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2022年5月29日日曜日

宮沢和史「Paper Plane」

 2016年、宮沢和史は療養のために歌手活動を休止していたが、その後、少しずつ活動を再開し、 2019年5月、ソロアルバム『留まらざること 川の如く』をリリースした。オリジナルアルバムとしては17年半ぶり、4作目となる作品である。

 その中に「Paper Plane」という歌がある。そのミュージック・ビデオと歌詞を紹介したい。

        「Paper Plane」MV(Short ver.)



指先から解き放たれた 紙飛行機は思う
なぜ無様な姿で落ちるために
空(そら)を舞うのだろう

風と風の隙間をぬって
逃げ道を探したけれど
吹きすさぶ風におだてられて
空(くう)を彷徨った

歌は人の人生よりも 先に始まり
後に終わるのだろうか

Paper Plane Paper Plane
北風に抱かれて
キリストが見下ろす街まで 旅に出よう
Fly away Fly away
いつか風が止んだら
あの人が生きる大地に 無様に落ちよう


自分の意思で飛んでいるような
誰か任せの航路のような
誰よりも高く舞い上がるから
落ちるのが怖くなる

夕日の紅(あか)よりも
朝焼けのマゼンダに染まりたいから
眠れない夜も風を探し
空(くう)を彷徨った

愛の歌を書きあげるのには
ほんの少しだけ人生は短い

Paper Plane Paper Plane
木枯らしに誘われ
エイサーが踊る島まで 海を渡ろう
Fly away Fly away
いつか力尽きたら
あの人が眠る大地で 無様に眠ろう


 曲の1番の映像は山梨で撮影されている。甲府市内の風景、甲府盆地の西部を流れる釜無川やその土手が舞台となっている。2番の映像は沖縄のものだろう。宮沢は甲府盆地を逆さまの島と見立ていたことがあったが、このMVでは山梨と沖縄を二つの「美しい島」として描いている。

 このアルバムの制作過程について彼は次のように述べている。( J-WAVE ORIENT STAR TIME AND TIDE 2019.06.08「シンガーソングライターの宮沢和史さん」


去年、もう一回人前に立ってみようと思い立ち、そのためには新曲があったほうがいいなと思って原点に帰る意味で出身地でもある山梨県の山の中に小屋を借りてギターだけ持って行って2週間くらい籠もりました。今まではTHE BOOMでもソロにしても音楽的なコンセプトを伝えたいというか、例えばブラジル音楽とロックの融合であったり、どうすれば沖縄の音楽をポップスに変えられるかといったサウンド面での勝負みたいなことが僕の音楽人生でしたが、ギターとドラムとベースだけのシンプルな編成でミドルテンポでも言いたいことが伝えられて自分自身の身の丈を表現できるということに気付いた2週間でした。それは貴重な体験だったし、アルバムに上手くパッケージできたかなと思っています。


 もともと彼の出発点にあったのはフォークであり、シンプルな編成のロックであった。山梨の山小屋で籠もって作った楽曲は原点回帰と捉えられる。歌詞も、五十歳を超えた時点からの過去への振り返りがある。

 同じ記事の中で、甲府についてこう語っている。

すり鉢の底のようだと表現した人がいましたけど盆地なので隠し事ができないし人の噂がすぐ耳に入ってきてちょっと窮屈だけど裏を返せば誰もがお互いのことを知っているので困った人がいたりすると誰かが手を差し伸べてくれるというか。イメージは真逆かもしれませんが沖縄も海に囲まれていて閉鎖的な部分もありますが沖縄の人と交流するようになって似ているところが多いと感じるようになりました。


  「すり鉢の底のようだと表現した人」というのは、太宰治「新樹の言葉」の〈よく人は、甲府を、「擂鉢の底」と評しているが、当っていない。甲府は、もっとハイカラである。シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。きれいに文化の、しみとおっているまちである〉と関連があるのだろう。

 太宰が言うように、甲府は明治大正期から昭和初期にかけて「きれいに文化の、しみとおっているまち」だったようだ。昭和20年の甲府空襲で中心部が焼失してしまった後は、田舎の小都市になってしまった。最近はだいぶ薄れては来たが、それでも、宮沢の言うように、盆地の地形から来るある種の閉鎖性とそれゆえの人間関係が支配するところでもある。その濃密さは時に窮屈ではあるが、時に相互扶助的なものをもたらす。

 甲府盆地は四方の険しい山々によって、沖縄は四方の海によって、外部と隔てられている。外部との交流が少ない地である。内向きな土地柄であるが、それゆえに、外への屈折した夢や憧れもある。


 このような地を脱して、宮沢は東京へ出て行った。しかし、その後、第二の故郷ともいえる沖縄に出会った。その沖縄には山梨と似た人間関係があると述べているところが興味深い。そのような山梨と沖縄の共通項を考えると、「Paper Plane」の歌詞の味わいがさらに深くなる。

 歌詞1番の「キリストが見下ろす街」は、ブラジルのリオデジャネイロを指しているのだろう。宮沢はブラジルに出かけてライブも行った。2番の「エイサーが踊る島」は沖縄だ。この歌は、山梨から、沖縄、ブラジルへという旅がモチーフになっている。

  人生の行路を〈紙飛行機〉の飛ぶ軌跡に重ね合わせる。〈空(そら)を舞う〉〈空(くう)を彷徨った〉。〈そら〉と〈くう〉に呼び方を変えながら、〈空〉から〈無様な姿で落ちる〉〈紙飛行機〉を想う。

〈歌は人の人生よりも 先に始まり/後に終わるのだろうか〉〈愛の歌を書きあげるのには/ほんの少しだけ人生は短い〉という声は、〈紙飛行機〉の空を切る音、音とも言えない静かな音のようにも聞こえてくる。その〈紙飛行機〉の微かな音と自分自身の声を宮沢は重ね合わせているのだろう。宮沢はこう述べている。(「再始動コンサート中の宮沢和史、ニューアルバムも発表」チケぴ  2019/6/21


自分の飛行、すなわち人生の航路が“ぶざま”であると自覚したことはとても素晴らしいことだと思っています。これからはカッコつけず、自然な旅ができる気がしています。


 「島唄」は〈このまま永遠に夕凪を〉という平和への祈りを込めた歌だった。宮沢はこの歌を三十年にわたって歌い続けてきた。そうではあるのだが、「島唄」が人々に求められなくなった時こそが平和が訪れる時でもあるという逆説もある。そのことに宮沢は自覚的であり、そのような発言もしている。「島唄」のような歌になると、そのような運命を背負っているのかもしれない。

 「島唄」が歌われ続けるのがこの世界の現実である。これからも宮沢は歌い続けるだろう。しかし、〈自然な旅〉も歩んでいってほしいとも思う。一人の聴き手としてそのように望んでいる。


【付記】山梨日日新聞社の創刊150年記念ライブ、宮沢和史&藤巻亮太ライブ「おなじ空の下で」が7月1日(金)甲府・YCC県民文化ホールで開催される。抽選で600名が無料招待となる。(応募はサンニチのwebから可能)。後日、アーカイブ配信もあるようだ。

 このライブの題名は「おなじ空の下で」。「若者のすべて」の最後のフレーズ「僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ」が浮かんでくる。志村正彦が存命であれば、おそらく、宮沢和史、藤巻亮太、志村正彦のライブになったことだろう。同じ空の下で三人が歌い、そして、山梨について語りあっただろう。

2022年5月15日日曜日

沖縄復帰50年。島唄。

 5月15日。1972年のこの日に沖縄が日本に復帰してから半世紀が経った。当時の僕は中学生だったが、新聞やテレビのニュースで大きく報道されたことは記憶に残っている。

 山梨の僕にとっては、沖縄は遠い遠い地だった。70年代の半ばから、沖縄のロック、コンディション・グリーンや紫が注目されるようになった。二つのバンド共に、ハードロックやブルースロックなどの洋楽のサウンドだった。その後、喜納昌吉とチャンプルーズの「ハイサイおじさん」によって、沖縄民謡のリズムや音階に基づくロックも聴くことになった。僕にとっての沖縄は、音楽の比重が大きかった。

 高校生の頃、僕は『ミュージック・マガジン』や『話の特集』で竹中労の記事を読んだ。『琉歌幻視行 島うたの世界』(1975年)も読み、〈琉歌〉の存在を知った。労の父、竹中英太郎は山梨日日新聞社の記者だったことがあり、戦時中と戦後の一時期まで、労は甲府に住んでいた。労は甲府中学(現在の山梨県立甲府第一高等学校、僕の母校でもある)で学んだのだが、校長退陣運動で退学となる。高校の恩師が労の同級生だったので、その時の話を少しだけ聞いたことがある。


              表紙画:竹中英太郎


 竹中労には『美空ひばり』や『ビートルズ・レポート』など音楽に関する著書が多いが、70年代初頭から、琉歌沖縄民謡のレコードをプロデュースしたり、コンサートを企画したりして、嘉手苅林昌を始めとする島唄を紹介した仕事も特筆される。竹中労によって、島唄に出会った「本土」の人間は少なくないだろう。

 父の英太郎は甲府で暮らしたが、優れた挿絵画家でもあった。没後の1989年、労の監修による回顧展が甲府のギャラリーで開催された。当時は山梨県立文学館に勤めていたので、その仕事もかねて、展覧会を見に行った。会場に竹中労がいた。おだやかな表情をしていた。何か話しかけたかったのだが、結局、話しかけることはできなかった。その二年後、労は63年の生涯を閉じた。

 甲府市の湯村には、英太郎の娘、労の妹である竹中紫が館長を務める「竹中英太郎記念館」がある。英太郎の作品や労の資料が展示されている。竹中英太郎・労の父子にとって、甲府は第二の故郷ともいえる地だろう。今日5月15日の山梨日日新聞の「FUJIと沖縄」シリーズの「山梨関係者の足跡息づく」で、「竹中労 島唄を通し文化紹介 復帰問題問い続ける」という題の記事があった。その中で、竹中紫さんの「兄の後半生は島唄と共にあった。島唄を愛し、愛された人」という言葉が紹介されている。


 島唄というと、やはり、THE BOOM・宮沢和史の「島唄」が思い浮かぶ。ほとんどの音楽ファンにとっても同様だろう。「島唄」についてはこのブログで何度か書いてきたが、今日は、「THE BOOM - 島唄 (オリジナル・ヴァージョン)」の映像とオリジナルの歌詞を紹介したい。


      THE BOOM - 島唄 (オリジナル・ヴァージョン)



   THE BOOM  島唄
   作詞:宮沢和史 作曲:宮沢和史 

でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た 

でいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た 
くり返す悲しみは 島渡る波のよう 

ウージの森であなたと出会い 
ウージの下で千代にさよなら 

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ 
島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の涙 

でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ 
ささやかな幸せは うたかたの波の花 

ウージの森で歌った友よ 
ウージの下で八千代の別れ 

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ 
島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を 

海よ 宇宙よ 神よ いのちよ このまま永遠に夕凪を 

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ 
島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の涙 

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ 
島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を 


 「島唄」は、1992年1月22日リリースの4枚目アルバム『思春期』で発表された。このアルバムは「子供らに花束を」など聞き手に問いかける作品が多かったが、なかでも「島唄」は印象深い作品だった。

 前作、1990年9月発売の3枚目アルバム『JAPANESKA』に沖縄民謡・音階を取り入れた「100万つぶの涙」があったが、「島唄」はその歌詞の世界において、沖縄戦とその犠牲者への想いを歌っていた。宮沢の転機となる作品だという直観があった。しかし、その時点ではその後の展開はまったく想像できなかった。翌年1993年6月、この「島唄 (オリジナル・ヴァージョン)」シングルが発売されて、大ヒットとなった。この映像には若々しい姿と声の宮沢和史がいる。


 あらためてこの歌を聴くと、〈でいごの花が咲き〉〈でいごが咲き乱れ〉〈でいごの花も散り〉〈うたかたの波の花〉というように、〈花〉の表象の変化のなかに、沖縄戦の犠牲者への想いが表現されている。 宮沢和史の歌詞には、志村正彦や藤巻亮太と同じように、自然の風景や景物がよく描かれる。山梨のロックの詩人には、自然を描くことから、自己の存在、社会や歴史の出来事、世界の在り方を問いかける歌が多い。

     

  西日本新聞の記事〈「島唄よ海を渡れ」宮沢和史、歌い続け縮めた心の距離 沖縄復帰50年〉(2022/1/31)の中で、宮沢の想いが次のように述べられている。 


 完成しても発表には迷いがあった。「ヤマト(本土)の人間だし、戦争も知らないし」。山梨県出身の自分が歌っていいのか、不安を抱えながら世に送り出した。

 CDは150万枚超を販売する大ヒットとなる。応援の一方、批判の声も大きく響いた。「民謡をろくに知らないヤマトンチュ(本土の人)が」「ウチナー(沖縄)の音階を使うな」

 平和を希求する沖縄戦への鎮魂歌だ、と言いたい。でも、言葉でそれを訴えるのは音楽家として敗北だと思った。「歌い続ければ、本当の意味を分かってもらえる。いつかは心に染みていくはず」。そう信じた。


 沖縄復帰50年の今日、島唄と深い関わりのある山梨ゆかり・出身の二人の人物、竹中労と宮沢和史のことを書いた。竹中労が亡くなったのは1991年、宮沢和史「島唄」が生まれたのは1992年。山梨出身の青年が「島唄」を作ったことを労は喜んだに違いない。

 宮沢の〈歌い続ければ、本当の意味を分かってもらえる。いつかは心に染みていくはず〉という発言は重い。歌は、言葉による説明ではなく、歌うという行為であるのだから。

 歌が心に染みいることによって、何らかの形で、現実に働きかけることを信じたい。


2022年5月8日日曜日

「若者のすべて」-上白石萌音『こえうた』『関ジャム 完全燃SHOW』『MOUSA1』[志村正彦LN306]

 昨夜、5月7日の夜10時55分から、NHK総合テレビの番組「こえうた」で、上白石萌音が、志村正彦作詞作曲の「若者のすべて」を歌った。

 「こえうた」は、若い世代から募集した「わたしの推し曲」をもとに構成した新たな音楽番組。事前に、上白石が「『若者のすべて』、高校生の時から大好きです。素晴らしいアレンジに『すべて』を乗せて、福岡からお届けします!」と述べていたので、楽しみにしていた。ここ数年の活躍はめざましい。特に、テレビドラマ『ホクサイと飯さえあれば』(毎日放送)での演技が良かった。料理を作る楽しさや味わう喜びを上手に演じていた。

 「若者のすべて」が紹介された際に、志村正彦・フジファブリックのMVが少し流れた。画面には、「「若者のすべて」を上白石萌音が歌いつなぐ」「2007年に発表されて以降多くのアーティストがカバー。今年音楽の教科書にも記載され世代を超えて愛される」というテロップも表示された。

 この番組は生放送で、「若者のすべて」は福岡からの中継だった。しかも番組のトリだったので、聴く側にも臨場感が生まれる。無事に歌い終わってほしいという、緊張感のようなものもあった。

 2番の歌詞が省略された3分ほどの短縮版。フルコーラスで無かったのが残念だった。地上波の生放送という制約上、仕方がなかったのかもしれない。ピアノ、ハープ、ヴァイオリン2本、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの6人編成によるアコースティックヴァージョン。アレンジは河野圭。プロデューサー、作曲家、編曲家、キーボーディストとして豊富な実績のある方だ。

  上白石萌音の声は透明感がある。女優らしい表現力もある。身体から言葉が溢れ出てくるように歌っていた。特に、「ないかな ないよな きっとね いないよな/会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ」のフレーズ。この歌は、〈まぶたを閉じる・開ける〉というモチーフが全篇に貫かれている。上白石は、まぶたの動かし方、その表情の変化によって、この歌の言葉の世界を伝えていた。

 ミュージカルの経験が豊かなので、あたかも、ミュージカル「若者のすべて」のクライマックスシーンのようにも感じた。(志村正彦の作品によるミュージカルというアイディアはどうだろか。主演はもちろん上白石萌音。「茜色の夕日」から「若者のすべて」へと続いていく一人の若者の物語。そんなことを空想した)

 NHK MUSICのtwitterで、本番間近の“声”が紹介されていた。上白石は次のように述べていた。

フジファブリックさんの「若者のすべて」歌わせていただくんですけど、 当時若い頃聴いていらしたという方もいらっしゃれば今もなお聴き続けられている名曲だと思います。

ほんとうに言葉が素晴らしいですし、歌えば歌うほど名曲だなと思うので、大切に尊敬の気持ちを込めて、届くように歌わせていただきます。


  「ほんとうに言葉が素晴らしい」こと、「大切に尊敬の気持ちを込めて、届くように」歌うこと。上白石萌音は、志村正彦の言葉を深く理解し、尊敬している。なによりも「届くように」歌うことは、志村の歌に対する根本的な在り方でもあった。この番組はNHKプラスで5/14(土) 午後11:40 まで配信中である。


 一昨日の5月6日、テレビ朝日「関ジャム 完全燃SHOW」の特番「関ジャムJ-POP史 最強平成ソングベスト30!!」で、「若者のすべて」が4位になった。平均年齢25.8歳の若手人気アーティスト48名に一斉アンケ―トを実施した結果だ。この番組の放送を見ることはできなかったのだが、GYAO!で配信されていることを知った(5月13日(金)まで)。ありがたい。早速視聴した。

 「若者のすべて」は「根強い支持を得る 伝説的ロックバンド代表曲 バンドF」として紹介された。「若者のすべて('07) フジファブリック 作詞作曲 志村正彦」というテロップのもとにミュージックビデオが流された。その間に、若手アーティストのコメントが添えられていた。その言葉を引用したい。

   

  • 私の青春の一曲です。  kiki vivi lily(シンガーソングライター)
  • いつ聴いても胸を締めつけられる    PORIN(Awesome City Club)
  • 日本人なら誰もが共感してしまうような歌詞の情景、世界観   baratti(Nagie Lane)
  • 高校生の時にCDショップで流れていてあまりにも自分の心情とリンクしていて思わず立ち止まった     秋山黄色(シンガーソングライター)
  • 体験したわけじゃないのにタイムスリップした気持ちになれる     やまもとひかる(ベース&ボーカル)
  • あまりフォーカスされない、夏も終わり特有の侘しさをまるで独り言を言うように歌詞や歌で表現されています。その等身大なニュアンスに共感を覚えます。サビ前のギターフレーズからのピアノの掛け上がりがとてもドラマチック。  PORIN(Awesome City Club)
  • 夏が終わっていく夕暮れや街灯の灯りがつく時間の空気などを切実に感じられる。全詩がパンチラインなのがたまらない。    くじら(ボカロP)


 若手アーティストのコメントは、当然といえば当然だが、的確にこの作品の本質を捉えている。何よりも、この歌に対する愛が感じられる。「若者のすべて」は歌というものの本質に立ち戻らせる力がある。この時代、想いを歌うという本源が失われがちだ。だからこそ、若手アーティストのなかの鋭敏な歌い手たちは「若者のすべて」という2007年の作品を新鮮な驚きと共に見出した。この歌は、現在の音楽シーンに決定的な影響を与えている。さらに、これからの音楽シーンにも。この半世紀に及ぶ〈日本語ロック〉の最高の到達点であるのだから。歌い手の想いの深さと伝える力、卓越した言葉の表現と楽曲の構成の技術がこの歌にはあるのだが、そんなことを誇示することもなく、つつましく、さりげなく、存在している。そのたたずまいが「若者のすべて」である。


 ゴールデンウィーク中に、その他の番組でも「若者のすべて」が取り上げられたようだ。この4月から、高校音楽Ⅰの教材として採用されたのも、大きな流れでは、この評価の高まりと連動しているのだろう。

 その教科書、教育芸術社の『MOUSA1』を入手できた。教科書はだれでも購入できる。近くの教科書取次店で注文すればよい。私も甲府市内の取次店で取り寄せた。想像していた以上に、沢山の楽譜が掲載されていたが、「若者のすべて」は、初めの方のP.16・17に見開き2頁で掲載されていた。やはり、この教科書の「押し曲」なのだろう。嬉しく、誇らしいのだが、教科書の頁に志村正彦の名があるのは、どこか不思議な感じもする。


 音楽教科書掲載、最強平成ソング4位、そしてNHK総合テレビの生放送と、この歌の評価は高まるばかりだ。〈「運命」なんて便利なもので〉語ることは慎むべきかもしれないが、この歌の運命に想いを巡らせてしまう。「若者のすべて」は、自らの運命に向かって、2007年のリリースから〈そっと歩き出して〉いった、というように。

 すでに15年間の歩みがある。2022年、志村正彦の「若者のすべて」は、人々に聴き継がれ、歌い継がれ、愛されていく。