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2020年10月31日土曜日

山梨という場、歌の原動力 [志村正彦LN265]

  十月が終わろうとしている。月の初めに金木犀が香りだした。僕の周辺では例年より遅かった。いつもは九月の下旬だ。香りも微弱だった。天候のせいかどうか分からないが、香り出す時期、香りそのものの強さにも変化があるということなのだろう。そんなこともあって、今年は金木犀の香りと共に時を過ごすこともなかった。季節を受けとめる心の余裕もなかったのかもしれない。

 「偶景web」の更新も滞った。ブログの文を書くにはある種の気分のモードになることが必要だが、そのモードがなかなか訪れない。切替ができない。原因は仕事の過重なのだろう。以前にも書いたがオンライン授業が多い。内容のすべてを画面の映像と音声に変換していかねばならない。通常の体面授業よりも緻密で時間がかかる作業となる。もう一つの要因もある。この春から就職支援の教員側のチーフもしている。この仕事が非常に重い。ほとんどオンラインの支援になったので、こちらも緻密さを要求される。コロナ禍で大学生の内定率が低下している現状を何とか打開しようとあれこれと対策を考えている。学生を社会に送り出すことの支援は教育と同様に重要である。

 山梨英和大学には「山梨学」という授業がある。山梨の歴史、文化、社会、経済などを学ぶ必修科目であり、2年次の全員180人程が受講する。県内のほとんどの大学で山梨学をテーマとする授業はあるが、必修科目としているのは本学だけである。この科目を昨年度から担当しているが、今年度はコロナ禍によって、実施時期を前期からを後期に移動させたが、受講生が多く、現状の教室規模では体面が不可能なので、結局、オンライン遠隔授業となった。半分以上の講義は外部講師を招くので、オンライン授業の準備や支援をする必要もある。僕は、山梨と文学や文化という観点での授業を担当する。具体的には、「芥川龍之介と甲斐の国-山梨への旅とその風景の叙述、飯田蛇笏との交流」、「映画『二人で歩いた幾春秋』(木下惠介監督)で描かれた戦後の山梨と教育」「ロックの詩人-宮沢和史・藤巻亮太・志村正彦の歌う風景と季節」というテーマにした。

 九月末から、「山梨学」が始まった。志村正彦・フジファブリック『赤黄色の金木犀』を導入に置いて、「ロックの詩人-宮沢和史・藤巻亮太・志村正彦の歌う風景と季節」全3回の講義を始めた。その後、宮沢和史・THE BOOM『釣りに行こう』、藤巻亮太・レミオロメン『粉雪』と続けた。『赤黄色の金木犀』にしたのは季節がちょうど合うからだ。昨年は四月だったので、『桜の季節』にした。彼らの歌と言葉を通じて、山梨の季節、春夏秋冬、風景を「発見」あるいは「再発見」することを意図した。単なる知識伝達の授業にはしたくない。聴くこと、読むことは主体的な行為としてある。そして、ロックの歌は現代の文学として存在している。

 以下は講義スライドに記した内容である。以前このブログに書いたことをもとにした。

 山梨が誇る「三大ロックバンド」(この言い方は古風であるが、そのまま使うことにしたい)、ザ・ブーム、レミオロメン、フジファブリック。ドラマーを除くザ・ブームのメンバー、レミオロメンのメンバー、フジファブリックのオリジナルメンバーは山梨で生まれ山梨で育った。三つのバンドは共に、「山梨」という括りとは関係なく、「日本語ロック」の中で重要な位置を占める。

 ザ・ブームの宮沢和史、レミオロメンの藤巻亮太、フジファブリックの志村正彦は「ロックの詩人」としての評価も高い。宮沢は『宮沢和史全歌詞集1989-2001』(2001/11/1、河出書房新社)を出版し、志村の没後、『志村正彦全詩集』(2011/2/22、パルコ)が刊行されている。

 宮沢和史は甲府市で生まれ育った。彼の歌の原風景は、『星のラブレター』の「朝日通り」などの街の通り、『釣りに行こう』の荒川の源流など自然豊かな場の二つがある。甲府盆地の街中、そこに流れてくる川。彼はその場所から、東京へ、そして沖縄やブラジル、世界へと旅に出て、音楽を創ってきた。特に『島唄』の舞台、沖縄は第二の故郷になった。山に囲まれた山梨、海に囲まれた沖縄、どちらも「島」であるという視点が宮沢にはある。山梨も沖縄も、そこで生まれ育ち、暮らす人々にとっての「世界でいちばん美しい島」だと宮沢は述べている。

 宮沢和史にとっての「朝日通り」に象徴される場、甲府駅の北西側に位置する商店街は、志村正彦にとっての下吉田やその近くにあった商店街に相当するのではないか。昭和40年代頃まではまだ「朝日通り」界隈には「路地裏」の風情があった。その後、郊外へと発展した都市化の影響で、中心街とその中の住宅街の空洞化や弱体化が進み、結果として「路地裏」が消えていった。その現象は甲府だけでなく吉田でも起きたが、甲府よりやや遅れていたのだろう。1980年に富士吉田で生まれた志村は昭和の名残のある「路地裏」を経験できた最後の世代だという気がする。

 志村正彦の歌詞の世界には、下吉田、新倉山浅間神社の「いつもの丘」、富士北麓の風景というように、宮沢と同様に、街中や路地裏のような場と自然に恵まれた場と季節感の豊かな風景の二つが存在している。甲府には武田家の歴史や江戸時代に街の文化が栄えた歴史がある。富士吉田には富士講や織物産業の街としての歴史がある。

 それに対して、藤巻亮太の出身地である御坂(現、笛吹市)は、御坂山系からつながる扇状地である。なだらかに広がる丘陵地もあり、周辺の山々そして空が見える。藤巻の歌には空、雲、宇宙がよく出てくるのはこのような眼差しのためであろう。しかし、御坂は峠でもある。峠には峠としての地理的な区切りもある。だからやはり、幾分か閉ざされた視線も垣間見える。今は果樹栽培の盛んな農業地帯でもあるが、古代からの「甲斐路」、「鎌倉街道」の一部も通る「交通」の場でもあった。現在も、甲府盆地と富士北麓をつなぐ中継点でもある。

 地理的、地形的な観点からいえば、宮沢の甲府から、藤巻の御坂を通って、志村の吉田へと至る「歌の街道」があるようなものだ。彼らが生まれ育った場とそこから眺める風景は彼らの歌に深い影響を与えている。山梨学という授業は山梨の歴史や社会も対象とするので、そのような視点での考察も加えた。

 周囲を山々に囲まれている山梨は閉ざされた地であり、場である。閉ざされている場ゆえに外へと向かう志向性がある。宮沢和史、藤巻亮太、志村正彦の三人には、内側に向かう一種の内閉性と、逆にそれゆえに外へと開かれていく志向性がある。その矛盾する動きが、彼らの歌の原動力になっている。