前回の「志村正彦LN91」では、『若者のすべて』の「純然たる音と言葉の響き、意味の断片の流れのようなもの」を聴き取ろうとして、「な」音とその連鎖について書いた。この音と声とその響きについて考え続けていたところ、落語家の立川談修氏の次のツィート(@tatekawadansyu )[https://twitter.com/tatekawadansyu]を目にした。
9月18日
ナインティナインのオールナイトニッポンを聴いててたまたま流れた、フジファブリックの『若者のすべて』という曲に撃たれた。バンドの名前は知ってたけど曲を聴くのはたぶん初めて。7年前の曲で、しかもこれを歌ってる人は5年も前に享年29で夭折していることにビックリ。
9月18日
サビ部分の「な行音」の羅列とその独特の発音が何とも言えず心地よく耳に残る。ファンのかたにとっては何を今さら、だろうけど。
立川氏は「『な行音』の羅列とその独特の発音」を的確に指摘し、「何とも言えず心地よく耳に残る」ところに「撃たれた」ようだ。語りの言葉の専門家による発言は貴重だ。この呟きにも刺激されて、今回も、「ないかな」の一連のフレーズについて論じていきたい。「志村正彦LN 37」ですでに次のように記した。
純粋な響きの問題にも触れたい。「ないかな ないよな きっとね いないよな」の一節には、「な…」「な…」「…な…」の不在を強調する「な」の頭韻と、「…かな」「…よな」「…よな」の「な」の脚韻がある。「な」の頭韻には強く高い響き、「な」の脚韻には柔らかく低い響きがある。「な」の音の強さと柔らかさが、縦糸と横糸になって織り込まれているような、見事な音の織物になっている。
「ないかな ないよな きっとね いないよな」は当然、「ないかな」「ないよな」「きっとね」「いないよな」の四つの最小単位に分かれる。その単位の構造を視覚化するために、以下のように記してみる。
な□□な
な□□な
□□□ね
□な□□な
視覚化すると明瞭だが、「な」の頭韻の「な」と脚韻の「な」の二つがそれぞれの最小単位を挟み込んでいる(三つ目は脚韻がナ行の「ね」、四つ目は最初に別の音が入っているが)「な」の音で始まり「な」の音で終わる。
四つの音がその倍数で展開していく。拍も同様に音の長短を調整しながら、四の倍数を刻んでいく。
別宮貞徳氏の『日本語のリズム ─四拍子文化論』(ちくま学芸文庫)は、「4拍子」が日本語のリズムの基調にあることを指摘した。所謂「七五調」についても、言葉の切れ目や間を挿入することで、2音節1拍の8音節4拍子になる。俳句の五七五も短歌の五七五七七も、888、88888の8音(2音節4拍子)が内在律となる。この主張は、日本語のロックの音数律を考える際にも示唆に富む。別宮氏の表記方法に倣って、1拍2音節の切れ目に/を置き、長音や空白の箇所は○にして記述する。
ない/か(な)/な○/○○
ない/よ(な)/な○/○○
きっ/と(ね)/ね○/○○
いない/か(な)/な○/○○
等時拍の中で、頭韻「な」は短く、脚韻「な」は長めに歌われている。頭韻の「強く高い響き」、脚韻の「柔らかく低い響き」につながっている。歌人の斎藤茂吉はナ行音について「柔かく、時に籠って、滞って響き」と述べているようだが、「ないかな」「ないよな」の脚韻の「な」には、「籠って、滞って」という響きの感覚がよく表れている。
志村正彦の声には「やわらかく粘りつく」ような心地よさがあるとも言われているが、このようなフレーズやリズムの構造と声の響きが関係しているかもしれない。
音から単語のレベルに移行しよう。
聴き手からすると、最初の「な」音は、続く「い」音とすぐに結びついてしまう。自然にそのように聞こえてくる。「な」は、「ない」という一つの単語、自立語の形容詞、時枝誠記の文法論の「詞」の一部分であるから、これは自然なことだろう。
それに対して、「かな」「よな」の方は、もともと「か」「な」「よ」「な」という終助詞、付属語が元になっている。意味ではなく、話し手の疑問や心配、念を押したり確かめたりする気持ちを込めるものだ。時枝文法では「辞」であり、対象(この歌詞の一節の場合、「ない」という不在の指示対象)に対する話者の主体的な捉え方そのものを示している。私見では、「辞」は主体の想いを音そのものとして響かせる力を持つ。
ない←→かな
ない←→よな
きっとね
いない←→よな
抽象的な説明になってしまった。実際の歌詞、この「ないかな」のフレーズと続く一行を引用してみる。
ないかな ないよな きっとね いないよな
会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ
この二行の「意味」の解釈を「志村正彦LN 37」では次のように試みた。
すでに「ないかな」「ないよな」と「ない」が二つ重ねられる。しかし、いったい何が「ない」のか。それがわからないまま「きっとね」を挿んで、「いないよな」に続く。「いない」のならその主語は人、誰かということになる。続く行で、「会ったら言えるかな」とあるので、その「いない」と思う誰かは、歌の主体《僕》にとって出会ったら何かを言えるか困惑するような相手、普通考えるなら、恋人のような大切であった存在のことであろう。そして、その場面全体を「まぶた閉じて浮かべている」と歌っている。
そうであるのなら、この一節をもとに戻ると、「ない」の主語は、誰か大切な人との再会するという出来事になるかもしれない。「再会する」ことが「ないかな」となり、「再会する」という意味の言葉が省かれていることになる。あるいは、「いること」が「ないかな」つまり「いないかな」の「い」が省かれた形とも考えられる。
『若者のすべて』の一般的な解釈として示したものだ。この解釈を「詞」と「辞」という観点に接ぎ木してみる。
恋人という対象の不在や再会という出来事の無や不可能性を示す「ない」という「詞」。その「ない」という判断についての疑問や心配、念を押したり確かめたりする心情を示す「かな」や「よな」という「辞」。この一連の歌詞では、「詞」と「辞」が、音節の区切りをもとに、対比的、対立的に表現されている。「ないかな ないよな きっとね いないよな」というフレーズには、不在や無についての自問自答にも似た形式がある。
今回は、「ないかな ないよな きっとね いないよな」という一節に対して、韻、拍子、詞と辞、という三つの観点で迫ってみたが、論が混乱してきて整理できない。この原稿は没にしようとも思ったが、何かを書いてみなければ次のステップにいけない。「試論」ということでお許しいただきたい。
様々な要素の絡み合いでこの魅力に富む「ないかな」の一連のフレーズは構造化されている。論のための論を書くつもりはないのだが、いつかもっと正確に解析した論を書きたいものだ。
(この項続く)
0 件のコメント:
コメントを投稿