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2015年12月31日木曜日

三つの系列-『若者のすべて』20[志村正彦LN118]

 『若者のすべて』についての「批評的エッセイ」の連載も今回で20回目を迎える。関連した回を含めると25回を数える。

 三年前、2012年12月末、富士吉田で『若者のすべて』のチャイムを聴いたことが契機となり、翌年3月にこの歌について書き始めた。6月からは、「ー『若者のすべて』1」というように付番しながらシリーズとして展開していった。2013年は12回まで終えた。
 夏になるとこの歌が話題となる。だから、夏に書き出し、秋や冬の始まりの頃までに書き終わるというのが習慣のようになってしまった。昨年は13回から15回まで、今年は16回から今回の20回まで書くことになった。

 冒頭で記したように、筆者としては「批評的エッセイ」の試みとして書いてきた。歌詞の語りの分析や資料に基づく考察を書く「批評的」側面と、「私」あるいは「僕」という聴き手を通した経験、風景や出来事から触発された想いを述べる「エッセイ」的側面。その二つを追求しようとした。その意図が実現しているかどうかは心もとないが、何か新しいことを試みることがこの連載を続けるモチベーションになっている。

 2015年、今年は、柴崎コウのカバーの話題から始まった。初の女性ボーカルによるカバー。この歌が女性によって歌われることで、この歌の新しい風景が描かれた。 
 10月10日には、フジテレビ『MUSIC FAIR』で、柴咲コウと現在のフジファブリックがコラボレーションしてこの曲を演奏した。柴崎から、現在のボーカル山内総一郎へとリレーしていった。キーが変わる演出には少し驚いた。伊東真一(HINTO、堕落モーションFOLK2)がギターのサポートをしていたのは嬉しかった。彼は「大好きな曲をまたみんなと演奏させてもらえて幸せでした。」とtwitterで呟いていた。

 この日最も印象に残っているのは、柴咲コウの帽子姿。グレー色のハットを被り、綺麗な声で歌っていた。すぐに、志村正彦の帽子姿が浮かんできた。
 彼は、2006年12月の渋谷公会堂のステージでハットをたまたま被り出したそうだ。それ以来、ライブ映像でもアーティスト写真でも帽子姿が多くなる。「晩年」という言葉をあえて使うが、晩年の志村正彦と帽子、その印象は不思議なほど結びついている。記憶に強く残る。

 まだ数日前のことだ。25日クリスマスの夜、テレビをつけて、BSチャンネルをupさせていくと突然、「街灯の明かりがまた 一つ点いて 帰りを急ぐよ」という声と字幕が耳と目に飛び込んできた。『若者のすべて』だ。槇原敬之が歌っていた。データを見ると、BS-TBSの『槇原敬之 Listen To The Music The Live ~うたのお☆も☆て☆な☆し』という番組だった。この放送のことは全く知らなかった。途中からなのが少し残念だったが、たまたま見られたことを喜んだ。

 内容は昨年発売された同名のDVDの映像と同じようだが、BSとはいえ、テレビというメディアで放送されことは嬉しい。より多くの人がこの歌を知るきっかけともなるからだ。ネットで調べるとこの日が初放送らしい。志村正彦の命日の12月24日の翌日の放送というのは単なる偶然だろうが、この偶然にも感謝したい。ファンにとっては思いがけない贈り物となった。
 槇原敬之はやはり上手い。言葉を丁寧に扱う。彼の歌う『若者のすべて』は、少し情けないところもある男のブルースのようにも聞こえる。

 2015年の現在、『若者のすべて』は柴咲コウや槇原敬之という時代を代表する歌手にカバーされ、テレビで放送されるなど、高く評価されている。最近、フジファブリックと同世代のバンド、THE BACK HORNもライブでカバーしたそうだ。
 すでに若者の歌、夏の歌の「定番」ソングのようにして親しまれている。しかし、発表当時はそうではなかった。
 「Talking Rock!」2008年2月号のインタビュー(文・吉川尚宏氏)を連載の前回部分と一部重複するが引用したい。志村はこう語っている。


ある意味、諦めの気持ちから入るサビというのは、今の子供たちの世代、あるいは僕らの世代もそう、今の社会的にそうと言えるかもしれないんだけど、非常にマッチしているんじゃないかなと思って“○○だぜ! オレはオレだぜ!”みたいなことを言うと、今の時代は、微妙だと思うんですよ。だけど、“ないかな/ないよな”という言葉から膨らませると、この曲は化けるかもしれない! そう思って制作を再スタートさせて、精魂込めて作った曲なんだけど………なんていうか……こう……自分の中で、達成感もあるし、ターニングポイントであることには間違いないんです。すべてに気持ちを込めたし、だから、よし!と思ってリリースしたんだけど、結果として、意外と伝わってないというか……正直、その現状に、悔しいものがあるというか…


 「精魂込めて作った」「達成感もある」「ターニングポイントである」「すべてに気持ちを込めた」というような過剰な表現を、志村はインタビューであまり使ったことがない。それほどこの作品は彼にとって重要なものだった。皮肉なことに、「意外と伝わってないというか……」の「ないというか……」にはこの歌のモチーフでもあった「諦めの気持ち」に近いものも読みとれる。悔しさ、やるせなさのようなものが素直に述べられていて、痛々しい感じさえする。

 確かに、シングル『若者のすべて』やアルバム『『TEENAGER』のレビューをいくつか読んでみても、この作品は少なくとも現在ほどの評価は得ていなかった。良い作ではあっても、フジファブリックらしくないというような声があったようだ。歌詞にしろ楽曲にしろそれまでの作風とは幾分か異なっていたので、ファンもどう受け取っていいのか分からなかった可能性もある。
 なぜ『若者のすべて』が、志村が込めた「すべて」の想いほどには、受け入れられなかったのか。この問いに対しては、事実がそうであった、という現実を確認することしか今のところはできない。(これについてはいつか考察してみたいが)

 しかし繰り返すが、今日、この歌はたくさんの聴き手を得ている。若者だけでなく、多くの世代から支持されている。結果として、この歌が人々に届くまでには「時」が必要だった。
 安部コウセイは 『MUSIC FAIR』放送後のtwitterで「若者のすべては時代を越えていく曲ですね」と呟いた(10月10日@kouseiabe)。
 来年になればまた新たな聴き手そして歌い手を、この歌は獲得していくにちがいない。「時」が必要だった分だけ、それ以上に、はるかに、「時」を超えて、この歌は生き続けていく。
 今回は20回目という区切りになるので、公式サイトからミュージックビデオをこのblog上では初めとなるが紹介したい。




 歌の解釈や分析は、論者の設定するモチーフや系列、分析の枠組によって変化していく。この論は、あたりまえのことであるが、私自身による試論であり私論にすぎない。誰もが多様に自ら読みとることができる。
 歌は開かれている。歌は自由だ。

 今年は戦後70年を迎えた。若者たちによって新しい運動も起きた。社会の現実に向き合うことは私たちの権利であり、それ以上に義務である。義務であるからこそ、時間をかけて、対話する必要がある。多様な視点から深く考えることが、社会や世界の方から私たちに向けて要請されている。

 先の引用にあるように、『若者のすべて』の「ないかな ないよな」には世代や社会に対する問いかけも含まれていた。そうであれば、「世界の約束を知って それなりになって また戻って」という歌詞の一節もより広い文脈や背景の中で捉え直すことができる。「世界の約束」という言葉の重みも増してくるだろう。「運命」や「途切れた夢」という表現も別様の解釈が生まれる余地もあるかもしれない。
 
 私は、第1回から12回まで、「すりむいたまま 僕はそっと歩き出して」に収束される、歌の主体「僕」という一人称単数で指し示される「一人」「単独者」の歩行の系列と、「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」に集約される、「僕ら」という一人称複数で示される「二人」の再会、その背景にある「花火」を巡る系列という、二つの系列という枠組でこの歌を分析してきた。

 今年の考察ではその二つに加えて、「世代」「社会」という第三の系列を見いだすことができた。資料の読み直しによるものだが、現実からの触発もあった。
 志村正彦は、「僕」と「僕ら」を超えてそれを包含するものとしての「世代」、それが直面する「社会」という視点をある程度までこの歌に込めたと言える。

  「僕」、「僕ら」、「世代」という三つの系列が『若者のすべて』の「すべて」を構成している。20回目の今回、そのような考えにたどりついた。
 この歌になぜ「若者」「の」「すべて」という題が付けられたのか、その問いに対する一つの答えが少しだけ見えてきたのかもしれない。

2015年12月27日日曜日

佐々木健太郎、「世界は幻」から「世界の果て」へ。

 富士吉田での佐々木健太郎&下岡晃の弾き語りライブの話に戻りたい。

 下岡が十曲ほど歌った後、佐々木健太郎のステージが始まった。「Almost A Rainbow スウェット」を着て登場。立って弾き語りをするので姿がよく見える。
 今年は8月のハーパーズミル、10月の桜座、そして12月のリトルロボットと、三度目の佐々木健太郎だ。四ヶ月の間だが、季節は夏、秋、冬と移り変わった。季節や場所、人の組み合わせによって、歌の感触も異なる。

 最初は『Tired』。最新作『Almost A Rainbow』の曲だ。美しいがややかげりのある声で歌われる。

  Ah 世界の果てで眠っていたいな
  LaLaLa
  Ah 世界の果ての扉を閉めて
  LaLaLa


 このライブに先立ち、Analogfishと佐々木健太郎の作品を繰り返し聴いた。特に歌詞を初期から現在まで読みこんだ。「世界」は、佐々木が反復するモチーフだ。前回紹介した『クリスマス・イヴ』にも「傷だらけの世界」という表現がある。
 「世界」という語彙は日本語ロックやJポップでよく使われているが、そのほとんどはクリシェだ。十年以上前に流行した所謂「セカイ系」の影響かもしれない。安易な濫用が目立つが、佐々木の場合は異なる。「世界の果て」は彼の持続するモチーフから生みだされた言葉だ。

 ソロアルバム『佐々木健太郎』中の『STAY GOLD』には、「思春期にさまよった世界の扉は閉ざされ続けたまま」という一節がある。この「世界の扉」は世界への入口の扉を指すのだろうが、「世界の果ての扉」は世界の果てへの入口の扉、ある意味では世界からの出口の扉というように読める気がする。歌の主体はその扉を閉める。その上でその場所で「眠っていたいな」と想う。
 例えば『おとぎ話』(『佐々木健太郎』収録)にも、「おとぎ話を子供の頃に聞かせてもらう前に/見てしまった扉のむこう/サンタクロースや氷の魔女が脱ぎ散らかした衣装目を瞑って扉をしめた」という扉の開閉というモチーフがある。彼の記憶に関わる重要なモチーフなのだろう。

 2曲目『Alternative Girlfriend』の途中からハプニングがあった。ステージでは佐々木一人が歌っているのだが、どこからどもなくコーラスが聞こえてくる。佐々木の声ともう一人の「天の声」がハーモニーをつくる。客は驚いて辺りを見回す。実は、見えない通路の方で下岡がマイクを取っていたのだ。この曲は下岡の作。そのこともあったのか、佐々木ヴォーカル+下岡コーラスという形になった。この後も佐々木・下岡ユニットのスタイルが続いた。

 3曲目は『Good bye Girlfriend』。他に『ガールフレンド』(『ROCK IS HARMONY』収録)という曲もあるので、「Girlfriend」もの三部作ということになるだろうか。佐々木の歌には「Girlfriend」やそのような関係にある「彼女」という言葉がよく現れる。歌の主体からからして、恋する女性あるいは愛する女性が、「彼女」「Girlfriend」というように三人称的な位置にあるときに、彼独自の世界が開けてくる。それらの言葉がメロディの高揚感と溶けあうときに非常に魅力ある歌となる。ある種の屈折が込められてはいるが、それ以上に、華やぎと輝きがもたらされる。(今回はライブについて書いているので、彼の詩の世界については別の機会に譲りたい)

 新曲二つが披露され、『tonight』『will』と続き、『fine』で終わった。とても情熱的なパフォーマンスで、今年見た三回の中では最も素晴らしかった。
 途中のMCで、富士吉田の街を見て僕らの育った飯田市に似ていて、志村君はこういうところに育ったのだと思って、志村君のことがもっと分かるような気がした、という意味のことを語ってくれた。彼の想いが十分すぎるほど聴き手に伝わった。

 各々のステージの終了後、佐々木・下岡の二人がステージに立った。不思議な「天の声」についてのやりとりから始まった。Analogfish誕生期の話。佐々木健太郎が高校卒業後の一年間、長野の喬木村の山奥の家で「ニート」のように引きこもって宅録をしていた。その頃オーストラリアから帰国した下岡がその場に加わった。佐々木が楽器を何でも演奏できたのに対して、下岡が初めはギターを3コードしか弾けなかった。山奥なので大きな音も鳴らせたが、同居していたお祖父ちゃんに迷惑をかけたこと。彼らの小学校には「お祖父ちゃんお祖母ちゃん授業参加日」があったなど、ほのぼのとした話に会場のみんなが和んでいた。他にも、小学校、中学校の時の話、先生の話など色々な話が聞けた。

 話を総合すると、Analogfish(の原型)は佐々木健太郎の一人バンドだったようだ。そこに下岡が加わった。作品も佐々木が中心となって作っていた。やがて「下山」して東京へ。そして斉藤州一郎が加わり、今のバンドになった。聞き書きなので正確であるか分からないが、おおむね、それが真実らしい。それにしても、長野の山奥で、志と才能のある二人、それも資質の異なる二人が出会いバンドを始めたこと自体が奇跡のような気がする。それから十六年の間、きわめて優れた音楽を作り続けている。そんなことをあの場で考えていた。

 二人の歌では、『Nightfever』が忘れがたい。「10年前もそんな事言っていた気がする/20年前もそんな事言っていた気がする」の節回しで、下岡が佐々木のことを「健ちゃんカッコイイ気がする」「カッコワルイと思ったときもあったけど、カッコイイ気がする」「顔立ちはカッコイイと思っていたけど、でもカッコワルイと思ったときもあったけど、カッコイイ気がする」という風に(おおよそ?)続いてループしていく。とても愉快な替え歌に変わるにつれて、会場も和やかな笑いに包まれ、まさしく「ナイト」「フィーバー」した(古い言葉だね)。会場のペレットストーブも身体を暖かくさせた。何よりも、佐々木と下岡、二人の関係のあり方が熱源となって、心がすごく暖かくなった。こんなにも暖かいものに包まれたライブの経験は他にない。

 最後の最後のアンコールでは、二人の唯一の共作と紹介されて、『世界は幻』が佐々木によって歌われた。

  小生 男としても 「地下室の手記」的思想
  べつだん 何不自由も無い
  すりガラスごしに見る 世界が幻だ


 高揚した気分が、良い意味で少しクールダウンし、現実に戻されていった。
 佐々木はドストエフスキーを愛読しているようだ。山奥の宅録の場も一種の「地下室」だったのだろう。地下室から「すりガラスごし」に見えるかもしれないのが「世界」だ。「世界は幻」から『Tired』の「世界の果て」へ、佐々木健太郎は世界から世界へと横断していく。


 今回のライブについて、この場を借りてあらためて、主催者の勝俣氏に感謝を申し上げます。(この「偶景web」のこともツイートしていただき、重ねてありがとうございました)

 佐々木、下岡の両氏からは、次はAnalogfishの三人で来たいねという言葉もありました。富士吉田の街が、現在の優れた日本語ロックが歌い奏でられる場になる。その夢がかなえられることを祈ります。

2015年12月23日水曜日

佐々木健太郎『クリスマス・イヴ』

 12月の初めの土曜日、ある約束を果たすために札幌に行ってきた。

 夜、街を歩く。時折、雪が舞い降りてくる。昼はビルの間で窮屈そうな時計台が、雪の光をあびて、清らかに輝いていた。斜め左側から写真を撮った。




 佐々木健太郎のソロデビューシングル『クリスマス・イヴ』。
  2013年12月、北海道ではCMソングにもなったようだ。そうすると、二年前の札幌ではこの歌が流されていたのだな、そんなことを想う。
 Official Music Videoがあるので紹介させていただく。(うかつにも今日まで、映像中のサンタクロースが下岡晃らしいことに気づかなかった。そういえば歌の中の「サンタクロース」と「パパ」は友達だった)



 
 歌詞の一節を引きたい。

   傷だらけの世界が
   今夜だけは癒されていくみたいに街が華やいでいく
   
               (佐々木健太郎『クリスマス・イヴ』)

 歌も、世界の傷を癒す華やぎのようなものを私たちに与えてくれる。12月24日、クリスマス・イヴの日には特に。

 

2015年12月19日土曜日

継がれていく『茜色の夕日』[志村正彦LN117]

 今日12月19日から27日まで、富士吉田の夕方5時のチャイムが、志村正彦・フジファブリックの『茜色の夕日』に変わる。彼がこの歌を作るために音楽家になったという作品のメロディが故郷で奏でられる。

 富士吉田市役所によって2011年12月から始まり、もう八度目になる。行政の試みとしては特筆すべきものだ。これからの地域と音楽との関わり方の具体例のひとつを示している。当然、市民の中には、志村への想いがある人もいれば、彼のことを全く知らない人もいるのだろうが、そのことを離れてみても、この楽曲の調べそのものが美しく、どこか郷愁を誘う。冬の吉田の空と冷たい外気によく合う。
 
 前回は、13日、下吉田のリトルロボットで下岡晃が歌った『茜色の夕日』について書いた。佐々木健太郎も二年前の12月に歌ったことがあるそうだ。
 「TOTE(トート)」という音楽サイトに掲載された記事「2013.12.15 三重・四日市 カリー河 佐々木健太郎(アナログフィッシュ) 弾き語りソロライブ REPORT」[2014.01.14](文/撮影:山岡圭) を引用させていただく。

「一昨日、GO FOR THE SUNというイベントを、フジファブリックとHINTOとで8年ぶりにやりました。楽しかったけど、志村くんがいたらもっと楽しかった。だから今日はフジの曲をやります」と言って、『茜色の夕日』。2009年に急逝したフジファブリック・志村正彦の歌を、言葉をしっかり掴み取るように丁寧に歌い込む。歌はこうやって彼を想う仲間によって継がれ、いつまでも鮮やかな色を放つ。そしてそれを聴ける幸せを噛み締めた。

 筆者の山岡氏が言うように、『茜色の夕日』は歌い継がれ、語り継がれ、吉田ではチャイムとなって、今もおそらくこれからも人々の記憶に残り続ける。

 佐々木健太郎が言及している「GO FOR THE SUN」のイベントは、2005年、アナログフィッシュ、フジファブリック、SPARTA LOCALS(作風は異なるが実質的な後継バンドがHINTOになる)の三つのバンドの合同企画によって行われた。2005年11月23日、恵比寿のLIQUIDROOMで開かれたファイナルのアンコールでは、あの『今夜はブギーバック』(スチャダラパー+小沢健二)が歌われた。その映像がyoutubeにあり、すでに二十二万回を超える再生回数となっている。志村ファンにとってはもうなじみの映像であろうが、この機会にここでもリンクさせていただく。



 
 小沢健二のパートを志村正彦と佐々木健太郎が歌い、スチャダラパーのパートを下岡晃と安部コウセイ(SPARTA LOCALS、現在はHINTO・堕落モーションFOLK2)が語っている。3バンドのボーカル4人の共演。貴重な動画だ。佐々木、下岡晃、安部が堂々としているのに対して、志村はステージの端の方にいて、終始、真中の方を斜め目線で見ながら控えめに歌っている。途中で工藤静香の「L字」の振り付けらしきものを披露する。なんだかヘンテコで、フロントマンらしからぬ振る舞い。「ここにあらず」という風情が彼らしいといえば彼らしい。とても愉快な映像なのだが、見るたびに哀しくなるところもある。

 2005年11月のライブなのでちょうど十年になる。アナログフィッシュとHINTOの作品は、その言葉も楽曲も、あの頃よりさらに深化している。

 志村正彦は同時代のバンドとしてアナログフィッシュを高く評価していた。
 LOFT PROJECT"Rooftop"掲載の「メレンゲ×フジファブリック:ヴォーカリスト対談 クボケンジ(メレンゲ)×志村正彦(フジファブリック)ー新宿ロフトで出会い、共に“SONG-CRUX”卒業生の2人が語る内なる“ロック”的なもの-」[2004.11.15]でこう述べている。

志村 学生の頃は冴えなくて、引きの感じなんですよ。いろんな人に憧れてばかりで。でも、僕はバンドをやり始めて、曲を作っていく上で“いい”って言ってくれる人がいて、プラス思考になって。それで、音楽は辞められないなって思った。自分のなかでそういったことを感じられたことがロックだなって。音楽人生、みたいな
 (中略)
志村 ステージに立った瞬間に何か“ボン”と出るものがあって。いつもは出ない何かが出るものがあって。観る人はそういった人に興味ありますね
──最近、同世代でそこまでの凄さを持ったロックの人って思えば少ないよね。
クボ 突出したものは少ないのかな? って思うことはあるよね
志村 同世代だとアナログフィッシュとか
クボ そうだね、凄いものを感じる

 2010年7月の「フジフジ富士Q」以来、同世代の仲間の音楽家が志村の故郷で彼の作品を演奏したことはなかったように思う。下岡晃は『夕暮れ』から『茜色の夕日』へと何かをリレーするように歌った。ことさらに言葉として発言するのではなく、その人の歌を歌うというのは音楽家にしかできない行為だ。ひとつの追悼のあり方だろう。

 先ほど、今日のチャイムの映像がkazz3776さんによってyoutubeにUPされていることを知った。僕のように行けなかった人にとってはとても有り難い。




 富士急行線から下吉田駅そして富士山へとカメラがパンしていく。電車や車の音も入っているが、逆に土地の生活の匂いがして良い。深い青の空に富士の稜線が綺麗に浮かんでいる。最後に月も写っている。今日、山梨は快晴だった。天気にも恵まれ、この映像は今までのチャイム映像の中でも最良のものだろう。

 今回は、下岡晃、佐々木健太郎、各々の『茜色の夕日』と、今日の夕方5時の『茜色の夕日』のチャイムに触発されて書いた。ことごとしく書くのは下岡氏と佐々木氏の「志」に反しているかもしれないが、山梨での志村正彦に関わる出来事はできるだけ「記録」として書き残していくのが、このblogの役割だとも考えているので、ここに記させていただいた。

2015年12月17日木曜日

下岡晃(Analogfish)、『夕暮れ』から『茜色の夕日』へ。

 外から夕方5時のチャイムが聞こえてくるとまもなく、下岡晃の登場。椅子に座り、アコースティックギターを奏でる。

 カバー曲だろうか、知らない歌から始まった。続いて『GOLD RUSH』。「シャッターばかりが異様に目立つ駅前通りをゆっくり流す」と歌い出される。彼の故郷近くの飯田市と富士吉田市の街並みが似ているというMC。今はシャッター通りという共通性もあるのだろう。
 数曲を経て、「胸骨と胸骨のすき間に 真ん丸い大きな穴が あいたので」という無気味な言葉が抑揚のない語りのように歌わる。『夕暮れ』だ。

  「夕暮れです 夕暮れです 夕暮れ」って サイレンが サイレンが鳴る
  夕暮れ 死者数名。

  夕暮れのオレンジの粒子が 蒸発して
  反射して 光ってる様が好きなんだ。

 「夕暮れ」は、視覚というよりも聴覚を刺激する音として表されている。サイレンが鳴り、「死者数名」と告げる。サイレンの音とオレンジの光が乱反射して、生と死の境界が踏み越えられる。生きる場が「グラグラ」と揺らいでいる都市生活者の静かな悲鳴のように「夕暮れ」が連呼される。つかの間、すぐに次の歌が始まった。

  茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すことがありました

 『茜色の夕日』だった。突然、「志村正彦」という名も『茜色の夕日』という名も触れずに歌い出された。予想外の展開に、どこか緊張感のようなものが生まれた。この歌が、他ならぬ富士吉田でそして下岡によって歌われたという驚き、喜び、そして哀しみを伴う複雑な感情と共に。

 引用でそのまま記したように、下岡は意識的にか無意識的にかあるいは単なる錯誤か分からぬが、「思い出すこと」と歌った。志村は「思い出すもの」と書いた。「もの」か「こと」か、その差異が気になり、歌を追うことが少し遅れてしまう。(このことは機会を改めて書いてみたい)僕の位置からは彼の表情はうかがえない。なんとなく直視できないような気持ちもあり、耳を澄まして聴くことに集中した。
 次第に、声に力が込められていく。

  僕じゃきっとできないな できないな
  本音を言うこともできないな
  無責任でいいな ラララ
  そんなことを思ってしまった

 記憶の中の聴き取りを言葉にしてみた。「無責任でいいな ラララ」はひときわ大きく、高く、強く歌い上げられた。『茜色の夕日』が下岡晃の声と息によって命を吹き込まれたように感じた。歌い終わると、ぼそっと「いい歌だね」と呟いた。そこで終わった。
 結局、志村の名も曲名も何も言われなかった。沈黙のままに、沈黙のままだからこそ、伝わるものがある。そのことが歌い手と聴き手の間に共有されていた。


 歌だけが存在していた。だからこそ、不在の志村正彦が存在していた。


 下岡のライブは、現在の状況と対峙する『抱きしめて』でひとまず閉じられた。淡々とした歌い方が続いたが、クールな熱情とでもいうべきものが強く感じられた。
 下岡晃・アナログフィッシュの『夕暮れ』と志村正彦・フジファブリックの『茜色の夕日』。オレンジ色の風景と茜色の風景。
 人工的な「オレンジ色」は、都市生活者の憂鬱や悲哀が熱をおびて発光しているかのようだ。それに対して「茜色」は、「子供の頃のさびしさが無い」「短い夏」、「見えないこともない」「東京の空の星」という季節や風景、迂回された形で描かれる自然を想起させる。下岡と志村の資質や世界は異なるが、きわめて優れた「都市の歌」の作り手、歌い手としての同時代性がある。

 2015年12月、富士吉田のリトルロボット。
 下岡晃は『夕暮れ』から『茜色の夕日』へと、大切なものをリレーして走り続ける走者のようだった。

   (この項続く)

2015年12月14日月曜日

佐々木健太郎&下岡晃(Analogfish)ツアー、富士吉田・リトルロボット。

 昨夜、12月13日、富士吉田のリトルロボットで開かれた佐々木健太郎&下岡晃の「真夜中の発明品ツアー ~虹のない人生なんて~山梨編ツアーファイナル!!~」に行ってきた。
 
 小雨が降るあいにくの天気の中、甲府から御坂峠を抜けると、そこに見えるはずの富士山はやはりない。山梨県民の僕らはまあよいのだが、県外から来られた方は残念なことだろう。新トンネルのおかげで今日も1時間ほどで吉田に着く。新倉山浅間神社近くの「しんたく」で吉田うどんをいただく。いつもは何も入っていないかけうどんだが、天ぷらうどんにした。寒い時期はこってりした野菜天ぷらが美味しい。身体もほかほかしてくる。

 開演時間まで間があるので、春にリニューアルオープンした「ふじさんミュージアム(富士吉田市歴史民俗博物館)に寄る。駐車場から博物館までの並木のある道沿いに富士講信者の宿坊「御師の家」が移築されている。霧雨が煙る中、この道が博物館へのアプローチになっている。江戸時代に時をさかのぼるような気分になる。

 博物館の展示は、最新の映像技術を駆使して、親しみやすく分かりやすいものになるように工夫されていた。「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」という視点で世界文化遺産になったためか、歴史民俗の博物館の性格を強めているのだろう。初めて知ることも多く勉強になった。
 甲府で暮らしているが、であるがゆえにか、にもかかわらずと言うべきだろうか、富士山や吉田はやはり少し遠い存在であり、まだ知らないことの多い場であることを再認識できた。富士吉田に行かれる方はぜひ見学されることを勧める。

  博物館を出て北口本宮冨士浅間神社の前を通り、右折。富士道、本町通を、上吉田から下吉田へと下っていく。先ほどの展示室の地図にあった御師の家跡が左右にところどころある。江戸時代のにぎわいを想像する。吉田という街並みそのものに江戸の文化が染み通っているのかもしれない。
 前回書いたことだが、浜野サトル氏はblog『毎日黄昏』で志村正彦の歌を「都会の少年の詩」だと読みとっている(「響き合い」)。通りを下りながらその指摘が浮かんできた。確かに、彼の詩には「街」や「路地裏」の雰囲気が漂う。
 吉田と江戸。富士講や登山のつながりによる歴史的な関係。近代に入ると、絹織物の産業による東京や横浜との交易。その記憶や残像のようなものがどこかで志村少年に作用していたのかもしれない。

 金鳥居を過ぎ、下吉田の街へ。シャッター街と化してしまった通りの中で「リトルロボット」を見つける。月江寺近くのこの地域にはまだ少し活気がある。通りを少し下って「TORAYA」に寄り、ショートケーキを二つだけ買う。近くに駐車して会場に入った。
 「リトルロボット」はこの通りの空き店舗を改装して造られたコミュニティカフェで、ペレットストーブの展示販売もしているそうだ。様々なイベントの場となることも目指していて、今回、「どうしておなかがすくのかな企画」の勝俣さんが佐々木健太郎・下岡晃の両氏に呼びかけてこの企画が実現した。彼は甲府の桜座やハーパーズミルでも素晴らしいライブを主催している。仕事を持ちながら、山梨で音楽を聴く場を広げようとしている「志」のある方だ。以前から富士吉田でこのような企画を考えていたようで、ようやく実現することになり、とても喜ばしい。
 会場は気持ちのいい空間だった。ペレットストーブも焚かれていて、あたたかい。座席は四十ほどで満員だった。このライブが告知されるとすぐに売りきれとなったそうだ。

 今年は8月にハーパーズミルで佐々木健太郎と岩崎慧(セカイイチ)、10月に桜座でanalogfish(佐々木健太郎・下岡晃・斉藤州一郎)とmools、そしてこの12月にこの場所で佐々木健太郎と下岡晃を聴くことになった。
 いろいろと感じ、考えることも多かったので、二人の歌については次回以降具体的に書くことにしたい。それでも全体の印象を簡潔に書くとすると、とてもとても素晴らしい歌の会であり、一日経った今も、その余韻が残り続けている。
 佐々木健太郎と下岡晃という現在の「日本語の歌」の歌い手、作り手として最高の水準にある二人が各々そしてコンビとして歌うのを間近で聴くという贅沢な時間を過ごすことができた。上手に形容できないのだが、これまでの僕のライブ経験の中で最も、とてもあたたかいものが心にしみこんでくる「歌の会」だったと言える。

 そして、下吉田という場で開かれたこのライブには、ことさらに言われるのではなく、その名の宣伝という形もとられずに、それでもみんなの想いとしてひそかに共有されているものとして、志村正彦という不在の存在があった。

   (この項続く)

2015年12月11日金曜日

「志村正彦はどんな人物だったのだろう?」(『毎日黄昏』)

 毎朝、onedaywalk氏のblog『毎日黄昏』を読むことが日課となっている。「黄昏」の語源は「誰そ彼」だそうだが、人や街や音楽についての深い問いかけがあり、様々なことを教えられる。

 ここでは、onedaywalk氏とは音楽批評家浜野サトル氏のことだと書いてもいいだろうか。
 今年の7月まで、氏自身の運営していたHP内の日録『毎日黄昏』では筆名が「浜野智」氏であったが、サーバーを整理して、新たに開設されたlivedoor上のblog『毎日黄昏』では「onedaywalk」氏になっていた。筆名が変更されたのはある意図があってのことだろうが、内容から容易に筆者が浜野サトル氏であることは分かり(例えば「エリス」「エリス2」の回)、ここではすでに「浜野サトル」として氏の初期の仕事について書いているので、拙論の連続性の観点からしても、やはり、浜野サトル氏あるいはonedaywalk(浜野サトル)氏のblogとして、『毎日黄昏』を紹介させていただく。

 以前書いたように、私にとって浜野サトル氏は、音楽の経験を語ることを学んだ「師」のような存在である。もちろん、雑誌やネットの文章を読むことを通じて、勝手に「私淑」しているにすぎないが、氏が「偶景web」に出会った経緯を知ったときはとても嬉しく、励みにもなった。その浜野氏が最近志村正彦について書かれたので、その文を紹介させていただきたい。(「週酒」、「響き合い」)

 「響き合い」というエッセイは「今現在と言っていい時期に作られたものの中に過去を発見することがある」と始まり、アルバム『フジファブリック』からレッド・ツェッペリンを感じたとされる。そして、「それにしても、志村正彦はどんな人物だったのだろう?」と問われる。一年以上前にたまたま『茜色の夕日』を聴く機会があり、その後何も調べないできたが、志村正彦のことが「いま気になる」と記される。

 『陽炎』や『追ってけ 追ってけ』の歌詞が引用され、詩人岡田隆彦に通じる「都会の少年の詩」であるとされ、『花』の「七五調に近い」韻律や「かばん」という言葉に触発されて、歌人笹井宏之を連想したと書かれている。
 志村正彦と笹井宏之に関して、「ロックと短歌とは遠いが、二人の歌には響き合うものがあると感じる」という非常に興味深いことが指摘されている。最後は次の一文で閉じられる。

 彼らが遺した作品は、何事かを追いかけ追いかけしているうちに道に迷い、ふともらした吐息のように感じられてならない。

 この言葉は私たち志村正彦の聴き手にとって、切なく哀しく響く。

 その後、『夜汽車』に触れたエッセイも掲載された(「夜汽車」)。
 確かに、不思議なほどに、志村正彦の歌は私たちの過去の記憶を想起させる。そしてまた、過去から現在までの優れた表現者たちの言葉と、浜野氏の言葉を使わせていただくなら、「響き合う」何かを感じさせる。

2015年12月4日金曜日

早川義夫、桜座カフェ。

 11月28日、甲府の桜座で早川義夫を聴いた。「悲しみと官能の音楽」と題する、早川義夫(vocal,piano)・熊坂るつこ(accordion)・坂本弘道(cello)の三人のコラボレーションだ。

 前回ここで聴いたのは2010年10月のこと、「早川義夫・佐久間正英」ライブだった。確か山梨初のライブだったせいか、客もたくさんいて、通常のホールが会場だった。早川と佐久間のユニットのみが構築できる音で桜座が満たされていたことを想い出す。今回はホール手前の小さなカフェのスペースで開かれた。客も三十数人ほどと少し寂しい入りだった。もう冬の季節。カフェの土間から冷気が上がる。

 ライブが始まる。
 カフェのフロアから少しだけ高い位置に座り、ピアノを弾きながら彼は歌う。こちらもフロアで椅子に腰掛けて聴く。歌い手と聴き手との間の距離は数メートルあるが、座る位置、高さがそんなに変わらないせいか、耳に音がリアルに飛び込んでくる。早川義夫の身体の動き、声や息のうねりがダイレクトに届く。熊坂るつこがアコーディオンを、坂本弘道がチェロを奏でる動きも生々しく伝わってくる。
 桜座の通常の会場、ホールでは床面に座るのだが、それとは聴く位置、音の響きも異なり、新たな発見があった。

 歌とは、言葉である前に、声や息であり、声や息を運ぶ身体そのものの振動である。そんなことが自然に浮かぶ。
 そもそも、彼の歌は「意味」として捉えられることを拒んでいるところがある。あるいは、「意味」とは異なる次元に歌を築いていると言うべきだろうか。

  ここで、「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」という小林秀雄の言葉(『無常といふ事』)を想起するのは、あまりにおあつらえむきの展開だろうか。
 それでも、この言葉の枠組で語らせてもらうのなら、早川義夫のソロの歌、1994年の復帰後の歌は、いわゆる「歌の解釈」というものに対する「プロテスト」だ。歌を「意味」とは異なる次元へ解き放つ試みと言ってもいい。どこへ解き放たれていくのか。言葉にするのは難しい。これもまた言葉を拒んでいる。

 この試みはジャックス時代と異なる。そして、それゆえ、復帰後の彼の聴き手は、以前ほどの広がりを得ることができない。彼の歌を愛するものの一人として、それはきわめて残念なことだが、必然であり不可避でもあると考えるしかない。

 それだけ早川義夫の歌は孤絶している。
 そのような歌がこの時代に存在する。そのかけがえなさに、現代の聴き手は気づいてない。