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2016年4月30日土曜日

『桜の季節』その一年 [志村正彦LN125]


 この一年、ある桜の樹を眺めてきた。

 春、夏、秋、冬、四季の季節ごとにその姿を見つめ、記憶してきた。
 この桜は勤め先の校舎入口近くにある七本の樹の一つ。この樹の向こう側、甲府盆地の南側に広がる御坂山系の稜線、その真中よりやや東側に、富士山の姿が望める。近景の桜、遠景の富士。遙かな小さな富士ではあるが、桜と富士という風景を眺められる。

 ここでフジファブリック『桜の季節』を聴いてみたい。



  桜の季節過ぎたら
  遠くの町に行くのかい?
  桜のように舞い散って
  しまうのならばやるせない
 
  oh ならば愛をこめて
  so 手紙をしたためよう
  作り話に花を咲かせ
  僕は読み返しては 感動している!

  桜の季節過ぎたら
  遠くの町に行くのかい?
  桜のように舞い散って
  しまうのならばやるせない
 
  oh その町に くりだしてみるのもいい
  桜が枯れた頃 桜が枯れた頃

  坂の下 手を振り 別れを告げる
  車は消えて行く
  そして追いかけていく
  諦め立ち尽くす
  心に決めたよ

  oh ならば愛をこめて
  so 手紙をしたためよう
  作り話に花を咲かせ
  僕は読み返しては 感動している!

  桜の季節過ぎたら
  遠くの町に行くのかい?
  桜のように舞い散って
  しまうのならばやるせない
   
    (作詞・作曲 志村正彦)  *リフレイン部を一部省略。

 「桜の季節過ぎたら遠くの町に行くのかい?」この言葉を追いかけるように、桜の季節を過ぎた時期、その後の時間の光景に注目した。落花直後のさびしげな姿。葉がすぐに出て緑に包まれる新緑の頃。眩しい夏の樹の濃い影。光の落ちつく秋の涼しげな姿。晩秋の「桜紅葉」の季節。

 やがて葉は枯れる。寒さが増すたびに一枚一枚と落ちていく。地面の葉。まだ色鮮やかなものもあれば、色がくすんでしまったものもある。北の風が吹くとあたりに舞う。年を越す頃には葉がすっかり落ちる。枝と幹だけの桜は暗い灰色と濃い茶色が混ざり合う。午後になり日が差さなくなると、ほとんど黒色の樹と化す。「桜が枯れた頃」とはこのような季節を指すのだろうか。
 この桜の樹は、葉がなくなると逆に、その隙間から御坂の山越しに冬の富士がよく見える。樹の黒灰色と雪景色の富士の白色、そのコントラストが影絵のようだ。

 二月の終わりから三月の初め、暖かくなると桜の樹に何か力が宿りはじめる。中旬からつぼみを観察する。少しずつふくらみ、二十日を少し過ぎた頃から徐々に咲き始めた。例年より少し早い。自分が育てているわけではないが、一年という時を共に過ごしたので、なんだか見守ってきたような気分だった。今年の桜の季節は格別だった。感慨があった。三月最後の週末に満開となり、週明けの四月初めには散り始めていた。

 この桜の樹は、幹がまだ細く、樹皮の感じも若い。十数年前に校舎が新築されたときに新たに植えられたものだろう。樹齢は二十歳ほどか。
 桜の樹の寿命は五十年といわれるが実際はそれよりも長く生きるようだ。そうであるなら、桜と人間の寿命は同じくらいの時間になる。「桜の季節」と「人の季節」が重なる。

 桜の季節とは、桜が咲き散るという桜の「花」の季節だけでなく、新緑、桜紅葉、葉の枯れる季節、桜の「樹」としての時間のすべての季節だとすればどうか。私たちの桜の見方感じ方が変わるだろうか。最近そんなことを考えている。この一年、桜の樹を眺めていたことが影響しているのかもしれない。

 「桜の季節過ぎたら」「桜が枯れた頃」。志村正彦がそのような表現で思い描いたのがどのような光景、どのような世界だったのかはかは分からない。ただ彼には故郷で、桜の一年、桜の春夏秋冬を見つめていた時があった。それは確かなことのように思われる。

 『桜の季節』には「桜」そのものを見つめる時間、そのような季節が凝縮されている。

2016年4月28日木曜日

ボブ・ディランと岡林信康

 一昨日26日、渋谷オーチャードホールでボブ・ディラン。昨日27日、甲府桜座で岡林信康。二日間連続で日米のフォーク、フォークロックの原点の存在のライブに行ってきた。連続となったのは偶然なのだが、色々な意味でこの二人の現在を聞き比べることができた。

 僕がディランに最も親しんだのは、70年代中頃の作品、1974年『プラネット・ウェイヴズ』1975年『血の轍』、1976年『欲望』の時代だ。1983年の『インフィデル』あたりまでは一作ごとに追いかけたが、その後は遠ざかっていった。だから、少なくとも70年代のディラン・ファンだとしても、本来の意味でのディラン・ファンではないのだろう。

 26日、勤めを少し早く終え、4時に甲府を出発。6時半に渋谷に到着。オーチャードホールの座席は2階席の奥ほぼ中央、かなり遠くからディランを見下ろすような位置だった。観客はほぼ満員。やはり60歳代くらいの方が多い。勤め帰りのサラリーマンも目立つ。
 ディランの登場。スーツ姿にハットを被る。立ち姿はもうすぐ75歳になる年齢とは思えない位、率直に格好いい。だが、ステージで歩き出すとひょこひょことした何とも言えない歩きになる。年齢相応、つまり「おじいさん」の歩き方だ(ちょっと可愛くもあるのだが)。そんなことも超然として、あのしゃがれ声で力強く歌う。時にハーモニカやピアノも奏で、音楽を存分に楽しんでいる。
 心を動かされたのは、やはり『ブルーにこんがらがって』。70年代のあの頃、最も良く聴いていた歌の一つだからだ。でもパフォーマンス自体にはあまり満足できなかった。もとから期待してはいないのだが、さびしい、残念な気持ちが残る。
 最近のディランのことはほとんど知らないので、雑駁な印象を記すが、この日の彼はアメリカ音楽の伝統を一身にまとう「シンガー」だった。
 2部構成、長めの休憩を挟んで2時間ほどのコンサートが終わり、甲府に帰ると12時を過ぎていた。さすがに疲れた。

 岡林信康についても、僕は1977年リリースの『ラブソングス』で出会った「遅れてきた世代」の一人だ。やはり70年代の後半となる。その後は時々消息を聞くくらいで、遠い存在だった。

 27日、勤め帰りに桜座に。近いことは有り難い。この日は150人ほど詰めかけ、満員。年齢は60歳代後半が中心、70歳代前半と思しき方も少なくない。今年70歳を迎える岡林の同世代のファンが集ったことになる。それにいつもと違い、県内の方が多いようだ。これはうれしかった。岡林が甲府に来たのは30年ぶりのことらしい。
 初期の歌から最新作まで、軽妙でユーモアのある語りをまじえ進んでいく。岡林の方も2部構成、休憩を挟む2時間のステージだった。
 一番心に響いたのは『26ばんめの秋』。季節の風景に対するまなざしと心の内側への問いかけが自然にとけあう。歌の純度の高さにあらためて気づくことができた。
 また、歌は聴き手のものだということを話題を変えながら繰り返し語っていたことが印象深かった。この発言については回を改めて書いてみたい。

 ディランは20世紀のアメリカ音楽の厚い伝統に守られている。その言葉も英米文学やユダヤ・キリスト教の言葉の伝統に支えられている。それは事実であり、それ以上でもそれ以下でもない現実なのだろうが、正直に言うと、そのことに違和というか疎隔されるような感覚も持った。孤高の単独者というより、伝統のそれもかなり自由な(これが彼らしいが)体現者としてのボブ・ディラン。自分自身に対する固定的な捉え方、その枠組みからたえず抜け出そうとしてきた彼の軌跡の到着点なのだろうか。

 岡林にはディランが身にまとう重厚な音楽の伝統はない。あるのだとしても、この国のフォークやロックの未だに豊かとは言えない伝統というか蓄積だけだ。そのことは僕たち聴き手も共有している。
 それでも、岡林信康の歌から、そのたぐいまれな純度が持続していることが伝わってきた。それは小さなものにすぎなく、厚みがないものかもしれないが、彼の歌のいくつかに純粋な力を感じとることができた。

 ボブ・ディランと岡林信康。偶然、二日続いて二人を聴いた。数の規模は違えど、熱心なファンに恵まれ、幸せな歌い手だ。彼らの歌についてあらためていつか書いてみたい。

2016年4月23日土曜日

「往年のロックかけ」[志村正彦LN124]


 往年のロックかけ ハットのリズムで どこでも行け
                 (フジファブリック『TAIFU』、作詞作曲・志村正彦)

 このところ、僕にとっての「往年のロック」、1970年代のロックのライブ盤を聴いている。Mountain『Twin Peaks』(異邦の薫り)[1973年・大阪厚生年金会館]、Bob Dylan『武道館』(Bob Dylan at Budokan)[1978年、日本武道館]。どちらも実際に行ったライブ(収録時や会場は異なるが)で、70年代のロックとその場の雰囲気が真空パックのように詰め込まれている。(聞いているのは再発CD盤なので、本当は当時のLPレコードがいいのだろうが)

 70年代のロックといっても、歌詞や楽曲そのもの、歌い方と奏法、音源のレコーディング方法やスタジオ、ライブの録音方法や会場など様々な要素が絡み合い、多様だ。それでも、時代的な共通性はある。音楽的技術的なことを説明できる力はないので、貧しい言葉で簡潔に印象を記すなら、声や音がのびやかにやわらかく広がっていく感じ、とでも言えばよいだろうか。電気楽器なのだけれど、アナログ的であり、音の波のゆれ、うねり、時に微妙なずれのようなものが伝わってくる。
 僕は70年代のロックの音、デジタル音楽のように綺麗にコントロールされていない音を浴びるほど聴いていたので、音を受容する身体の感覚がそこで止まっているような気もする。誰にとっても、十代の頃に聞いた音楽がその人の音に対する身体感覚の基準になり、その後も支配され続ける。

 MountainやBob Dylanから、フジファブリックのメジャー1stアルバム『フジファブリック』に掛けかえても、そんなに違和感がない。このアルバムには70年代的な味わいがある。浜野サトル氏は、「響き合い」(『毎日黄昏』)で次のように述べている。

 『フジファブリック』を二度三度と繰り返し聴いていて――これは僕にはあまりないこと――、ある瞬間、不意にレッド・ツェッペリンを感じた。
 2004年に作られたこのアルバムの時期、このバンドをリードしていたのは歌とギターを担当する志村正彦という青年で、レパートリーの大半も彼の作品だが、1980年生まれの彼が70年代バンドであるツェッペリンの音楽に親しんでいたかどうかは知らない。しかし、「TAIFU」という曲。燃える飛行船の装画が印象的だったツェッペリンの1枚目のアルバム冒頭の曲「Good Times Bad Times」が、疾走する音の奧から影のように浮かび上がるのが、僕にはきこえた。

 浜野氏の慧眼のとおりで、志村は実際にレッド・ツェッペリンの影響を受けたことをインタビューで何度か話している。模倣で終わることなく、70年代前半のブリティッシュ・ロックを土台とする日本語の歌を彼は創り上げた。それだけではない。このアルバムの最後を飾る『夜汽車』はどうだろうか。70年代前半のフォークロックの雰囲気が濃厚だ。例えばDylanの『Planet Waves』(1973年、演奏はThe Band)の時代の音を思い出す。

 志村正彦にとっての「往年のロック」とはやはり、彼の生まれる前の時代、70年代前半のロックが中心となるのだろう。
 このアルバム『フジファブリック』がアナログレコードとなる。6月からデビュー12周年の記念として「FUJIFABRIC ON VINYL」と題し、全アルバムがアナログレコードとして発売されるという発表があった。以前に僕は「ないものねだりの空想」と題して、このレコード盤への夢を書いたことがある。

 特に『フジファブリック』は一枚のアナログ盤で発売されるのが何よりも嬉しい。A面5曲、B面5曲の構成のようだ。裏返してB面へ、もう一度裏返してA面へ。あの時代にトリップするかのようだ。
 それに比べて、2ndから4thの作品が2枚組になったのは収録時間のため(アナログ盤は45分が限度らしい)だろうが残念だ。アルバムごとの曲数と時間を並べてみる。どちらも次第に増えていったことが分かる。

    1st  『フジファブリック』   10曲 45分
    2nd 『FAB FOX』       12曲 52分
    3rd  『TEENAGER』     13曲 56分
    4th  『CHRONICLE』     15曲 70分

 1st『フジファブリック』が10曲45分であるのは、まるで将来のアナログ盤化を想定していたかのようだ(もしかすると当時からその企画があったのかもしれないが)。
 12周年記念で「ないものねだり」の夢が実現することになり、一人のファンとしてとても愉しみだ。大きなジャケットで柴宮夏希による表紙絵を見ることもできる。

 『フジファブリック』のアナログレコードはさらに「往年のロック」70年代の雰囲気を醸し出すことだろう。往年のロックをかけてどこにでも行きたいものだ。

2016年4月19日火曜日

豊田勇造@桜座cafe

 先週の金曜日、4月15日、甲府の桜座cafeで豊田勇造の弾き語りを聴いた。
 彼の歌はかなり前に代表曲『大文字』を聴いたことがあるだけだった。浜野サトル氏が彼のことを書いた『新都市音楽ノート』の中のエッセイで関心を持った。桜座に来ることを知り、この日を楽しみにしていた。

 あまり知らない歌い手のライブに行くときには、音源を入手したりネットで探したりして、少し「予習」して臨むことが多いが、今回はあえてそれをしなかった。知らないままで桜座に寄り、豊田勇造に出会ってみたい。そんな気がした。

 桜座cafeには三十人ほどが集い、ほぼ満員の入りだった。
 前座の「ベイヴ松田&フレンズ」が終わり、豊田勇造が登場。『住所録』という歌が始まる。もちろん初めて聴く歌で、耳を澄まして言葉を追いかける。住所録から消えていく人々。時の流れ、人との別れを主題とする定番的な歌詞かと思ってしまったが、途中でその予想は覆った。「この人とは一緒に花を見た」と歌われたときに、その言葉が心にすっと入り込んできた。それに続く歌詞も良かった。(記憶だけでは心許ないのでネットで探した音源で補った歌詞を記したい。正確ではないかもしれないが)

  この人とは一緒に飯を食った
  この人とは一緒に花を見た
  この人とは仲たがいしてしまった
  この人とは一緒にギターを弾く

 「一緒に花を見た」その光景の像が僕の中で広がる。
 誰にも、僕にも、そんな光景があったような、いやなかったのかもしれないが、それでもなにかあったような、懐かしいような不思議な感じがした。もっと硬質の言葉や歌い方を予想していたのだが、やわらかい感触の言葉がとても丁寧な歌い方で届けられた。彼の歌の世界に少し近づけた。

 豊田勇造が、今日は竹中労(ルポライター・評論家、美空ひばり、琉歌、『ザ・ビートルズレポート』など音楽についての著書も多い)の妹さんがいらっしゃってますと話し始めた。彼は若い頃竹中労によくご飯をご馳走になった。その縁で妹さんが桜座に来たようだ。竹中労と英太郎への想いも込めて、ある敬愛する画家についての歌を披露した。

 この場で竹中労のことを少し書かせていただきたい。彼とその父、江戸川乱歩・夢野久作などの挿絵画家として有名だった竹中英太郎にとって、甲府は第二の故郷のような場所だ。英太郎は戦時中に甲府に疎開し、山梨日日新聞社に入り、そのまま戦後もこの地で暮らした。労も甲府中学(現、甲府一高)で学んだ。校長退陣を求めてストライキをした話は有名だ。現在、妹さんは甲府の湯村にある「竹中英太郎記念館」の館長をされている。
 僕は山梨県立文学館の仕事をしている頃に一度だけそれもほんの短い間だが、竹中労に会ったことがある。1989年、英太郎の回顧展をしていた甲府のギャラリーだった。「反骨の闘士」というイメージがあり、少し身構えて行ったのだが、控えめで優しい語り口の方だった。その二年後、六十歳で亡くなられた。英太郎展での穏やかな表情を今でもよく覚えている。(たまたま、昨日4月18日付の「朝日新聞」文化・文芸欄に『今こそ 竹中労』と題する記事が掲載された。できれば読んでいただきたい。彼の「怨筆」の軌跡が描かれている。)

 この日はもう一人特別なゲストがいた。甲府出身の映画監督、富田克也氏(映像制作集団 空族)だ。山梨を舞台とする『国道20号線』『サウダーヂ』が高く評価されている。二作品共に、甲府の、山梨の(それはどの地方都市でも同じようなものなのだろうが)この時代特有の荒廃と空虚がリアルに描かれている。地元民としては分かりすぎるほど分かるのだ。
 今年11月公開予定の映画『バンコクナイツ』はその名が示すように、タイが舞台となっている。豊田勇造はタイを拠点にした活動もしているので、そのような縁から、彼の『満月』という歌が富田監督の新作で使われることになった。タイの有名な原曲に歌詞をつけた作品らしい。
 この『満月』も歌われた。とても懐かしいような、それだけでなく、抑制されてはいるがある種の意志の熱を感じさせた。『バンコクナイツ』のどのようなシーンで歌われるのだろうか。公開が待ち遠しい。

 豊田勇造の桜座初LIVEは、竹中労の妹さん、富田克也監督という甲府ゆかりの二人も加わり、特別な夜となった。

2016年4月17日日曜日

Felix Pappalardiの悲劇

 前回は『洋楽グロリアス デイズ』を取り上げた。今回は僕にとってロック、洋楽ロックの原点となったある音楽家のことを書きたい。

 1983年4月17日、もう33年前となるが今日、Felix Pappalardi(フェリックス・パッパラルディ)がこの世界から旅立った。

 もう今ではFelix Pappalardiのことを知らない人も多いだろう。
 彼は1939年12月30日、ニューヨークで生まれ、ミシガン大学でクラシック音楽を学んだ。あのクリームのプロデューサー(第4のメンバーとも言われたが)として活躍後、1969年、Leslie West(レスリー・ウェスト)とMountain(マウンテン)を結成した。Pappalardiの音楽理論と重厚なベース、Westの繊細で激しい音色のギター、Pappalardiの妻Gail Collins(ゲイル・コリンズ)による優れた歌詞やアルバムジャケットの絵が高く評価されていた。曲によってWest、Pappalardiとヴォーカルが変わることにも味わいがあった。

 当時は日本でも人気があり、1973年8月に来日。(以前書いたように、当時中学3年生の僕は思い切って武道館公演に出かけた。初めてのロックコンサートだった。Mountain、Felix Pappalardiは、僕にとってロックの原点だ。)
 PappalardiとWestの求める方向性が異なり、一度解散。日本公演を契機に再結成するが、結局1974年末に完全に解散した。
 youtubeには音源がたくさんあるのでぜひ聴いていただきたい(時代的に映像が非常に少ないのが残念だが)。邦楽・洋楽を問わず、現在のロックや定番のクラッシックロックしか聴かない人にとっては新しい発見があるだろう。

Felix Pappalardi
(1939.12.30 - 1983.4.17)

 彼の死を知ったときのことは鮮明に覚えている。当時、西武新宿線の上石神井駅から数分のアパートに住んでいた。春、新学期が始まってまもなくの頃だった。大学からの帰り、駅前の定食屋に寄りいつもの夕飯を食べていた。何気なく取ってスポーツ新聞を読み始め、我が目を疑った。Felix Pappalardiの死を伝える記事があった。紙面の下の方に小さな写真と十数行の文が書かれているだけだったが、ただただ驚くばかりだった。(小さい記事でも新聞に載る程度には名のある音楽家だった)

 文面を読んでさらに衝撃を受けた。ニューヨークの自宅で妻のGail Collinsに射殺されたとあった。彼女は妻であると共に、良き理解者、Pappalardiの創造上のパートナーであった。いったい何があったのか。「射殺」という禍々しい文字に動揺した。享年43歳。僕にとってのロックの原点といえる音楽家の悲劇に、文字通り、言葉を失った。

 今回ネットで調べた情報をまとめると、Gail Collinsは故意の事件ではなく偶発的な事故だったと主張したそうだ。Pappalardiが銃の扱い方を彼女に教えている間に暴発した。陪審もその主張をある程度認めたようで、有罪判決を受けたが、2年後には仮釈放された。
 その後、表舞台からは姿を消し、2013年12月6日、ガンによって、メキシコで亡くなった。享年72歳。1983年4月17日の出来事の真相は永遠に分からないが、今にしてみれば、悲劇としか言いようがない。Mountainにとって、Felix PappalardiとGail Collinsが共に創造した作品にとっても二重の意味で悲劇だった。

 今日は朝からずっと、Mountainのライブアルバム『Twin Peaks』を聴いている。1973年の来日時に大阪会場で収録されたものだ。
 ライブを改めて聴くと、彼のやわらかな声と奏でるベースの重低音に魅了される。Pappalardiはその名が示すように、イタリア系の移民の子孫だった。陽気なところもなくはないが、暗さや翳りのある音楽は彼の出自によるものかもしれない。アメリカのハードロックという括られ方では、彼らの音楽は理解できない。これからも時々、PappalardiとMountainのことを書いていきたい。

 彼の歌う『Theme For An Imaginary Western』『Nantucket Sleigh Ride』。
 悲劇からそう感じてしまうのかもしれないが、そうではない。彼の声にはそのような調べがあった。昔からずっとそれを聴き続けてきた。

  Goodbye, little Robin-Marie
  Don't try following me
  Don't cry, little Robin-Marie
  'Cause you know I'm coming home soon

    『Nantucket Sleigh Ride』
   ( PAPPALARDI, FELIX / COLLINS, GAIL)

 Felix Pappalardiの声は、たとえようもなく悲しく、深い憂いに彩られている。


【付記】
 熊本の地震はこの国が地震列島だという現実を露呈させた。
 中央構造線を境に南側を西南日本外帯と呼ぶそうだが、この線沿いに九州・四国・紀伊半島の南部、山梨・静岡や南関東は地層的にはつながっている。甲府盆地の西側にそびえる南アルプスは中央構造線上で何億年もかけて海底が隆起して出来上がった。今度の地震も他人事ではない。何とか収束してほしい。日常を取り戻すのはなかなか難しいだろうが、私たちもそのために何か少しでも協力したい。

2016年4月13日水曜日

『洋楽グロリアス デイズ』

 4月10日の日曜日、ヴァンフォーレ甲府vs湘南ベルマーレの試合を小瀬・中銀スタジアムで見た。ロスタイムにカウンター攻撃で2点入れて、3:1で勝利。しかし内容的には課題が残った。甲府はなかなか攻撃を構築できない。明らかに湘南の方が質が高い。それでも2点目のチュカ→クリスティアーノの展開は見事で、テレビ朝日の夜のサッカー番組「やべっちFC」でも取り上げられた。

 ホームでの勝利は昨シーズンの8月以来のことで、スタジアムは大いにわいた。周辺の桜の花もまだ残っていて、勝利を祝福してくれた。今年は、外国籍選手がブラジル人、オーストラリア人、ナイジェリア人と多国籍なのは華やかでよい。
 
 帰りに車の中でNHKFMを聞いた。片寄明人氏がDJを担当する『洋楽グロリアス デイズ』。氏のfacebookでこの番組のことを知った。NHKのHPで毎週日曜日午後4時00分~ 午後5時00分、「70年代、80年代・・・あの輝かしい日々を彩った洋楽ナンバー」を選曲するとあったので楽しみにしていた。
 
 午後4時を過ぎてしまい、途中からだった。THE STYLE COUNCIL、JAPANと続いた。久しぶりのXTCが素晴らしい。70年代前半まで遡ると言って紹介されたのはCAROLE KING『IT’S TOO LATE』。懐かしい。さすがに時代を感じさせるが、古びてはいない。むしろ言葉が、(聞き取れる範囲に限られるが)しっくりと耳に飛び込んでくる。この自然なアコースティックな音の感覚は70年代前半という時代のものだ。車中で聞いたことも幸いして、なんだか「カーラジオ」で音楽を聴いていた時代の雰囲気に包まれた。

  It's too late baby, it's too late now darling
  It's too late.
 
 70年代前半から80年代前半の十年間が、僕にとっても「洋楽グロリアス デイズ」だった。ロックの輝かしい日々と十代前半から二十代前半の僕個人の日々が重なりあう。あのころは毎日何時間も聴いていた。
 今から振り返れば、聴き手として幸せな経験をした時代だった。

 日曜日の夕方、洋楽に詳しい実作者である片寄氏の選曲がこれから愉しみとなる。

2016年4月9日土曜日

『Sakura』2

 Chocolat&Akito meets The Mattson 2の『Sakura』はどのような経緯で作られたのか、ネットで検索してみると、片寄明人氏自身のfacebookの3月23日の記事にこうある。

巷に「桜ソング」はたくさんあるし、むかしプロデュースした名曲、フジファブリック「桜の季節」を超えるなんて到底無理だから、桜モチーフの歌詞だけは書くまい…と、秘かに誓ってたんです。
でもこの曲のサビメロを思いついた時に「桜が咲いたら なんとかなるかな」という言葉も同時についてきてしまいました。奇天烈な曲調だし、きっと「桜の季節」を書いた彼も笑ってくれるんじゃないかなって勝手に思っています。

 『桜の季節』を書いた彼、志村正彦もこの曲をかなり気に入るにちがいない。いつも新しい言葉と楽曲を模索していた彼だからこそ、この『Sakura』の独創性を評価したことだろう。

 このアルバムは8年の歳月をかけて協働して制作された。断続的ではあろうが、かなり長期にわたる時間の蓄積が作品の高い質を支えている。
 The Mattson 2がサウンドを、Chocolat&Akitoがメロディと歌詞を作ったようだが、「桜が咲いたら なんとかなるかな」の一節のメロディと言葉が同時にできたのは幸せなことだ。
 日常的な言葉で日常の現実を歌っているが、日常を受け入れる悦びと受け入れられない翳りが絡み合う。

 前回紹介したミュージックビデオは花井祐介氏の初監督作品らしい。
 冒頭の荒涼としたシーンを見て、僕は何となく、志村正彦『桜の季節』の「桜が枯れた頃」という言葉から想像される世界を思い起こした。
 冬の枯れ果てた世界から春の世界への展開が見事だ。色彩感あふれる映像、英訳詞text、アニメーションの綴れ織りが陰影ある音源と重なり合い、『Sakura』の季節を浮かび上がらせている。

2016年4月7日木曜日

『Sakura』 CHOCOLAT & AKITO MEETS THE MATTSON 2

 三月末から四月初めにかけて、テレビ地上波の音楽番組は、いわゆる「桜・春ソング」の特集が多い。幾つか録画して早送りで見たが、フジファブリック・志村正彦の『桜の季節』が取り上げられることはなかった。期待していたわけではなかった。この歌はヒットしたわけではなく、しかも「桜・春ソング」からかなり逸脱している。むしろ、アンチ「桜ソング」の代表曲かもしれない。桜についての紋切り型の叙情を打ち壊している。『桜の季節』は日本的な美学から遠いところにある。

 最近、片寄明人(志村正彦が敬愛していた音楽家。フジファブリックのメジャー1stアルバムのプロデューサー)とショコラによる夫婦デュオ、ショコラ&アキトの新アルバム『CHOCOLAT & AKITO MEETS THE MATTSON 2』を取り寄せた。60年代風のイラストと二つ折りの紙ジャケットという体裁は、昔のLPレコードのミニチュアのような雰囲気を醸し出す。

 ザ・マットソン2という双子(Jared Mattson・Jonathan Mattson)のジャズ・デュオとのコラボレーションによって練り上げられた音源は、日本語の言葉とサウンドの綴れ織りが独特だ。風景を喚起する音楽でここちよい。季節のせいか、『Sakura』という曲をよく聴いている。

 この作品のMVが公式サイトにある。


 
 英訳した歌詞が文字として現れるのが面白い。視覚はアルファベットを追い、聴覚は日本語を追う。日本語ロックと英語ロックの複合のようで、不思議な効果を持っている。英語の意味と日本語の意味がぶつかり、逆に日本語の響きそのものがよく伝わる。

 さくらが さくらが さいたら

 なんとか なんとか なるかな

 ここ数日、この歌詞の一節、声と音がずっとループしている。聞こえるままに平仮名で表記してみた。
 この歌に促されるようにして、僕も自分に問いかけてしまう。

 なんとかなるかな。なんともならないかな。なるかなならないかな。ならないかななるかな。
 
 CHOCOLAT & AKITOとTHE MATTSON 2の『Sakura』は、桜の季節、春の心のざわめき、ゆらぎ、瞬間の断片を美しく細やかに表現している。

2016年4月5日火曜日

武田の心[志村正彦LN123]

 夕方、甲府の桜の名所の一つ、武田通りの桜を見に行った。甲府駅から北の方角にある武田神社まで2キロほどの通り沿いに桜並木が続く。盆地で扇状地なので、なだらかではあるがずっと登り道になっている。

 武田神社にもお参りに行った。入口の石段の前から南側を振り返ると、桜並木の道が遠近法のように広がる。以前この眺めを見た時を忘れるほど久しぶりに訪れたが、年齢を重ねるにつれて、桜は美しく映える。

 武田神社は、武田信虎・信玄・勝頼三代の居館「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」の跡地にあるが、この神社そのものは大正8年(1919年)に建てられた。明治以降、武田信玄を祭神として祀る気運が高まり、この地に建立された。意外かもしれないが、歴史的には新しいものだ。
 甲府市民にとっては初詣や「七五三」の宮参りの場として親しまれている。春になると武田通りの桜が有名だ。武田家の由緒ある場として観光地にもなっている。

 「信玄公祭り」という祭りが、毎年、信玄の命日4月12日の直前の金・土・日曜に開催される。今年は4月8,9,10日。俳優が信玄を演じ、千名を超える武田軍団が川中島に向け出陣する様子を再現するものだが、正直に書くと、観光イベント色が強く地元民の関心は少ない。
 今年の信玄役の俳優は陣内孝則。若い人は知らないかもしれないが、彼は「博多めんたいロック」の一つ「ザ・ロッカーズ」のボーカルだった。つまり、元ロック歌手が武田信玄を演じることになる。「ロックな信玄公」、これは初めてのことだろう。

 帰り道、志村正彦が上京後初めて作った『武田の心』という曲に関する話をふと思い出した。
 氣志團の綾小路翔(志村のバイト先の「上司」だった)によると、記録したテープは失われ、幻の存在になってしまったようだが、『武田の心』は「(奥田)民生さんと吉井(和哉)さんを合体させたような曲だった」そうだ。そういわれても全く想像できないのだが。

 「武田」は「武田信玄」あるいは「武田家・武田家家臣」を指すのだろうが、「武田」の名と「心」を結びつけたことには驚く。郷土の偉人や歴史上の人物の名に「心」をつけて「~の心」というキーワードとして使うこともあるが、ここ山梨で「武田の心」というキーワードは流布していない。この表現は志村が自分で思いついたものだろう。面白いというか奇妙というか、笑いを誘う感じもあるが、彼は案外まじめに考えたのかもしれない。「武田の心」とはどのような心なのか。
 
 志村正彦『武田の心』の音源。どこかで発掘されないだろうか。 

2016年4月2日土曜日

最後の夕刊

 一昨日、最後の夕刊が届けられた。山梨県では「朝日新聞」の夕刊の配達が3月31日で終わりとなった。佐賀、大分に次いで3県目の終了となるそうだ。夕刊購読者の減少が直接の理由らしい。

 高校生の頃から、東京で暮らした時期も含めて四十年ほどの間、朝日の夕刊を読み続けてきた。朝食時に朝刊、夕食時に夕刊。習慣のリズムだった。これからもPC画面で「デジタル夕刊」を読むことはできるが、新聞紙という媒体ではもう読むことができない。さびしさがあるが、すぐに慣れてしまうのかもしれない。

 かつて朝日新聞の夕刊文化欄には、作家や研究者の質の高い寄稿が掲載されていた。しかし、十年ほど前から紙面の内容や構成が変わり、その魅力が失せてきた。時代や流行に迎合しすぎているように思えた。新聞は「新」聞ではあるが、むしろ紙と活字の媒体としての本質的な「古」さがその存在意義だということが理解されていない。

 インターネットの拡大が新聞の衰退を招いたと言われるが、それだけが原因ではない。朝日だけでなく他の全国紙や地方紙も軒並み、内容の水準が落ちている。読むに値する記事が減ってきた。教える仕事のために「教材」として目を通すこともあるが、使えるものが年々少なくなっている。逆説的だが、良い記事や寄稿に巡り合った時の価値は以前よりも増している。
 
 新聞記者も一般の人々も、ネットを情報源とする限り、情報の量と質はほぼ同一、等価になっている。もちろん記者は独自取材ができることが違うが、それがどこまで「独自」なのか、ほんとうに「取材」なのか、疑問に思うこともある。さらに踏みこんで言うと、思考や表現の質も似たような水準になってきたのではないか。わざわざ読むには値しないと判断されれば、読まなくなるのは自然の原理だ。

 今後、購読者が少ない県(山梨のように人口が少なく、経済力も弱い県)から次第に夕刊は終了となるだろう。最終的には、夕刊という制度そのものが終わりを迎える。宅配制度に支えられた朝刊はこれからも長い間存続するだろうが、その内容や形態は変革を余儀なくされる。おそらく現場の記者は相当な危機感を持っているだろう。

 これまで夕刊を我が家まで配達していただいた方々、長い間、ほんとうにありがとうございました。