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2014年8月10日日曜日

『桜の季節』から『夜汽車』へと-CD『フジファブリック』8 [志村正彦LN 88]

 CDアルバム『フジファブリック』は、『桜の季節』で始まり『夜汽車』で終わる。

 『桜の季節』は、《上京》の物語、おそらく山梨から東京へと移り住むことが背景となっている。それに呼応するかのように、『夜汽車』は《帰郷》の物語、一時的なものであるにせよ、「峠」を越えて、東京から山梨へと戻っていくことが背景となっているとこれまで受け取めてきた。(東京とか山梨とかいう固有名を抜きにして、普遍的な《上京》と《帰郷》と考えてもいいが)少なくとも、アルバム全体として、始まりの曲と終わりの曲が、何処かに往くことと何処かに還ること、《往還》の枠組みを持つとは考えてきた。

 志村正彦は「ファースト・アルバムは東京vs.自分」というテーマがあったと述べている。([http://musicshelf.jp/?mode=static&html=series_b100/index  ]
 その「東京vs自分」というテーマを「上京vs 帰郷」に変奏すると、このアルバムの全体像が見えてくるのではないか。そのような見通しのもとに原稿を準備してきた。ところが、あらためてアルバムの全曲を聴き、特に『夜汽車』の歌詞をくりかえし読むと、「上京vs.帰郷」という図式的な解釈からこぼれ落ちてしまう、微妙な細部が見えてきた。

 志村正彦の歌を読むためには、歌の細部と余白を読むことが必要となる。『夜汽車』の全歌詞を引用してみよう。

 長いトンネルを抜ける 見知らぬ街を進む
 夜は更けていく 明かりは徐々に少なくなる

 話し疲れたあなたは 眠りの森へ行く

 夜汽車が峠を越える頃 そっと
 静かにあなたに本当の事を言おう

 窓辺にほおづえをついて寝息を立てる
 あなたの髪が風に揺れる 髪が風に揺れる

 夜汽車が峠を越える頃 そっと
 静かにあなたに本当の事を言おう              [『夜汽車』]

 歌の主体は、「僕」のような人称代名詞としては登場しないが、視点人物として、「あなた」を見つめていいる。「あなた」は女性、歌の主体は男性と捉えていいだろう。夜汽車という場と時、「あなた」は「話し疲れ」て「眠りの森へ行く」という情景からして、かなり親密な関係であることは間違いない。
  この二人は何処に行こうとしているのだろうか。行き先も目的も分からないが、歌の主体の故郷へと向かっているような気がする。(「あなた」の故郷へという可能性もあるが)

 山梨に住む者なら、「長いトンネルを抜ける」「明かりは徐々に少なくなる」「峠を越える」という言葉から、中央線や富士急行線を連想してしまうだろう。(学生の頃、私も新宿で中央線の夜行列車に乗り、「長いトンネル」や「峠」を超えて甲府へ帰った。特急に乗る余裕はなく、各駅停車の旧式電車で「窓」を開け「風」に揺れながら)歌の主体を志村正彦の分身だとするなら、歌の主体が「あなた」を連れて東京から山梨へと帰っていく物語のように感じられる。帰郷というモチーフが強く現れてくる。

 「話し疲れたあなたは 眠りの森へ行く」。その時を待ちかまえるようにして、「夜汽車が峠を越える頃」に、歌の主体は「あなた」に対して、「そっと」「静かに」、「本当の事」を言おうとする。
 しかし、「眠り」の中の「あなた」が「本当の事」を聴き取ることはない。眠りが壁のように言葉を塞ぐ。むしろ、言葉が伝わらないからこそ、歌の主体は「本当の事」を語りかけようとする。『桜の季節』の「手紙」が投函されないで、「僕」は「読み返して」いるだけという状況にいささか似ている。

 『夜汽車』でも『桜の季節』でも、歌の主体の言葉は他者へ届かない。言葉は結局主体の方へ戻っていく。独り言のような世界。志村正彦らしいといえばらしい世界だ。
 ところで、『桜の季節』では、歌の主体を示す1人称代名詞「僕」が登場し、他者を示す2人称代名詞は作中にない。それに対して、『夜汽車』では歌の主体を示す1人称代名詞が作中になく、「あなた」という他者を示す2人称代名詞は使われている。これは偶然だろうか。無意識だろうか。アルバム『フジファブリック』は、『桜の季節』の主体「僕」から、『夜汽車』の「あなた」へと向けて歌われているようでもある。

 この歌は「夜汽車が峠を越える頃 そっと/静かにあなたに本当の事を言おう」で終わりを迎える。歌詞にある言葉のように「そっと/静かに」終わる。言葉のないエンディングが永遠に続くかのような余韻が残る。まるで夜汽車がそのままずっと走り続けるように。

 最後に、『夜汽車』の余白から浮かんできた、私の「妄想」のような解釈を記したい。

 「あなた」は眠りの中にいて、歌の主体は「本当の事を言おう」とする。しかし、「言おう」とするところで、時間は止まってしまう。僕は言うことができない。
 歌の主体と「あなた」の時間は止まる。夜汽車はそのまま走り続ける。「峠」を超えることはない。歌の主体も「あなた」も何処にも行けない。何処にも還ることはできない。帰郷が果たされることはない。

 言葉のない余白をどう「誤読」するか。そのような問いが残る。

     (この項続く)

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