アンコールの2曲目、『陽炎』が始まる。最後に富士吉田で歌われるのにふさわしい歌だ。
あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ
遠く、遠く、遠く、この場ではないどこか遠いところから、志村正彦の歌が聞こえてくる。
彼はここにはいない。映像の中にもいない。もっともっと遠いところへ彼はたどりつき、その遠いところから、こちら側をふりかえる。
過去でも未来でもない、時の果てのような場に彼は佇む。そこから、「あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ」と歌い出す。2008年の観客に向けて歌われているのだが、同時に、私たち2014年の観客にも歌われているかのようだ。
二つの時、2008年、2014年の隔たりを超えて、私たちに届けられる。
あらかじめ断っておくが、非現実的な出来事として書いているのではない。『陽炎』を歌い出した瞬間、私の心に去来したものだ。何故かは分からない。「偶発的な小さな出来事」のように、「偶景」のように、過ぎ去り、消えていくものをありのままにここに今記した。
また そうこうしているうち次から次へと浮かんだ
残像が 胸を締めつける
現実とその残像との間、過ぎ去ったものと過ぎ去ったものからこぼれ落ちるものとの狭間。そこに彼はいる。「そうこうしているうち」「次から次へと浮かんだ」「残像」。「胸を締めつける」苦しみ。
それが何なのか。確かなことは分からない。分かる必要もない。分かることよりも、受け止めることが大切だ。言葉そのものを聴き取ること。そのことが忘れられている。
そのうち陽が照りつけて
遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる
陽の光が照りつける。空気の流れが変わり、光の屈折が乱れる。陽炎の向こう側に有るもの。それを陽炎がゆらゆらと遮る。有るものの姿をあいまいにさせ、視界から遠ざける。逆に、本来そこには無いもの、無いものの姿が出現する。
古来、陽炎という言葉は、あるかなきかに見えるもの、儚いもののたとえとして使われてきた。志村正彦が繰り返し描く風景には、陽炎のようなものがいつもどこかに潜んでいる。
照明が暗転する。鍵となるモチーフが歌われる。
きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう
遠い遠いところから、彼は2008年と2014年の二つの時、二つの観客に向けて歌いかける。
「今では無くなったもの」という表現が、作者志村正彦その人をも包み込む。自ら発した言葉が、時を超えて、自らに回帰する。彼が彼自身に語りかける。
眩暈のような時のあり方だが、彼の歌には時折見られる光景でもある。
志村正彦は自らの宿命に向かって、人として、音楽家として、成熟していった。
『陽炎』が終わる。映像が消え去る。無音になり、タイトルバックが流れる。会場が静寂に浸される。『live at 富士五湖文化センター上映會』が閉じられる。
上映會の映像は陽炎のように消えていった。志村正彦自身もひとりの陽炎なのかもしれない。そして、私たち聴き手も陽炎のような時を過ごしたのかもしれない。そのような想いが次から次へと浮かぶ。
有るものと無いものとの間にあるもの、その間を揺れ続けるもの、陽炎。彼は自らの内にある陽炎を繰り返し繰り返し歌い続けてきた。そして儚いものの美しさを表現し続けた。
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