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2014年12月23日火曜日

空-フジファブリック武道館LIVE 4[志村正彦LN99]

 
  『卒業』のイントロと共に、武道館の巨大な横長スクリーンに、スミス監督による映像が映し出される。
 《声》と《音》、聴くことに集中していた意識が再び見ることへと向かう。断片的な記憶で不確かだが、印象を記す。

 強い日差しをあびている大地。流れゆく雲の影が写り込む。光と影に照らされ、律動する丘と山。空撮か、かなり高い所からの撮影か、俯瞰的な視点からの映像は、見る者をおのずから「空」の場に位置づける。
 私たちは「空」の位置から大地を眺めている。やがて、薄く茜色に染まる「空と雲」がスクリーンを覆う。今度は、遠く、茜色の「空」を見上げる位置へと視点が移動する。
 あの時、この映像は、『卒業』だけでなく、『茜色の夕日』と『若者のすべて』を含めて、連続した三つの曲の背景となっていると思われた。

 志村正彦の存在しない「空」。この映像はそのような風景を描いているように感じた。

 武道館から帰ってきてから、『茜色の夕日』、『若者のすべて』、『卒業』の三曲を繰り返し聴いた。それぞれの歌の主体、なおかつ、風景を眺める主体でもある人称代名詞は、『茜色の夕日』が「僕」、『若者のすべて』が「僕」および「僕ら」、『卒業』が「ぼくら」である。このような人称代名詞の選択は、歌の世界と深い関連がある。

 そして、三つの歌の主体が見る風景の中で最も遠い対象として現れるものは、「茜色の夕日」「東京の空の星」(『茜色の夕日』)、「最後の花火」「同じ空」(『若者のすべて』)、「ゆらゆらゆらり滲んで見えてる空」(『卒業』)だ。

 主体は、「空」を眼差している。

 志村正彦の二つの作品にまず焦点をあてよう。「茜色の夕日」と「東京の空の星」、「最後の花火」と「同じ空」。夜の空とそこで光り輝くもの。そのようなモチーフの関連性がある。
 『茜色の夕日』では、歌の主体「僕」は次のように歌う。

  東京の空の星は
  見えないと聞かされていたけど
  見えないこともないんだな

 上京した地方出身者の共通の経験を語っている。「見えないと聞かされていたけど」という伝聞とは異なり、「東京の空」でも「星」は「見えないこともないんだな」と気づいたことは、随分昔のことになるが、志村と同じように、山梨から東京へと出て行った私の青年時代にもある。「星」の有無で地方と東京が対比されているが、「見えないこともない」という二重否定は、微妙ではありながらも、地方と東京とのつながりも示している。この相反する関係は、『茜色の夕日』の主要なモチーフ、「僕」と「君」との関係も表している。

 「星」の見える「東京の空」は当然、夜の空だ。この夜の空を眺める「僕」は、東京の夜を一人で歩く孤独な若者だ。街を歩き、時に、夜の空を見つめ、佇む。単独者の影が濃い。
 『若者のすべて』の最後の一節には、「同じ空」を見上げる「僕ら」が登場する。

  最後の最後の花火が終わったら
  僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ

 「最後の最後の花火」が美しく輝く空、「僕ら」にとっての「同じ空」はやはり夜の空だ。「僕ら」という一人称複数形が指し示す人物が、どのような存在であり、どのような関係を結んでいるかは、志村正彦の詩がいつもそうであるように、明らかでない。
 この前の一節で「僕はそっと歩き出して」とあるように、単独者の「僕」が根底にあるにしても、ここで、複数形の「僕ら」が登場したことには、志村の作品にある重要な変化が起きていると読みとれ、ある種の感慨を覚える。(このあたりの考察は一連の『若者のすべて』論を参照していただきたい)

 武道館では、志村正彦の音源の《声》が志村作の『茜色の夕日』を歌い、山内総一郎の《声》が志村作の『若者のすべて』を歌った。続いて、山内総一郎が自ら自作の『卒業』を歌った。《声》の主体と歌の作者の組合せが、順に変化していった。
 『卒業』は次のように歌い出される。第1節と2節を引用する。

  扉風ふわり立つ ぼくらの体を包み込む
  沢山の思い出はこっそり鞄に詰め込んだから

  ゆらゆらゆらり滲んで見えてる空は薄化粧
  それぞれ道を歩けばいつかまた会えるだろう

 『卒業』の歌の主体「ぼくら」は、山内、金澤、加藤の三者を指し示していると、私は解釈する。山内の歌詞の特徴として、作者と歌の主体との間の距離が近いことが指摘できる。
 作者山内は、自分自身と金澤、加藤を加えた現在のフジファブリックの三人を「ぼくら」という主体に設定して、ある風景の中に佇ませている。

 「ぼくら」は「沢山の思い出」を「こっそり鞄に詰め込んだから」、再び歩み始めることができる。この「鞄」という言葉は、志村の『花』の一節「かばんの中は無限に広がって/何処にでも行ける そんな気がしていた」への応答とも捉えられる。「無限」に広がる「かばん」と「思い出」を詰めこむ「鞄」。この対比には、後戻りのできない時間が流れている。

 続く、「ゆらゆらゆらり」には、志村の『陽炎』の「残像」が重ねられているかもしれない。「滲んで見えてる」「薄化粧」の「空」の下で、「それぞれ道を歩けばいつかまた会えるだろう」と自らに語りかけながら、「ぼくら」は歩き始める。『若者のすべて』の「そっと歩き出して」、《歩行》のモチーフがこだましているようでもある。
 「いつかまた会えるだろう」という帰結に対しては「それぞれ道を歩けば」という仮定しか述べられていないが、その「いつかまた会える」相手は、作者の意識としても無意識としても、志村正彦その人だと解釈できるのではないだろうか。

  さなぎには触れるなよ もうすぐ羽ばたく時が来て
  殻の中もがいてる心を大きく解き放つでしょう

 この第3節からは、歌の主体というより、作者自身の声が響いてくるように聞こえる。
 「さなぎ」は「ぼくら」の象徴でもあり、「殻」の中でもがいている。「触れるなよ」と接触を禁じているのは、もうすぐ「羽ばたく時」、《卒業》の時が来るからだろう。「心を大きく解き放つ」時が訪れる。そのことを「ぼくら」は必要としている。

 美しく沈鬱でもあるメロディ、それに呼応する歌詞。その反面、歌の主体「ぼくら」の意志は強固でもある。山内総一郎の言葉には、志村の詩には見られない、ある種の《烈しさ》がある。《苦さ》を伴う《烈しさ》とでも言うべきだろうか。バンドのフロントマンとして背負わなければならない《烈しさ》のようなもの、《覚悟》と共に進む《意志》のようなものが、『卒業』の底に流れている。
 第4と5節はある情景を描いている。

  静かな丘に登れば 出て来た街を見渡そう
  暗い夜道に迷えば 思い出し灯火燃やそう

  春の中ぽつり降る ぼくらの足跡消して行く
  悲しみは 悲しみはこのまま雨と流れて行けよ

 「静かな丘」「出て来た街」「暗い夜道」「灯火」「春の中」「雨」。これらの情景、イメージ群には、志村の故郷富士吉田の風景と志村の詩的世界が反映されているように感じる。
 しかし、その「春」の季節の中で、「雨」が「ぼくらの足跡」を「消して行く」。「悲しみ」は「このまま雨と流れて行けよ」という言葉の表すものは、「悲しみ」の痕跡の消去だろうか、「悲しみ」の封印だろうか。あるいは、「雨」と流れていく「悲しみ」が「心を大きく解き放つ」のだろうか。
 その解釈は聴き手にゆだねられている。

 『卒業』はアルバム『LIFE』の15曲目、最後の曲であり、この歌を逆回転させて作られたのが1曲目『リバース』だと言われている。『リバース』は文字通り《再生》を意味する。アルバム全体が『リバース』から『卒業』へ、『卒業』から『リバース』へという循環構造を持つ。
 『卒業』の歌詞は五節、十行の短い言葉から成る。この歌詞そのものも、第3節を中心軸にして、第4,5節は、そのまま第1,2節に戻っていく循環の構成になっていると読むこともできる。

 「春」の「雨」の中、流れていく「悲しみ」は、「ゆらゆらゆらり滲んで見えてる」「薄化粧」の「空」に還っていく。その「空」の場所から、地に降り立ち、「ぼくら」は「道」を歩き始める。

 武道館の「空」の映像は、フジファブリックの新たな旅立ちを映し出していたのかもしれない。

     (この項続く)

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