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2021年5月29日土曜日

『桜の季節』-NHK新日本風土記「さくらの歌」[志村正彦LN275] 

 昨夜、5/28(金)21:00から放送されたBSプレミアムの新日本風土記スペシャル「さくらの歌」を見た。公式サイトに〈フジファブリック「桜の季節」が志村正彦と共に紹介されます〉という知らせがあった。志村正彦のパートは、全体で90分のなかで予想外の11分という時間がかけられていた。しかも、桜の歌の作者、音楽家として取り上げられたのは彼だけだった。これは志村ファンの僕たちにとっては、嬉しいことであり、誇らしいことでもあった。 ただし、番組の観点や構成については違和感を感じざるを得なかった。  

 志村のパートは「突然ですが、フジファブリックというバンドをご存じですか」で始まり、「2000年結成、曲のほとんどを志村正彦が手がけていました」と紹介され、『若者のすべて』の冒頭部が歌詞のテロップと共に放送された。「文学的な詞を変幻自在の楽曲に乗せるサウンドがゆとり世代、失われた世代の若者たちに支持され、さまざまなアーティストがカバーしています」というナレーション。槇原敬之、桜井和寿、柴崎コウの声でつながれていく。「ソングライターとしての評価やバンドの人気も急上昇していた2009年、志村さんは急逝。まだ二九歳でした」と語った後で、「フジファブリックのメジャーデビュー曲がこの桜ソングです」と、『桜の季節』が流され始めた。

 なぜ、『桜の季節』ではなく『若者のすべて』から始まったのか。この間ずっと戸惑うままに見続けていた。そもそも、この展開では『若者のすべて』が桜ソングだと誤解されるおそれもある。「さくらの歌」特集の番組では配慮すべきことだ。『桜の季節』が他の桜ソングに比べてあまり知られていないという判断があったのかもしれない。それでもやはり、『桜の季節』から始まるべきである。志村正彦本人が作った桜の歌である。ここは譲れないところだ。

 結局、『若者のすべて』という曲と「ゆとり世代、失われた世代」という言葉が、志村正彦を語るキーワードになっていた。この観点は、昨年のNHK制作の志村正彦の番組から引き継がれている。志村を語る上ではそれなりに有効であるが、この観点が「志村のすべて」ではない。せっかく、『桜の季節』を取り上げるのだから、志村正彦の生涯についての別の新しい語り方があってもいいはずだ。そういう思いがもたげた。「さくらの歌」というテーマだからこそその契機ともなったのだが、この番組は世代的論な観点を踏襲していた。

 11分もの時間が志村のパートに配分されたのだから、『桜の季節』の全曲をかけて、その歌詞のすべてをテロップで紹介すべきだった。この歌詞にそって取材した映像を構成することもできただろう。特に、「その町に くりだしてみるのもいい/桜が枯れた頃 桜が枯れた頃」というこの歌の鍵となるフレーズはBGM的に流されたが、歌詞のテロップは省略されいた。この一節から、志村正彦の生涯を語ることも可能だ。「さくらの歌」特集に「桜が枯れた頃」という表現がそぐわないのかもしれないが、この不可思議な季節感、風景のヴィジョンが欠けてしまえば『桜の季節』の歌としての力も価値も失われてしまう。この歌は、反「桜ソング」、「桜ソング」の批評、批判として存在している。そのような意味で『桜の季節』は、桜の「ロック」である。

 後半は『茜色の夕日』と2007年の市民会館ライブでのMCが取り上げられていた。志村の生涯を語る上では重要な映像だが、あの展開では『茜色の夕日』も桜ソングと捉えられるおそれもある。そもそも、視聴者のほとんどは、志村正彦・フジファブリックのことを(『若者のすべて』や『茜色の夕日』の歌詞も)知らないということを前提に番組を制作すべきである。そのうえで、もっと分かりやすいナレーションが必要だ。率直に言って、説明不足である。(志村ファンなら理解しただろうが、彼を知らない人にとってはおそらく、なんとなくの雰囲気的な理解で終わってしまっただろう。)

 また、新倉富士浅間神社とその桜が重要なモチーフになっていたので、この「いつもの丘」を舞台とした『浮雲』という作品、その歌詞の「登ろう いつもの丘に 満ちる欠ける月/僕は浮き雲の様 揺れる草の香り」「雨で濡れたその顔に涙など要らないだろう/消えてしまう儚さに愛しくもあるとしても」「独りで行くと決めたのだろう/独りで行くと決めたのだろう」という言葉につなげていく構成など、色々な工夫があってもよかった。

 志村のパート以外でも、この番組全体を通じて、取材した人々の言葉、出来事の重さに比べて、番組の表現や構成に練り上げの不足があるというのが感想であり、批評である。NHKが持続的に志村正彦の番組を放送してくれることは、ほんとうにありがたい。だからこそ率直に書いた。今後作られるであろう番組に期待したい。 

 最後に最も感慨深かったことを記したい。志村の幼なじみ、富士ファブリックとその原型の高校生バンドのベーシスト、そしてこの春から新倉富士浅間神社の神主になられた渡辺平蔵さんとお父様の登場場面は貴重なものであり、とても心に残るものだった。最後の夢の話に落涙した。(この夢の話をここに記すのは控える。この夢は彼のものであり、彼だけが語ってよいものだろう。)

 この最後の場面で流されたのは『茜色の夕日』だったが、これは選曲が違う。この場面にこそ『桜の季節』がふさわしかった。歌の本筋から外れるが、「桜が枯れた頃」「くりだしてみるのもいい」「その町」とは、富士吉田の町のような気もした。桜の季節が過ぎたら涙が舞い散ってしまう。


  桜の季節過ぎたら
  遠くの町に行くのかい?
  桜のように舞い散って
  しまうのならばやるせない

  その町に くりだしてみるのもいい
  桜が枯れた頃 桜が枯れた頃



2021年5月23日日曜日

『若者のすべて』を読む-2021年《人間文化学》[志村正彦LN274]

 昨年度に引き続き、先週、勤務先の山梨英和大学の《人間文化学》というオムニバス科目で、「日本語ロックの歌詞を文学作品として読む-志村正彦『若者のすべて』」という講義を行った。

 志村正彦・フジファブリックの『若者のすべて』には、独特の語りの枠組やモチーフの展開があり、学生や若者にとって「文学作品」として享受できる。今回は冒頭で、僕自身がこのブログにも書いた〈 『若者のすべて』を初めて聴いた時、歌の世界をたどりきれないような、もどかしい想いにとらわれた。きわめて微妙で複雑な物語がそこにあるような気がした。そのような印象の原因はどこにあるのか〉と問いかけた。そのプロセスを整理するとこうなる。


最初の感想…歌の世界をたどりきれないような、もどかしい想い
  ↓
物語の印象…きわめて微妙で複雑な物語がそこにあるような気がした。
  ↓
自ら問いを作る…そのような印象の原因はどこにあるのか。
  ↓
自ら応答する…歌詞の語りの枠組・モチーフの分析/志村正彦の証言次のSLIDEで示した。

 このプロセスを次のSLIDEにして学生に示した。



 この歌詞を文学作品として捉えるのであればまず第一に、自分自身の初発の感想(作品から想い描いた情景や物語、それに対する自分の感情や感覚の動き、印象に残った部分や謎のような部分への問い)を大切にすること。その初発の感想に基づいて何らかの問いを自ら立てること、その問いに対して自ら応答するようにして思考していくこと。僕自身の〈『若者のすべて』を読む〉という試みを講義することによって、学生自身が自らそのような実践をすることを促すことがこの講義の目的であった。この科目は、学部名でもある《人間文化学》の導入科目であり、方法論の基礎も伝える必要があるからだ。

 この科目は1年次学生の必修科目である。昨年度より新入生が増えて200人程が受講するので、今年度もオンライン授業で実施した。本学は入学生全員にモバイルノートPCを貸与している。最新型のM1チップ搭載のMacBook Airだ。自宅あるいはWi-Fi環境が整備されて学内で受講できる。Google「Google Workspace for Education」のClassroomとMeet を使って、SLIDE資料を映し出し、声による説明を重ね合わせる方法で行った。昨年のSLIDEは56ページだったが、表現の細部を修正し全体を再構成した上で、 『若者のすべて』が高校音楽Ⅰの教科書に掲載されるという最新情報も追加したので、69ページに増えた。

 学生が書いたコメントの中で、今回の、「日本語ロックの歌詞を文学作品として読む」という目的に関連したものを二つ紹介したい。


全体の授業の感想として、日本語ロックを文学として読むということが初めは理解できませんでした。ですが、この歌詞にはこんな意味があるとか、二つの世界が試行錯誤の中で合わさっているとか、段階的に曲を見ることができたおかげで、自分なりの解釈や他の目線から見た解釈を自分なりに考えることができて、単なる曲としてメロディや歌詞を聴くだけでなく、まるで短編小説を読んでいるような感覚で考えていくことができました。これから曲を聴く時は今日のことを活用していきたいですし、志村正彦さんの曲をもっと調べてみようと思いました。


この歌を最初に聴いた時と、授業を終えたときの印象はガラリと変わった。曲をひとつの物語と捉えて一つ一つの言葉を解釈していくと、様々な想いが込められていることや、表現の仕方に工夫がされていることに気づく。それらのことを知ってから改めて曲を聴くと、これまでとはまた違った楽しみ方ができると思った。私は自分の好きな歌などを深く理解しようとしたことがなかったが、今回の授業を通してどんな歌にも感情が込められており、歌詞に意味があることが分かったので、深く調べてみようと思った。そしてそのような様々な表現の工夫に触れていくことは自分の表現力の向上にも繋がっていくと思う。


 このようなコメントが多数あった。学生に感謝したい。この講義の目標はほぼ達成されたと考えている。目標は、僕自身の解釈を伝えることではなく、それをひとつの試みとして、ひとつの方法として学生に示して、学生が自分自身で『若者のすべて』そして自分の好きな歌についての読みを深めることである。

 文学作品を読むことは、主体的な実践である。自由な行為である。読むこと、その可能性のすべて、自由のすべてを学生が試みてほしい。


2021年5月5日水曜日

高校音楽教科書の『若者のすべて』[志村正彦LN273]

   志村正彦・フジファブリックの『若者のすべて』が、来年2022年度(令和4年)から使われる高校の音楽Ⅰの教科書、教育芸術社の『MOUSA1』に採用されたことをネットの情報で知った。(音Ⅰ703,  令和4年度 高等学校用教科書 音楽Ⅰ MOUSA1)

 来年から高校では新しい学習指導要領による教育が始まる。それに伴って教科書も全面的に改定されるのだが、旧課程の教科書から引き継がれる教材もあれば、新たに導入される教材もある。その新教材に『若者のすべて』が選ばれたのである。志村の音楽ファンの一人として、そして高校の教育に携わっていた者としても、 教育芸術社とこの教科書の著作者・編集者の見識と英断に熱い拍手を送りたい。

 僕もある高校国語の教科書の編集協力者として、教材選択の仕事や関連教材の執筆をしたことがあるので、教科書作りの大変さは分かっている。様々な観点から総合的に教材となる作品を検討しなければならない。文部科学省の検定があるので、細心の注意も必要である。僕は国語についての経験しかないが、教材の決定については、その教科書の著作者や編集者の一人ひとりの考えが尊重される。この『MOUSA1』についても同様であろう。おそらく『若者のすべて』を強く推す方がいて、編集会議で承認されたのだと思われる。

 調べてみると、以前からこの『MOUSA1』にはロック音楽の系譜図が載っていたり、ロックの歌が採用されていたりするので、ロック好きの担当者がいるに違いない。とても喜ばしいことだ。ここ半世紀の若者の音楽の中心にロックは存在している。

    「令和2年度使用都立高等学校及び都立中等教育学校(後期課程)用教科書 教科別採択結果(教科書別学校数)」によると、この『MOUSA1』の現行課程版は、234校中73校で採択されている。採択数はトップ、採択率は31%になる。都立高校等で音楽を選択する高校生の3割がこの教科書を学んでいる。来年度からは新課程版だが、もっと採択率が上がるかもしれない。

 教育芸術社のwebには、この教科書の 内容解説資料 が掲載されている。「歌唱」という単元については次のように書かれている。


多感な時期にある生徒が楽しく幅広く音楽を学習することができるよう教材を精選し,提示の仕方を工夫しながら,ポピュラー・ソング,唱歌,芸術歌曲,合唱曲,ミュージカル・ナンバー,オペラ・アリアなどを取りそろえました。特に,長い間歌い継がれ,親しまれてきた曲を豊富に収録するとともに,我が国の伝統的な歌唱も学習できるよう,能の謡を取り上げました。


 この単元の一つとして「ポピュラー・ソング」が取り上げられ、次のように説明されている。


広く親しまれている《翼をください》《見上げてごらん夜の星を》《Memory》の他,生徒の心に響くポピュラー・ソングを新たに5曲加えました。

現在までの推移を10年ごとに区切り,それぞれの時代を彩った歌を1曲ずつ選びました。


2010年代《Lemon》(P.12・13)
2000年代《若者のすべて》(P.16・17)
1990年代《負けないで》(P.15)
1980年代《クリスマス・イブ》(P.115)
1970年代《翼をください》(P.14)
1960年代 《見上げてごらん夜の星を》(P.64・65)
1940年代《東京ブギウギ》(P.114)


 『若者のすべて』は、「生徒の心に響く」曲、「時代を彩った歌」として選ばれた。(P.16・17)とあるので、初めの方に載る。これは重要なポイントだ。見開き2頁だから楽譜がしっかりと記載されるのだろう。参考までに、この7曲のリリース日の順に作詞作曲者を付けて並べてみよう。


1948年1月        《東京ブギウギ》 作詞:鈴木勝・作曲:服部良一
1963年5月1日   《見上げてごらん夜の星を》 作詞:永六輔・作曲:いずみたく
1971年2月5日   《翼をください》 作詞:山上路夫・作曲:村井邦彦
1983年12月14日《クリスマス・イブ》 作詞・作曲:山下達郎
1993年1月27日  《負けないで》 作詞:坂井泉水・作曲:織田哲郎
2007年11月7日 《若者のすべて》 作詞・作曲:志村正彦
2018年3月14日 《Lemon》 作詞・作曲:米津玄師


 この7曲の中で純粋なロックと言えるものは『若者のすべて』だけである。もともと「ポピュラー・ソング」という枠組での選択だからロックは1曲しかないのかもしれない。逆に言うと、『若者のすべて』は良い意味でロックの枠を超えているのだろう。ジャンルを超越して、作品そのものがこの時代の「ポピュラー・ソング」の代表曲、私たちの歌として愛されている。

 誰もが知る名曲が並ぶ中で、『若者のすべて』、そして作者志村正彦の一般的な知名度は最も低いのかもしれない。しかし、この曲が生まれてから十四年経つが、いまだにこの歌は浸透し続けている。2000年代の代表曲としての評価が高まってきた。『MOUSA1』の著作者・編集者もそう判断したのだろう。そして、この教科書に収録されることで、この作品はさらに広まっていく。やがて、この半世紀の日本語ロックの最高の達成としての評価が定まるだろう。

 来年から、かなりの数の高校生がこの教科書で『若者のすべて』と出あう。歌う。奏でる。十年ほど前であれば信じられないような話だが、これは現実である。彼の母校でも、音楽の授業で歌われることになるかもしれないのだ。作者の志村が一番驚いているだろう。〈教科書に載るなんてロック的でない〉とか言いそうだが、〈僕の曲を知らない高校生や若者に聴いてもらいたい〉と語っていた彼のことだがらやはり素直に喜ぶだろう。志村正彦の歌詞についての授業を高校と大学で実践してきた僕としても、とても嬉しい。

  今日はあえてこう書きたい気分です。志村正彦のことをとても誇らしく思います。