が「FOX」になっている。(これを初めて見たときはGenesisの傑作アルバム『Foxtrot』の絵を思い浮かべた)4th『CHRONICLE』は、子犬が志村正彦の顔に被さるという風変わりな取り合わせの写真が使われている。

 1st,2nd,4thのジャケットは、絵や写真という媒体は異なるが、「顔」の「表情」を隠していることが共通している。志村は写真を撮られるのが嫌いだったそうだが、アルバムのデザインを見る限り、それは確かに肯ける。自分があからさまに被写体となることは避けているかのようだ。「顔」の「正面」を押し出す写真に対して、ある意味では、逆らっている。(この「志村正彦と写真」というテーマは別途論じたい)。

 注目すべきなのは、1st,2nd,4thの三作はメンバー5人にせよ志村1人にせよ、フジファブリックのメンバーを対象としているが、3rd『TEENAGER』は「逆さま」の「女の子」の写真を使っているところだ。この作品は結果として、「TEENAGER」や「若者」を主題とするコンセプトアルバムの性格を帯びたので、ジャケット写真もそれまでとは違うアプローチをしたのだろう。
 「女の子」の「逆さま」の像は、続く「ロック」の定義についての考察の鍵となっている。志村はこう語る。

 で、話は変わり、「ロック」とは何でしょう。まあ、「ロック」という定義の解釈については、奥深さ故、人それぞれ持っているものがあると思います。その解釈はその人にそのまま大切に持っておいて頂きたいと思います。ここではあくまで「僕の主観」による解釈のうちの、ごく一部を書きます。
 「ロック」…何それ。知らない。どーでもいい。から、しょうもないことをつらつら書きます。「ロック」とは、何かを打ち破ろうとする反骨精神、逆らうべきところは逆らうという精神じゃねえのかな~。でもこれ、さんざんみんな言ってるね。だから…分かりやすく例えるならば、PUNKSが頭を逆立てるのはロックなのであり、PUNKなのであります。なぜなら地球の重力に逆らっているから。

 「PUNKS」に続けて、「THE WHO」「DEVO」「ジョン・レノン」「富士山」「東京タワーを造った大工さん」を逆らう「ロック」の例として挙げている。この列挙の仕方がそもそも「ロック」的だ。特に、「富士山もロックだ」という言葉は、ロック的なあまりにロック的な発言だ。富士山についての紋切り型の表現に逆らっている。はるか昔のことになるが、富士山は御坂の山系や箱根の山系に逆らって、垂直に飛び跳ね、空に向かって突き進んだのか。そのようにして今の富士山が出来たのなら、確かにとてつもなく「ロック」だ。
 もう一つ付言するなら、DEVO(ディーヴォ)は、80年前後に活躍したアメリカのバンド。停滞していたロックを突き破ろうとする感覚と可笑しさがあり、当時はよく聴いていた。「DEVO」は「de-evolution」(退化)の意味で、「進化」に対する懐疑や「逆らう」姿勢を見せていた。志村と親交のあった「POLYSICS」の「原点」でもある。

 一連の列挙の最後に「いつかタイムマシンを作った人が現れたら、その人はスーパーロックンローラーだと思う。なんてったって、未だかつて誰も逆らえない時の流れに逆らうんですからねえ」としている。「時の流れ」が出てくるのは志村らしい。「時の流れ」に逆らうのが究極の「ロック」なあり方かもしれない。この後、ジャケット写真の話題に戻り、「逆らっている」姿が再び強調される。

 それをふまえ、今回のジャケットを見てください。中面も見てください。逆らっているでしょう。

 志村正彦は、「逆らうべきところは逆らう」ロックの精神をふまえて、このジャケットを見ることを勧めている。ジャケットの表と裏の写真の違いについても言及し、人間が「表の顔」と「裏の顔」の両方を持ち 、しかも「表裏一体」であることの「リアル」を描いたという意図を伝えている。
 この日の志村日記はとても饒舌で、彼の語り口はとても愉快だ。とにもかくにも、『TEENAGER』のジャケット写真は「逆らう」イメージを具現化したもののようだ。
 

 志村の主張に促されるようにして、「逆らう」というイメージに基づいて、『TEENAGER』の楽曲を聴いてみる。たとえば、作品『若者のすべて』の「世界の約束を知って それなりになって また戻って」という歌詞の一節の「戻って」という言葉については様々な解釈があるのだろうが、「世界の約束」に対して時に「戻って」、「逆らう」若者の日常を歌っていると読みとることもできる。

 「逆らうべきところは逆らう」は、若者のすべての行動の中の一つの重要な行為であるのだから。


 

2015年9月6日日曜日

2015年の夏-『若者のすべて』16 [志村正彦LN111]

  九月に入ると、夏という季節が急速に遠ざかる。

 「真夏のピーク」が去る頃から八月の下旬までの二三週間の時節、夏の終わりの季節に、このところ毎年のように、フジファブリック『若者のすべて』がラジオで放送されたり、ネットで語られたりしている。最近のことだが、山梨県庁の公式Twitter(広聴広報課の公式アカウント)が志村ファンの間で話題となった。

 山梨県庁 ‏@yamanashipref  · 8月26日 
先週の石和温泉花火大会。今年の主な花火は最後となります。
最後の花火に今年も・・・と綴られているフジファブリックというバンドの曲「若者のすべて」の歌詞のような状況ですね。同バンドの元ボーカル志村正彦さん(故人)は富士吉田市出身。(J)


 広聴広報課とは、その名の通り主に「広報」を担当する課。(県関係のテレビ番組の企画もしていて、昔、山梨ゆかりの作家のドキュメンタリー番組を一緒に制作したことがある) 所属の担当者の個人的つぶやきなのだろうが、どのような経緯にしろ、志村正彦の名と『若者のすべて』という名曲が県の広報という形で世に伝わっていくのは素直にうれしい。

 山梨の夏の花火で大きな規模のものは、一日から五日までの「富士五湖の花火」(山中湖・西湖・本栖湖・精進湖そして河口湖と続く)から始まり、第一週終わりの市川三郷町「神明の花火」(この地は昔から花火の生産地として有名)、八月下旬の笛吹市「石和の花火」だろう。知人の話では、今年の石和の会場では『若者のすべて』が流れていたそうだ。確か一昨年、地元局テレビ山梨の「神明の花火」特集番組のタイトルBGMでも『若者のすべて』が使われていた。ようやくこの山梨で、「花火」と「志村正彦」が自然につながるようになったのかもしれない。

 去りゆく今年の夏も、甲斐市立竜王図書館「ROCKな言葉~山梨の風景を編んだ詩人たち~」展、「路地裏の僕たち」主催の『フジファブリック Live at 富士五湖文化センター』上映会(会場・富士吉田市立下吉田第一小学校)などが開催された。志村正彦を偲び、彼の作品を伝えていく試みが継続されている。

 夏の始まりの六月、柴咲コウが歌う『若者のすべて』が私たちに届けられた。柴咲の『若者のすべて』は夏の朝の時間によく合う。さわやかな朝、その透明な歌声が心地よい。暑さがゆるやかに下降する夕方になると、志村正彦の歌う『若者のすべて』がしっくりとくる。彼の声が、それでもまだざわめいているような周囲の空気に溶けこむ。

 2015年の夏はそういうわけで、朝と夕、CDを入れ換えて、『若者のすべて』のオリジナルとカバーを何度も聴いた。声もアレンジも異なるが、それを超えて、『若者のすべて』の言葉そのものは尽きない魅力を持つ。そして、この歌は聴く者の心に言いあらわせない何かを与える。声の波動のようなものとして作用し続ける。

 『若者のすべて』についての単独の論は十五回ほど書いた。前回から一年ぶりになるが、この歌をめぐって再び書きたい。

 前々回、下岡晃・アナログフィッシュの『戦争がおきた』について書いたが、下岡は
「CINRA」掲載の「失う用意はある? アナログフィッシュ インタビュー」[2011/09/05、文:金子厚武  http://www.cinra.net/interview/2011/09/05/000001.php?page=2]で、プロテストソングについて問われ、「俺が聴いてきた洋楽って、R.E.M.でもなんでも、昔からロックって言われるものは社会のことを自然に歌ってるんですよね。」「だから特別なこととは思わないんですけど、日本で音楽をやってると、そういう曲の行き場所ってあんまりないんです。」と述べている。確かに「洋楽」と「邦楽」の間には、そのような距離、乖離がいまだにあることを否めない。

 志村正彦には、プロテストソング、レベル・ミュージックとして明確に位置づけられる作品はない、ととりあえず考えてよいだろうが、それでも、「ロック」音楽家としての彼はこの社会についてどのように考えていたのだろうか。歌い手としてどのように対峙していたのであろうか。

      (この項続く)