昨年11月末のフジファブリック武道館ライブから半年近く経つ。その翌日から書き始めたこのライブに関するエッセイも断続的に続いてきたが、今回で終了としたい。
第1回目で、志村正彦の声の音源による『茜色の夕日』を聴いた経験を、彼が「《声》という純粋な存在になった」という言葉に集約させた。そして、「聴くという行為が続く限り、いつまでも、彼の《声》は今ここに現れてくる」と結んだが、その時にあらかじめ分かっていたわけではないが、その後、このエッセイは結局、志村正彦の《声》を巡る文となっていった。あの武道館の巨大な空間に満ちあふれたあの《声》に導かれるようにして、行きつ戻りつ巡回しながら、同じことを繰り返し、視点を少し ずつ変えながら書いていった。錯綜や矛盾があるかもしれないが、そのようにしか書き進められなかった。
書いているうちに確かなものとなってきたモチーフもある。現在のフジファブリックをどう捉えるか、というものだ。このライナーノーツでいつか書こうと準備してはいたのだが、難しい主題ではあった。いまだに、現在のフジファブリックについての議論(消極的あるいは懐疑的な評価にせよ積極的な評価にせよ)が共存している状況下で、単純な否定論や肯定論を超えるような視座がないかと模索してきた。考えあぐねていたというのが正直なところだが、武道館での『卒業』の歌と映像によって、ある考えの枠組みが浮かんできた。それと共に言葉が動いていった。
志村正彦の音源の《声》が自らの作品『茜色の夕日』を、山内総一郎の《声》が志村の作品『若者のすべて』を、続いて、山内が自作の『卒業』を歌う。この三曲の《声》の主体と歌の作者の組合せの変化が、このメジャデビューから十年という時を、象徴的にそしてある意味では儀式的に、表していた。『卒業』の歌詞の分析によって、現在のフジファブリックの「位置」、志村正彦との関わり方の「方位」を測定することができた。
そのことと同時に、志村在籍時のフジファブリックに焦点を変えてみるのなら、現在のフジファブリックの歌と演奏から逆説的に、志村正彦の歌と楽曲、《言葉》と《声》のかけがえのなさ、独自性と創造性が、一つの「経験」として強く迫ってきた、ということに尽きる。
武道館という「トポス」ゆえに、ロックの聴き手としての私の個人史も差しはさんだ。(トポスとはギリシア語で「場所」を意味し、転じて、特定の「場」に関係づけられるテーマやモチーフ、それらの表現を指す)
武道館というトポスは、70年代以降の「来日」洋楽ロックや80年代以降の邦楽ロックに関わる様々な記憶と結びつく。1973年のマウンテンから2014年のフジファブリックまで、40年を超える年月が流れている。密度の濃淡はあっても、この間、欧米と日本のロックを聴き続けてきたわけだ。
PA技術の進化によって、武道館の音が以 前に比べてはるかにクリアになったことに驚かされた。(昔は「悪い」という定評があったのだが、「良い」とは言えないにしても「悪くはない」水準にはなっている) 志村正彦の歌の音源とメンバーの楽器演奏によるリアルタイムの「合奏」も、この技術の進化によって実現したのだろう。収容人数からするとコンパクトな座席とその配置も一体感を醸し出していた。(昨日、5月17日付の朝日新聞「文化の扉」欄に偶然「はじめての武道館」と題する記事が掲載されていた。この「トポス」についてはいつか再び書いてみたい)
また、一連の記事について何人かの方にTwitterで触れていただいた。感謝を申し上げます。
あの日は、甲府への帰途につかねばならない都合があり、アンコ ールの途中で武道館を後にした。背後から大音量の演奏と観客の拍手の音が漏れてくるが、一歩一歩階段を下りると、音は少しずつ遠ざかっていく。
外はすっかり夜の時を刻んでいる。十一月末の冷たい空気が、直前まで身にまとっていた熱気を冷ましてくれる。十周年を祝う祝祭の時と場に別れを告げると、奇妙に静かな風景が広がっていた。
前方に広がる公園の樹木の陰、その暗がりの上方を見ると、三日月よりやや大きな月が現れている。雲間からこぼれるようにかすかな光が差しこむ。淡い穏やかな光だった。
志村正彦の月。瞬間、その言葉が浮かんできた。
彼の歌には「月」がしばしば登場する。
2014年初冬の武道館。
現在のフジファブリックと数千人の観客。
その熱狂を静かに淡く照り返す月光。
不在の志村正彦が月の光となり、私たちを見つめているかのようだった。
2015年5月18日月曜日
2015年5月4日月曜日
歌い手と言葉-フジファブリック武道館LIVE9[志村正彦LN104]
『フジファブリック Live at 日本武道館』[DVD]のスリーブには、次のようなクレジットがある。
vocal/guitar:山内総一郎
keyboards:金澤ダイスケ
bass:加藤慎一
vocal:志村正彦
guitar:名越由貴夫
drums:BOBO
この表記が意味することは、メンバーの四人、サポートメンバーの二人による演奏だったということだ。「vocal」として二人の歌い手、山内総一郎と志村正彦の名が記されたことになる。(志村については「voice」と表す選択肢があるかもしれないが)
二人のvocal。志村の《声》が歌う『茜色の夕日』1曲と、山内の歌うそれ以外のすべての曲。十周年を記念するライブであり、その収録であるゆえの特別な表記となった。そのこと自体が記憶されるべき印となる。
これから書くことは、あの日の武道館とこのライブDVDを通して感じた、そのままの想いだ。
この武道館ライブのセットリストは、志村在籍時の作品群と、その後の山内・金澤・加藤による作品群とに分けることができる。
あの日のパフォーマンスについて確実に言えることは、現在のフジファブリック、彼ら自身が作った作品を歌い奏でる方が、音楽としてのまとまりがあり、バンドとしての力も漲っていたということだ。彼らの持つ高度な演奏技術とアレンジ能力は高く評価されるべきだろう。そのことを第一に指摘しておきたい。
何度も触れてきたが、特に『卒業』の言葉、その歌と演奏はこのバンドの力量と可能性を示している。ただし、彼らはまだ彼らならではの独自性を獲得しているとは言えない。志村正彦からの本当の意味での「卒業」(自分に厳しくあった志村であれば、それを彼らに促すのではないだろうか。彼ら自身の言葉と音楽を創り出すことを見守るのではないだろうか)はまだ果たせていない。今後のフジファブリックの活動に期待したい。
さらに重要なことは、志村在籍時の作品群、山内の歌う志村作品については、やはり違う、という感覚がどこまでも残るということだろう。特に『桜の季節』『陽炎』『赤黄色の金木犀』の四季盤の春夏秋の三曲、志村正彦の繊細な感性があの独特な言葉を紡ぎ出した楽曲に顕著だった。
歌と演奏の 「実演」としては成立しているが(それはそれで精一杯だったのかもしれないが)、歌の「言葉」が聴き手の側に充分に伝わってはこない。言葉が言葉として立ち上がってこない。
厳しい書き方になったが、一人の聴き手としての率直な印象を記すべきだと考えた。
あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ
またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
残像が胸を締めつける (『陽炎』)
「あの街並」の風景、胸を締めつける「残像」は、その言葉を紡ぎだして自ら歌う詩人の《声》とともに出現してくる。聴き手にとってそれは仮象にすぎないのかもしれないが、仮象が仮象として現れるのにも、《言葉》と《声》が不可欠だ。
今記したことは当然ではないのか、と言われるかもしれない。カバーやコピーがオリジナルの力を持っていないのは当然だろう、と。
しかし、そのような当たり前のことを書きたいのではない。一般論すぎることを表したいでもない。ないものねだりでもない。現在のフジファブリックが志村作品を歌い、奏でることについて異議を唱えたいわけでもない。あの日の武道館での志村作品の「再現」の努力についてはむしろ敬意を表したい。しかしどうしても、言葉の「実」が伴っていない感触がつきまとう。
しかし、これは山内の歌い手としての問題ということでもないと考える。
四季盤の三曲に比べると、『若者のすべて』『星降る夜になったら』『銀河』については、虚ろな感じはより少ない。虚構性や物語性が比較的高い作品であり、歌い手と歌われる世界との間にある種の余白がはさまれているからだろうか。
すでに若者の夏の歌として定番化している『若者のすべて』は、桜井和寿、藤井フミヤ、槇原敬之たち「大物アーティスト」にカバーされているが、彼らに比べてみてもむしろ、山内の歌の方がこの作品に適しているように感じた。桜井、藤井、槇原の歌い方では、志村が描こうとした『若者のすべて』の風景を再現できないようなもどかしさがある。世代的な問題も影響しているのだろう。
少し視野を広げてみたい。
例えば、2010年の『フジフジ富士Q』ライブについてはどうだったか。
志村の作った30曲がゲストアーティスト15組によって歌われたが、安部コウセイの『虹』、クボケンジの『バウムクーヘン 』、斉藤和義の『笑ってサヨナラ』などの例外を除くと、歌い方と歌われる世界との間の断層のようなものを感じてしまう。阿部の『虹』もクボの『バウムクーヘン』も斉藤の『笑ってサヨナラ』も、どこか彼らの持ち歌のようにも聞こえることが何かを示唆しているかもしれない。
志村ならぬ歌い手が志村の言葉を歌う場合、その言葉を歌いこむことは非常に難しいのではないだろうか。歌いこむ、歌いきるというよりも、志村の言葉をたどることに終始してしまう。視点を変えれば、言葉にただ単に歌われてしまっている、とでも言えるだろうか。
自ら作詞作曲する、他の歌い手に比べても、志村の作品の場合、そのことが際だっている。
どうしてなのだろ う。
志村正彦の《言葉》の描く世界は、志村正彦の《声》と不可分だということが一つの理由としてあげられるのだろうが、そのことを本当に解明するのには、より明晰で精密な分析が必要だろう。そのためにはもっと時間がかかる。このテーマについては、独立した「批評」のようなものとして書いてみたい気がする。
(この項続く)
vocal/guitar:山内総一郎
keyboards:金澤ダイスケ
bass:加藤慎一
vocal:志村正彦
guitar:名越由貴夫
drums:BOBO
この表記が意味することは、メンバーの四人、サポートメンバーの二人による演奏だったということだ。「vocal」として二人の歌い手、山内総一郎と志村正彦の名が記されたことになる。(志村については「voice」と表す選択肢があるかもしれないが)
二人のvocal。志村の《声》が歌う『茜色の夕日』1曲と、山内の歌うそれ以外のすべての曲。十周年を記念するライブであり、その収録であるゆえの特別な表記となった。そのこと自体が記憶されるべき印となる。
これから書くことは、あの日の武道館とこのライブDVDを通して感じた、そのままの想いだ。
この武道館ライブのセットリストは、志村在籍時の作品群と、その後の山内・金澤・加藤による作品群とに分けることができる。
あの日のパフォーマンスについて確実に言えることは、現在のフジファブリック、彼ら自身が作った作品を歌い奏でる方が、音楽としてのまとまりがあり、バンドとしての力も漲っていたということだ。彼らの持つ高度な演奏技術とアレンジ能力は高く評価されるべきだろう。そのことを第一に指摘しておきたい。
何度も触れてきたが、特に『卒業』の言葉、その歌と演奏はこのバンドの力量と可能性を示している。ただし、彼らはまだ彼らならではの独自性を獲得しているとは言えない。志村正彦からの本当の意味での「卒業」(自分に厳しくあった志村であれば、それを彼らに促すのではないだろうか。彼ら自身の言葉と音楽を創り出すことを見守るのではないだろうか)はまだ果たせていない。今後のフジファブリックの活動に期待したい。
さらに重要なことは、志村在籍時の作品群、山内の歌う志村作品については、やはり違う、という感覚がどこまでも残るということだろう。特に『桜の季節』『陽炎』『赤黄色の金木犀』の四季盤の春夏秋の三曲、志村正彦の繊細な感性があの独特な言葉を紡ぎ出した楽曲に顕著だった。
歌と演奏の 「実演」としては成立しているが(それはそれで精一杯だったのかもしれないが)、歌の「言葉」が聴き手の側に充分に伝わってはこない。言葉が言葉として立ち上がってこない。
厳しい書き方になったが、一人の聴き手としての率直な印象を記すべきだと考えた。
あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ
またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
残像が胸を締めつける (『陽炎』)
「あの街並」の風景、胸を締めつける「残像」は、その言葉を紡ぎだして自ら歌う詩人の《声》とともに出現してくる。聴き手にとってそれは仮象にすぎないのかもしれないが、仮象が仮象として現れるのにも、《言葉》と《声》が不可欠だ。
今記したことは当然ではないのか、と言われるかもしれない。カバーやコピーがオリジナルの力を持っていないのは当然だろう、と。
しかし、そのような当たり前のことを書きたいのではない。一般論すぎることを表したいでもない。ないものねだりでもない。現在のフジファブリックが志村作品を歌い、奏でることについて異議を唱えたいわけでもない。あの日の武道館での志村作品の「再現」の努力についてはむしろ敬意を表したい。しかしどうしても、言葉の「実」が伴っていない感触がつきまとう。
しかし、これは山内の歌い手としての問題ということでもないと考える。
四季盤の三曲に比べると、『若者のすべて』『星降る夜になったら』『銀河』については、虚ろな感じはより少ない。虚構性や物語性が比較的高い作品であり、歌い手と歌われる世界との間にある種の余白がはさまれているからだろうか。
すでに若者の夏の歌として定番化している『若者のすべて』は、桜井和寿、藤井フミヤ、槇原敬之たち「大物アーティスト」にカバーされているが、彼らに比べてみてもむしろ、山内の歌の方がこの作品に適しているように感じた。桜井、藤井、槇原の歌い方では、志村が描こうとした『若者のすべて』の風景を再現できないようなもどかしさがある。世代的な問題も影響しているのだろう。
少し視野を広げてみたい。
例えば、2010年の『フジフジ富士Q』ライブについてはどうだったか。
志村の作った30曲がゲストアーティスト15組によって歌われたが、安部コウセイの『虹』、クボケンジの『バウムクーヘン 』、斉藤和義の『笑ってサヨナラ』などの例外を除くと、歌い方と歌われる世界との間の断層のようなものを感じてしまう。阿部の『虹』もクボの『バウムクーヘン』も斉藤の『笑ってサヨナラ』も、どこか彼らの持ち歌のようにも聞こえることが何かを示唆しているかもしれない。
志村ならぬ歌い手が志村の言葉を歌う場合、その言葉を歌いこむことは非常に難しいのではないだろうか。歌いこむ、歌いきるというよりも、志村の言葉をたどることに終始してしまう。視点を変えれば、言葉にただ単に歌われてしまっている、とでも言えるだろうか。
自ら作詞作曲する、他の歌い手に比べても、志村の作品の場合、そのことが際だっている。
どうしてなのだろ う。
志村正彦の《言葉》の描く世界は、志村正彦の《声》と不可分だということが一つの理由としてあげられるのだろうが、そのことを本当に解明するのには、より明晰で精密な分析が必要だろう。そのためにはもっと時間がかかる。このテーマについては、独立した「批評」のようなものとして書いてみたい気がする。
(この項続く)
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20141128武道館,
志村正彦ライナーノーツ(LN)
2015年4月12日日曜日
出来事と再現-フジファブリック武道館LIVE8 [志村正彦LN103]
注文した『フジファブリック Live at 日本武道館』[DVD]が届いた。
初回仕様は、桐の箱風のデザインのBOXに写真集とDVDパッケージが入っている。ケースのデザインとなるスリーブは、武道館と富士山とを合成した写真が使われている。
大半はすでに無料の配信映像で見ていたので、関心の中心はやはり『茜色の夕日』だった。ライブDVDという器の中に込められたあの歌が、どのように再現されているのか。フジファブリック武道館LIVEを巡るこの連続エッセイで、当初、その再現が見られるとは思ってもいなかったが、予想外に早くこの映像は私たちに届けられることになった。
リビングの液晶テレビで鑑賞。配信を見たノートPCの画面より大きく、鮮明。内蔵のスピーカーだが、音の定位も安定している。(ホームシアターであればより臨場感があるのだろうが)
オープニングから『桜の季節』に至るスクリーン映像は何度見ても極まるものがある。時計の秒針の音から始まったことを思いだす。志村正彦在籍時のフジファブリック。日比谷、渋谷、富士吉田の印象深いシーン。その映像を映し出すスクリーンの像を撮影した映像。二重にも三重にも、現実の対象から遠ざかった映像が、「時」と「場」の隔たりを感じさせる。隔たりはあるのだが、それでもそれはこうして回帰してくる。
時折織り込まれる観客席の映像。こうして改めてみると、2014年11月28日の武道館
を記録するために、かなりたくさんの撮影機材が用意されていたことに思い至る。
斜め上から、真横から、正面からのアングル。用意周到、計算された映像だなどという野暮な言葉には耳を貸すまい。
あの日の観客のまなざし、涙と共にあったまなざしをこのDVDに収めたことには記録以上の意味があろう。それは記憶すべき、記録すべことことだから。
現在のそして未来の(それこそ百年後の、とあえて書きたい)志村正彦、フジファブリックのファンに、それはこのようにして届けられる。
『茜色の夕日』のチャプターに移る。この歌とその前後の流れは、半ばは鮮明に記憶に刻まれ、半ばは記憶から脱落している。
こうして再現されたそれは、DVDパッケージという音声と映像という枠組みにふつうに収まっていた。会場ではうかがい知れなかったメンバーの表情。この瞬間を迎える緊張感と共にこの楽曲を大切に大切に演奏しようとする静かな意志が読みとれる。
茶色と灰色の中間色のように映る志村正彦の帽子がマイクスタンドにかかっている。少し前屈みになっていたことに気づく。レールによる移動撮影。そのゆるやかな移動が、その中心にいるはずだった志村正彦、彼の帽子、動くはずのない帽子に、視覚の上でかすかな揺れのようなものを与えている。
しかし、間近で撮影された固定ショットの帽子、フレームの中の帽子は、決して動かない。彼の不在そのものを象徴する彼の帽子はそこで垂直に佇立している。《声》は存在している。
《声》は、音源を通して親しんだだけで、故人の声を知るでもない私のようなものにとっても、それはすでに限りなく懐かしい。潤いとのびやかさのある《声》。甘さと儚さが漂いだす、美しい《声》だ。
《声》は、確かにDVDのトラックに「記録」されている。そのことは有り難い。しかし、あの日の武道館で聴いた《声》は、当然ではあるが、「再現」されてはいない。
武道館の会場では、志村正彦の音源の《声》とメンバーの生演奏が自然に調和されていた。音の波動、反射。客席の沈黙、ざわめき。座席の揺れ、感触。ステージ照明そしてモグライトの光、闇。生きている、ライブの空間から、全く思いがけない形で、志村正彦の《声》が響いてきた。様々な感覚が絡みあい、それは全方位から立ち上がってきた。
その「再現」はあらかじめ不可能だ。それは一つの「出来事」として起こったのだから。「出来事」は再現され得ないからこそ、「出来事」であり続ける。
(この項続く)
初回仕様は、桐の箱風のデザインのBOXに写真集とDVDパッケージが入っている。ケースのデザインとなるスリーブは、武道館と富士山とを合成した写真が使われている。
大半はすでに無料の配信映像で見ていたので、関心の中心はやはり『茜色の夕日』だった。ライブDVDという器の中に込められたあの歌が、どのように再現されているのか。フジファブリック武道館LIVEを巡るこの連続エッセイで、当初、その再現が見られるとは思ってもいなかったが、予想外に早くこの映像は私たちに届けられることになった。
リビングの液晶テレビで鑑賞。配信を見たノートPCの画面より大きく、鮮明。内蔵のスピーカーだが、音の定位も安定している。(ホームシアターであればより臨場感があるのだろうが)
オープニングから『桜の季節』に至るスクリーン映像は何度見ても極まるものがある。時計の秒針の音から始まったことを思いだす。志村正彦在籍時のフジファブリック。日比谷、渋谷、富士吉田の印象深いシーン。その映像を映し出すスクリーンの像を撮影した映像。二重にも三重にも、現実の対象から遠ざかった映像が、「時」と「場」の隔たりを感じさせる。隔たりはあるのだが、それでもそれはこうして回帰してくる。
時折織り込まれる観客席の映像。こうして改めてみると、2014年11月28日の武道館
を記録するために、かなりたくさんの撮影機材が用意されていたことに思い至る。
斜め上から、真横から、正面からのアングル。用意周到、計算された映像だなどという野暮な言葉には耳を貸すまい。
あの日の観客のまなざし、涙と共にあったまなざしをこのDVDに収めたことには記録以上の意味があろう。それは記憶すべき、記録すべことことだから。
現在のそして未来の(それこそ百年後の、とあえて書きたい)志村正彦、フジファブリックのファンに、それはこのようにして届けられる。
『茜色の夕日』のチャプターに移る。この歌とその前後の流れは、半ばは鮮明に記憶に刻まれ、半ばは記憶から脱落している。
こうして再現されたそれは、DVDパッケージという音声と映像という枠組みにふつうに収まっていた。会場ではうかがい知れなかったメンバーの表情。この瞬間を迎える緊張感と共にこの楽曲を大切に大切に演奏しようとする静かな意志が読みとれる。
茶色と灰色の中間色のように映る志村正彦の帽子がマイクスタンドにかかっている。少し前屈みになっていたことに気づく。レールによる移動撮影。そのゆるやかな移動が、その中心にいるはずだった志村正彦、彼の帽子、動くはずのない帽子に、視覚の上でかすかな揺れのようなものを与えている。
しかし、間近で撮影された固定ショットの帽子、フレームの中の帽子は、決して動かない。彼の不在そのものを象徴する彼の帽子はそこで垂直に佇立している。《声》は存在している。
《声》は、音源を通して親しんだだけで、故人の声を知るでもない私のようなものにとっても、それはすでに限りなく懐かしい。潤いとのびやかさのある《声》。甘さと儚さが漂いだす、美しい《声》だ。
《声》は、確かにDVDのトラックに「記録」されている。そのことは有り難い。しかし、あの日の武道館で聴いた《声》は、当然ではあるが、「再現」されてはいない。
武道館の会場では、志村正彦の音源の《声》とメンバーの生演奏が自然に調和されていた。音の波動、反射。客席の沈黙、ざわめき。座席の揺れ、感触。ステージ照明そしてモグライトの光、闇。生きている、ライブの空間から、全く思いがけない形で、志村正彦の《声》が響いてきた。様々な感覚が絡みあい、それは全方位から立ち上がってきた。
その「再現」はあらかじめ不可能だ。それは一つの「出来事」として起こったのだから。「出来事」は再現され得ないからこそ、「出来事」であり続ける。
(この項続く)
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20141128武道館,
志村正彦ライナーノーツ(LN)
2015年3月31日火曜日
回想と連想-フジファブリック武道館LIVE7 [志村正彦LN102]
ライブに出かけるという行為は、日々の暮らしの中の特別な出来事としてある。また、聴き手としての生きる過程、音楽を聴くという歴史の中での重要な結節点ともなる。フジファブリック武道館ライブによって浮かんできたある回想と連想を今回は記したい。
回想モードで始めたい。
あの日は、渋谷のユーロスペースで『谷川さん、詩をひとつ作ってください。』(監督・杉本信昭)、 神保町の岩波ホールで『ミンヨン 倍音の法則』(監督・佐々木昭一郎)と、映画を二本はしごして見てから武道館に向かった。地方在住者の「上京」の一日は密度が濃くなる。二つの映画ともに、「詩」と「物語」について深い問いかけを持つ作品だった。
神保町の古書店街を通り抜けて、九段下へ。北の丸公園へと上っていく道を歩いていると、初めてこの地を訪れた日のことを思い出していた。
1973年の夏のことだ。四十年を超える時を遡ることになる。
当時、私は14歳、中学3年生だった。電車で甲府から新宿へ、高田馬場で地下鉄に乗り換えて九段下へ。田舎に住む少年にとって初めて乗る地下鉄のゴーゴーとうなる響きは、ハードロックのようだった。喧しい音が今も耳の記憶に残っている。東京に住むようになると、その音にも慣れたが、地下鉄の音は東京の音の象徴のような気がしていた。
マウンテンの武道館ライブだった。フェリックス・パッパラルディのベース、レズリー・ウェストのギター(志村正彦は「志村日記」の一節で彼の名をあげている)を中心とする米国のヘヴィーロックバンドだった(マウンテンの場合、「ハードロック」というよりも、語の本来の意味での「へヴィーロック」という名がふさわしい)。現在ではほぼ忘れられたバンドだが、70年代初頭は英米ともに特にこの日本でかなりの人気があり、優れた音楽性と文学の香りのする歌詞が高く評価されていた。(このライブから十年も経たない1983年にパッパラルディは悲劇的な事件で亡くなった。彼についてはある出来事が想い出としてあるので、いつかここに記したい)
私にとって人生初めてのロックのライブは、この武道館でのマウンテンとなる。だから、武道館という場はライブの原点としてありつづけた。当時のロックコンサートはほぼ洋楽の「外タレ」(来日する外国のミュージシャンを指す言葉。今では死語だが、当時はよく使われていた)による大規模なものだった。日本語ロックはまだ少数派の音楽にすぎなかった。ライブハウスという場もごく少なかった。日常的にロックのライブを経験できる場はまだほとんどない時代だった。
その後、ボブ・ディランやロキシー・ミュージックの武道館ライブが印象に残った。1994年のピーター・ガブリエルの素晴らしいライブを武道館で見て以来、長い空白があって、この日のフジファブリックとなった。
武道館でのライブを想い出すにつれて、様々な記憶が独楽のように回り出した。
私が最も好きな英米のロックバンドは、ピーター・ガブリエル在籍時のジェネシスだ。それは昔も今も変わらない。ピーター・ガブリエルは1975年ジェネシスを脱退した。それ以来、ピーター・ガブリエル在籍時のジェネシスのライブは見果てぬ夢、不可能な夢となった。
1978年11月中野サンプラザで、ジェネシスの初来日コンサートを見ることができた。すでにピーター・ガブリエルの後継者として、フィル・コリンズがボーカルを担い、フロントマンになっていた。
ピーター・ガブリエルの幻影を追いかけていたファンにとって(私もその一人だった)、彼のいないジェネシスはやはりジェネシスではない、という確信が強まったライブでもあった。
フィル・コリンズがピーターガブリエルの作品を歌った。演奏は紛れもなくジェネシス。トニー・バンクスのキーボード、マイク・ラザーフォードのベース、そしてフィル・コリンズのドラムは、繊細で華麗、劇的で内省的な音を奏でていた。生で彼らの音に接する。それは幸せな経験だったが、どこか満ち足りない思いが残った。やはり、 ピーター・ガブリエルが、彼の声が、彼の声で歌われる言葉がそこには無かった。
言うまでもなく、「フィル・コリンズのジェネシス」も素晴らしいバンドではあるのだが、「ピーター・ガブリエルのジェネシス」とは本質的なというか決定的な違いがあった。
「ピーター・ガブリエルのジェネシス」に出会うことは不可能になったが、その後、「ピーター・ガブリエル」のソロを経験することはできた。先に述べたように、1994年3月、「SECRET WORLD TOUR」の一環として初の単独来日公演が武道館で開かれた。武道館のピーター・ガブリエルは幻影ではなく、実在していた。彼の歌と言葉があの場に実在していた。
武道館のフジファブリックは、プログレッシブロックの風味といい、レーザー光線を使った照明といい、少しレトロだがポップでもある音の感触といい、いつのまにか、記憶の残像にある「フィル・コリンズのジェネシス」と重なっていった。
私の「感覚」そして「記憶」からすると、「ピーター・ガブリエルのジェネシス」と「フィル・コリンズのジェネシス」との差異は、「志村正彦のフジファブリック」と「山内総一郎のフジファブリック」との差異と、ほとんど同型のものとなっていた。
ピーター・ガブリエルは自らの意志で脱退することで、志村正彦は不帰の人となることで、バンドのボーカル・フロントマンが交代したという現実の出来事は異なるのだが、音楽そのものの変化、バンドの編成やプロモーションの方法の変容が構造的に同型のような気がする。
「山内総一郎のフジファブリック」となった現在のフジファブリックを、「志村正彦在籍時のフジファブリック」とことさらに比較したいわけではない。価値や評価の問題でもない。
音楽の好みは結局の所「感覚」や「記憶」の問題であり、それは自由だ。「感覚」や「記憶」は自由に連鎖していく。時の流れの中で複雑に絡まり合う。(それでも、ジェネシスとフジファブリックなどという対比は唐突に感じられるだろうから、この対比を「論」として示すことをいつか試みたい)
回りくどく突飛でとりとめもない文になってしまった。
武道館という場に関わる一人の聴き手としての回想と連想を綴りたかった。
(この項続く)
回想モードで始めたい。
あの日は、渋谷のユーロスペースで『谷川さん、詩をひとつ作ってください。』(監督・杉本信昭)、 神保町の岩波ホールで『ミンヨン 倍音の法則』(監督・佐々木昭一郎)と、映画を二本はしごして見てから武道館に向かった。地方在住者の「上京」の一日は密度が濃くなる。二つの映画ともに、「詩」と「物語」について深い問いかけを持つ作品だった。
神保町の古書店街を通り抜けて、九段下へ。北の丸公園へと上っていく道を歩いていると、初めてこの地を訪れた日のことを思い出していた。
1973年の夏のことだ。四十年を超える時を遡ることになる。
当時、私は14歳、中学3年生だった。電車で甲府から新宿へ、高田馬場で地下鉄に乗り換えて九段下へ。田舎に住む少年にとって初めて乗る地下鉄のゴーゴーとうなる響きは、ハードロックのようだった。喧しい音が今も耳の記憶に残っている。東京に住むようになると、その音にも慣れたが、地下鉄の音は東京の音の象徴のような気がしていた。
マウンテンの武道館ライブだった。フェリックス・パッパラルディのベース、レズリー・ウェストのギター(志村正彦は「志村日記」の一節で彼の名をあげている)を中心とする米国のヘヴィーロックバンドだった(マウンテンの場合、「ハードロック」というよりも、語の本来の意味での「へヴィーロック」という名がふさわしい)。現在ではほぼ忘れられたバンドだが、70年代初頭は英米ともに特にこの日本でかなりの人気があり、優れた音楽性と文学の香りのする歌詞が高く評価されていた。(このライブから十年も経たない1983年にパッパラルディは悲劇的な事件で亡くなった。彼についてはある出来事が想い出としてあるので、いつかここに記したい)
私にとって人生初めてのロックのライブは、この武道館でのマウンテンとなる。だから、武道館という場はライブの原点としてありつづけた。当時のロックコンサートはほぼ洋楽の「外タレ」(来日する外国のミュージシャンを指す言葉。今では死語だが、当時はよく使われていた)による大規模なものだった。日本語ロックはまだ少数派の音楽にすぎなかった。ライブハウスという場もごく少なかった。日常的にロックのライブを経験できる場はまだほとんどない時代だった。
その後、ボブ・ディランやロキシー・ミュージックの武道館ライブが印象に残った。1994年のピーター・ガブリエルの素晴らしいライブを武道館で見て以来、長い空白があって、この日のフジファブリックとなった。
武道館でのライブを想い出すにつれて、様々な記憶が独楽のように回り出した。
私が最も好きな英米のロックバンドは、ピーター・ガブリエル在籍時のジェネシスだ。それは昔も今も変わらない。ピーター・ガブリエルは1975年ジェネシスを脱退した。それ以来、ピーター・ガブリエル在籍時のジェネシスのライブは見果てぬ夢、不可能な夢となった。
1978年11月中野サンプラザで、ジェネシスの初来日コンサートを見ることができた。すでにピーター・ガブリエルの後継者として、フィル・コリンズがボーカルを担い、フロントマンになっていた。
ピーター・ガブリエルの幻影を追いかけていたファンにとって(私もその一人だった)、彼のいないジェネシスはやはりジェネシスではない、という確信が強まったライブでもあった。
フィル・コリンズがピーターガブリエルの作品を歌った。演奏は紛れもなくジェネシス。トニー・バンクスのキーボード、マイク・ラザーフォードのベース、そしてフィル・コリンズのドラムは、繊細で華麗、劇的で内省的な音を奏でていた。生で彼らの音に接する。それは幸せな経験だったが、どこか満ち足りない思いが残った。やはり、 ピーター・ガブリエルが、彼の声が、彼の声で歌われる言葉がそこには無かった。
言うまでもなく、「フィル・コリンズのジェネシス」も素晴らしいバンドではあるのだが、「ピーター・ガブリエルのジェネシス」とは本質的なというか決定的な違いがあった。
「ピーター・ガブリエルのジェネシス」に出会うことは不可能になったが、その後、「ピーター・ガブリエル」のソロを経験することはできた。先に述べたように、1994年3月、「SECRET WORLD TOUR」の一環として初の単独来日公演が武道館で開かれた。武道館のピーター・ガブリエルは幻影ではなく、実在していた。彼の歌と言葉があの場に実在していた。
武道館のフジファブリックは、プログレッシブロックの風味といい、レーザー光線を使った照明といい、少しレトロだがポップでもある音の感触といい、いつのまにか、記憶の残像にある「フィル・コリンズのジェネシス」と重なっていった。
私の「感覚」そして「記憶」からすると、「ピーター・ガブリエルのジェネシス」と「フィル・コリンズのジェネシス」との差異は、「志村正彦のフジファブリック」と「山内総一郎のフジファブリック」との差異と、ほとんど同型のものとなっていた。
ピーター・ガブリエルは自らの意志で脱退することで、志村正彦は不帰の人となることで、バンドのボーカル・フロントマンが交代したという現実の出来事は異なるのだが、音楽そのものの変化、バンドの編成やプロモーションの方法の変容が構造的に同型のような気がする。
「山内総一郎のフジファブリック」となった現在のフジファブリックを、「志村正彦在籍時のフジファブリック」とことさらに比較したいわけではない。価値や評価の問題でもない。
音楽の好みは結局の所「感覚」や「記憶」の問題であり、それは自由だ。「感覚」や「記憶」は自由に連鎖していく。時の流れの中で複雑に絡まり合う。(それでも、ジェネシスとフジファブリックなどという対比は唐突に感じられるだろうから、この対比を「論」として示すことをいつか試みたい)
回りくどく突飛でとりとめもない文になってしまった。
武道館という場に関わる一人の聴き手としての回想と連想を綴りたかった。
(この項続く)
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志村正彦ライナーノーツ(LN)
2015年2月23日月曜日
《声》と《再会》-フジファブリック武道館LIVE 6 [志村正彦LN101]
今日2月23日は富士山の日。そのことに合わせたのかは分からないが、昨夜、日付が変わるとすぐに、「フジファブリック最新情報」メールが届いた。
「GYAO!にて「フジファブリック 10th anniversary Live at 日本武道館 2014」特別編集版公開開始!」とあったので、早速クリック。深夜の故、オープニング、『桜の季節』『陽炎』と『卒業』だけを見て、今夜、残りを見終わった。
ところどころに観客の映像が入る。その姿、姿に引き寄せられる。自分のいた位置とは異なるアングルで再体験することで、3ヶ月前の記憶が別の形でよみがえってくる。このエッセイで記憶を頼りにして記した『卒業』の背景映像もほぼその通りだったが、雲の流れと動きがよりダイナミックだったことに気づいた。
3月15日までの配信(http://gyao.yahoo.co.jp/music-live/player/monthly02/fujifabric)ではあるが、誰もが無料でこの映像を見ることができるのは有り難い。
ただし、あのライブで最も記憶に刻まれたシーンは欠けている。志村正彦の《声》が歌う『茜色の夕日』だ。もちろん、無料配信ですべてを流す必要はない。このシーンとの《再会》は、4月8日発売の『Live at 日本武道館』まで待つべきなのだろう。
前回論じた《再会》のモチーフについて、この3週間の間考え続けてきたのだが、なかなか思考が展開できない。考えあぐねているところに、昨夜の映像配信で、あの日の武道館の《声》の感覚が再び強く迫ってきた。この感覚に導かれて、次のような断片が現れてきた。まとまりがないが、それを記してみたい。
この世界には、すでにその主体が不在であるが、主体の不在を超えて有り続けるもの、残り続けるものが存在する。そのようにして有り続けるものとは、例えば、その不在となった主体がかつて表した言葉である。記憶された言葉。記載された言葉。印刷され、刊行された言葉。言葉は有り続ける。
歌の場合、言葉だけでなく、《声》そのものが有り続ける。百年以上前から、録音や音盤制作という現代の技術によって、《声》が、その主体の不在を超えて、有り続けている。この《声》の現前は、それ以前とそれ以後で、歌の享受に決定的な変化をもたらした。あたりまえとなっているが、これは不可思議なことでもある。不在の主体の《声》は天使的な響きを持つ。
さらに今日、映像技術の飛躍によって、不在の主体そのものの《像》が記録され、《像が有り続ける。記録された《言葉》、《声》、《像》。その主体が不在であるにもかかわらず、《言》や《声》や《像》は、主体の不在を超えて存在し続ける。少なくとも、《言》や《声》や《像》の受け手がいる限り。
モニタやスクリーンの画面上にある《言葉》や《像》は、視覚的なもの、想像的なものとして、私たちに届いている。その経験にはどうしても視覚像という媒体、ある意味で回り道のような余計なものが差し挟まる。
しかし、《声》は異なる。再現された《声》ではあるが、聴覚像という媒体には還元されることなく、限りなく直接的に、聴覚に入り込む。耳に、身体に届く。《声》は、不在の主体を、あたかもそこで歌っているかのように現前させる。ありのままにありありと。
あの日の武道館で、演出や演奏やアレンジの次元を超えて、数分という短い時間ではあったが、志村正彦の《声》はその独自の存在のあり方で聴き手に届いた。
私たちは、《声》の直接性によって、《声》の現前によって、不在の主体と再会することができたのかもしれない。
(この項続く)
「GYAO!にて「フジファブリック 10th anniversary Live at 日本武道館 2014」特別編集版公開開始!」とあったので、早速クリック。深夜の故、オープニング、『桜の季節』『陽炎』と『卒業』だけを見て、今夜、残りを見終わった。
ところどころに観客の映像が入る。その姿、姿に引き寄せられる。自分のいた位置とは異なるアングルで再体験することで、3ヶ月前の記憶が別の形でよみがえってくる。このエッセイで記憶を頼りにして記した『卒業』の背景映像もほぼその通りだったが、雲の流れと動きがよりダイナミックだったことに気づいた。
3月15日までの配信(http://gyao.yahoo.co.jp/music-live/player/monthly02/fujifabric)ではあるが、誰もが無料でこの映像を見ることができるのは有り難い。
ただし、あのライブで最も記憶に刻まれたシーンは欠けている。志村正彦の《声》が歌う『茜色の夕日』だ。もちろん、無料配信ですべてを流す必要はない。このシーンとの《再会》は、4月8日発売の『Live at 日本武道館』まで待つべきなのだろう。
前回論じた《再会》のモチーフについて、この3週間の間考え続けてきたのだが、なかなか思考が展開できない。考えあぐねているところに、昨夜の映像配信で、あの日の武道館の《声》の感覚が再び強く迫ってきた。この感覚に導かれて、次のような断片が現れてきた。まとまりがないが、それを記してみたい。
この世界には、すでにその主体が不在であるが、主体の不在を超えて有り続けるもの、残り続けるものが存在する。そのようにして有り続けるものとは、例えば、その不在となった主体がかつて表した言葉である。記憶された言葉。記載された言葉。印刷され、刊行された言葉。言葉は有り続ける。
歌の場合、言葉だけでなく、《声》そのものが有り続ける。百年以上前から、録音や音盤制作という現代の技術によって、《声》が、その主体の不在を超えて、有り続けている。この《声》の現前は、それ以前とそれ以後で、歌の享受に決定的な変化をもたらした。あたりまえとなっているが、これは不可思議なことでもある。不在の主体の《声》は天使的な響きを持つ。
さらに今日、映像技術の飛躍によって、不在の主体そのものの《像》が記録され、《像が有り続ける。記録された《言葉》、《声》、《像》。その主体が不在であるにもかかわらず、《言》や《声》や《像》は、主体の不在を超えて存在し続ける。少なくとも、《言》や《声》や《像》の受け手がいる限り。
モニタやスクリーンの画面上にある《言葉》や《像》は、視覚的なもの、想像的なものとして、私たちに届いている。その経験にはどうしても視覚像という媒体、ある意味で回り道のような余計なものが差し挟まる。
しかし、《声》は異なる。再現された《声》ではあるが、聴覚像という媒体には還元されることなく、限りなく直接的に、聴覚に入り込む。耳に、身体に届く。《声》は、不在の主体を、あたかもそこで歌っているかのように現前させる。ありのままにありありと。
あの日の武道館で、演出や演奏やアレンジの次元を超えて、数分という短い時間ではあったが、志村正彦の《声》はその独自の存在のあり方で聴き手に届いた。
私たちは、《声》の直接性によって、《声》の現前によって、不在の主体と再会することができたのかもしれない。
(この項続く)
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志村正彦ライナーノーツ(LN)
2015年2月2日月曜日
再会-フジファブリック武道館LIVE 5[志村正彦LN100]
昨年11月28日開催のフジファブリック武道館LIVEから二月ほど経つ。このLIVEについてすでに4回ほど掲載したが、あと数回は書きたいことがあるので、今回から再開したい。
武道館ライブの『茜色の夕日』『若者のすべて』『卒業』という三曲の流れ、『卒業』の背景の「空」の映像。あの時あの場において、『卒業』の一節「それぞれ道を歩けばいつかまた会えるだろう」の《再会》の相手は、志村正彦その人を指し示していると、前回のLN99で考察した。
歌詞で歌われる《再会》の相手を特定の人物に限定する必要はない。それは当然の前提だ。
歌の言葉の中には余白の箇所がある。誰かを何かを指し示す機能しかない人称代名詞はその余白の最たるものだろう。歌い手にとって指し示す対象が明確であったとしても、聴き手にとってはそうではない。逆にそうだからこそ、聴き手はその対象を自由に想像できる余地がある。
さらに、歌には、歌わないこと、歌えないこと、歌うのが難しいこと、歌うのを避けたいことなどが満ちている。これに関しても人称代名詞と同様のことが当てはまる。
ある時ある所において、歌い手と聴き手との共同の場において、その現実の文脈の中で、歌の空白が埋められることもある。フジファブリックのデビュー10周年を記念する武道館LIVEは、そのような特別な時、特別な場だった。繰り返しになるが、あの時あの場において、《再会》の相手が志村正彦だということは暗黙の前提だった。たとえそれが無意識的なものであったとしても。
武道館LIVEは、志村正彦の「成し遂げられなかった10年」を追悼するものでもあった。あのステージの「主役」は現メンバーだが、ステージの「不在の主役」は志村正彦だった。フジファブリックの歴史からすると必然的にそうなる。
山内総一郎作詞の『卒業』の第2連をあらためて引く。
ゆらゆらゆらり滲んで見えてる空は薄化粧
それぞれ道を歩けばいつかまた会えるだろう
「ぼくら」は「薄化粧」の「空」の下で、歩き出す。「それぞれ道を歩けば」という《歩行》を重ねれば、「いつかまた会えるだろう」というと《再会》の時が訪れる。
その一方で、この《歩行》は、『卒業』という題名と歌詞の全体が示しているように、《卒業》への歩み、「今ここ」という時と場から巣立ち、離れていくことでもある。
第3連を引く。
春の中ぽつり降る ぼくらの足跡消して行く
悲しみは 悲しみはこのまま雨と流れて行けよ
「ぼくら」は、この場から「ぼくらの足跡」を消して行かねばならない。「悲しみ」は雨に流れて行かねばならない。痕跡の消去、感情の消失は、「それぞれ道を歩」くための象徴的行為だ。「いつかまた会えるだろう」という《再会》のための《卒業》は、「ぼくら」がいつか向き合わねばならなかった儀式だ。
この文章を書いている今、あの武道館LIVEを振り返ると、デビュー10周年を数える2014年という時、武道館というロック音楽における象徴的な場で、フジファブリックの《卒業》の儀式が執りおこなわれたのだという印象が強い。
現在のフジファブリックにとって、志村正彦との《再会》のための《卒業》は、志村正彦からの《卒業》であり、志村正彦への《卒業》でもある。志村正彦から/への《卒業》という二重性を持つだろう。
《卒業》は、愛着のある場、慣れ親しんだ場、想い出の時、忘れられない時から離れていくことだ。大切な場、大切な時との別離、ある種の分離だ。その外的な分離が時を経て、心の内面にまで作用していくと、忘れること、《忘却》が訪れる。
志村正彦には『記念写真』という作品(志村作詞・山内作曲、3rdアルバム『TEENAGER』収録、2008年1月リリース)がある。この歌の背景にあるのは《卒業》という出来事だろう。リフレインされる歌詞を引く。
記念の写真 撮って 僕らは さよなら
忘れられたなら その時はまた会える
「忘れる」こと、《忘却》の時が訪れること。それができたなら、「その時はまた会える」、《再会》が可能となる。志村正彦は、《忘却》と《再会》という、矛盾めいた予言のような言葉をこの歌詞に込めている。
さらに時を遡りたい。この『記念写真』には、奥田民生作詞のユニコーン『すばらしい日々』(1993年4月、シングルリリース)が遠く彼方からこだましているように聞こえる。志村正彦が奥田から最も影響を受けたことはよく知られている。この歌もユニコーンの解散という《卒業》が背景となっているようだが、《忘却》と《再会》についての深くて逆説的でもある言葉を、奥田民生は日本語ロックの歌詞の世界に導入した。鍵となる一節を引用する。
朝も夜も歌いながら 時々はぼんやり考える
君は僕を忘れるから そうすればもうすぐに君に会いに行ける
「君は僕を忘れる」、そのような《忘却》の時を経ることで、「君に会いに行ける」、《再会》が果たせる。複雑な感情が込められた《忘却》と《再会》のモチーフは、奥田から志村へと引き継がれた。『記念写真』そのものが志村の奥田に対するオマージュかもしれない。
武道館LIVEのアンコールで初披露された山内総一郎作詞の『はじまりのうた』には次の一節がある。
僕ら待つ未来へ歩き出せるなら
同じ場所をまた見つけられるから
その時はまた会いにいけるから
《分離》や《忘却》というモチーフは消えかけているが、「その時はまた会いにいける」という《再会》というモチーフは貫かれている。『はじまりのうた』という題名が示すように、この《再会》は《出発》あるいは《再出発》を背景としている。曲調の明るさからしても、《未来》が志向されている。
《卒業》という外的な出来事、《忘却》という内的な出来事は、主体とその客体、相手や対象との《分離》を意味している。その《分離》を経た上で《再会》が果たされる。あたかも《分離》が《再会》の条件であるかのように。そのモチーフが、奥田民生・ユニコーン、志村正彦・フジファブリック、そして山内総一郎・現在のフジファブリックとリレーされているかのようだ。意識的なものではなく、多分に無意識的なものかもしれないが。
私たち志村正彦の聴き手にとって、《分離》と《再会》のモチーフの対象は、当然、志村正彦その人である。彼は『記念写真』の最後の節で「きっとこの写真を 撮って 僕らは さよなら/忘れられたなら その時はまた会える」と歌っている。私たち聴き手は自由で、ある意味では身勝手でもあるから、この「僕ら」という人称代名詞を、たとえば、聴き手と歌い手との間に結ばれる「僕ら」という共同性を示すものとして拡大解釈してしまうこともあるだろう。聴き手の欲望は際限がないが、歌は自由であり、それを許している。
それにしても、「僕ら」は何故、「忘れられたなら」、「その時はまた会える」のだろうか。この問いに少しでも近づかなくてはならない。
(この項続く)
武道館ライブの『茜色の夕日』『若者のすべて』『卒業』という三曲の流れ、『卒業』の背景の「空」の映像。あの時あの場において、『卒業』の一節「それぞれ道を歩けばいつかまた会えるだろう」の《再会》の相手は、志村正彦その人を指し示していると、前回のLN99で考察した。
歌詞で歌われる《再会》の相手を特定の人物に限定する必要はない。それは当然の前提だ。
歌の言葉の中には余白の箇所がある。誰かを何かを指し示す機能しかない人称代名詞はその余白の最たるものだろう。歌い手にとって指し示す対象が明確であったとしても、聴き手にとってはそうではない。逆にそうだからこそ、聴き手はその対象を自由に想像できる余地がある。
さらに、歌には、歌わないこと、歌えないこと、歌うのが難しいこと、歌うのを避けたいことなどが満ちている。これに関しても人称代名詞と同様のことが当てはまる。
ある時ある所において、歌い手と聴き手との共同の場において、その現実の文脈の中で、歌の空白が埋められることもある。フジファブリックのデビュー10周年を記念する武道館LIVEは、そのような特別な時、特別な場だった。繰り返しになるが、あの時あの場において、《再会》の相手が志村正彦だということは暗黙の前提だった。たとえそれが無意識的なものであったとしても。
武道館LIVEは、志村正彦の「成し遂げられなかった10年」を追悼するものでもあった。あのステージの「主役」は現メンバーだが、ステージの「不在の主役」は志村正彦だった。フジファブリックの歴史からすると必然的にそうなる。
山内総一郎作詞の『卒業』の第2連をあらためて引く。
ゆらゆらゆらり滲んで見えてる空は薄化粧
それぞれ道を歩けばいつかまた会えるだろう
「ぼくら」は「薄化粧」の「空」の下で、歩き出す。「それぞれ道を歩けば」という《歩行》を重ねれば、「いつかまた会えるだろう」というと《再会》の時が訪れる。
その一方で、この《歩行》は、『卒業』という題名と歌詞の全体が示しているように、《卒業》への歩み、「今ここ」という時と場から巣立ち、離れていくことでもある。
第3連を引く。
春の中ぽつり降る ぼくらの足跡消して行く
悲しみは 悲しみはこのまま雨と流れて行けよ
「ぼくら」は、この場から「ぼくらの足跡」を消して行かねばならない。「悲しみ」は雨に流れて行かねばならない。痕跡の消去、感情の消失は、「それぞれ道を歩」くための象徴的行為だ。「いつかまた会えるだろう」という《再会》のための《卒業》は、「ぼくら」がいつか向き合わねばならなかった儀式だ。
この文章を書いている今、あの武道館LIVEを振り返ると、デビュー10周年を数える2014年という時、武道館というロック音楽における象徴的な場で、フジファブリックの《卒業》の儀式が執りおこなわれたのだという印象が強い。
現在のフジファブリックにとって、志村正彦との《再会》のための《卒業》は、志村正彦からの《卒業》であり、志村正彦への《卒業》でもある。志村正彦から/への《卒業》という二重性を持つだろう。
《卒業》は、愛着のある場、慣れ親しんだ場、想い出の時、忘れられない時から離れていくことだ。大切な場、大切な時との別離、ある種の分離だ。その外的な分離が時を経て、心の内面にまで作用していくと、忘れること、《忘却》が訪れる。
志村正彦には『記念写真』という作品(志村作詞・山内作曲、3rdアルバム『TEENAGER』収録、2008年1月リリース)がある。この歌の背景にあるのは《卒業》という出来事だろう。リフレインされる歌詞を引く。
記念の写真 撮って 僕らは さよなら
忘れられたなら その時はまた会える
「忘れる」こと、《忘却》の時が訪れること。それができたなら、「その時はまた会える」、《再会》が可能となる。志村正彦は、《忘却》と《再会》という、矛盾めいた予言のような言葉をこの歌詞に込めている。
さらに時を遡りたい。この『記念写真』には、奥田民生作詞のユニコーン『すばらしい日々』(1993年4月、シングルリリース)が遠く彼方からこだましているように聞こえる。志村正彦が奥田から最も影響を受けたことはよく知られている。この歌もユニコーンの解散という《卒業》が背景となっているようだが、《忘却》と《再会》についての深くて逆説的でもある言葉を、奥田民生は日本語ロックの歌詞の世界に導入した。鍵となる一節を引用する。
朝も夜も歌いながら 時々はぼんやり考える
君は僕を忘れるから そうすればもうすぐに君に会いに行ける
「君は僕を忘れる」、そのような《忘却》の時を経ることで、「君に会いに行ける」、《再会》が果たせる。複雑な感情が込められた《忘却》と《再会》のモチーフは、奥田から志村へと引き継がれた。『記念写真』そのものが志村の奥田に対するオマージュかもしれない。
武道館LIVEのアンコールで初披露された山内総一郎作詞の『はじまりのうた』には次の一節がある。
僕ら待つ未来へ歩き出せるなら
同じ場所をまた見つけられるから
その時はまた会いにいけるから
《分離》や《忘却》というモチーフは消えかけているが、「その時はまた会いにいける」という《再会》というモチーフは貫かれている。『はじまりのうた』という題名が示すように、この《再会》は《出発》あるいは《再出発》を背景としている。曲調の明るさからしても、《未来》が志向されている。
《卒業》という外的な出来事、《忘却》という内的な出来事は、主体とその客体、相手や対象との《分離》を意味している。その《分離》を経た上で《再会》が果たされる。あたかも《分離》が《再会》の条件であるかのように。そのモチーフが、奥田民生・ユニコーン、志村正彦・フジファブリック、そして山内総一郎・現在のフジファブリックとリレーされているかのようだ。意識的なものではなく、多分に無意識的なものかもしれないが。
私たち志村正彦の聴き手にとって、《分離》と《再会》のモチーフの対象は、当然、志村正彦その人である。彼は『記念写真』の最後の節で「きっとこの写真を 撮って 僕らは さよなら/忘れられたなら その時はまた会える」と歌っている。私たち聴き手は自由で、ある意味では身勝手でもあるから、この「僕ら」という人称代名詞を、たとえば、聴き手と歌い手との間に結ばれる「僕ら」という共同性を示すものとして拡大解釈してしまうこともあるだろう。聴き手の欲望は際限がないが、歌は自由であり、それを許している。
それにしても、「僕ら」は何故、「忘れられたなら」、「その時はまた会える」のだろうか。この問いに少しでも近づかなくてはならない。
(この項続く)
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『記念写真』,
20141128武道館,
志村正彦ライナーノーツ(LN)
2014年12月23日火曜日
空-フジファブリック武道館LIVE 4[志村正彦LN99]
『卒業』のイントロと共に、武道館の巨大な横長スクリーンに、スミス監督による映像が映し出される。
《声》と《音》、聴くことに集中していた意識が再び見ることへと向かう。断片的な記憶で不確かだが、印象を記す。
強い日差しをあびている大地。流れゆく雲の影が写り込む。光と影に照らされ、律動する丘と山。空撮か、かなり高い所からの撮影か、俯瞰的な視点からの映像は、見る者をおのずから「空」の場に位置づける。
私たちは「空」の位置から大地を眺めている。やがて、薄く茜色に染まる「空と雲」がスクリーンを覆う。今度は、遠く、茜色の「空」を見上げる位置へと視点が移動する。
あの時、この映像は、『卒業』だけでなく、『茜色の夕日』と『若者のすべて』を含めて、連続した三つの曲の背景となっていると思われた。
志村正彦の存在しない「空」。この映像はそのような風景を描いているように感じた。
武道館から帰ってきてから、『茜色の夕日』、『若者のすべて』、『卒業』の三曲を繰り返し聴いた。それぞれの歌の主体、なおかつ、風景を眺める主体でもある人称代名詞は、『茜色の夕日』が「僕」、『若者のすべて』が「僕」および「僕ら」、『卒業』が「ぼくら」である。このような人称代名詞の選択は、歌の世界と深い関連がある。
そして、三つの歌の主体が見る風景の中で最も遠い対象として現れるものは、「茜色の夕日」「東京の空の星」(『茜色の夕日』)、「最後の花火」「同じ空」(『若者のすべて』)、「ゆらゆらゆらり滲んで見えてる空」(『卒業』)だ。
主体は、「空」を眼差している。
志村正彦の二つの作品にまず焦点をあてよう。「茜色の夕日」と「東京の空の星」、「最後の花火」と「同じ空」。夜の空とそこで光り輝くもの。そのようなモチーフの関連性がある。
『茜色の夕日』では、歌の主体「僕」は次のように歌う。
東京の空の星は
見えないと聞かされていたけど
見えないこともないんだな
上京した地方出身者の共通の経験を語っている。「見えないと聞かされていたけど」という伝聞とは異なり、「東京の空」でも「星」は「見えないこともないんだな」と気づいたことは、随分昔のことになるが、志村と同じように、山梨から東京へと出て行った私の青年時代にもある。「星」の有無で地方と東京が対比されているが、「見えないこともない」という二重否定は、微妙ではありながらも、地方と東京とのつながりも示している。この相反する関係は、『茜色の夕日』の主要なモチーフ、「僕」と「君」との関係も表している。
「星」の見える「東京の空」は当然、夜の空だ。この夜の空を眺める「僕」は、東京の夜を一人で歩く孤独な若者だ。街を歩き、時に、夜の空を見つめ、佇む。単独者の影が濃い。
『若者のすべて』の最後の一節には、「同じ空」を見上げる「僕ら」が登場する。
最後の最後の花火が終わったら
僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ
「最後の最後の花火」が美しく輝く空、「僕ら」にとっての「同じ空」はやはり夜の空だ。「僕ら」という一人称複数形が指し示す人物が、どのような存在であり、どのような関係を結んでいるかは、志村正彦の詩がいつもそうであるように、明らかでない。
この前の一節で「僕はそっと歩き出して」とあるように、単独者の「僕」が根底にあるにしても、ここで、複数形の「僕ら」が登場したことには、志村の作品にある重要な変化が起きていると読みとれ、ある種の感慨を覚える。(このあたりの考察は一連の『若者のすべて』論を参照していただきたい)
武道館では、志村正彦の音源の《声》が志村作の『茜色の夕日』を歌い、山内総一郎の《声》が志村作の『若者のすべて』を歌った。続いて、山内総一郎が自ら自作の『卒業』を歌った。《声》の主体と歌の作者の組合せが、順に変化していった。
『卒業』は次のように歌い出される。第1節と2節を引用する。
扉風ふわり立つ ぼくらの体を包み込む
沢山の思い出はこっそり鞄に詰め込んだから
ゆらゆらゆらり滲んで見えてる空は薄化粧
それぞれ道を歩けばいつかまた会えるだろう
『卒業』の歌の主体「ぼくら」は、山内、金澤、加藤の三者を指し示していると、私は解釈する。山内の歌詞の特徴として、作者と歌の主体との間の距離が近いことが指摘できる。
作者山内は、自分自身と金澤、加藤を加えた現在のフジファブリックの三人を「ぼくら」という主体に設定して、ある風景の中に佇ませている。
「ぼくら」は「沢山の思い出」を「こっそり鞄に詰め込んだから」、再び歩み始めることができる。この「鞄」という言葉は、志村の『花』の一節「かばんの中は無限に広がって/何処にでも行ける そんな気がしていた」への応答とも捉えられる。「無限」に広がる「かばん」と「思い出」を詰めこむ「鞄」。この対比には、後戻りのできない時間が流れている。
続く、「ゆらゆらゆらり」には、志村の『陽炎』の「残像」が重ねられているかもしれない。「滲んで見えてる」「薄化粧」の「空」の下で、「それぞれ道を歩けばいつかまた会えるだろう」と自らに語りかけながら、「ぼくら」は歩き始める。『若者のすべて』の「そっと歩き出して」、《歩行》のモチーフがこだましているようでもある。
「いつかまた会えるだろう」という帰結に対しては「それぞれ道を歩けば」という仮定しか述べられていないが、その「いつかまた会える」相手は、作者の意識としても無意識としても、志村正彦その人だと解釈できるのではないだろうか。
さなぎには触れるなよ もうすぐ羽ばたく時が来て
殻の中もがいてる心を大きく解き放つでしょう
この第3節からは、歌の主体というより、作者自身の声が響いてくるように聞こえる。
「さなぎ」は「ぼくら」の象徴でもあり、「殻」の中でもがいている。「触れるなよ」と接触を禁じているのは、もうすぐ「羽ばたく時」、《卒業》の時が来るからだろう。「心を大きく解き放つ」時が訪れる。そのことを「ぼくら」は必要としている。
美しく沈鬱でもあるメロディ、それに呼応する歌詞。その反面、歌の主体「ぼくら」の意志は強固でもある。山内総一郎の言葉には、志村の詩には見られない、ある種の《烈しさ》がある。《苦さ》を伴う《烈しさ》とでも言うべきだろうか。バンドのフロントマンとして背負わなければならない《烈しさ》のようなもの、《覚悟》と共に進む《意志》のようなものが、『卒業』の底に流れている。
第4と5節はある情景を描いている。
静かな丘に登れば 出て来た街を見渡そう
暗い夜道に迷えば 思い出し灯火燃やそう
春の中ぽつり降る ぼくらの足跡消して行く
悲しみは 悲しみはこのまま雨と流れて行けよ
「静かな丘」「出て来た街」「暗い夜道」「灯火」「春の中」「雨」。これらの情景、イメージ群には、志村の故郷富士吉田の風景と志村の詩的世界が反映されているように感じる。
しかし、その「春」の季節の中で、「雨」が「ぼくらの足跡」を「消して行く」。「悲しみ」は「このまま雨と流れて行けよ」という言葉の表すものは、「悲しみ」の痕跡の消去だろうか、「悲しみ」の封印だろうか。あるいは、「雨」と流れていく「悲しみ」が「心を大きく解き放つ」のだろうか。
その解釈は聴き手にゆだねられている。
『卒業』はアルバム『LIFE』の15曲目、最後の曲であり、この歌を逆回転させて作られたのが1曲目『リバース』だと言われている。『リバース』は文字通り《再生》を意味する。アルバム全体が『リバース』から『卒業』へ、『卒業』から『リバース』へという循環構造を持つ。
『卒業』の歌詞は五節、十行の短い言葉から成る。この歌詞そのものも、第3節を中心軸にして、第4,5節は、そのまま第1,2節に戻っていく循環の構成になっていると読むこともできる。
「春」の「雨」の中、流れていく「悲しみ」は、「ゆらゆらゆらり滲んで見えてる」「薄化粧」の「空」に還っていく。その「空」の場所から、地に降り立ち、「ぼくら」は「道」を歩き始める。
武道館の「空」の映像は、フジファブリックの新たな旅立ちを映し出していたのかもしれない。
(この項続く)
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20141128武道館,
志村正彦ライナーノーツ(LN)
2014年12月16日火曜日
三つの歌-フジファブリック武道館LIVE 3 [志村正彦LN98]
武道館での『茜色の夕日』のフジファブリック・アンサンブル。
志村正彦の《声》音源と、山内総一郎、加藤慎一、金澤ダイスケ、そして名越由貴夫、Bobo堀川裕之の生演奏による合奏は、希有な出来事だった。
フジファブリックのメンバーもスタッフも、志村正彦への最大限の敬意と想いを込めて、この日の『茜色の夕日』を準備したのだろう。志村が急逝してから五年が経ち、これまでできなかった、ライブという場での追悼が成し遂げられた。そのことに強く心を動かされた。何千人もの心を込めた拍手が鳴りやまなかったことも、あの場の皆の想いを物語っていた。
志村の《声》の余韻が強く漂う中で、次に演奏されたのは『若者のすべて』だった。金澤がピアノ音のイントロを奏で、山内が静かに歌い出す。
『茜色の夕日』と『若者のすべて』という二つの歌は、言うまでもなく、志村正彦の生の軌跡を表した曲だ。志村には多彩な名曲がたくさんあり、代表曲を選ぶのはなかなか難しいが、彼の生という観点からは、この二つが代表曲だと言いきってよいだろう。彼自身もそう考えていたはずだ。
表現のモチーフからもそう言える。『茜色の夕日』の二度繰り返される「できないな できないな」の「ない」は、そのまま、『若者のすべて』の三度繰り返される「ないかな ないよな」の「ない」にもつながっている。「できない」「ない」「いない」。「ない」という不可能なことや不在であることを、志村は繰り返し歌ってきた。彼の詩の軌跡は、「ない」を巡る《歩み》として捉えられる。
東京上京後まもなく、十八歳の時に作られた『茜色の夕日』は、志村の旅の出発点であった。二七歳の時に発表された『若者のすべて』は、自らの旅の方向を新たに見定めた大きな到達点だった。フジファブリックというバンドにとっても、とても重要な地平を切り開くものとなった。旅はその後も続くはずだったが、彼に残された時間は限りあるものだった。
『茜色の夕日』という志村の原点は、フジファブリックというバンドの原点でもあり、志村の《声》で演奏される必然性があった。『若者のすべて』は今日、バンドとしてのフジファブリックの代表曲であり、それ以上に、いわゆるゼロ年代の日本語ロックの最も優れた作品だという評価も確立している。すでにこの曲は、藤井フミヤ、櫻井和寿、槇原敬之などの著名な歌手によって歌われている。10周年を記念するライブで、現在のボーカル山内総一郎が歌うという選択は、一つの自然な流れから来るものだろう。
今、あの場面をふりかえると、そのような意味合いが了解できる。しかし、あの時には、『茜色の夕日』の志村の《声》で想いがあふれていて、『若者のすべて』の山内の《声》を充分に聴き取ることはできなかった。曲が終わり、『卒業』のイントロが始まると共に、映像がスクリーンに上映されると、ようやく舞台へと視線が戻っていった。
『茜色の夕日』と『若者のすべて』に続く歌が、山内が創った『卒業』であることには、ある感慨を覚えた。この歌は新アルバム『LIFE』の中でも最も重要な作品だからだ。
『卒業』は、志村正彦の不在の風景と、現在の山内総一郎、加藤慎一、金澤ダイスケの三人の心の風景を表現しているように、私には感じられた。スミス監督によるスクリーン映像もまた、そのような風景を描いているようだった。
『茜色の夕日』、『若者のすべて』、『卒業』。この三曲の配列を中心に置いて、このライブが構成されたことは間違いない。10年という時の歩みが、この三つの歌に集約されている。
武道館ライブから半月以上が経つ。この間、この三つの歌を聴き直し、言葉を読み直してみた。
志村正彦作詞作曲の『茜色の夕日』『若者のすべて』、山内総一郎作詞作曲の『卒業』。
各々の歌の主体は、「僕」(『茜色の夕日』)、「僕」および「僕ら」(『若者のすべて』)、「ぼくら」(『卒業』)と異なっている。
この三つの作品をこの順に通して聴いていくと、どのような光景が広がるのだろうか。
(この項続く)
志村正彦の《声》音源と、山内総一郎、加藤慎一、金澤ダイスケ、そして名越由貴夫、Bobo堀川裕之の生演奏による合奏は、希有な出来事だった。
フジファブリックのメンバーもスタッフも、志村正彦への最大限の敬意と想いを込めて、この日の『茜色の夕日』を準備したのだろう。志村が急逝してから五年が経ち、これまでできなかった、ライブという場での追悼が成し遂げられた。そのことに強く心を動かされた。何千人もの心を込めた拍手が鳴りやまなかったことも、あの場の皆の想いを物語っていた。
志村の《声》の余韻が強く漂う中で、次に演奏されたのは『若者のすべて』だった。金澤がピアノ音のイントロを奏で、山内が静かに歌い出す。
『茜色の夕日』と『若者のすべて』という二つの歌は、言うまでもなく、志村正彦の生の軌跡を表した曲だ。志村には多彩な名曲がたくさんあり、代表曲を選ぶのはなかなか難しいが、彼の生という観点からは、この二つが代表曲だと言いきってよいだろう。彼自身もそう考えていたはずだ。
表現のモチーフからもそう言える。『茜色の夕日』の二度繰り返される「できないな できないな」の「ない」は、そのまま、『若者のすべて』の三度繰り返される「ないかな ないよな」の「ない」にもつながっている。「できない」「ない」「いない」。「ない」という不可能なことや不在であることを、志村は繰り返し歌ってきた。彼の詩の軌跡は、「ない」を巡る《歩み》として捉えられる。
東京上京後まもなく、十八歳の時に作られた『茜色の夕日』は、志村の旅の出発点であった。二七歳の時に発表された『若者のすべて』は、自らの旅の方向を新たに見定めた大きな到達点だった。フジファブリックというバンドにとっても、とても重要な地平を切り開くものとなった。旅はその後も続くはずだったが、彼に残された時間は限りあるものだった。
『茜色の夕日』という志村の原点は、フジファブリックというバンドの原点でもあり、志村の《声》で演奏される必然性があった。『若者のすべて』は今日、バンドとしてのフジファブリックの代表曲であり、それ以上に、いわゆるゼロ年代の日本語ロックの最も優れた作品だという評価も確立している。すでにこの曲は、藤井フミヤ、櫻井和寿、槇原敬之などの著名な歌手によって歌われている。10周年を記念するライブで、現在のボーカル山内総一郎が歌うという選択は、一つの自然な流れから来るものだろう。
今、あの場面をふりかえると、そのような意味合いが了解できる。しかし、あの時には、『茜色の夕日』の志村の《声》で想いがあふれていて、『若者のすべて』の山内の《声》を充分に聴き取ることはできなかった。曲が終わり、『卒業』のイントロが始まると共に、映像がスクリーンに上映されると、ようやく舞台へと視線が戻っていった。
『茜色の夕日』と『若者のすべて』に続く歌が、山内が創った『卒業』であることには、ある感慨を覚えた。この歌は新アルバム『LIFE』の中でも最も重要な作品だからだ。
『卒業』は、志村正彦の不在の風景と、現在の山内総一郎、加藤慎一、金澤ダイスケの三人の心の風景を表現しているように、私には感じられた。スミス監督によるスクリーン映像もまた、そのような風景を描いているようだった。
『茜色の夕日』、『若者のすべて』、『卒業』。この三曲の配列を中心に置いて、このライブが構成されたことは間違いない。10年という時の歩みが、この三つの歌に集約されている。
武道館ライブから半月以上が経つ。この間、この三つの歌を聴き直し、言葉を読み直してみた。
志村正彦作詞作曲の『茜色の夕日』『若者のすべて』、山内総一郎作詞作曲の『卒業』。
各々の歌の主体は、「僕」(『茜色の夕日』)、「僕」および「僕ら」(『若者のすべて』)、「ぼくら」(『卒業』)と異なっている。
この三つの作品をこの順に通して聴いていくと、どのような光景が広がるのだろうか。
(この項続く)
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20141128武道館,
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2014年12月9日火曜日
「ない」という《声》-フジファブリック武道館LIVE 2 [志村正彦LN97]
志村正彦は《声》そのものになった。2014年11月28日、フジファブリックの武道館LIVEで聴いた『茜色の夕日』はそのことを告げていた。引き続き、その経験をここに記したい。
『茜色の夕日』の《声》が聞こえてくる。《声》が心と身体を覆う。CD音源で聴いている彼の《声》よりも、なにか生々しく、なぜか懐かしく、響く。《声》はPAによって武道館の巨大な空間へ広がっていったのだが、視線を舞台に向けると、その《声》の中心は不在だ。
いつもは、その《声》から『茜色の夕日』で歌われている《物語》を紡ぎ出していくのだが、あの日は違った。聴き手としての感情が極まっていたせいか、《声》が伝える《言葉》が切れ切れにしかつかめない。
しばらくすると《声》に少し遅れるようにして、《言葉》が《言葉》として現れるようになり、《意味》が区切られるようになった。しかし、そこから《物語》をなかなか築くことができない。
その代わり、「少し思い出すものがありました」「どうしようもない悲しいこと」「大粒の涙が溢れてきたんだ」「忘れることはできないな」というような歌詞の一節が、こちらに迫ってくる。
「悲しいこと」「大粒の涙」、言葉の断片が、『茜色の夕日』の本来の《物語》から離れて、聴き手が今ここで『茜色の夕日』を聴いているという現実につながってくる。
作者志村正彦がこの歌に込めた《物語》、その背景や文脈を超えて、《声》が聴き手自身に直接伝わってくる。聴き手一人ひとりの異なる現実に置かれ、異なる意味を帯びるかのようだった。
例えば、聴き手自身が、歌の主体「僕」から呼びかけられる「君」となる。聴き手の目から「大粒の涙」が溢れてくる。あるいは、聴き手が歌の主体「僕」となり、「君」を「忘れることはできないな」と心の中で呟く。聴き手自身が「僕」となる。あるいは「君」となる。
そのような聴き手の《物語》があの武道館の会場で、沈黙のままに、語られたのではないだろうか。
あの日の『茜色の夕日』は、メビウスの帯のように、作者の世界と聴き手の世界という二つの世界が折り重なってしまうように響いていた。
僕じゃきっとできないな できないな
本音を言うこともできないな できないな
無責任でいいな ラララ
そんなことを思ってしまった
我に返ると、この「僕」の言葉が痛切に迫ってきた。「できないな できないな」「できないな できないな」というように、志村正彦の歌にはいつもどこかに、この「ない」という《声》が貫かれている。
その《声》が彼の歌の根源に在り続けている。
(この項続く)
『茜色の夕日』の《声》が聞こえてくる。《声》が心と身体を覆う。CD音源で聴いている彼の《声》よりも、なにか生々しく、なぜか懐かしく、響く。《声》はPAによって武道館の巨大な空間へ広がっていったのだが、視線を舞台に向けると、その《声》の中心は不在だ。
いつもは、その《声》から『茜色の夕日』で歌われている《物語》を紡ぎ出していくのだが、あの日は違った。聴き手としての感情が極まっていたせいか、《声》が伝える《言葉》が切れ切れにしかつかめない。
しばらくすると《声》に少し遅れるようにして、《言葉》が《言葉》として現れるようになり、《意味》が区切られるようになった。しかし、そこから《物語》をなかなか築くことができない。
その代わり、「少し思い出すものがありました」「どうしようもない悲しいこと」「大粒の涙が溢れてきたんだ」「忘れることはできないな」というような歌詞の一節が、こちらに迫ってくる。
「悲しいこと」「大粒の涙」、言葉の断片が、『茜色の夕日』の本来の《物語》から離れて、聴き手が今ここで『茜色の夕日』を聴いているという現実につながってくる。
作者志村正彦がこの歌に込めた《物語》、その背景や文脈を超えて、《声》が聴き手自身に直接伝わってくる。聴き手一人ひとりの異なる現実に置かれ、異なる意味を帯びるかのようだった。
例えば、聴き手自身が、歌の主体「僕」から呼びかけられる「君」となる。聴き手の目から「大粒の涙」が溢れてくる。あるいは、聴き手が歌の主体「僕」となり、「君」を「忘れることはできないな」と心の中で呟く。聴き手自身が「僕」となる。あるいは「君」となる。
そのような聴き手の《物語》があの武道館の会場で、沈黙のままに、語られたのではないだろうか。
あの日の『茜色の夕日』は、メビウスの帯のように、作者の世界と聴き手の世界という二つの世界が折り重なってしまうように響いていた。
僕じゃきっとできないな できないな
本音を言うこともできないな できないな
無責任でいいな ラララ
そんなことを思ってしまった
我に返ると、この「僕」の言葉が痛切に迫ってきた。「できないな できないな」「できないな できないな」というように、志村正彦の歌にはいつもどこかに、この「ない」という《声》が貫かれている。
その《声》が彼の歌の根源に在り続けている。
(この項続く)
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志村正彦ライナーノーツ(LN)
2014年11月29日土曜日
声-フジファブリック武道館LIVE 1 [志村正彦LN96]
昨夜、11月28日、フジファブリックの武道館ライヴを聴いて帰ってきた。
オープニング曲の『リバース』が時を遡らせるかのように響く。
サウンドに合わせて、巨大スクリーンには影絵のような少女のアニメ。その切りとられた影から、志村正彦の顔が浮かび上がってくる。
うっすらと紗がかかる表情。声は聞こえない。彼がそこに像としてはいるのだが、やはり、ここにはいない。それでも、日比谷、渋谷、両国、そして富士吉田、彼が歌い、弾く姿が「残像」のように次々と映し出されると、こみ上げてくるものがあった。しばらくすると、山内総一郎の歌う映像に切りかわり、10周年を集約した映像が閉じられた。
最初に歌い出された曲は『桜の季節』。もしかするとという予感があったのだが、その通りになった。山内が歌うのは初めてのはずだが、さらに、エンディングに近いリフレインでは、加藤慎一、金澤ダイスケがボーカルパートを交替する。『桜の季節』がこの三人で歌われたことに心を動かされた。
十曲ほど演奏された後、志村君と一緒にという山内の言葉。志村の茶色のハットがマイクスタンドにかけられる。とうとう、『茜色の夕日』が歌われるのだなと、一瞬、身構えたのだが、武道館に響きわたったのは、志村正彦自身の声だった。これは全く予期していなかった。不意打ちのような驚きと共に、涙がひたすら溢れてきた。
『茜色の夕日』のライブは、ここにはいない彼の音源とここにいるメンバーの生演奏が合成されるという、ありえない経験をもたらしたのだが、違和感は全くなかった。きわめて自然に、あの巨大な空間を彼の声の波動が包み込んでいた。不思議なのだが、確かに、志村正彦、フジファブリックの『茜色の夕日』を聴いたという記憶が、今、残っている。
どのように言葉にしたらよいのだろうか。言葉にする必要などないのだろうが、このLNの連載は言葉を自らに課している。
会場を去る時、前方やや上に、三日月より少し大きくなった月が見えてきた。武道館の『茜色の夕日』はあることを告げていた。あたりまえかもしれないが、ひとつの単純な真実であることを。
彼は無くなってしまった。
だがしかし、そうであるがゆえに、よりいっそう、彼は《声》そのものになった。
《声》という純粋な存在になった。
聴くという行為が続く限り、いつまでも、彼の《声》は今ここに現れてくる。
オープニング曲の『リバース』が時を遡らせるかのように響く。
サウンドに合わせて、巨大スクリーンには影絵のような少女のアニメ。その切りとられた影から、志村正彦の顔が浮かび上がってくる。
うっすらと紗がかかる表情。声は聞こえない。彼がそこに像としてはいるのだが、やはり、ここにはいない。それでも、日比谷、渋谷、両国、そして富士吉田、彼が歌い、弾く姿が「残像」のように次々と映し出されると、こみ上げてくるものがあった。しばらくすると、山内総一郎の歌う映像に切りかわり、10周年を集約した映像が閉じられた。
最初に歌い出された曲は『桜の季節』。もしかするとという予感があったのだが、その通りになった。山内が歌うのは初めてのはずだが、さらに、エンディングに近いリフレインでは、加藤慎一、金澤ダイスケがボーカルパートを交替する。『桜の季節』がこの三人で歌われたことに心を動かされた。
十曲ほど演奏された後、志村君と一緒にという山内の言葉。志村の茶色のハットがマイクスタンドにかけられる。とうとう、『茜色の夕日』が歌われるのだなと、一瞬、身構えたのだが、武道館に響きわたったのは、志村正彦自身の声だった。これは全く予期していなかった。不意打ちのような驚きと共に、涙がひたすら溢れてきた。
『茜色の夕日』のライブは、ここにはいない彼の音源とここにいるメンバーの生演奏が合成されるという、ありえない経験をもたらしたのだが、違和感は全くなかった。きわめて自然に、あの巨大な空間を彼の声の波動が包み込んでいた。不思議なのだが、確かに、志村正彦、フジファブリックの『茜色の夕日』を聴いたという記憶が、今、残っている。
どのように言葉にしたらよいのだろうか。言葉にする必要などないのだろうが、このLNの連載は言葉を自らに課している。
会場を去る時、前方やや上に、三日月より少し大きくなった月が見えてきた。武道館の『茜色の夕日』はあることを告げていた。あたりまえかもしれないが、ひとつの単純な真実であることを。
彼は無くなってしまった。
だがしかし、そうであるがゆえに、よりいっそう、彼は《声》そのものになった。
《声》という純粋な存在になった。
聴くという行為が続く限り、いつまでも、彼の《声》は今ここに現れてくる。
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