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2014年8月29日金曜日

カフカ 1914 / 2014

 チェコのプラハに入り、カレル橋とモルダウ川、プラハ城周辺の風景を眺めたのはもう夕暮れ時だった。夜が近づくと、湿度が下がり、街の空気がどことなく澄み、落ち着いてくる。日が没し、光が弱まり、色のコントラストが失われる。幾分か影絵のような光景に近づく。城も橋も川も、佇まいが美しい。
 ここは作家フランツ・カフカの街。1883年に生まれ、育ち、生き、書いた街だ。

 引き続き「百年」という時間軸で考える。今から百年前の1914年、カフカは何をしていたのか、どの作品を書いていたのか。
 調べてみると、1914年という年は、恋人フェリーツェとの一度目の婚約破棄、保険局の勤めを辞め職業小説家なることを決意する(第一次世界大戦の勃発により叶わなかったが)など、転機となる年だった。作品では『訴訟(審判)[Der Process]』を執筆していた。となると、小説中の挿話『掟の門前[Vor dem Gesetz]』(http://gutenberg.spiegel.de/buch/161/5)を書いていた頃ともなる。

 『訴訟(審判)』は未完に終わり、草稿として残されたが、この『掟の門前』の方は独立した掌編小説として1915年に雑誌に発表されている。書かれてから百年後の今日、この掌編はカフカの中で最も読まれている作品かもしれない。「Gesetz」は「掟・法・道理」という意味で邦訳名も様々、青空文庫では「道理の前で」(大久保ゆう訳)(http://www.aozora.gr.jp/cards/001235/files/47213_28180.html )と訳されている。未読の方には是非一読を勧めたい。私も学生の頃からこの作品を何度も読み返してきた。『掟の門前』は「読むことの終わりがない」物語の最たるものだ。

 翌日、プラハの街を歩く。池内紀『となりのカフカ』(光文社新書)は新しい作家像を示してくれて愉快な本だが、最後に「カフカの生きたプラハ地図」が添えられている。プラハの中心地の至る所にカフカの痕跡がある。主なところをたどるだけでも二、三日はかかる。今回は無理なので、カレル橋近くの「カフカ博物館[FRANZ KAFKA MUSEUM]」[http://www.kafkamuseum.cz]を何とか見学できないかと旅行前から考えていた。

 真夏の真昼のプラハはやはり暑い。汗ばむ陽気。自由時間のチャンスにかけてみようと、博物館まで急いだが、時間の余裕がなく、入館することは断念、ショップで絵葉書、鉛筆、バッジなどのカフカ・グッズを買うことだけで「カフカへの小さな旅」は終わった。(ツアーゆえ仕方がない。いつの日か、カフカゆかりの場所をゆっくりと歩いてみたいという欲望がつのる)
 この種の作家記念館は、博物館としての機能もあると同時に、観光客のためという機能もある。観光という目的は決して悪いことではないが、この博物館のロケーションがプラハ観光の「一等地」にあることにはとても驚いた。地図で確認してはいたが、現地の実感としては想像以上に「目立つ」場所にあるのだ。


カレル橋から  カフカ博物館、カフェ、堤防の幕

モルダウ川の対岸から  左上にプラハ城、中央の川岸にカフカ博物館

 カフカは1924年に病で亡くなる。友人マックス・ブロートに草稿やノートをすべて焼き捨てるようにという遺言を残したが、ブロートはその意に反して「作品」に編集し出版したことはよく知られている。『訴訟(審判)』『城』『失踪者(アメリカ)』はそのような経緯で刊行された。本文の編集や成立の問題があり、最新の全集は紙版とCD-ROMの画像版の二つから構成され、カフカ直筆の草稿の写真と推敲の過程を忠実に活字化したものが掲載されているようだ。

 百年後のカフカは、世界的な評価を受け、膨大な数の読者を獲得し、最新の研究成果による全集が刊行され、そしてプラハの一等地に博物館が建っている。
 1914年のカフカが2014年のカフカを知ったら、あのカフカ博物館を見たら、どう感じるだろうか。意外にも、微笑して肯くかもしれない。否定ではなく、すべてを肯定するような気もする。

 拙文を読んでいただいている方なら、またかと思われるかもしれないが、ここで、当然のようにある想像にとらわれた。百年後の志村正彦はどうなっているのだろうか。例えば、富士吉田の何処かに、できることならゆかりある所に、どのようなものであっても、志村正彦の人と作品をしのぶ「場」が存在していないだろうか、存在していてほしいという願いだ。「志村正彦記念館」のようなものであればなおさらいいのだが、それほど望みを大きくしなくてもいい。さりげなく、彼の固有名や「フジファブリック」という固有名が刻まれるスペースがあればとりあえずよし、としようか。それは幻だろうか。幻では終わらない幻となるだろうか。
 「KAFKA MUSEUM」というモルダウ川の堤防に掛けられた幕を見て、百年後の幻を描いた。

 フランツ・カフカから志村正彦へという連想はどうかと苦笑されそうだ。確かに、時代もジャンルも異なる。しかし、例えば、一人の聴き手であり詠み手である私にとって、カフカの小説と志村正彦・フジファブリックの音楽も全く同じスタンスで享受する作品だ。作品が投げかける問い、謎。感動の質、価値の水準は同等だ。カフカも志村正彦も自らの孤独を追いつめて作品を創造している。
 

絵葉書のカフカ

 旅行前、カフカ遺稿の三部作『訴訟』『城』『失踪者』を集中して読んだ。以前読んだ印象が随分変化した。カフカの作中人物が他者や世界へ関わるあり方が異なって見えてきた。
 逮捕されたり、指令を受けたり、カフカ作品の中心人物は、よく言われるように「不条理」に突然、「他なるもの」や他者の言動に巻き込まれていく。以前はそう思っていた。
 しかし、今回の読み直しで、カフカの人物は、何かに巻き込まれていくという受動的存在ではなく、むしろ、自分で自分を巻きこんでいく能動的存在ではないのか、というように捉え方が変わってきた。単なる印象を記すだけだが、自分が自分を巻き込み、その自分に巻き込まれ、物語が進んでいく。その過程は物語の余白の方に刻まれている。

 生前のカフカは、プラハやドイツ語圏の文学サークルの中ではそれなりに知られてはいたが、一般的にはあまり知られていない作家だったようだ。そのカフカが今日のような存在になったのは、ブロートを始めとするカフカの友人たちや批評家たちの活動があってのことだったが、何よりも、カフカの「読者」の存在のゆえだろう。

 カフカの無数の「読者」たちが今日のカフカを創造したのだ。これまでの百年の間も、これからの百年の後も。

 (この項続く)

2014年8月24日日曜日

2014年8月の中欧

 夏季休暇を取り、中欧へ旅行してきた。個人旅行としたかったが、今回はその準備の時間もなく、すべてお任せのツアーにした。楽といえば楽だったが、「旅」の感覚はどうしても弱くなる。
 日常の散歩でも非日常の旅でも、偶然目にとめた風景や出来事、「偶景」が心に残る。今回もそのような場面に幾つか遭遇したので、ここに記したい。


 ウィーン空港を起点にして、ハンガリー、チェコ、スロバキアと巡り、ウィーン空港に戻るという周遊の行路。バスでの移動が長く、少しきつい日程。天気はまずまずだったが、予想よりも暑い。湿度もそれなりにある。なぜか毎朝のように、「夕立」に似た激しい通り雨が続く。地元のガイドによると、今夏の特徴らしい。昼近くになると、明るい陽射しがあふれてくる。移動中の高速道路から眺める空と雲。ヒマワリ畑とトウモロコシ畑、緑の平野が続く。

 時に高層アパートの群れが出現する。社会主義時代の建築物で、まさに規格品のように同一だったが、壁の色に変化を持たせることで、単調さを回避していた。1989年の東欧革命から25年目を迎える。四半世紀が経つが、その時代の痕跡がいたるところにある。こういう時は「中欧」というより「東欧」という名称の方がしっくりする。

 今回、フジファブリックの全曲をMP3プレーヤーに入れて、時折聴くことにした。私はふだんは家の中でしか音楽を聴かないが、欧州の風景の中に志村正彦の声がどのように響くのか、そんな興味があってプレーヤーを初めて携帯した。
 2004年のロンドン、2009年のストックホルム。彼は1stCDのマスタリング、4thCDの録音のために滞在している。メジャー最初と生前最後のアルバムという二つの作品に、欧州の香りが混ざりあっている。そのことにも後押しされたのかもしれない。

 「志村日記」2009年2月13日に、ストックホルムへの「旅」について「とても視野が広がった。日本という小さい国の片隅で今まで僕は何で縮こまってたんだろう。今年の日本での夏のツアーが終わったら、ちょっと僕は個人的にまた海外に行こうかななんて思ってます。今度はちょっと長くなるかもしれません。なーんて思ってます。でもそれと同じ位、日本という国の素晴らしさに気付いた」とある。この希望が実現していたら、と書くのも辛いのだが、彼の記した言葉だけはここに書きとめておきたい。

 彼の音楽はよく「和風」とか「日本的」とか形容されるが、私自身はそう感じたことがない。逆に「洋風」あるいは「国際的」だというわけでもない。二項対立的な枠組を通り抜けてしまうような、なかなか的確な言葉がないがあえて言葉にするのなら、ある「普遍的な場」に彼の音楽は存在している。この「普遍的な場」とは、「日本」でも「海外」でもない、どこにもない場と言い換えることもできる。

 平野の続く中欧の空は、山梨や東京の空よりもずっと広がりがある。車窓の風景にフジファブリックの楽曲がBGMのように流れる。なんだか、志村正彦と共に旅をしている気分になる。
 どんな曲が合うのか、早送りや頭出しもしながら、数十曲聴いていったのだが、最もよかったのは、季節のせいもあるのか、『陽炎』のアコースティックヴァージョンだった。少しけだるい感じとゆっくりとしたテンポが、中欧の空と平野の風景に溶けあう。


ハンガリーの高速道路から  ヒマワリ畑が続く

 帰国後、「山梨日日新聞」8月17日付に「甲府でフジファブ・志村語る集い 詩への思い、物語共有」と題する記事が掲載されていることを知った。丁寧な取材に基づくもので有り難い。私がフォーラムの最後で述べた「志村さんの作品は100年後にも残ると思う。ではどう残すか。皆さまの言葉で語っていってほしい」という言葉が紹介されていた。すでにLN85でも書いたが、この「百年」という言葉がいささかオブセッションのように頭をよぎることがこのところ多い。今回の旅行でも自然に「百年後」と「百年前」という二つの時の物差しがよく浮かんできた。

 今から百年前の1914年7月、欧州で第一次世界大戦が始まった。今回訪れた諸国は、当時のオーストリア=ハンガリー帝国。サラエボ事件を契機にセルビアに対して宣戦を布告した第一次世界大戦勃発の当事国だ。8月になるとその戦火が欧州各地に広がり、一千万人に及ぶ兵士が動員されたそうだ。8月末に、日本もドイツへ宣戦布告し第一次世界大戦に参戦している。

 欧州では第一次大戦の方が第二次大戦よりも犠牲者が多い国があるようで、関心も高い。「The Wall Street Journal」掲載の「第1次世界大戦から100年 戦場となった欧州各地の今むかし」( http://jp.wsj.com/news/articles/SB10001424052702303844704579654944219614968 )では、「戦争の百年」の風景がカラーとモノクロ写真の対比で示されている。破壊を修復し、原型を遺していこうとする欧州の底力を感じる。日本にはないものだ。

 1914年から今日までの百年は、第一次、第二次の世界大戦、その他の数多くの戦争が含まれる「戦争の百年」だ。そして、国家主義・民主主義という政治体制、社会主義・資本主義そしてグローバル資本主義という経済原理、それらの社会体制がヘゲモニーを争った「覇権の百年」だ。2014年は、世界のそして日本の「百年」という時間を考える節目の年でもある。

  欧州の短い夏の活気。バカンスの時期ということもあり、欧州内の旅行者が多いようだが、私たちアジア人を含め、世界から人が集まり、知らない言語が飛び交う。ブダペストやプラハの街には人があふれ、高速道路は渋滞し、飛行機は満席。人々は「観光」にいそしみ、「平和」な光景が続く。私たちもその恩恵を享受している旅行者の一人だ。


ブダペスト市内の表通り  CDのディスプレーケース?

 西欧や中欧のような欧州の中心部では、「平和」はいちおう維持されていると言えるのだろう。一言で言うと(そう言ってはいけないのだろうが)、二度の大戦で欧州内部が「戦場」となった「経験」が生かされているのだろう。しかし今日でも、その周縁部や外部では紛争や戦火が依然として続いていることを忘れてはならない。

  (この項続く)


【追加】 この記事の掲載時は「偶景」というシリーズで連載していく旨を記しましたが、その後、同様な観点での記事が増えていきましたので、このシリーズ名は設定しないことにしました。それに伴い、題名に付した通番を削除し、記事の一部を変えさせていただきました。内容の変更はありません。(2016.6.27) 
 

2014年8月10日日曜日

『桜の季節』から『夜汽車』へと-CD『フジファブリック』8 [志村正彦LN 88]

 CDアルバム『フジファブリック』は、『桜の季節』で始まり『夜汽車』で終わる。

 『桜の季節』は、《上京》の物語、おそらく山梨から東京へと移り住むことが背景となっている。それに呼応するかのように、『夜汽車』は《帰郷》の物語、一時的なものであるにせよ、「峠」を越えて、東京から山梨へと戻っていくことが背景となっているとこれまで受け取めてきた。(東京とか山梨とかいう固有名を抜きにして、普遍的な《上京》と《帰郷》と考えてもいいが)少なくとも、アルバム全体として、始まりの曲と終わりの曲が、何処かに往くことと何処かに還ること、《往還》の枠組みを持つとは考えてきた。

 志村正彦は「ファースト・アルバムは東京vs.自分」というテーマがあったと述べている。([http://musicshelf.jp/?mode=static&html=series_b100/index  ]
 その「東京vs自分」というテーマを「上京vs 帰郷」に変奏すると、このアルバムの全体像が見えてくるのではないか。そのような見通しのもとに原稿を準備してきた。ところが、あらためてアルバムの全曲を聴き、特に『夜汽車』の歌詞をくりかえし読むと、「上京vs.帰郷」という図式的な解釈からこぼれ落ちてしまう、微妙な細部が見えてきた。

 志村正彦の歌を読むためには、歌の細部と余白を読むことが必要となる。『夜汽車』の全歌詞を引用してみよう。

 長いトンネルを抜ける 見知らぬ街を進む
 夜は更けていく 明かりは徐々に少なくなる

 話し疲れたあなたは 眠りの森へ行く

 夜汽車が峠を越える頃 そっと
 静かにあなたに本当の事を言おう

 窓辺にほおづえをついて寝息を立てる
 あなたの髪が風に揺れる 髪が風に揺れる

 夜汽車が峠を越える頃 そっと
 静かにあなたに本当の事を言おう              [『夜汽車』]

 歌の主体は、「僕」のような人称代名詞としては登場しないが、視点人物として、「あなた」を見つめていいる。「あなた」は女性、歌の主体は男性と捉えていいだろう。夜汽車という場と時、「あなた」は「話し疲れ」て「眠りの森へ行く」という情景からして、かなり親密な関係であることは間違いない。
  この二人は何処に行こうとしているのだろうか。行き先も目的も分からないが、歌の主体の故郷へと向かっているような気がする。(「あなた」の故郷へという可能性もあるが)

 山梨に住む者なら、「長いトンネルを抜ける」「明かりは徐々に少なくなる」「峠を越える」という言葉から、中央線や富士急行線を連想してしまうだろう。(学生の頃、私も新宿で中央線の夜行列車に乗り、「長いトンネル」や「峠」を超えて甲府へ帰った。特急に乗る余裕はなく、各駅停車の旧式電車で「窓」を開け「風」に揺れながら)歌の主体を志村正彦の分身だとするなら、歌の主体が「あなた」を連れて東京から山梨へと帰っていく物語のように感じられる。帰郷というモチーフが強く現れてくる。

 「話し疲れたあなたは 眠りの森へ行く」。その時を待ちかまえるようにして、「夜汽車が峠を越える頃」に、歌の主体は「あなた」に対して、「そっと」「静かに」、「本当の事」を言おうとする。
 しかし、「眠り」の中の「あなた」が「本当の事」を聴き取ることはない。眠りが壁のように言葉を塞ぐ。むしろ、言葉が伝わらないからこそ、歌の主体は「本当の事」を語りかけようとする。『桜の季節』の「手紙」が投函されないで、「僕」は「読み返して」いるだけという状況にいささか似ている。

 『夜汽車』でも『桜の季節』でも、歌の主体の言葉は他者へ届かない。言葉は結局主体の方へ戻っていく。独り言のような世界。志村正彦らしいといえばらしい世界だ。
 ところで、『桜の季節』では、歌の主体を示す1人称代名詞「僕」が登場し、他者を示す2人称代名詞は作中にない。それに対して、『夜汽車』では歌の主体を示す1人称代名詞が作中になく、「あなた」という他者を示す2人称代名詞は使われている。これは偶然だろうか。無意識だろうか。アルバム『フジファブリック』は、『桜の季節』の主体「僕」から、『夜汽車』の「あなた」へと向けて歌われているようでもある。

 この歌は「夜汽車が峠を越える頃 そっと/静かにあなたに本当の事を言おう」で終わりを迎える。歌詞にある言葉のように「そっと/静かに」終わる。言葉のないエンディングが永遠に続くかのような余韻が残る。まるで夜汽車がそのままずっと走り続けるように。

 最後に、『夜汽車』の余白から浮かんできた、私の「妄想」のような解釈を記したい。

 「あなた」は眠りの中にいて、歌の主体は「本当の事を言おう」とする。しかし、「言おう」とするところで、時間は止まってしまう。僕は言うことができない。
 歌の主体と「あなた」の時間は止まる。夜汽車はそのまま走り続ける。「峠」を超えることはない。歌の主体も「あなた」も何処にも行けない。何処にも還ることはできない。帰郷が果たされることはない。

 言葉のない余白をどう「誤読」するか。そのような問いが残る。

     (この項続く)

2014年8月7日木曜日

「作品・テーマ ラベル」を作りました [諸記]

 「志村正彦ライナーノーツ」の中で、複数回書いたものを中心に、作品・テーマ別のラベルを新たに作りました。
 今のところ、作品別に『若者のすべて』,『夜明けのBEAT』/『モテキ』,『ペダル』、アルバム別にCD『フジファブリック』、テーマ別に『20140413上映會』のラベルがあります。

2014年8月6日水曜日

通り抜ける-CD『フジファブリック』7 [志村正彦LN87]

  メジャー1stCD『フジファブリック』は、2004年11月10日にリリースされた。「志村正彦ライナーノーツ」は、曲単位で論じるのが基本だが、CD単位で論じてみると異なる風景が広がってくるかもしれないと考え、昨年の11月10日(1stCD9周年の日)から、1stCD『フジファブリック』を巡る考察を断続的に掲載してきた。
 今回は久しぶりにCD『フジファブリック』について論じたい。前回から5ヶ月の空白がある。参考までに、1~6回の掲載日とテーマを掲げる。

2013年11月10日 ないものねだりの空想-CD『フジファブリック』1 [志村正彦LN 56]
2013年11月17日 「レコード持って」-CD『フジファブリック』2 [志村正彦LN 57]
2013年12月8日 アルバムのテーマ-CD『フジファブリック』3 [志村正彦LN 61]
2013年12月14日 「聴いた人がいろんな風に受け取れるもの」-CD『フジファブリック』4[志村正彦 LN63]
2014年2月9日 手紙-CD『フジファブリック』5 [志村正彦 LN70]
2014年3月16日 「桜が枯れた頃」 -CD『フジファブリック』6 [志村正彦LN73]

 CD『フジファブリック』は多面体だ。このアルバムは、『桜の季節』『陽炎』『赤黄色の金木犀』と続く、独創的な「四季盤」の楽曲、『TAIFU』『追ってけ追ってけ』『打上げ花火』『TOKYO MIDNIGHT』そして『サボテンレコード』へと展開していく、プログレッシブ・ロックを中心とするクラシック・ロック、ファンクからラテンまで広がる音楽の系譜、『花』『夜汽車』に濃厚に伝わるフォーク音楽の感触など、極めて多様な音楽から成り立っている。多面体ではあるが、多面性に分裂しているわけではない。核には、「フジファブリック」と名付けるしかない音楽がある。

 歌詞の言葉も多面体を形成している。歌の主体そして作者の志村正彦という存在に対して、ある面から見る像と他の面から見る像とは異なる。複数の志村正彦が多面体の鏡面に写し出されている。
 しかしまた、その多面体を横断していくと、反復しつつ緩やかに変化し、再び重なりゆく言葉の群に遭遇することもある。
  アルバム『フジファブリック』には、例えば、次のような言葉の群がある。

 その町に くりだしてみるのもいい
 桜が枯れた頃 桜が枯れた頃                    [桜の季節]


 想像に乗ってゆけ もっと足早に先へ進め   [TAIFU]
 
   やんでた雨に気付いて 慌てて家を飛び出して   [陽炎]

 飛び出すのは 時間の問題さ               [追ってけ追ってけ]

  かばんの中は無限に広がって
 何処にでも行ける そんな気がしていた        [花]


   ならば全てを捨てて あなたを連れて行こう
 今夜 荷物まとめて あなたを連れて行こう    [サボテンレコード]


  僕は残りの月にする事を
 決めて歩くスピードを上げた               [赤黄色の金木犀]


  長いトンネルを抜ける 見知らぬ街を進む
 夜は更けていく 明かりは徐々に少なくなる      [夜汽車]


 歌詞の中から、動詞による表現を抜き出してみよう。
 くりだす[桜の季節]、乗ってゆく・先へ進む[TAIFU]、(家を)飛び出す[陽炎]、飛び出す[追ってけ追ってけ]、(何処にでも)行く[花]、(連れて)行く[サボテンレコード]、歩く(スピード)[赤黄色の金木犀]、(街を)進む [夜汽車]。動詞が志村正彦の詩的世界の中心を形成している。

 行く、歩く、進む、飛び出す、乗ってゆく、くりだす。
 各々の詩的世界の差異を超えて、ある地点からある地点へと移動する、ある場からある場へと通り抜けていくというモチーフが貫かれている。場所は、故郷の路地裏であったり、都会の街路であったり、時間も、現在進行形であったり、回想であったりする。

 具体的な引用を省いて、結論だけ述べるが、欧米から日本のロックまで、その歌詞の中心に、《こちら側から向こう側の世界へと通り抜けていく》というテーマがある。「旅」であれ「脱出」であれ、繰り返し繰り返し、向こう側へと通り抜けていく。今日、それは「ロックの幻想」として片づけられてしまうかもしれないが、「幻想」は「幻想」ゆえの現実感をいまだ保ち続けている。「幻想」から「幻想」へと通り抜けていくのも、ひとつの「現実」であるかのように。

 アルバム『フジファブリック』で志村正彦が表現した世界を、もう少し微細に眺めてみよう。彼の描くのは、作品内の現実の出来事であったり純粋な想像の出来事であったりする。出来事の虚実も多様だ。
 それは、「桜が枯れた頃」という奇妙な季節に「くりだしてみる」「のもいい」と語られるような《未来》の出来事であり、現在の〈僕〉の「胸を締めつける」《残像》の中の世界であり、「想像に乗ってゆけ」という文字通り《想像》の姿であり、「何処にでも行ける」という可能性の《予感》であり、「連れて行こう」という《今だ実行されていないこと》への決意である。

 志村正彦は何処から何処へと通り抜けようとしていたのだろうか。 
      (この項続く)

2014年8月1日金曜日

永田和宏「一〇〇年後に遺す歌」 [志村正彦LN86]

 八月に入った。猛暑が続く。季節は「真夏のピーク」を迎えている。ここ甲府盆地は時に全国一の最高気温ともなる地。風景がゆらゆらすると、人もゆらめく。

 三日前の午後3時過ぎに、車のエンジンを付けた瞬間、ピアノの一音一音がゆっくりと車内に立ち上がった。聴き慣れた旋律、すでにある種の懐かしさすら漂わせる前奏。『若者のすべて』だ。車を走らせずに、耳と体を澄ませる。八月上旬の富士五湖での花火大会を告げるDJのナレーションと共に終了した。

 車中でオンエアされているフジファブリックを聴くのは初めてだった。局は甲府にあるFM富士。リクエストは富士吉田の方。偶然のように必然のように、『若者のすべて』は放送されたのだろう。
 カーラジオからミディアムバラードのように流れるこの歌は、真夏の中心を堂々と歩んでいるかのようだった。

 前回の「百年後の志村正彦」は沢山の方に読まれたようだ。〈百年後の聴き手に比べれば、私たちはまだ志村正彦の「同時代」に生きている〉という箇所が「志村正彦の言葉bot」に取り上げていただき、有り難い。このライナーノーツの文は何度も推敲することが多いが、あの一文はめずらしく自然に湧き出てきた。百年後の未来を思い描くと、そのままそこから遡って、「同時代」という視点が出てきた。

 私は志村正彦よりかなり上の世代に属する。それでも、現在の十代から私たちのような世代までを含めて、「同時代」を生き、フジファブリックを聴いている。『若者のすべて』の歌詞を引くなら、「僕ら」は「同じ空」を「見上げている」のだ。

 今日はもう一つの偶然について書きたい。前回の文を公開した翌日、日本経済新聞7月27日付の文化欄に、歌人永田和宏氏の「一〇〇年後に遺す歌」という文が掲載されていた。永田氏は「歌を遺す」ことの「責任」について語る。

 歌人の馬場あき子が、「いい歌を作るのも歌人の責任だが、いい歌を遺すのも歌人の責任だ」と言ったことがある。いい言葉だ。まさにそのとおりと、私はあちこちで吹聴している。
 先の世代から遺してもらった歌を、次に送り遺すこととともに、現代という時代が生み出した新たな作物を次世代に遺す仕事も、同じように歌人にとっての責任である。

 歌を作ることとと歌を遺すこととの等価性。先の世代、現代の世代、次世代と歌を遺してい継承性。あまり顧みられない視点かもしれない。作り手は当然作ることに集中する。遺すためには、集中して読むことが必要。それは別の仕事。そういう日常意識があるのだろう。

 本来、短詩型文学の世界は、「作る」「読む」の二つの行為は不可分に結びついている。二つの行為は一つの場を形成し、秀歌を「編む」「遺す」という三つ目の行為へとつながっていく。現代という時代は、その場が失われつつある。そのような危機意識、批評意識をこめて、永田氏は今『近代秀歌』の続編『現代秀歌』を編纂していると考えられる。しかし、「編む」ことはなかなか難しい。そのための方法について氏は次のように提言している。
 
 「いい歌を遺す」と言っても、いい歌とするには、同時代の歌はまだ時間の濾過作用を経ていない。選歌は、勢い、アンソロジーを編む人間の趣味や嗜好に左右されやすくなる。当然のことだ。要は、現代に作歌活動をしている多くの歌人たちが、それぞれ自分だけの一〇〇首を選ぶことであろうと思うのである。ひとりの択びが絶対ではないが、一〇〇人が選べば、そのアンサンブルとして、遺すべき一〇〇首はおのずから定まってくる。いい歌は自然に残っていくなどというのはあまりに楽天的な怠慢あるいは傲慢である。
 
 「同時代」には、確かに「時間の濾過作用」が働かない。「濾過」が効いていないからこそ、受け手は主体的に作品を選択する。それは「趣味や嗜好」かもしれないが、創造的な行為でもある。「ひとり」ではない「多く」の作り手が選択する。その選択を蓄積する。蓄積の中の重なり合いが濾過に近い効果をなし、同時代に「編む」「遺す」ことを可能とする。

 ロック音楽の世界でも、実作者の選択、批評家の選択、そして私たち聴き手の選択、多様な選択があってよい。選択は、選別や否定ではなく、肯定的なものだ。いい歌を選ぶのは、その歌を愛し続けることだ。だからこそ選択は絶対的な肯定だ。
 
 そして、永田氏は「いい歌は自然に残っていくなどというのはあまりに楽天的な怠慢あるいは傲慢である」と戒める。私たち、志村正彦、フジファブリックの聴き手は、この現代歌壇の重鎮の戒めに耳を傾けねばならない。
 
  それでも永田氏の言葉に反して、志村正彦のいい歌は自然に残ると信じている自分がいるのだが、そのことが「怠慢」や「傲慢」につながってはならないとは強く思う。
 自分自身に対して、「百年後の志村正彦」を無批判的に唱える「傲慢」を避け、逆に、何も書かない何も活動しないという無為の「怠慢」に陥ることも戒めたい。