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2014年12月16日火曜日

三つの歌-フジファブリック武道館LIVE 3 [志村正彦LN98]

 武道館での『茜色の夕日』のフジファブリック・アンサンブル。
 志村正彦の《声》音源と、山内総一郎、加藤慎一、金澤ダイスケ、そして名越由貴夫、Bobo堀川裕之の生演奏による合奏は、希有な出来事だった。

 フジファブリックのメンバーもスタッフも、志村正彦への最大限の敬意と想いを込めて、この日の『茜色の夕日』を準備したのだろう。志村が急逝してから五年が経ち、これまでできなかった、ライブという場での追悼が成し遂げられた。そのことに強く心を動かされた。何千人もの心を込めた拍手が鳴りやまなかったことも、あの場の皆の想いを物語っていた。

 志村の《声》の余韻が強く漂う中で、次に演奏されたのは『若者のすべて』だった。金澤がピアノ音のイントロを奏で、山内が静かに歌い出す。

 『茜色の夕日』と『若者のすべて』という二つの歌は、言うまでもなく、志村正彦の生の軌跡を表した曲だ。志村には多彩な名曲がたくさんあり、代表曲を選ぶのはなかなか難しいが、彼の生という観点からは、この二つが代表曲だと言いきってよいだろう。彼自身もそう考えていたはずだ。

 表現のモチーフからもそう言える。『茜色の夕日』の二度繰り返される「できないな できないな」の「ない」は、そのまま、『若者のすべて』の三度繰り返される「ないかな ないよな」の「ない」にもつながっている。「できない」「ない」「いない」。「ない」という不可能なことや不在であることを、志村は繰り返し歌ってきた。彼の詩の軌跡は、「ない」を巡る《歩み》として捉えられる。

 東京上京後まもなく、十八歳の時に作られた『茜色の夕日』は、志村の旅の出発点であった。二七歳の時に発表された『若者のすべて』は、自らの旅の方向を新たに見定めた大きな到達点だった。フジファブリックというバンドにとっても、とても重要な地平を切り開くものとなった。旅はその後も続くはずだったが、彼に残された時間は限りあるものだった。

 『茜色の夕日』という志村の原点は、フジファブリックというバンドの原点でもあり、志村の《声》で演奏される必然性があった。『若者のすべて』は今日、バンドとしてのフジファブリックの代表曲であり、それ以上に、いわゆるゼロ年代の日本語ロックの最も優れた作品だという評価も確立している。すでにこの曲は、藤井フミヤ、櫻井和寿、槇原敬之などの著名な歌手によって歌われている。10周年を記念するライブで、現在のボーカル山内総一郎が歌うという選択は、一つの自然な流れから来るものだろう。

 今、あの場面をふりかえると、そのような意味合いが了解できる。しかし、あの時には、『茜色の夕日』の志村の《声》で想いがあふれていて、『若者のすべて』の山内の《声》を充分に聴き取ることはできなかった。曲が終わり、『卒業』のイントロが始まると共に、映像がスクリーンに上映されると、ようやく舞台へと視線が戻っていった。

 『茜色の夕日』と『若者のすべて』に続く歌が、山内が創った『卒業』であることには、ある感慨を覚えた。この歌は新アルバム『LIFE』の中でも最も重要な作品だからだ。
 『卒業』は、志村正彦の不在の風景と、現在の山内総一郎、加藤慎一、金澤ダイスケの三人の心の風景を表現しているように、私には感じられた。スミス監督によるスクリーン映像もまた、そのような風景を描いているようだった。

 『茜色の夕日』、『若者のすべて』、『卒業』。この三曲の配列を中心に置いて、このライブが構成されたことは間違いない。10年という時の歩みが、この三つの歌に集約されている。

 武道館ライブから半月以上が経つ。この間、この三つの歌を聴き直し、言葉を読み直してみた。

 志村正彦作詞作曲の『茜色の夕日』『若者のすべて』、山内総一郎作詞作曲の『卒業』。
 各々の歌の主体は、「僕」(『茜色の夕日』)、「僕」および「僕ら」(『若者のすべて』)、「ぼくら」(『卒業』)と異なっている。
 この三つの作品をこの順に通して聴いていくと、どのような光景が広がるのだろうか。    
 

        (この項続く)

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