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2014年9月4日木曜日

エゴン・シーレの母の故郷

 プラハからウィーンへと戻る途中で、「チェスキー・クルムロフ」という世界遺産の街に寄った。この街については何も知らなかった。ヨーロッパの思想や文化については少しは知識があるが、歴史や地理については疎い。旅行前に調べると、13世紀に築かれた城を中心に18世紀まで発展した街で中世の美しい街並みが残されている、とあった。

 ガイドブックの頁をめくると、「エゴン・シーレ・アートセンター(EGON SCHIELE ART CENTRUM ČESKÝ KRUMLOV)」[http://www.schieleartcentrum.cz/]があることを知る。シーレの母親の出生地らしい。とうことは彼にとっては半ば故郷である場所。そこにあるアートセンター。自由時間がとれるならここに行きたいと漠然と考えていた。 

 エゴン・シーレは、1890年ウィーン近郊で生まれた。1910,11年頃、このチェスキー・クルムロフ(当時はドイツ風に「クルマウ」と呼ばれていた)に滞在して風景画を創作している。
 このエッセイで度々言及している今から百年前の1914年、彼は何をしていたのかというと、第一次世界大戦が勃発し、オーストリア=ハンガリー帝国軍に召集されていたそうだ。当時は24歳、その4年後の1918年、第一次世界大戦が終わったが、まもなくスペイン風邪で亡くなった。28歳の短い生涯だった。

 旧市街の小さな広場から少し路地に入ると、「エゴン・シーレ・アートセンター」が見つかる。壁には見覚えのあるシーレのモノクローム写真を使ったポスターが十数枚貼られている。ロックのビートのように訴えかけている。何かを凝視しているがどこか虚ろなあの眼差し、右手と左手の指を組み合わせた独特のポーズ。「表現主義」的とも評されていた写真だ。
 このシーレ像を見たのは久しぶりだったが、こうしてポスターになっているのを見ると、ポスターという媒体によく合う。(ある意味では「アーティスト写真」の原型のようでもある。ふと、「ロックの詩人 志村正彦展」のポスターを十数枚どこかの壁面に飾ったらどのような雰囲気になるのか想像してしまった)

エゴン・シーレ・アートセンター入口近くの壁面

 私のような70年代にロックを聴きはじめた世代にとって、デビッド・ボウイを通じてエゴン・シーレを知ったというのが共通経験ではなかっただろうか。
   『Low』で始まるボウイのベルリン3部作。ブライアン・イーノやロバート・フリップとのコラボレート。クラフトワークなどジャーマンロックの影響。1977年発表の第2作『Heroes』のジャケット写真は鋤田正義によるもので、当時、一世を風靡した。ボウイはシーレやその「表現主義」に影響を受けたと言われていた。

 1979年に池袋の西武美術館で開催の「エゴン・シーレ展」は日本初の本格的な企画展で、ロックファンもたくさん押しかけた。大学生だった私も、まさしく「ex-press」、身体の奥底にあるものが表に突き抜けて現れ出てくるような画風に圧倒されたことをよく覚えている。極東の島国の若者にとって、ロック音楽やサブカルチャーを通じて、欧米の美術や文化への関心が広がり、理解も深まっていくという時代だった。
 思い出話をひとつ。1978年12月12日、NHKホールで開催のデビッド・ボウイの「Low and Heroes World Tour」は、私がこれまで見た欧米アーティストのライブの中でも最も印象に残るものだった。あの日の渋谷の公園通りは、ファンの娘がボウイを真似た帽子を被って街を歩き、祝祭の空間と化していた。(36年前の出来事だ。どれだけ時が経ったのか。36という数字を記していると、眩暈を覚える)

『Heroes』ジャケット

  「エゴン・シーレ・アートセンター」に入る。ビール醸造所を改築した三階建で、天井が高い。同じように工場を改築してできた甲府の桜座を少し思い出した。
 1階は現在アートの展示スペース、2階には過去のシーレ展のポスター展示やエッチングなど、3階には彼の実物資料、アトリエで使った椅子や机。モデルが着ていた衣装とその絵の写真。シーレの絵画は高騰していて、残念ながら、このセンターには本物の油彩画はないそうだ。絵画のコレクションの場合、そのような難しさがある。

 しかし、チェスキー・クルムロフを描いた絵の写真とそれを描いた場所38点が地図がグラフィックパネルになって展示されていた。絵画を制作した場所とその視点を一つひとつ調査していく地道な作業に基づいている。実物の絵画がなくても、このような方法で「エゴン・シーレとチェスキー・クルムロフ」というテーマを掘り下げていくことは素晴らしい。(例えば志村正彦の場合も、同級生がゆかりの場所のマップを作り、とても好評だ。音楽と美術は根本的に異なるが、このアートセンターの方法、作品とゆかりの場所をリンクさせることも有意義かもしれない)

 シーレがこの街をどのように描いていったのか。「czechtourism」のサイトでは、次のように説明されている。 (http://www.czechtourism.com/tourists/cultural-heritage/stories/praha/related/cesky-krumlov/?chapter=2

シーレは一人になって、新しいもの - 黒色の水、音を立ててしなる木々、厳かな教会などを目にし、湿った青緑色の谷間を見て心を洗い、新しいものを創造することを欲していました。チェスキー・クルムロフはしばしその隠れ家となり、彼の創作は新しいテーマを得たのです。シーレは旧市街の路地でモチーフを見出すと、これを周囲の丘、あるいは城の塔など、一風変わった視点から捉えて描きました。これらの作品のおかげで、私たちは現在も、彼が言うところの「青き川の町」の姿を、画家の目から眺めることができるのです。

 百年経った現在でも、シーレの目から母の故郷の風景を眺めることができる。百年後の志村正彦を考えている私たちにとっても示唆的な言葉だ。

チェスキー・クルムロフの旧市街

 帰国後調べると、シーレは百年前の20世紀初頭において、すでにこの町を「死の街」と形容していたそうだ。この街は、産業革命の波に取り残され、交通の便も悪く、19世紀になると没落していったようだ。第一次大戦、第2次大戦とナチス・ドイツ、その後の社会主義体制とドイツ系住民の追放など、歴史の荒波にもまれ、荒廃していった。1989年の「東欧民主化革命」以降、ようやく街は再生していった。

 百年を経て、様々な曲折を経て、「死の街」から「再生の街」「世界遺産の街」へと変容していったチェスキー・クルムロフ。私のように観光客として訪れた者の眼には、その時、限りなく美しい街の光景だけが刻まれたのだが、歴史の記憶もそこに重ね合わせなくてはならない。

    (この項続く)

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