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2015年3月31日火曜日

回想と連想-フジファブリック武道館LIVE7 [志村正彦LN102]

  ライブに出かけるという行為は、日々の暮らしの中の特別な出来事としてある。また、聴き手としての生きる過程、音楽を聴くという歴史の中での重要な結節点ともなる。フジファブリック武道館ライブによって浮かんできたある回想と連想を今回は記したい。

 回想モードで始めたい。
 あの日は、渋谷のユーロスペースで『谷川さん、詩をひとつ作ってください。』(監督・杉本信昭)、 神保町の岩波ホールで『ミンヨン 倍音の法則』(監督・佐々木昭一郎)と、映画を二本はしごして見てから武道館に向かった。地方在住者の「上京」の一日は密度が濃くなる。二つの映画ともに、「詩」と「物語」について深い問いかけを持つ作品だった。

 神保町の古書店街を通り抜けて、九段下へ。北の丸公園へと上っていく道を歩いていると、初めてこの地を訪れた日のことを思い出していた。

 1973年の夏のことだ。四十年を超える時を遡ることになる。
 当時、私は14歳、中学3年生だった。電車で甲府から新宿へ、高田馬場で地下鉄に乗り換えて九段下へ。田舎に住む少年にとって初めて乗る地下鉄のゴーゴーとうなる響きは、ハードロックのようだった。喧しい音が今も耳の記憶に残っている。東京に住むようになると、その音にも慣れたが、地下鉄の音は東京の音の象徴のような気がしていた。

 マウンテンの武道館ライブだった。フェリックス・パッパラルディのベース、レズリー・ウェストのギター(志村正彦は「志村日記」の一節で彼の名をあげている)を中心とする米国のヘヴィーロックバンドだった(マウンテンの場合、「ハードロック」というよりも、語の本来の意味での「へヴィーロック」という名がふさわしい)。現在ではほぼ忘れられたバンドだが、70年代初頭は英米ともに特にこの日本でかなりの人気があり、優れた音楽性と文学の香りのする歌詞が高く評価されていた。(このライブから十年も経たない1983年にパッパラルディは悲劇的な事件で亡くなった。彼についてはある出来事が想い出としてあるので、いつかここに記したい)

 私にとって人生初めてのロックのライブは、この武道館でのマウンテンとなる。だから、武道館という場はライブの原点としてありつづけた。当時のロックコンサートはほぼ洋楽の「外タレ」(来日する外国のミュージシャンを指す言葉。今では死語だが、当時はよく使われていた)による大規模なものだった。日本語ロックはまだ少数派の音楽にすぎなかった。ライブハウスという場もごく少なかった。日常的にロックのライブを経験できる場はまだほとんどない時代だった。
 その後、ボブ・ディランやロキシー・ミュージックの武道館ライブが印象に残った。1994年のピーター・ガブリエルの素晴らしいライブを武道館で見て以来、長い空白があって、この日のフジファブリックとなった。

 武道館でのライブを想い出すにつれて、様々な記憶が独楽のように回り出した。

 私が最も好きな英米のロックバンドは、ピーター・ガブリエル在籍時のジェネシスだ。それは昔も今も変わらない。ピーター・ガブリエルは1975年ジェネシスを脱退した。それ以来、ピーター・ガブリエル在籍時のジェネシスのライブは見果てぬ夢、不可能な夢となった。

 1978年11月中野サンプラザで、ジェネシスの初来日コンサートを見ることができた。すでにピーター・ガブリエルの後継者として、フィル・コリンズがボーカルを担い、フロントマンになっていた。
 ピーター・ガブリエルの幻影を追いかけていたファンにとって(私もその一人だった)、彼のいないジェネシスはやはりジェネシスではない、という確信が強まったライブでもあった。

 フィル・コリンズがピーターガブリエルの作品を歌った。演奏は紛れもなくジェネシス。トニー・バンクスのキーボード、マイク・ラザーフォードのベース、そしてフィル・コリンズのドラムは、繊細で華麗、劇的で内省的な音を奏でていた。生で彼らの音に接する。それは幸せな経験だったが、どこか満ち足りない思いが残った。やはり、 ピーター・ガブリエルが、彼の声が、彼の声で歌われる言葉がそこには無かった。
 言うまでもなく、「フィル・コリンズのジェネシス」も素晴らしいバンドではあるのだが、「ピーター・ガブリエルのジェネシス」とは本質的なというか決定的な違いがあった。

 「ピーター・ガブリエルのジェネシス」に出会うことは不可能になったが、その後、「ピーター・ガブリエル」のソロを経験することはできた。先に述べたように、1994年3月、「SECRET WORLD TOUR」の一環として初の単独来日公演が武道館で開かれた。武道館のピーター・ガブリエルは幻影ではなく、実在していた。彼の歌と言葉があの場に実在していた。

 武道館のフジファブリックは、プログレッシブロックの風味といい、レーザー光線を使った照明といい、少しレトロだがポップでもある音の感触といい、いつのまにか、記憶の残像にある「フィル・コリンズのジェネシス」と重なっていった。

 私の「感覚」そして「記憶」からすると、「ピーター・ガブリエルのジェネシス」と「フィル・コリンズのジェネシス」との差異は、「志村正彦のフジファブリック」と「山内総一郎のフジファブリック」との差異と、ほとんど同型のものとなっていた。
 ピーター・ガブリエルは自らの意志で脱退することで、志村正彦は不帰の人となることで、バンドのボーカル・フロントマンが交代したという現実の出来事は異なるのだが、音楽そのものの変化、バンドの編成やプロモーションの方法の変容が構造的に同型のような気がする。

 「山内総一郎のフジファブリック」となった現在のフジファブリックを、「志村正彦在籍時のフジファブリック」とことさらに比較したいわけではない。価値や評価の問題でもない。
 音楽の好みは結局の所「感覚」や「記憶」の問題であり、それは自由だ。「感覚」や「記憶」は自由に連鎖していく。時の流れの中で複雑に絡まり合う。(それでも、ジェネシスとフジファブリックなどという対比は唐突に感じられるだろうから、この対比を「論」として示すことをいつか試みたい)

 回りくどく突飛でとりとめもない文になってしまった。
 武道館という場に関わる一人の聴き手としての回想と連想を綴りたかった。

    (この項続く)

2015年3月15日日曜日

『石田徹也展-ノート、夢のしるし展』、静岡県立美術館で。

 2月中旬、静岡県立美術館で『石田徹也展-ノート、夢のしるし展』[http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/exhibition/kikaku/2014/06.php ]を見てきた。
 
 行きは、高速乗合バス「甲府-静岡線」を初めて使った。高速といっても、中部横断道がまだ全線開通していないので、甲府近郊からわずかばかりの高速を経てからは国道52号線の一般道をひたすら南下していく。静岡との県境を越えてしばらくすると、新東名高速に入る。
 山沿いの道から時々海が見えると心が少したかぶる。海のない山梨県人は、海を見ることに慣れるということがおそらくない。途中休憩を挟んで3時間で静岡駅前に到着。車内はたまたまかもしれないが3列シートで広々、運賃が2,550円と安いことも助かる。(自分で車を運転すれば、2時間半程だろうか。新東名のおかげで以前より短くなった。数年後、清水までの中部横断道が開通すれば、1時間半ほどに短縮されるだろう。静岡が近くなることが待ち遠しい)

 静岡駅前から路線バスに乗り、昼前に美術館に到着。「日本平」の小高い丘にあるこの館には何度か来たことがあるのだが、相変わらず落ちついた佇まいだ。眺望も良い。
 観覧前、館内のレストラン「エスタ」で「石田徹也展特別料理」のランチをいただく。彼の「故郷、焼津や、ここ静岡の食材を、ふんだんに使用」と紹介されていたコース料理はとても美味しかった。食材が山梨よりも豊かでうらやましい。石田徹也の作風とこんなに美味しい料理の取り合わせにはかなりギャップがあるような気もしたのだが、静岡の食文化の作品として堪能することにした。

 午後、企画展室へ入る。

 彼の存在は、2013年9月放送のNHK日曜美術館『聖者のような芸術家になりたい ~夭折の画家・石田徹也~』を見て初めて知った。テレビ映像を通じてではあるが、その作品と彼の言葉に強く惹かれるものがあった。吉野寿(eastern youth / outside yoshino)が登場し、『地球の裏から風が吹く』のジャケット画が石田作品だということにも興味を持った。隣県の静岡に巡回展が来るのは2015年ということもその時に知った。一年半近く待ち、この日、ようやく彼の作品そのものと向き合うことができたのだった。

 石田徹也は1973年静岡の焼津で生まれ、武蔵野美大の視覚伝達デザイン学科に進む。卒業後はアルバイトで働きながら制作を続けるが、2005年事故で不帰の人となった。
 [「石田徹也の世界 飛べなくなった人」石田徹也公式ホームページhttp://www.tetsuyaishida.jp/  参照]

 三十一歳という短い生涯、それにも関わらず遺された作品の数と質。生前からその才能をある程度まで評価されていたが、没後評価が非常に高まったという点において、美術と音楽というジャンルは違えど、どこか、志村正彦の人生と作品の命運に重なるような感じが最初からしていたことも書きとめておきたい。

 会場での印象を簡潔に記したい。
 彼の作品、特に初期のものは、例えば、eastern youthのCDジャケットになったように、ある種のデザイン性、メッセージ性という観点で語られることが多いだろう。描かれている世界の独自性は言うまでもない。また、彼の作品への関心を広げたという点でも肯定されるべきだろう。



石田徹也「兵士」 【eastern youth 『地球の裏から風が吹く』CD】
 

 しかし、静岡の展示室で彼の絵画を直に見ると、描かれている世界と同等かそれ以上に、その入念で執拗ともいえるような描きこみの方に衝撃を受けた。描くことの時間の重なりそのものが、彼の絵画として具現化している。描線と絵具のリズム、その複合的な反復のようなものが彼の作品をきわめて独創的なものにしてる。痛ましい言い方になるが、特に晩年になるにつれて、そのことが際だってくる。

 この日は講堂で、彼の親友の映像作家、平林勇氏による「石田徹也の発想の源をさぐる」という講演を聴くこともできた。平林氏によると、石田のアトリエは6畳ほどで、長辺の方にキャンバスを置き、短辺の方に位置して描いていたそうだ。大きな作品が多かったので必然的に短い距離で、作品に向き合うことになる。あの入念な時間をかけた描き混みは、絵との至近距離からの対話がもたらした。しかも、ほとんどの作品は2週間程度で完成させたそうなので、その集中力と持続力は凄まじい。
 平林氏は、石田が飲み会が終わるとすぐに描くためにアパートに帰ってしまったという挿話も述べてくれた。(志村正彦にも同様の話がある。志村もまた一年のほぼ毎日、音楽を作り続けた。)

 会場の所々に掲げられた彼のノートの言葉で強く記憶に刻まれるものがあった。次の文言だ。

   わたしが不安感にこだわる理由は、現実を見えるようにするためです。

 作者自身の言葉でその作品を説明することは、あまりにあからさまであり、分からないことを分かったような気にもさせるだろう。そのことを戒めながらも、それでもやはり、この言葉は熟読に値する。

 現実は幾層も何かに覆われている。見えるもの、あるいは見るべきものを見えなくするための覆いや装置が完備されている。安心して生きていくためにはその覆いは不可欠である。
 しかし、不安感が先行するのか、見えるようにする意志が先行するのかは明らかでないが、現実を見えるようにするという行為が、ある種の表現者にとって、不可避になることがある。

 不安感と共に、表現という行為が切迫してくる。その行為に追いたてられるようにして、時間がせきたてられる。
 時間が作品の内部に凝縮され、やがて、時間が「現実を見えるようにする」のだろうか。

 石田徹也はどのように時を過ごしたのか。何を見えるようにしたのだろうか。
 とりとめもないことを考えながら、美術館を後にした。
 (3月25日まで開催しているので、近隣の未見の方にはご覧になることをおすすめしたい)

 帰りは、身延線の特急「ふじかわ」に乗った。
 日は没していたので、夕暮れ時までは姿が浮かぶはずの富士山も何も見えない。闇の深い山間を夜汽車に揺られ、甲府へと還っていった。