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2016年7月28日木曜日

篠田善之監督

 前回、サッカーのプロフェショナルな監督の厳しさを書いたが、一昨日、FC東京の新監督に篠田善之氏が就任するとの発表があった。

 篠田氏は甲府市出身。現役時代はアビスパ福岡の守備的MFとして活躍した。小瀬のスタジアムで何度も見たが、小柄だがよく動き回るバランサーとして活躍していた。2004年の引退後、福岡のコーチとなり、のちに監督就任。2010年にJ2で3位となり、J1に昇格したが、成績不振のためで2011年のシーズン途中で解任された。

 実を言うと、篠田氏は僕が今務めている高校の出身である。(正確に言えばその前身の高校だが、もう一つの前身高と共に同窓会は一体化されているので「出身者」となる)その縁で、J1に昇格したときに高校を訪問してくれたことがあった。僕はずっと進路指導やキャリア教育の仕事に携わってきたので、卒業生や出身者との関わりがある方だ。その時も、篠田氏とお会いできて、在校生へのメッセージを色紙に書いていただいた。氏は「克己」と書かれた。その色紙は今も進路指導室に飾ってある。

 アビスパ福岡を去った後、FC東京のコーチになったことは知っていたが、今回の城福浩氏解任後に新監督に就任するとは全く予想していなかった。だから驚いたのだが、勤務校の出身者であるので、やはり祝福したい気持ちが強い。
 FC東京はビッグクラブ。福岡や甲府とは違う。サポーターからのプレッシャーも強い。就任しても、成績低迷から脱することができなければすぐに解任されてしまうだろう。プロフェショナルな監督の宿命だ。

 「克己」という言葉を記した篠田善之監督。サッカー監督という仕事はものすごく厳しい。だからこそ、監督としての「己」に打つ勝つことが何よりも大切なことなのだろう。

2016年7月24日日曜日

プロフェッショナルな監督

 昨夜は、残留争いの直接対決となったヴァンフォーレ甲府vs名古屋グランパスをスカパーで観戦。甲府が3:1で勝利、7試合ぶりに勝点3を得た。名古屋の監督小倉隆史が終了後しばらく沈み切った表情でベンチに座っていた。その姿がやるせなかった。
 彼は2003年から2005年まで在籍、苦しかった時代の甲府の中心選手だった。自分が在籍し、引退したチームと監督として残留をかけて闘う。皮肉で過酷なめぐりあわせだった。

 今日、FC東京の城福浩監督が解任された。成績低迷が理由だ。彼も甲府の元監督だった。城福は2012年から2014年まで甲府の監督としてJ2優勝、J1昇格そして2シーズン残留という見事な成果を上げた。甲府を取り巻く状況に限界を感じたのか(このことはよく理解できるが)、一昨年退任し、今年から古巣の監督に戻った。だから、この解任も皮肉な過酷な結果となった。

 「監督には二通りしかない。クビになった監督と、これからクビになる監督だ」(ハワード・ウィルキンソン)という名言がある。ユーモアにくるめらているが、現実的なあまりに現実的な、むきだしの言葉だ。
 サッカーの監督は厳しい。プロスポーツという勝負の世界だからこそ、仕方がないのかもしれない、容認されるのかもしれない、だが、それでも、厳しすぎる。「プロフェッショナル」としての厳格さがこれほど求められることは他のスポーツにはない。

 甲府の佐久間悟監督もこのところ、追い込まれている表情を見せている。昨夜の勝利で一息つけるといいのだが。状況は変わらないので、つかの間の一息にすぎないのだろうが。今回の補強は成功し、怪我人も戻ってきた。状況が本当の意味で好転してほしい。

 虹の話題が何回か続いた。自然な流れとして、フジファブリック『虹』をよく聴いている。

 週末 雨上がって 虹が空で曲がってる
 グライダー乗って 飛んでみたいと考えている  (作詞作曲・志村正彦)


 「週末 雨上がって」という繰り返しが耳にこびりつく。Jリーグのかなりの試合は「週末」に開催される。勝敗の結果によって、週末雨上がるか、それとも、雨が続くのかが決まる。サポーターにとって、週末のリズムやメロディが変わる。
 昨夜のヴァンフォーレ甲府は、雨が上がり、ほんのわずかの間だけかもしれないが、小さな虹が見えたような気もする。「グライダー乗って 飛んでみたい」気分にもなる。楽観はしない。でも、何かを期待してしまう。

 城福監督に贈る言葉としては今はこれしか浮かばない。analogfishが歌っている。

 No Rain No Rainbow

2016年7月17日日曜日

VF甲府vs鹿島

 今夜は、ヴァンフォーレ甲府vs鹿島アントラーズの応援に行った。甲府は4連敗、1引き分けと厳しい状況。現在はJ2降格圏に落ちてしまっている。
 最近は仕事が忙しく、土日もその準備に追われているが、こういう時こそ応援だと、小瀬のスタジアムに出かけた。
 

 前半3分に甲府が得点。すぐに失点。シーソーゲームになった。鹿島の個々の選手の技術は甲府よりもかなり高い。注目の柴崎岳(志村正彦に似ているという声があるそうだ)は首をよく振り周りをよく見て、攻撃の起点となっていた。

 6時を過ぎた頃だったろうか。スタジアムが茜色の夕日に染まった。夏はこういう風景を見ることができる。鹿島のサポーターが大勢来てくれたこともあって、入場者は1万4千人、満員に近い感じだった。成績が低迷している今季にしては熱気があった。ハーフタイムに花火の打ち上げもあった。まだ日が暮れきっていないので、花火の光が闇の中で輝くというわけにはいかなかったが。もう十数年にわたり、このスタジアムで見る花火が夏の風物詩となっている。
 茜色の空、打ち上げ花火、シーソーゲームと、良い雰囲気に包まれた。

 結果は3対3の引き分け。3点取っても3点失ってしまう。これが現実だ。帰宅後、スカパーで佐久間悟監督(GMとの兼任)のインタビューを見た。最終ラインを6人で守る約束だったそうだが、DF6人でも守り切れないと思う。数ではなく中盤を含めた組織の問題。「守備のための守備」という意識が強すぎる。「攻撃のための守備」でなければ守りきれない。守備と攻撃は当然連動しているが、その連動がいつまでたっても組織できていないのが今年のチームだ。

 新加入のドゥドゥ(フィゲイレンセFC・ブラジルから完全移籍)。1トップでのプレーだったが、相手選手と競り合えていて好印象。甲府の3点目は彼のゴール。柏に移籍してしまったクリスティアーノよりシュートは正確だろう。甲府の予算で獲得できる外国籍選手の中ではかなり上質のフォワードだ。

 専用スタジアムの構想が動き出しつつある今年、なんとしてでもJ1に残留したい。非常に厳しい道ではあるが、今日の勝ち点1を肯定的に捉えて、監督、選手、スタッフは前を向いてほしい。チーム解散危機の頃からのサポーターの多くは、どんな状況でも、前を向く心構えができている。

2016年7月15日金曜日

虹の祝福 [志村正彦LN133]

 夏のこの時期の恒例となった富士吉田の夕方6時のチャイム『若者のすべて』。

 今年の最終日の昨日14日、虹が出たことをkazz3776氏のtwitter「路地裏ニュース」で知った。その映像がyoutubeで公開されている。とても有り難い。

 夕方、甲府でも激しい夕立があり、そのうち晴れてきたが、同じ頃、綺麗な虹が富士吉田の空で曲がっていた。別の方のtwitterによると、チャイムが終わると共にゆっくりと消えていったそうだ。

 このblogの前々回、『フジファブリック』アナログ盤ジャケットの「虹」に「夏」を感じると記した。前回はクボケンジの言葉やAnalogfishの歌詞に触発されて、「愚痴と虹」と題して書いた。虹の話題が続く中の虹の出現。単なる偶然だが、なんだかうれしかった。
 あのジャケット画の眼差しから広がる虹が、昨日の富士吉田の虹につながっているような不思議な気持ちになった。

 時の歩みがはやくなり、志村正彦の話題も少なくなってきたのかもしれない。だが、そのような表層的な動きとは別の次元で、彼の歌は聴かれ続けている。
 『フジファブリック』アナログ盤のリリースもそうだ。虹のような「贈り物」として僕たちは受けとめている。

 激しい雨が降り、雨が上がる。
 青空が広がり、虹が現れる。

 No Rain No Rainbow。

 彼の三十六回目の誕生日の近く、故郷では、
 虹がレコード盤の誕生を祝福している。

2016年7月13日水曜日

愚痴と虹-クボケンジのtweet、Analogfish『No Rain (No Rainbow)』

 志村正彦の誕生日7月10日。twitterでは沢山の呟きがあふれていた。なかでもひときわRTされていたのがクボケンシのtweetだった。

  メレンゲ(クボケンジ) ‏@kubokenji   7月10日 

 志村、誕生日おめでとう。36才だな?
 何もかもを失ったと思って唄った
 そんな歌にも続きはあったよ
 ただね、一緒に年を取りたかったね
 生きてたら何十年も後に、
 ようやく見つけた煙草が吸える喫茶店で年よりかは若く見える白髪姿の君は向か      い側の僕にやっぱり愚痴を言ってるはずだったんだ

 何十年も後、「煙草が吸える喫茶店」で、すっかりお爺さんになった「僕」クボケンジと「君」志村正彦は向かい合って座る。「白髪姿」の「君」は「僕」に「愚痴」を言っている。
 
  「愚痴」ってなんだろう?分かっているようで分からない。辞書を引くと、「言ってもしかたのないことを言って嘆くこと」とある。なるほど。過不足のない、簡潔で明確な定義だ。「愚痴」は要するに「嘆き」の言葉。それは「僕」と「君」との間で共有される。というか、「僕」と「君」との間でしか共有されない。二人の間で「嘆き」が共有されることが暗黙の前提となり、「言ってもしかたのないこと」を言うことができる。
 「君」の「愚痴」は嘆きの言葉。そうなる「はずだった」という「僕」の呟きもまた「嘆き」の言葉となる。
 それでも、その光景は幸せなものにちがいない。

 その光景からある歌のことを思い出した。Analogfish『No Rain (No Rainbow)』(作詞:下岡晃 作曲:Analogfish)。最近公開されたミュージックビデオ(Director : 笹原清明)も比類ないほどすばらしい。


 歌の主体の「僕」はこう語る。

 寄った居酒屋は値段の割に酷いもんで
 それを愚痴る僕に君は思い出したように
 「ただ好きなだけでこれはサービスではないの
 ただ美しいだけで虹は雨の対価ではないでしょ」

  「でも…」 she says
 “No Rain No Rainbow”

 一組の男女の対話劇が繰り広げられる。
 この時代に、値段の割に酷い「居酒屋」で、「僕」と「君」は向かい合って座る。「愚痴る僕」に向かって、「君」は「ただ美しいだけで虹は雨の対価ではないでしょ」と諭す。日常の断片の嘆きと諭し。
 それでも、その光景は幸せなものにちがいない。

 “No Rain No Rainbow”。雨がなければ虹が現れることはない。でも、虹は雨の対価ではない。虹は、ただ美しいだけ、そういうあり方で出現する。この歌では「代償」「支払う」「サービス」「対価」という言い回しが反復される。何かと何かの価値が交換される世界。資本の世界と言い換えてもいいだろう。この世界の中で、虹は何物とも交換されない。虹が虹として存在するのは、虹が私たちへの純粋な贈与であるからだ。かけがえのない贈り物だからだ。そのことを伝える「君」「she」の言葉もまた美しい贈与のように響く。

 クボケンジのtweet、下岡晃(Analogfish)のlyric。
 「愚痴」を言う「僕」たち、男たち。
 それでも、虹は現れる。
 そう祈る。

 No Rain No Rainbow。

2016年7月10日日曜日

夏の初めに[志村正彦LN132]

 今日、7月10日は志村正彦の誕生日。存命であれば三十六歳を迎えた。三十代後半になると「若者」という在り方から離れていくことが加速する。

 二年前はこの時期に、甲府で『ロックの詩人 志村正彦展』を開催した。(今年は、今年もと書くべきでしょうが、僕たちによる企画はありません)
 現在はこのblogを書き続けることが活動の中心だ。最近、すこしだけレイアウトを変更した。これまで「偶景」「詞論」というラベルがあったが、細かい区分をしてもあまり意味がないのでそれを止めて、ラベルやインデックスの構成も変えてみた。それに伴い、ラベル名の通番の削除や表現の修正を施した記事がある。内容については変更していない。

 十回にわたり、フェルナンド・ペソアの足跡を訪ねる小さな旅について書いてきた。昨年の夏からあたためてきた原稿だが、春と夏の間のこの時期を見計らって掲載した。志村正彦の歌には季節感があるので、春、夏、秋、冬の季節の盛りの時には書くことが多くなる。だから、彼のこと以外の記事で複数回にわたるものを載せるには季節の狭間の時期がよい。

 誕生日ということで、連載でも引用したペソアの異名、アルベルト・カエイロの詩の一節をふたたび紹介したい。

    私が死んでから 伝記を書くひとがいても
  これほど簡単なことはない
  ふたつの日付があるだけ──生まれた日と死んだ日
  ふたつに挟まれた日々や出来事はすべて私のものだ

 この「志村正彦LN」は彼についての「伝記」を書いているわけではないが、作品を読むことを通じて、結果として「伝記のようなもの」に近づくこともある。だから、ペソア=カエイロの言う「簡単なこと」を忘れてはならないだろう。戒めにもなる。
 生と死の日付に「挟まれた日々や出来事」は確かに、すべて詩人のものだ。その二つの日付が「伝記」のすべてだという考え方もあるだろう。ただし、詩人は詩という作品を通じて、彼の「日々や出来事」を他者である読み手に与える。彼の人生を分割し分与する。

 昨日は大雨が続き、夜は久しぶりに涼しかった。一夜明けて、雲は残るものの夏全開のような7月10日だ。梅雨はまだ開けていないが、夏が全力で駆け始めている。
 夏の初めに生まれた志村正彦は、真夏、そして夏の終わりの季節を繰り返し歌った。夏の始まりから終わりにかけてが、あたかも彼の季節であるかのように。

 真夏の午後になって うたれた通り雨 どうでもよくなって どうでもよくなって   (『星降る夜になったら』)

 そのうち陽が照りつけて 遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる   (『陽炎』)

 真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた (『若者のすべて』)

 悲しくったってさ 悲しくったってさ 夏は簡単には終わらないのさ   (『線香花火』)

 短い夏が終わったのに 今 子供のころのさびしさが無い (『茜色の夕日』)

 誕生の季節がどのような影響を詩人に与えるのかは分からない。全く関係のないこともあり、偶然もあるのだろう。志村の場合、詩人が夏を意識していたというよりも、夏が詩人をつかんで離さなかった。漠然とだがそんな気がする。
 夏という季節は、太陽の強い光とその影が、あらゆる感情を曝け出し、逆に押さえつけ、隠す。数々の夏の歌。「どうでもよくなって どうでもよくなって」「悲しくったってさ 悲しくったってさ」「子供のころのさびしさが無い」。感情が陽炎のように揺れている。

 一週間ほど前、アルバム『フジファブリック』のアナログ盤レコードが届いた。新しい媒体による音源なので、志村正彦・フジファブリックの「新譜」だ。開けるのがもったいない気がして、まだ封を切っていない。部屋に『ロックの詩人 志村正彦展』のポスターを張ってあるのだが、その近くにレコードを置いて、ジャケットを眺めている。学生時代、このようにしてレコードを飾っていたことを思い出す。昔、LPレコードは高価だった。大切な贈り物のように受けとめていた。

 30センチ四方の大きなジャケットの絵の印象はCD盤とはずいぶん異なる。オリジナルのCD盤のart direction は柴宮夏希と志村正彦。二人のアイディアがレコード盤になってようやく具現化されたのかもしれない。


 眼差しの虹。七つの色が広がる。
 フジファブリックの五人、志村正彦・金澤ダイスケ・加藤慎一・山内総一郎・足立房文の顔が陽炎のように揺れている。モノトーンの白と黒、光の質感によって、氷柱に刻まれているメンバーの顔が夏の熱で溶け始めているようにも見える。
 
   「夏」を強く感じる。

2016年7月6日水曜日

ペソアの偶景[ペソア 10]

 カフェ「A Brasileira」の角を曲がり、ゆるやかな坂を上っていく。ロシオ駅を目指して右折すると下り坂が始まる。その途中で偶々、妻がフェルナンド・ペソアのシルエットが窓に描かれた建物を見つけた。垂れ幕を見ると、彼が借りていた部屋のようだ。(調べると、1908年から数年の間住んでいたらしい)
 思いがけない場所にペソアゆかりの建物がある。


 この建物は小さな広場に面している。大きな樹の木陰が広がり、オープンカフェもあり、人々が涼を求めていた。(ここが「カルモ広場」ということは後で知った。近くにカルモ修道院と教会もある)


 『不安の書』111章にはこう書かれてある。1932年5月31日の日付けがある断章だ。この広場のことではないのだろうが、街中の小さな広場に対する話者ソアレスの眼差しが伝わってくる。

 わたしが春の訪れを感じるのは、広々とした野や大きな庭にいるときではない。都市の小さな広場の貧弱な数少ない樹々にそれを感じる。そこでは緑が贈り物のように際立ち、馴染んだ悲しみのように陽気だ。
 往来の少ない街路に挟まれ、それよりも往来の少ない、そのような寂しい広場をこよなく愛する。遠くの喧騒のなかにじっと佇む、無用の空き地なのだ。都市のなかの村という趣だ。

 「無用の空き地」への情愛、「都市のなかの村」の情趣。その世界に浸り込みながら、話者はこう考える。

 すべては無用で、わたしはその無用さに打たれる。わたしの生きたことは、まるでぼんやりと耳にしたことのように忘れてしまった。わたしがこれから変わってゆくことはすべて、すでに体験して忘れてしまったことのように何も呼び起こさないのだ。
 淡い悲しみを感じさせる日暮れがわたしのまわりをぼんやりと漂う。何もかも寒くなるが、空気が冷えたからではなく、わたしが狭い街路に入り、広場が終わったからだ。


 これまで 「わたしの生きたこと」を忘れ、「これから変わってゆくこと」も「すでに体験して忘れてしまったこと」のように忘れていく。「わたし」の生は、過去、現在、未来と続いていくが、過ぎ去ればつねに忘却していく。さらに言うのなら、すでに忘却していくことの反復にすぎない。時はつねにすでに「何も呼び起こさない」。
 ソアレス=ペソアの表現をたどりきれているか心もとないが、この特異な思考は記憶されるべきだろう。その思考が「淡い悲しみを感じさせる日暮れ」の風景とともにもたらされたことも。

 再び歩き始める。広場に面した店の一つが楽器店で、ポルトガルのギターが飾られていた。「ギターラ」と呼ばれる12弦のギターはファドの音色には欠かせない。

 

 広場を後にして、ロシオ駅の方に下っていく。急勾配の坂で歩きにくい。途中にあった小さな書店でもペソアの写真が貼られていた。街を歩き、ふっとそれ風のものを見つけると、ペソアだったということが多い。


 ロシオ駅に着くと午後7時近くになっていた。もう一度コメルシオ広場あたりまで戻り、ペソアゆかりのレストランかファドを聴ける店を訪れたかったのだが、かなり疲れてしまった。翌日は早朝出発で帰国便に乗らねばならない。結局、その計画はあきらめた。
 駅の入り口近くは見晴らしのいい場所だ。ロシオ広場の周辺の街を見渡せる。向こう側にはサン・ジョルジェ城がそびえる。
 夜が近づいているのに、空はまだ透き通るように青く、街は美しい。


 フェルナンド・ペソアゆかりの場所を巡る小さな旅の一日だった。
 最初は、ツアーバスでホテルから西の郊外ベレン地区を訪れ、アルファマを経てロシオ広場へ。二度目は、ロシオの隣のフィゲイラ広場からタクシーに乗り、市街地の西のはずれにあるオウリケ地区へ。路面電車28番線を使いフィゲイラ広場近くに戻った。最後は、フィゲイラ広場からバイシャ地区、シアード地区を歩いて回り、ロシオ駅に帰ってきた。中心街から見て、その西側の方面を三回ほど同心円状に巡ったことになる。遠い距離から近い距離へと、色々な交通機関や徒歩によって、リスボン巡りをした。私たちに与えられた時間は一日だけだったが、愉しい充実した時を過ごせた。

 ジェロニモス修道院、ペソアの家・博物館、カフェ「A Brasileira」、カルモ広場近くの部屋。使用したリスボンの交通カードにも彼のイラストが描かれていた。街のいたるところに彼の痕跡があり、異名のような分身が存在していた。フェルナンド・ペソアの「偶景」との遭遇があった。

 ペソアはリスボンを愛していた。今、リスボンはペソアを愛している。

2016年7月3日日曜日

金箔師通りの「砦」[ペソア 9]

 フィゲイラ広場からコメルシオ広場あたりまでの地区は「バイシャ」と呼ばれる。整然とした通りに商店やカフェが並ぶ。下町の綺麗な商業街といった風情だ。
 ペソアがこの界隈を歩く写真が残されている。
 
Wikipedia より

 フィゲイラ広場を後にして、プラタ通りをテージョ川方向に歩いていく。プラタ通りのひとつ東側に金箔師通り(Rua dos Douradores)がある。ポルトガルの銘品「金箔飾り」ゆかりの名だろう。『不安の書』の話者「ベルナルド・ソアレス」が務めている繊維問屋はこの金箔師通りにあるという設定だ。
 17章でソアレスは次のように語る。彼は帳簿係の補佐だった。

 今日、わたしの生活の精神的な本質の大部分を構成している、目的も威厳もない夢想に耽っていて、自分が金箔師通りから、社長のヴァスケスから、主任会計係のモレイラから、従業員全員から、使い走りの若者から、給仕から、猫から永遠に自由になったと想像した。 

 会社勤めからの自由の夢想を書いている。「猫」からも永遠に自由になる想像とはどういうものだろうか。読んでいて微笑んでしまうのだが。
 これに続く部分では、社長や同僚に信頼をよせていることも述べている。孤高の人ソアレスはこの仕事場を自分の「砦」のひとつとして考えていたようだ。

 わたしは、ほかの人たちが自分の家庭へ帰るように、金箔師通りの広い事務所、我が家ではない場所へ帰る。生きることから守ってくれる砦でもあるかのように自分の机に近づく。他人の勘定を記入しているわたしの帳簿や、わたしの使っている古いインクスタンドや、わたしよりも少々奥で送り状を書いているセルシオの曲がった背中を見ると、わたしは優しい気分、目頭が熱くなるほど優しい気分になる。こういうものに愛情を感じるのは、おそらく、わたしには愛すべきものがほかに何もないからであろうし、あるいはまた、おそらく、人が愛する価値のあるものは何もないからなのであろう。

 「帳簿」「インクスタンド」そして「セルシオ」への眼差しには、ソアレスそして作者ペソアの感情の「地」を感じる。「愛すべきものがほかに何もない」と「愛する価値のあるものは何もない」と語っているが、その理屈を額面通りには受けとれない。「優しい気分、目頭が熱くなるほど優しい気分」という「気分」の方がペソアらしい。自己憐憫が投影されたものではなく、日常の細部への繊細な「情」、つましい他者へのそこはかとない「情」が、意外なほどに、彼の散文にはあふれている。

 プラタ通りからサンタ・ジュスタのリフト に向かう角を曲がり、リフトの隣を抜け、カルモ通りを上がっていく。けっこうな坂だ。途中で右折してガレット通りへ。この界隈は「シアード」と呼ばれている高台。人通りも多く活気がある。

 少し歩くとカフェ「A Brasileira」に着く。1905年創業の老舗で、当時の知識人や芸術家が集った店だ。ペソアも常連客だった。店の前の通りにペソアの銅像がある。その近くの席に座り、冷たいものを飲みながら、しばらく時を過ごした。


 
 
 この像はガイドブックにも記載されている。隣には椅子があり、観光客が座ってツーショットの写真を撮ってもらおうと順番待ちをしていた。記念写真の名スポットと化していた。
 大人気のペソアの分身。この像は今、「人が愛する価値のあるもの」になったのだろう。