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2016年9月30日金曜日

11月27日、Analogfish & mooolsが桜座に来る。

  秋の風物詩、Analogfish & mooolsの甲府桜座でのLIVEが今年も11月27日に開催される。

 ツアー名は『Analogfish & mooolsと捲く、芋ケンピ空中散布ツアー2016 ~空中サンプ~、ドローンに詰めるだけ詰め込んで、、秋。』、いつも通りの不思議に長い謎の名だ。さて、どんな雰囲気なのか。幸い、昨年の映像がyoutubeで見ることができる。

    

  映像を見ると昨年のことを思い出す。
 「Analogfish+moools」の合体バンドは、ツインドラムス、ツインベース、トリプルギター、キーボードの8人編成。最後はボーカル4人が「僕の腕の先のギザギザと 君の腕の先のギザギザを合わせよう」と、mooolsの『分水嶺』をリレーして歌っていった。すべての声と音がよく鳴っている。これはロック、これがロックだ。

 ロックはやはり「場」の音楽だ。桜座は小さな場ではあるが、声と音が凝縮され、エネルギーが蓄えられ、徐々に時に突然、放出される。ここでは聴き手は座敷に座る。座ると音に集中できる。そしてお腹の真ん中あたりで音を受けとめる。場と共振するかのように、音と身体が広がっていく。 

 せっかくの機会なのだが、昨年も一昨年も山梨のお客さんが少ない気がした。県内の老若男女のロックファンに集ってほしい。
 一言、もったいない、です。

 主催はいつも通り「どうしておなかがすくのかな企画」。この二つのバンドがこの地で聴けるのも主催者の勝俣さんと桜座という場のおかげで、とても有り難い。
 詳細は「どうしておなかがすくのかな企画」のHPにあります。まだ二か月後だけど、待ち遠しい。

2016年9月26日月曜日

ある問いかけ [志村正彦LN141]

 一昨日、富士の山頂に初雪が降ったそうだ。今朝、勤め先のいつもの位置から遠くの富士を眺めたが、甲府からではやはり分からない。
 今夜、駐車場に向かう途中、あの香りが微かな風に乗って鼻腔に届いた。金木犀だ。昨年も今頃だった。家に帰り、フジファブリック『赤黄色の金木犀』をかける。毎年の恒例だが、歌は不思議なもので、不意にある言葉が迫ってくる。

  いつの間にか地面に映った
  影が伸びて解らなくなった   (作詞・志村正彦)

 彼岸が過ぎて、日に日に昼が短くなっていく。陽は傾き、影が長く伸びるようになる。陽が弱くなり、影がうすく、その輪郭もぼんやりとしてくる。この歌詞の一節は、この季節に特有の「影」を描いている。影が季節の影となる。そんなことをふと思った。

 HINTOの新作『WC』がリリースされた。注文したが売れ行きがよく在庫がないようでまだ届かない。新曲『なつかしい人』のミュージックビデオを見たが、言葉、楽曲、演奏、映像、すべてが極めて高い次元で融合している。アルバム全体を聴くのが待ち遠しい。
 ネットを検索すると、HINTOのドラムス菱谷昌弘氏のtwitter(ひしたにビッツまさひろ https://twitter.com/hishitanese 9月21日) にこういう呟きがあった。

作り手がその作品を作るにあたって、どんな想いで、どれだけ頭ひねって、どれだけ苦労して作りあげたのか、ちゃんと批評する人たちには今一度その事を考えてみて欲しい モノを作る人なら尚更

 率直であるがゆえの深い問いかけだ。僕は批評家でも作家でもないこのblogの単なる書き手だが、この菱谷氏の言葉は肝に銘じたい。

 数分ほどのロックの歌。それらが集まった数十分のアルバム。
 その作品に、どれだけの「想い」と「頭」と「苦労」が込められているのか、どれだけの時間が凝縮されているのか、どれだけの闘いの痕跡があるのか。そのことを丁寧に測量するのがこの「偶景web」の仕事だと考えている。あえて「仕事」と書いたのは、自己表現や趣味ではないという実感があるからだ。「しごと」の本来の意味、「すること」というのか「すべきこと」というのか。すべきことであるから、する。続ける。

 昨日、ページビューが十五万を超えた。拙文を読んでいただき、感謝を申し上げます。

2016年9月21日水曜日

歌の伝わり方-『若者のすべて』[志村正彦LN140]

 台風が過ぎた。いつも見ている桜の樹の葉がもう半分近く散っている。夏が過ぎ去り、秋への歩みが速くなる。この狭間の季節、ある授業でフジファブリック『若者のすべて』を三十人ほどの生徒に聴かせた。

   CDをかける前に『若者のすべて』を聴いたことがあるかと尋ねた。手を挙げたのは五人ほどだった。この数は多いのか少ないのか。そんなことを思いながらCDをスタートさせた。教室という場で皆が一緒にこの曲を聴く。その雰囲気には独特のものがある。窓外の風景を眺めながら、曲が終わるまでの時間を過ごした。その後でもう一度この曲を以前聴いたことがあるかと尋ねると、二十人近くの生徒が挙手した。要するにこの曲を聴いたことはあるのだ。記憶にも残っている。つまり、志村正彦、フジファブリック、『若者のすべて』という固有名は知らなくても、この曲自体はかなり若者の間に浸透していることになる。

 『若者のすべて』についてはすでに三〇回ほど断続的に書いている。この歌そのものへの深い関心と共に、この歌がどう受容されていくかについても興味があり、時々ネットを検索してきた。最近、今年になってさらに夏の定番の歌としてテレビやラジオで流されることが多くなったという呟きを見つけた。確かなことは分からないが、肯ける気がする。
 僕は見逃してしまったが、テレビ朝日の番組『長島三奈が見た甲子園 野球が僕にくれたもの』のエンディングでも流されたそうだ。三年前、高校野球決勝中継のダイジェスト映像のBGMにもなっていた。anderlustによるカバーが使われたアニメ『バッテリー』も野球物である。志村正彦が野球少年だったことは知られているが、『若者のすべて』と野球という取り合わせは不思議なほど調和している。

 また最近、この曲を好きだったが誰の曲か知らなかった、やっとそれが分かった、というtweetを読んだ。『若者のすべて』が広まることで、志村正彦、フジファブリックの存在を知る。これはファンとしては嬉しい。逆に、誰が歌っているのか、誰が作ったのか分からないまま、この曲をずっと好きでいる。作者の名を知らない、ある意味では和歌の「詠み人知らず」のよう に、歌そのものの魅力によって人々に愛されていく。これもまた、曲の運命としては光栄なことに違いない。

 この作品が誕生してすでに九年近くになる。この間、草野正宗、櫻井和寿(Bank Band)、藤井フミヤ、柴咲コウ、槇原敬之と、名のある歌い手がカバーしている。志村正彦と交流のあった人にとっては追悼の意味合いも当然あったように思うが、近年のこの歌の広がりはその言葉と楽曲の力による。若手アーティストの場合は、志村正彦という存在へのリスペクトも込められている。プロを目指している若者たちが歌うことも多いようだ。聴き手がふと口ずさむこともあるだろう。

 2016年の夏はanderlustによる音源がリリースされた。ライブで歌われることも多い。五月のことになるが、UNISON SQUARE GARDENの斎藤宏介が「VIVA LA ROCK」というロックフェスで歌ったそうだ。その際「もしこの曲を初めて聴く人がいたら、その人にもちゃんと伝わるように歌います」と話したというレポートがあった。三月、クボケンジが歌ったことは以前このblogで書いた。
 先日、WOWOWの番組「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2016 DAY-3後編」で、フジファブリックの『虹』『若者のすべて』が放送された。山内総一郎が力を込めて歌っていた。山梨の山中湖で開催された「SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWER 2016」でも演奏されたそうだ。夏のフェスのエンディングにふさわしい曲だろう。

 2000年代以降に作られたロックやポップソングでこれほどカバーされているものは他にない。志村正彦はリリース後にこの曲が「意外と伝わってないというか……正直、その現状に、悔しいものがあるというか…」と述べていたことは繰り返し記しておくべきだろう。
 時と共に、この曲は確実に伝わってきた。当時、このような歌の伝わり方を想像できた者はいないだろう。

 先週の土曜日、下岡晃(Analogfish)と堕落モーションFOLK2(安部コウセイ×伊東真一)が「m社会議Vol.2」というライブで共演し、そのアンコールで安部と下岡が『若者のすべて』を歌ったそうだ。
 聴いてみたかった。音源や映像はないかな。そう欲してしまう。だが、その時その場で歌われ、そして消えていくからこそ、歌は美しくあるのだろう。

 夏の終わりの季節にこの歌は人々に愛され、そして、その儚げな季節は閉じられていく。それでもまた来年その季節を迎える。年々、この歌は季節の循環のような時を生きていく。そのことを「運命なんで便利なもの」で語ってみたいのだが、どうだろうか。

2016年9月14日水曜日

吹田スタジアムの音と光

  先週末、大阪の万博公園にある吹田サッカースタジアムに行ってきた。ヴァンフォーレ甲府vsガンバ大阪の応援のためだ。関西に行くのは十年ぶり、前回も甲府の応援だった。

 スタジアムという場そのものに興味がある。2006年、甲府はJ1に初挑戦した。それから十年の間、二回降格したが、2013年の三回目の昇格以降四年間J1になんとかとどまり続けている。この間、関東圏を中心にJ1の主なスタジアムにはひととおり出かけた。今年2月、ガンバ大阪の新たなホームとなる吹田スタジアムがオープンした。凄い臨場感だという評判を聞いて、予定が合えば行こうと決めていた。

 甲府から身延線、新幹線と乗り継いで新大阪に着いた。茨木駅まで戻り、万博公園に向かった。しかしアクセスが分かりにくく、道に迷ってしまった。到着したのはキックオフ二十分ほど前。甲府側の席はほぼ満員。やっと空席を見つけて座ることができた。
 スクエアな形が基本だが囲まれ感がある。LED照明のせいか、芝生の緑もあざやかで眩しい。サッカー専用のためピッチが違く、スタンドの傾斜も適度で見やすい。評判通り、いやそれ以上に素晴らしい。華やかさではなく、機能的な美を追究している。

甲府アウェイ側から見たホーム側

 しばらくして前方を見ると、会場のLED照明が消されて、無数の青い光が視界に浮上する。サポーターがLEDブレスレットやサイリウムを点灯している。ガンバ大阪のナイトゲームで評判となっている演出だ。黒色の闇の中に青色の光。青と黒はガンバのテーマカラーでもある。

 声や音もクリアに響き渡る。ガンバのゴール裏のコールがかなりの音圧で会場に広がっていく。ゴール裏側のスタンドの上中下層の三層が一体となり、全体が大きな面となって、スピーカーの反響板のようなっている。設計段階から音響効果を綿密に計算しているのだろう。スポンサー企業のパナソニックの技術が入っているのかもしれない。

 コールの声に合わせて青い光が綺麗にゆれる。スタジアムが幻想的で非日常的な場となり、サッカー場というよりロック・コンサートの会場にいるような気分になる。アウェイサポを含めて一体感が醸し出され、これから始まるゲームへの期待感が高まる。この雰囲気を含めて国内最高のスタジアムであることは間違いない。
                   

 午後7時キックオフ。開始5分で甲府が先制。甲府のサポーターが歓喜に包まれる。だがすぐに失点。前半はほぼ互角の闘い。後半に入るとガンバの猛攻に遭う。80分までは持ちこたえたのだが、ミスがらみで失点。結局1:2で敗れた。J1残留のために引き分けの勝ち点1でも持ち帰りたかったのだが、叶わなかった。ガンバ大阪はやはり強い。

 サポーターの歌やコール、その存在は古代ギリシア劇の合唱隊「コロス」(コーラス)に擬えられることがある。東本貢司氏は「劇場としてのスタジアム思想」というエッセイで次のように述べている。(『イングランド―母なる国のフットボール』日本放送出版協会 2002/04 所収)

イングランドのスタジアムは《劇場》そのものと言えるかもしれない。それも、舞台(ピッチ)に上がった俳優(プレーヤー)の演技(プレー)を観客が観て感動し拍手を贈るといった彼我の関係ではなく、観客そのものもプロットの中で重要な脇役を担う、スタジアムの中のすべての人々が一体となった”フットボール劇”が演じられる劇場である。ミクロな比喩に喩えれば、古代ギリシャ悲劇のメインキャストとコーラスの関係のようなものだ。
       
 この日の吹田サッカースタジアムはまさしく「劇場」そのものであった。甲府サポーターも千人はいた。関西在住のサポーターや山梨出身者も駆けつけていたそうだ。応援のために大きな声を張り上げていた。ガンバ大阪のサポーターも甲府のサポーターも共に劇場の合唱隊「コーラス」として、「フットボール劇」の一員となっていた。

 山梨では今、ヴァンフォーレ甲府の新しいスタジアム建設の動きがある。まだ検討段階だが、実現の道を歩み始めることを願っている。吹田スタジアムの建設費は140億円。3万2千席の規模の割にはかなりのローコストであり、練りに練った設計を試みたようだ。また、費用のすべてが法人や個人の寄付で賄われたそうだ。吹田スタジアムの建築のありかたはこれからのモデルとなる。

 甲府の新スタジアムは2万席の規模で、リニア新幹線の新甲府駅近くが候補地だと言われている。財政を圧迫しないためにも、建築費・維持管理費を含めて可能な限りローコストなスタジアムを目指してもらいたい。吹田のように寄付を募ることも必要だ。質素でありながらも、山梨という場にふさわしいデザインを工夫する。一サポーターとしての長年の夢である。

付記
 今回は妻と母(現役甲府サポである)と一緒に出かけた。母は足にやや痛みがあり杖を突いていったのだが、会場のボランティアの方がわざわざこちらまで駆け寄り、エレベーターまで案内していただいた。3階まで上がると、エレベーター近くに車椅子席があった。コンコース沿いのかなり広いエリアであり、ピッチも見やすそうだ。バリアフリーが徹底されている点でもこの設計は優れている。
 係員に案内されて、私たちはビジター自由席に向かった。ホームアウェイに関係なく親切でホスピタリティが高かったことを記しておきたい。ありがとうございました。

2016年9月6日火曜日

歌詞のイメージ、声の響き[志村正彦LN139]

 前回、anderlust越野アンナの声を「わずかばかりだが夾雑物が混じっているような感触の声」「硬い金属的な感触」と形容した。そのことに関連する本人のインタビューをネットで見つけた。 【インタビュー】anderlust、「いつかの自分」にこめた2つの意味と、カバーにこめた“自らの色”(取材・文◎村上孝之)である。                     

  越野は『若者のすべて』カバーについて「自分の声をお寺とかにある鐘に見立てて歌った」と注目すべき発言をしている。「声の響き」に重点を置き、Bメロを「ビブラートを掛けずに、体内に響かせるように」したとも述べている。なぜそう歌ったのかという問いに対してこう答えている。

越野:歌詞に引っ張られて、そういう歌い方をしようと思ったんです。Bメロに出てくる“夕方5時のチャイムが”という文節もそうですけど、全体的に幻想とか、フラッシュバックを思わせるような歌詞だなと思って。そこで、なぜかお寺の鐘とか、ハンドベルといったイメージが浮かんできたんです。

 「硬い金属的な感触」と感じた「声」はどうやら意図的に作り上げたもののようだ。僕には「お寺の鐘」や「ハンドベル」のようには聞こえなかった。少し硬質で独特の共鳴が含まれる声であったが、綺麗に響く声でもあった。そのように発声した意図がそもそも『若者のすべて』の歌詞にあるというのが面白い。「全体的に幻想とか、フラッシュバックを思わせるような歌詞」という指摘は肯けるが、「夕方5時のチャイム」が「鐘」の響きであるかどうかは歌い手の解釈の自由の領域にある。志村正彦自身が想い描いた「夕方5時のチャイム」はもっとやわらかい響きの音のような気がするが、これも聴き手一人ひとりの自由に属する。
 それにしても、越野アンナの話、歌詞のイメージからカバー曲の「声」の響きを構築したという試みはとても興味深い。

 アニメ「バッテリー」ティザーPV3という映像がyoutubeの公式チャンネルにあり、30秒を過ぎたあたりから、anderlust「若者のすべて」が流される。歌詞の第1ブロック「夕方5時のチャイムが」から「まぶた閉じて浮かべているよ」までの部分だ。


 CDと同じ音源なのだろうが、どこか印象が異なる。ティザー映像ということもあり、細かい部分で調整されているのだろうか。声の響きの特徴があまり出ていないようだが、この方が映像のBGMとしては聞きやすいかもしれない。

  アニメ『バッテリー』(フジテレビ"ノイタミナ")そのものは、先日放送された第8回を見ることができた。エンディングでは、「真夏のピークが去った」から「まぶた閉じて浮かべているよ」までの第1ブロックのすべてが使われていた。1分30秒程の時間だ。途中で、「作詞 志村正彦/作曲 志村正彦/編曲 小林武史」というクレジットが映し出される。

 アニメのエンディングは次回のオープニングにつながっていく。
 anderlust『若者のすべて』は、「夏の終わり」というよりも、「夏の終わり」を遙か彼方に予感しながら「夏の始まり」を歌っているように聞こえてくる。