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2021年8月22日日曜日

フルートのトリル、鳥の囀る声。―「浮雲」3[志村正彦LN287]

 前回書いた「浮雲」のフルート音について、少し補足してみたい。歌詞を再度引用する。


 1A  登ろう いつもの丘に 満ちる欠ける月
 1B  僕は浮き雲の様 揺れる草の香り
 1C  何処ぞを目指そう 犬が遠くで鳴いていた
 1D  雨で濡れたその顔に涙など要らないだろう

 2A  歌いながら歩こう 人の気配は無い
 2B  止めてくれる人などいるはずも無いだろう
 2C  いずれ着くだろう 犬は何処かに消えていた
 2D  雨で濡れたその顔に涙など要らないだろう

   3C  消えてしまう儚さに愛しくもあるとしても
   3D  独りで行くと決めたのだろう
 3D  独りで行くと決めたのだろう


 1D、2Dと繰り返される〈雨で濡れたその顔に涙など要らないだろう〉。〈雨で〉そして〈濡れた〉の旋律を追いかけるようにフルートの音が入る。〈涙など要らないだろう〉にはフルート音が絡まり、志村の声と対話するかのように響いていく。3C〈消えてしまう儚さに愛しくもあるとしても〉も同様の入り方をする。特に〈愛しくもあるとしても〉以降、フルートの音はほぼ持続的に奏でられる。

 3D〈独りで行くと決めたのだろう〉のところでは、フルートのトリルの音が美しく重なっていく。ギターを激しく鳴らす音は〈独りで行くと決めたのだろう〉という〈僕〉の決意を促す。高く澄み切った音色は〈僕〉の孤独や不安を奏でている。それと対照的に、鳥の囀りのようなフルートのトリルは、〈独りで行くと決めたのだろう〉という〈僕〉をそっと見まもるかのように響く。やわらかくやさしい音であり、ある種の〈儚さ〉も感じる。〈いつもの丘〉で囀る鳥の音を再現している旋律でありアレンジであるかのように、筆者には聞こえてきた。また、この音はやはりフルート奏者が奏でている本物のフルートの音だろう。人間の息の感触がそのまま音に溢れ出ている。意識的か無意識的かは分からないが、志村正彦は「浮雲」にそのような音を必要としたのではないだろうか。ロックの楽曲の中にある種の《自然》を求めたと言えるかもしれない。そのような試みの到達点が「セレナーデ」であろう。

 2004年2月リリースの3rdミニアルバム『アラモルト』で「浮雲」のリメイクが収録されているが、フルートの音は入っていない(フルートに近い音は少しあるのだが、シンセサイザー音源だろう)。『アラカルト』ヴァージョンの演奏時間が5分15秒に対して、『アラモルト』ヴァージョンは6分13秒とテンポも遅くなっているなど、かなり違いがある。「浮雲」に関しては『アラカルト』ヴァージョンの方が格段に優れている。


 山に囲まれている土地のゆえか、山梨では住宅地であっても、いろいろな鳥の囀りが聞こえてくる。早朝、鳥の声で目を覚ますことも時にある。自然の中に在るという感触につつまれる。

 〈いつもの丘〉の林の中では、どのような鳥の声が聞こえてくるのか。囀る音はどのように響くのか。志村正彦も鳥の囀る声を聞いていたに違いない。そのような光景が浮かんできた。


2021年8月18日水曜日

フルート音の叙情性-「浮雲」2 [志村正彦LN286]

 志村正彦・渡辺隆之・田所幸子の3人のメンバーは「浮雲」について、新宿ロフトrooftopの〈【復刻インタビュー】フジファブリック(2002年10月号)-歌心を大切にした注目のバンドがついに単独作をリリース!〉で次のように語っている。(text:mai kouno/coa graphics)


──なるほど。『浮雲』で特に感じたのですが、言葉ののせ方や選び方がとても独特で面白いですね。
志村:あぁ、すごい嬉しいです。演奏の雰囲気が大体決まってから、イメージにそった歌詞を考えているんですが、リズムにのった歌詞を作ろうと心がけています。例えばすごく静かな所では、小さい「つ」を使わないでわりと平べったく聴かせようとか。「浮雲」は曲が昔っぽいイメージだったので、想像していたら自然に古風な言葉が湧き出てきた感じですね。
──全体の曲の雰囲気も、今現在にはなかなかない感じだと思ったのですが。
渡辺:意図はしていないですよ(笑)。
田所:やっぱりみんな、昔の音楽が好きだったりするから、それが自然と音に出ているんじゃないかなぁ。
志村:昔の音が好きというか、今の音楽を知らないだけで(笑)。

 

 志村は、 「浮雲」は〈昔っぽいイメージ〉の曲に〈古風な言葉〉が自然に湧き出てきたと述べている。この楽曲にはフルート(のような)音が入っているが、クレジットにはその演奏者が記されていない。キーボード奏者によるシンセサイザー音源かもしれない。間奏からエンディングに向けて、志村の声とギターの音とフルートの音が複雑に絡み合うところが非常に印象的である。息を吹き込んで空気を振動させて出すフルートの音は人の声との親和性が高い。そして、フルートの音には独特の叙情性がある。「浮雲」の孤独な詩的情緒をフルートの持つ叙情的な音がやわらかく響かせている。

 一般的にはフルートの入ったロックというと、イアン・アンダーソンIan Anderson のジェスロ・タル  Jethro Tull が挙げられるだろうが、プログレッシヴ・ロックの中では、ピーター・ゲイブリエル在籍時のジェネシスGenesis がまず思い浮かぶ。洋楽の中での僕の最愛のバンドである。ピーター・ゲイブリエルはフルートを使って、独創的な楽曲を創っていた。

  youtubeで、ピーター・ゲイブリエルがフルートを演奏している映像を探したところ、次の貴重な映像が見つかった。1972年3月、ベルギーのテレビ番組「Pop Shop」の収録。この時期の編成は次の五人。

ピーター・ゲイブリエル Peter Gabriel   (leadvocals/flute/tambourine)
マイク・ラザフォード Mike Rutherford  (keyboards and rhythm guitar)
トニー・バンクス Tony Banks   (Keyboards)
スティーヴ・ハケットSteve Hackett    (lead guitar)
フィル・コリンズ Phil Collins    (drums and backing vocals)

 演奏曲は「The Fountain Of Salmacis」「Twilight Alehouse」「The Musical Box」「The Return Of The Giant Hogweed」。3曲目「The Musical Box」の15:25あたりから1分間ほど、ピーターのフルート演奏がある。「The Musical Box」では、老人の仮面や狐の仮面を被ることが多いのだが、この映像では素顔のピーター・ゲイブリエルを見ることができるのが貴重である。「The Musical Box」の歌詞は多層的な意味合いを持つ。ピーター・ゲイブリエルはイギリスの孤高のロックの詩人でもある。



 志村正彦がピーター・ゲイブリエルの直接的な影響を受けているのではないだろうが、フルートを効果的に使ったプログレッシヴ・ロックという大きな枠組の中ではその影響の範囲内にいるとも考えられる。

 先の引用箇所でキーボードの田所は、〈やっぱりみんな、昔の音楽が好きだったりするから、それが自然と音に出ているんじゃないかなぁ〉と述べている。所謂第2期(2001年9月~2002年12月)のフジファブリック、Vo.Gt.志村正彦、Key.田所幸子、Dr.Cho.渡辺隆之の3人が、〈昔の音楽〉ロックの古典を研究したことが、「浮雲」をはじめとする1stミニアルバム 『アラカルト』の独創的な作品として結実していると言えるだろう。

2021年8月8日日曜日

独りで行くと決めたのだろう-「浮雲」1 [志村正彦LN285]

 「お月様のっぺらぼう」「午前3時」と、月をモチーフとする作品を続けて取り上げたが、1stミニアルバム 『アラカルト』には〈満ちる欠ける月〉を歌った「浮雲」という曲がある。この曲も「フジファブリック Official Channel」で公開されている。

 浮雲 · FUJIFABRIC
 アラカルト ℗ 2002 Song-Crux Released on: 2002-10-21
 Lyricist: Masahiko Shimura Composer: Masahiko Shimura

 演奏は、Vo.Gt. 志村正彦、Key.田所幸子、Dr.Cho.渡辺隆之、サポートメンバーGt.萩原彰人、Ba.Cho.加藤雄一の五人。



 以前にも紹介したが、荒川洋治は〈詩の基本的なかたち〉について、起承転結を示すABCDの記号を使って、〈Aを承けて、B。Cでは別のものを出し場面を転換。景色をひろげる。大きな景色に包まれたあとに、Dを出し、しめくくる。たいていの詩はこの順序で書かれる。あるいはこの順序の組み合わせ。はじまりと終わりをもつ表現はこの順序だと、読者はのみこみやすい〉と述べている。(『詩とことば』岩波書店2004)


 「浮雲」にも、この起承転結のかたちがある。ABCDの記号を付けた上で引用したい。


    浮雲 (作詞・作曲:志村正彦)

 1A  登ろう いつもの丘に 満ちる欠ける月
 1B  僕は浮き雲の様 揺れる草の香り
 1C  何処ぞを目指そう 犬が遠くで鳴いていた
 1D  雨で濡れたその顔に涙など要らないだろう

 2A  歌いながら歩こう 人の気配は無い
 2B  止めてくれる人などいるはずも無いだろう
 2C  いずれ着くだろう 犬は何処かに消えていた
 2D  雨で濡れたその顔に涙など要らないだろう

 3AB
   3C  消えてしまう儚さに愛しくもあるとしても
   3D  独りで行くと決めたのだろう
 3D  独りで行くと決めたのだろう


 1ABと2ABは、《起》と《承》の部分である。歌の主体〈僕〉が〈登ろう〉とする〈いつもの丘〉は、志村正彦が子供の頃から親しんでいた新倉山浅間神社・公園のある丘である。いわずとしれた、桜の名所でもある。〈僕〉は〈満ちる欠ける月〉の光景のもとで、〈浮き雲〉のように漂い、彷徨うにして、〈揺れる草の香り〉に導かれて、丘を登る。〈僕〉は〈歌いながら歩こう〉とする。〈人の気配は無い〉〈止めてくれる人などいるはずも無いだろう〉というように、この丘には誰もいない。〈僕〉の歌が誰かに聞こえることはない。

 今でこそ、この新倉山浅間神社・公園は観光名所になっているが、十年ほど前までは地元の人にとっての場であった。「浮雲」の〈いつもの丘〉は静かな丘であり、夜ともなれば寂しい場所でもあった。

 1Cと2Cには、〈犬〉が登場する。〈何処ぞを目指そう〉から〈いずれ着くだろう〉という〈僕〉が歩く時間の経過と共に、〈犬〉も〈遠くで鳴いていた〉から〈何処かに消えていた〉というように、その姿を消していく。犬の吠え声が《転》、歌の転換点となり、1Dと2Dの〈雨で濡れたその顔に涙など要らないだろう〉という《結》の表現が現れる。

 〈いつもの丘〉に雨が降る。雨雲が漂い、その切れ間で〈月〉は〈満ちる欠ける〉。月光のかすかな明かりと暗がりが交錯する情景。〈雨〉に濡れる〈僕〉の〈顔〉。〈涙など要らないだろう〉というのは、〈涙〉が無いことを示しているのではない。〈いつもの丘〉の陰影の濃い情景を背景に、〈僕〉の心の中で陰影のある〈涙〉が静かにこぼれる。

 1のABCDと2のABCDは同一の構造であり、起承転結の物語を作っている。志村正彦の作品には、「茜色の夕日」の〈晴れた心の日曜日の朝/誰もいない道 歩いたこと〉、「若者のすべて」の〈すりむいたまま 僕はそっと歩き出して〉を始めとして、《歩行》のシーン、モチーフが多い。その《歩行》の原点となる場が、この〈いつもの丘〉ではないだろうか。この丘の近くで志村正彦は生まれ育っている。この丘の近くを散歩し、時にこの丘を登ったようだ。

 3のABは言葉としては表れていないが、1ABCDと2ABCDの物語が含意されていると考えたい。それを受けて、3Cの〈消えてしまう儚さに愛しくもあるとしても〉が登場する。〈消えてしまう儚さ〉という表現は、漂い、移ろい、どこかに消えていく〈浮雲〉のイメージから導かれたのだろう。おそらく〈僕〉は故郷を離れようとしている。離れようとする故郷の〈いつもの丘〉の光景を、儚きもの、愛しきものとして受けとめている。そしていくぶんかは、自分自身を儚きものとして感じとっているのだろう。〈僕は浮き雲の様〉であるのだから。

 3Cによる《転》によって、3Dの〈独りで行くと決めたのだろう〉という問いが生じる。この3Dの言葉が「浮雲」全体の《結》となる。これは〈僕〉の〈僕〉自身に対する問いかけである。故郷から独りで出て行く、そう決めたことを繰り返し問いかけたのではないだろうか。その問いかけには、自分を納得させようとする、自分に言い聞かせようとする響きもある。ためらいや後ろ髪を引かれる思いがあったのかもしれない。そうであっても、〈僕〉はやはり〈独りで行く〉ことに決めたのだ。

 そう〈あるとしても〉、こう〈決めた〉の〈だろう〉という語り口は、きわめて志村らしい。この仮定と帰結、それについての自らの問いかけという話法を、志村は繰り返し用いた。たとえば、「桜の季節」では〈桜の季節過ぎたら/遠くの町に行くのかい?〉という別離についての仮定と帰結、その問いかけが歌われている。そして〈ならば愛をこめて/手紙をしたためよう〉と、この歌にも〈愛〉が表現されている。また、「桜の季節」の舞台も「浮雲」の〈いつもの丘〉だと考えることもできる。「浮雲」と「桜の季節」という作品は、その物語も風景も異なるが、志村正彦の出郷、故郷を離れて他の地へ出て行くことを表した二つの歌だと言えるかもしれない。 


 「浮雲」を聴くといつも感じることがある。志村正彦の〈独りで行くと決めたのだろう〉という声のただならぬ寂寥感だ。それは痛ましいほど痛切に孤独に響く。「浮雲」の歌詞を追っていっても、この表現を了解することは難しい。この歌の核心にはたどりつけない。そんな思いにとらわれる。


2021年8月1日日曜日

今宵満月 夢見たく無くて-「午前3時」[志村正彦LN284]

 「お月様のっぺらぼう」の世界では、〈俺〉の〈一人旅〉は、夢を見ることによって、〈月〉の〈夜〉から〈虹〉の〈空〉へと出かける。そしてその〈一人旅〉は、〈虹〉の〈空〉から〈月〉の〈夜〉へと帰還する。言葉と楽曲それぞれのループ、言葉と楽曲の間のループによって、〈一人旅〉の往還を歌った。

 この「お月様のっぺらぼう」と対照的な作品がある。「午前3時」だ。2002年10月リリースの1枚目ミニアルバム 『アラカルト』の三曲目に収録された。この曲も「フジファブリック Official Channel」で公開されている。

       午前3時 · FUJIFABRIC
  アラカルト  2002 Song-Crux Released on: 2002-10-21
  Lyricist: Masahiko Shimura Composer: Masahiko Shimura

 演奏は、Vo.Gt. 志村正彦、Key.田所幸子、Dr.Cho.渡辺隆之、サポートメンバーGt.萩原彰人、Ba.Cho.加藤雄一、武本俊一(担当楽器の記載なし)の六人である。



    

 歌詞をすべて引用しよう。行番号も付けたい。


午前3時(作詞・作曲:志村正彦)

1  赤くなった君の髪が僕をちょっと孤独にさせた
2  もやがかった街が僕を笑ってる様

3  鏡に映る自分を見ていた
4  自分に酔ってる様でやめた

5  夜が明けるまで起きていようか
6  今宵満月 ああ

7  こんな夜、夢見たく無くて 午前三時ひとり外を見ていた

8  短かった髪がかなり長くなっていたから
9  時が経っていた事に気付いたんだろう

10  夜な夜なひとり行くとこも無い
11  今宵満月 ああ

12  こんな夜、夢見たく無くて 午前三時ひとり外を見ていた

13  赤くなった君の髪が僕をちょっと孤独にさせた
14  もやがかった街が僕を笑ってる様

15  こんな夜、夢見たく無くて 午前三時ひとり外を見ていた
16  こんな夜、夢見たく無くて 午前三時ひとり外を見ていた


 70年代前半のイギリスのプログレッシヴ・ロックの曲調に乗せて、言葉が編み出されている。歌詞を一行ごとに追っていきたい。

 第1行〈赤くなった君の髪が僕をちょっと孤独にさせた〉。冒頭にいきなり〈赤くなった君の髪〉という描写があり、〈君〉という二人称が登場する。文字通りに〈赤くなった〉を髪の色の変化と捉えて、〈僕をちょっと孤独にさせた〉という〈僕〉の受け止め方を考え合わせると、この〈君〉は女性であり、〈僕〉と〈君〉ととの間には、恋愛か何か特別な関係があるのだろう。あるいは、〈赤くなった君の髪〉は、赤色を帯びた満月の描写という可能性もある。赤くなった〈今宵満月〉の光景が〈僕〉を孤独にさせる。

 この〈孤独〉という直接的な表現が使われたのは、全歌詞の中でこの「午前3時」と『CHRONICLE』収録の「Clock」だけである。志村はこの言葉の定型性、説明的なニュアンスを回避したかったのだろう。「Clock」(作詞・作曲:志村正彦)の該当箇所を引用する。

今日も眠れずに 眠れずに
時計の音を数えてる
いつも気がつけば 気がつけば
孤独という名の 一人きり

 〈今日も眠れずに〉〈時計の音〉〈孤独という名の 一人きり〉という表現に、「午前3時」との関連が見いだせる。

 「午前3時」に戻ろう。第2行〈もやがかった街が僕を笑ってる様〉。この歌の現在時は〈午前三時〉という深夜。夜中の雲が満月の光を反射して、〈街〉が〈もやがかった〉ように見えるのだろうか。満月の夜の靄がかった微妙な暗部の光景が、〈僕〉を突き放すように〈笑ってる様〉と感受している。

 第3行〈鏡に映る自分を見ていた〉、第4行〈自分に酔ってる様でやめた〉。歌の主体〈僕〉は〈鏡に映る自分〉を見る。〈僕〉という〈自分〉が〈自分〉の鏡像を見つめることは、ナルシスの神話を想わせる。ナルシスは水面という鏡に映った自分自身の像に恋をしてその鏡像から離れることができなくなるが、「午前3時」の〈僕〉は〈自分に酔ってる様でやめた〉というように、自己の鏡像から離れようとする。自己という閉域、閉じられた世界から遠ざかろうとするのだ。〈鏡〉という言葉は志村の全歌詞の中でこの歌にしか使われていないことにも留意したい。(「東京炎上」に〈目と目が合った君は万華鏡〉という言葉はあるが)また、この箇所は、曲調が変化し、声も抑制するようにして、独特の歌い方をしている。

 第5行〈夜が明けるまで起きていようか〉、第6行〈今宵満月 ああ〉。〈満月〉の夜、夜明けまで起きていようかという覚醒の持続への意志は、第7行〈こんな夜、夢見たく無くて 午前三時ひとり外を見ていた〉につながっていく。

 前回論じた「お月様のっぺらぼう」では、〈俺、とうとう横になって ウトウトして/俺、今夜も一人旅をする!/あー ルナルナ お月様のっぺらぼう〉というように、月夜の〈一人旅〉は夢を見ることへの旅であった。それと正反対に「午前3時」では、同じ月夜ではあっても、〈夢見たく無くて〉〈ひとり外を見ていた〉と歌われている。(〈夢見たく無くて〉の〈夢〉は睡眠中の夢ではなくて、実現させたい事柄という意味での夢の可能性もあるが)夢を見ることと夢を見ないこと、睡眠と覚醒の持続。この二つの作品の対比の関係は明らかである。「午前3時」では、夢を見たくないから一人外を見ていたという解釈も成り立つ。第3・4行にある、〈僕〉が自己の鏡像から離れて、自己愛の閉域から遠ざかろうとすることが、この〈ひとり外を見ていた〉に接続していくのかもしれない。自己の外部、〈外〉、外の世界を見ることは、自己の内部に目を向けることからの回避につながる。

 第8行〈短かった髪がかなり長くなっていたから〉の〈髪〉は、〈君〉のものなのか〈僕〉のものなのかは分からない。どちらにしろ、第9行〈時が経っていた事に気付いたんだろう〉という時の経過に気づく。あるいは、満月の様子の変化による時間の進行を描いているのかもしれない。

 第10行〈夜な夜なひとり行くとこも無い〉は、通常の意味で、〈夜な夜な〉特に〈午前三時〉頃に〈ひとり行く〉場所はないだろう。あるいは、この〈ひとり行く〉は「お月様のっぺらぼう」の〈今夜も一人旅をする〉との関連があるのかもしれない。「午前3時」では〈一人旅〉ではなく〈ひとり外を見ていた〉のだから。

 第11行から16行までは反復であり、〈こんな夜、夢見たく無くて 午前三時ひとり外を見ていた〉に収斂される。志村の歌い方は、〈夢〉〈見たく〉〈無くて〉というように分節されて、〈無くて〉が強調されているようにも感じられる。〈なくて〉ではなく〈無くて〉と、〈無〉という漢字が使われたこともその印象を強める。

 この「午前3時」の音源はその後リテイクされていない。また、ライブ映像にも残されていない。初期作品の中では実験的な習作の意味合いが強いことがその理由かもしれない。しかし、「午前3時」と「お月様のっぺらぼう」という《月夜》をモチーフとする対照的な作品を試みているところに、インディーズ時代の志村正彦の実験が刻印されている。やがてその言葉と楽曲の実験は作品の成果として結実していくだろう。