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2025年12月21日日曜日

見えない銀河を渡ることにしよう[ここはどこ?-物語を読む 12]

  平野や西側が海という場所に住んでいる人には意外だろうが、山梨では真っ赤な夕陽は沈まない。 太陽は赤くなる前に西の山に沈んで、それから山の端からせり上がるように夕焼けが広がる。だいぶ昔のことだが、関東平野にある県に住むことになって、初めて丸くて赤い太陽が地平線に沈むのを見たとき、ああこれが夕陽というものかと思った。そもそもそれまで地平線を見たこともなかった。

 山がすっかり闇に飲み込まれてしまうと、空は月と星の時間になる。冬の空気はピリリと冷たいが、星を見るのは冬がいい。年のせいかだいぶ目が効かなくなっていて、カシオペアやオリオンなど見つけやすい星座しか見つからないが、それでも見つけられると嬉しくなる。


 さて、銀河である。 残念ながら、街の明かりのせいか、こちらの視力の問題か、肉眼で夜空に銀河を見つけることはできない。 子どもの頃は見えていたかと考えてみたが、あれが銀河だと確信した記憶はない。銀河のイメージはプラネタリウムやテレビの番組の望遠鏡の映像などによって作られた二次的なものでしかない。中国や日本の古典には天の川がよく出てくるから、昔の人は実際肉眼で見ていたんだろうが。

 何でも年のせいにするのはどうかと思うが、「銀河」を歌いこなすことができない。

 問題は「タッタッタッ タラッタラッタッタッ」である。一回目はクリアしても四回も繰り返しているうちにほぼつまずく。口も舌も回らないのだ。

 ところで、この「タッタッタッ タラッタラッタッタッ」はなんだろう。真夜中二時過ぎに街を逃げ出す二人の足音と考えるのが普通なんだろうか。では次の「パッパッパッ パラッパラッパッパッ」(心なしかこちらの方が歌いやすい)は何か?  走り続けた二人の吐く荒い息が立ち止まった丘の上で闇の中に白く浮かぶ様だろうか。

 歌詞の中にはこの二人についてほとんど説明がないから、例によってはっきりしたことは言えない。 わかっているのは二人が真夜中に街を逃げ出したことだけ。二人で手に手を取って逃避行。駆け落ちなのか?  いや、二人が恋愛関係にあるとは限らない。青春時代、閉塞的な社会から逃げ出したい友人同士かもしれないし、因習的な家制度から逃げてきた親子かもしれない。無実の罪を着せられそうな男とその日に出会ってなぜだか巻き込まれてしまった他人というミステリー仕立てもできないことはない。これは聴き手が自由に想像すればいいのであって、面白い設定を想像できたら、隣で志村正彦がニヤニヤしてくれそうな気もする。


 しかし、問題はここからだ。二人の行く先は「UFOの軌道に乗って」「夜空の果て」までなのである。いきなりジャンルがSFになってきたではないか。こうなると二人の設定も修正が必要になるかもしれない。なぜ逃避行しなければならないかも地球規模になる。人類滅亡を防ぐためとか。宇宙のどこかに閉じ込められている誰かだけが二人を救う方法を知っているとか。空を飛んで旅をするとなれば宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」や松本零士の「銀河鉄道999」のイメージも浮かぶ。

  夜空の果てに何があるのか。UFOは敵か味方か。 二人の行く末は吉か凶か。何もかもわからないまま、しかし、二人は宇宙へ旅立ったのだろう。


  きらきらの空がぐらぐら動き出している!

  確かな鼓動が膨らむ動き出している!


 これはつまり二人がUFOに乗り込んだということなのではないか?だから空がぐらぐら動き出しているのだ。

 そうなると「タッタッタッ タラッタラッタッタッ」も「パッパッパッ パラッパラッパッパッ」もUFOに乗り込むための呪文のようなもの(言葉ではなく動作みたいなものかもしれない。ダンスとか)に思えてくる。それができた人だけUFOに乗ることを許される。二人はきっと淀むことなく難関をクリアして、UFOで夜空を渡っていくのだ。 


 歌いこなすことができない私はたぶんUFOに乗せてもらえないだろう。せめて想像の翼で夜空の果てまで向かう二人を追いかけ、見えない銀河を渡ることにしよう。


2022年1月30日日曜日

ちょっと犬に冷たくないですか [ここはどこ?-物語を読む 11]

 以前から気になっていたことがある。「志村正彦さん、ちょっと犬に冷たくないですか」ということだ。

 最初に感じたのは、「ペダル」だったか。

 何軒か隣の犬が僕を見つけて
 すり寄ってくるのはちょっと面倒だったり

 「ペダル」では「その角を曲がっても消えないでよ」というように、ほかに集中しているものがある状況なので仕方がないのかもしれない。でも、いったんそう思って犬に関連する詞を調べてみると、犬に対する扱いは結構厳しいような気がするのだ。

  「浮雲」の「犬が遠くで鳴いていた」「犬は何処かに消えていた」は、まあニュートラルな描写として捉えることができるが、

 遠吠えの犬のその意味は無かった(「花」)

はどうだろう。遠吠えの相手は「沈みゆく夕日」だから蟷螂の斧というか何というか、確かに吠えたって仕方ないんだけれど、でも、犬にだって吠えたくなるような、やむにやまれぬ思いがあるかも知れないではないか。 それに対してわざわざ「その意味は無かった」というのは、犬の思いをバッサリ切りすてている感じがする。

 その他、広い意味で犬が登場するのは、「Listen to the music」の「負け犬」のような比喩表現か、「surfer king」の「どうでもヨークシャテリア」という駄洒落かなのだが、どちらも犬の立場からみれば不本意な表現と言えるだろう。「負け犬」は日本語にある一般的な表現だから百歩譲るとしても、「どうでもヨークシャテリア」て、ひどくない? と特に親犬派でもない私ですら思う。

 犬についての表現はこれくらいで、決して歌詞にたくさん犬が登場するわけではないが、それでもほかの題材に比べれば登場するほうだと思う。例えば、猫は登場しない。

 そもそも志村正彦の歌詞には具体的なものを特定するような表現はとても少ない。花の歌はたくさんあるのに、具体的な名前は桜と金木犀とサボテンくらいしか出てこない。(すみれはあるけど、人の名前、しかも妄想だし)。それは志村正彦が、歌詞と聴き手との関係をどのように考えているかという重要なテーマと関わっていると思うのだが、そのことについては、またあらためて書いてみたい。

 閑話休題。

 さて、私がずっと気になっていたのは、この犬に対する冷たい感じが、私が勝手に思い描いている志村正彦像とずれていたからだ。もちろん、お会いしたこともないのだし、楽曲や著書やインタビュー記事などから想像しているだけなのだから、ずれていて当たり前である。でも、なんかずっと違和感を持っていた。

 最近になって、それが腑に落ちる出来事があった。

 隣家の黒猫は小さいうちからよく遊びに来ていて、網戸をよじ登ったりすごい勢いで庭を走り回ったりわんぱくだったが、名前を呼ぶとニャアニャア鳴いて応えてくれて、ほんとうにかわいかった。ところが、大きくなるにつれてツンツンして、声をかけても無視するか、しっぽをちょっと揺らす程度になった。今となっては、いっそふてぶてしいというような態度で目の前を通り過ぎていくこともある。それがある日、ひなたぼっこの最中、例のごとく私の声かけに気のなさそうにしっぽでトン、トンと地面を叩いていたとき、急に見知らぬおじいさんが通りかかって声をかけたのだ。別に大声でもなかったのだが、その瞬間、猫は立ち上がって家に逃げ込んだ。そうか、あんなふうでも猫は猫なりに隣のおばちゃんに親しみを感じていて、めんどくさいと思いながらもあしらってくれていたんだな、とその時に気がついた。

 それでわかったのである。「ペダル」で何軒か隣の家の犬が僕にじゃれてくるのは、ふだん僕がその犬をかわいがっているからだ。もし普段から邪険に扱っていたら、すり寄ってきたりしない。

 そう考えると、「花」の「遠吠えの犬」だって、むしろ自分を犬と重ね合わせているからこそ、「その意味は無かった」と表現しているのかも知れない。時の流れとともに変わり、失われていくものを、どんなに惜しんでも嘆いても押しとどめるすべはない。そのことを犬と共有していると考えると、むしろ犬はかなり近しいものなのかも知れない。だからこそ自分に厳しいという意味で、犬にも厳しくなるのだ。 

 というわけで、私がずっと気になっていた「志村正彦さん、ちょっと犬に冷たくないですか」は、どうやら私の思い込みだったらしい。 勝手に思い込んで、勝手に安堵している今日この頃である。

2020年1月22日水曜日

新しいスポーツ-『熊の惑星』[ここはどこ?-物語を読む 10]

 ハリーポッターがベストセラーになったのは、何年前のことだったか。確かシリーズ続編の発売日には徹夜組も出るくらいの人気作だった。かくいう私は一作も読んでいない。流行に背を向けるひねくれた性格のせいだが、それも中途半端なひねくれ方なので、映画は観た。その中で一番印象に残ったのは、彼らが魔法学校で行う不思議なスポーツだった。一回観たきりなのでうろ覚えなのだが、空飛ぶホウキにまたがった少年たちが2つのチームに分かれ、何かをゴールに放り込んだり、羽の生えた球を捕まえたりして、点数を競うようなものだった。こういう新しいスポーツのルールや戦術を覚えて観戦するのが好きで、特にこれはぜひ自分でもやってみたいと思った。残念ながら空飛ぶホウキは手元になく、あっても重くて飛べないと文句を言われるかもしれず、それに忘れていたが、はしごの三段目から上に上がれない高所恐怖症だということもあって、実現は難しい。

 突然話は変わるが、ここ数年、家人はシングルのB面を集めたCDをよくかけていて、特に「セレナーデ」と「ルーティーン」は繰り返し聴いていた。どちらも代表曲にあげられることはあまりないが、聴けば聴くほど心の深いところに届いてくるような名曲である。そして「セレナーデ」と「ルーティーン」の間にはそれとは似ても似つかない一曲が流れてくる。その名も「熊の惑星」。このヴァリエーションの豊かさこそがフジファブリックと言えようか。

フジファブリックにとって初めての、加藤氏作(!) の曲が仕上がった。謎の曲。だから謎の歌詞を書いた。かなり好評。
(志村正彦『東京、音楽、ロックンロール』2007.7.12 「加藤曲」より抜粋)

 作詞者本人が書いているのだから間違いない。何度聴いても謎の歌詞である。歌が進むにつれて聴き手の予想はことごとくくつがえされる。


 世界初の貴重な映像 僕は感動
 動物界に君臨する巨大な王様


(聴き手=私予想)テレビでよくやる動物もののドキュメンタリーを見ているのだな。この一本を撮るためにどれほどの時間と労力が費やされたのか。まして動物界に君臨する巨大な動物(象? 熊? くじら? タイトルを思い出して熊だと確定)の世界初の生態はとても貴重で興味深い。なるほど。


 太刀打ちできる人間はほとんどいないね
 アジア一のワザの使い手ぐらいだろうねえ

 戦いが始まるぜ!
 北欧の熊に対するのはヒゲの太極拳野郎

(聴き手=私予想)動物と人間が戦うのか。格闘家が牛や熊と戦って勝ったという伝説があったけれど、そういう番組なんだな。(どこまで真剣勝負なのかはわからないが、大山倍達やウィリー・ウィリアムスなどが牛や馬と戦ったという話はある。市井の人でも山で熊に遭遇して撃退したという武勇伝も新聞で読んだ)。


 夢の対決を見てるんだ 旗を取り合うのよ

(聴き手=私予想)??? 旗を取り合うってどういうこと?

 
 私には見える。この最後の一行を書き終えたとき、志村正彦はにやりと笑ったに違いない。混乱する聴き手を思い浮かべながら、仕掛けたいたずらが成功した子供のように。
 熊と人間が格闘するのではなく、旗を取り合う戦い。これは全く新しいスポーツである。なにしろ動物と人間の戦いだからスポーツというのもおかしいが、他にことばが思いつかないので、とりあえずスポーツにしておく。 さてどんなスポーツなんだろう。


 ちょっと考えてみた。
 長距離の障害物競走。コースには高い壁や足を取られそうな網や蟻地獄のような砂の穴や幅の広い川や揺れる吊り橋などがある。最後つるつる滑る坂の上に旗が立てられていて、それを取った方が勝者である。普通にやれば熊が勝つに決まっているので、熊の苦手そうな障害をたくさん用意してある。北欧の熊が相手だから真夏なら少し人間に有利か。ただし、アウェイ(熊の惑星)での戦いとなれば、圧倒的に不利な気がする。

 あるいは、それぞれ自分の陣地に旗を立て、人間側は頭脳を使い、投石機とか落とし穴とか様々な防御態勢を整えて、「はじめ」の合図で熊人間双方が相手陣の旗を取りに行く。もちろんすんなりいかないようにお互いに防御しつつ、相手の隙をうかがって早く旗を取った方が勝ち。旗の周りを火で囲っておけば、熊は近づけないかもしれないが、さすがにそこまでするとちょっとずるい気もする。

 どちらも太極拳の動きで互角の戦いができるかは微妙である。はたして志村正彦は一体どんなスポーツを想定していたのだろうか。(何も考えていなかった可能性もあるが)。
 いずれにしても「太刀打ちできる人間はほとんどいない」のだし、ハリー・ポッターと違って、参加するにはかなり勇気のいるスポーツではある。

2017年7月30日日曜日

鏡に映し出された「覚悟」-『ダンス2000』[ここはどこ?-物語を読む9]

  ディスコと言うと年がばれるが、ディスコにしろクラブにしろ縁のない人生を送ってきた。オバサン世代にとって、ディスコと言えばマハラジャか。バブルとボディコンとお立ち台と羽扇、行ったことはないけれど、ずいぶん映像化されたし、イメージはできる。もちろんそこに身を置いていた人たちとは、全く実感は違うのだろうけれど。

 世の中がバブルに浮かれていたころ、裸電球の四畳半に住んでいた。「神田川 」の時代からはだいぶ時が経っていて、さすがに遊びに来た友達が驚くほどのぼろ屋だったが、駅にも近くて、お風呂もあって、新宿や渋谷に20分くらいで行けるその部屋をそれほど不満に思ってはいなかった。映画や芝居を観に行ったり、ライブに出かけたり、友達と居酒屋で飲んだり、本を読んだり、やりたいことは山のようにあって、踊りに行くという選択肢は優先順位をつけると底につきそうなくらい低かった。理由はいろいろある。お金がかかる(当時、若い女の子が自分でお金を払おうと考える時点で既にずれていたかもしれない)。ボディコンが着られない。特段ディスコミュージックが好きではない。そこで心を通わせる男の人に会えるとは思えない(もしかしたらいたかもしれないけれど)。まあ 、一言で言ってしまえば、私はディスコに似合わなかったのだ。

 時代的に『ダンス2000』の舞台はクラブだろうか。どちらも縁のないオバサンにはディスコとクラブの違いが奈辺にあるかわからない。わかるのは『ダンス2000』の主人公がその場に全く似合っていないということである。


  ヘイヘイベイベー 空になって あの人の前で踊ろうか
  意識をして 腕を振って 横目で見てしまいなよ

  少しの勇気 振り絞って

  いやしかし何故に いやしかし何故に
  踏み切れないでいる人よ


 出だしこそ「へイヘイベイべー」と始まるものの、これは一種の記号のようなものだ。自分が軟派で軽い男(女の人のセリフとは思えないので)であると世間に示しているのだが、そのポーズはあっという間に崩れてしまう。「空になって……踊ろうか」とか「意識をして腕を振って」とか、わざわざ言うのは、主人公である《彼》があえて意識をしなければそうできないことを物語っている。


 また、この曲でもっともインパクトのある歌詞「いやしかし何故に」にも《彼》の性格は表れる。「いや」はそれまで考えていたことに疑いを持って立ち止まることばだ。「しかし」はそれまで考えていたこととは違う方向に向かうことばだ。「何故に」は理由を探ることばだ。たったワンフレーズの間に《彼》の頭は目まぐるしく回転している。この主人公は忘我とか没頭とか夢中とかいうダンスの世界とはずいぶん遠いところにいるように思える。

 実は『ダンス2000』の物語は何気ないようでいて意外と手ごわい。出だしの2行からして、誰が誰に何を言っているのかという単純な点でさえ、いくつかの解釈が考えられる。

①主人公である《彼》が自分自身に言っている。
 この場合は「ベイベー」が「あの人」で、その前で踊ってアピールしようということだろう。しかし、そうなると「横目で見てしまいなよ」が気になる。「しまいなよ」というのは自分自身に呼びかけることばとは思えないからだ。
②主人公である《彼》が「ベイベー」に促している。
 この場合は主人公と「ベイベー」の他に第三者の「あの人」がいることになる。「横目で見てしまいなよ」は「ベイベー」に向けられたことばとして違和感はなくなるが、今度は「あの人の前で踊ろうか」が難しくなる。自分と「ベイベー」の二人であの人の前で踊ろうと誘っているとも考えられるし、演出家が演者に演技をつけているように「ベイベー」に「やってみなさい」と言っているようにも感じられる。

 どう解釈しても聴き手の自由だが、私自身は②の方がしっくりくるので、今回は②の解釈に沿って進めてみたい。

 ②だと「ベイベー」を誘っているのかと思って聴いていたら、実は第三の人物「あの人」にアピールするように「ベイベー」を促していたということになる。しかし、《彼》の思いとは違って、「ベイベー」は「あの人」を横目で見ながら踊ることに踏み切れないでいる。何故踏み切れないのかと言いながら、《彼》の中に去来しているものはどのような感情なのだろう。もどかしさか、それとも裏腹な安堵感だったのか。それは《彼》と「ベイベー」の関係による。単純に彼女の恋を応援している知り合い、実は彼女のことが気になっているが彼女の気持ちが別の人にあることに気付いている内気な友人、たまたまその場で彼女を見かけた赤の他人、いろいろ考えられる。

 いずれにしても「踏み切れないでいる人よ」という時点まできて、これは観察者の視点だと気づかされる。つまり「ヘイヘイベイベー」以降これまでのことばは、彼女に直接語りかけたのではなく、彼女の観察者である《彼》の内心の声であると捉えることができる。「ヘイヘイベイベー」と「いやしかし何故に」が同じ人の口から発せられるのは違和感があるが、内心の声だとすれば納得がいく。
 わが主人公はいつの間にか当事者から観察者になってしまっているのだ。

 しかし、この曲はなかなか聴き手に一つの物語を描かせてはくれない。主人公はすぐに観察者の立場を放棄して、自分の気持ちを吐露し始める。


  ヘイヘイベイベー 何をやったって もう遅いと言うのなら
  今すぐでも投げ出す程の 覚悟ぐらいできてるさ


 ここに描かれるのが、「ベイベー」と《彼》と二人の関係だとすれば、「ベイベー」に「もう遅い」と言われるのは《彼》で、「投げ出す程の覚悟」をしているのも《彼》である。第三者である「あの人」に好意を寄せる彼女にとって、今さら《彼》が何をしても心が動くことはなく、《彼》は自分の恋をあきらめる覚悟をしていると解釈することもできる。だが、「もう遅いと言うのなら」と仮定表現になっているのだから、まだ「もう遅い」と言われたわけではない。「少しの勇気振り絞って」一発逆転を狙うこともできるはずだ。 しかし、「踏み切れないでいる人よ」と《彼》は今度は自分自身の観察者になる。
 
 それも一つの物語だ。しかし、ディスコに似合わなかったオバサンには、クラブに似合わない《彼》を主人公にした、もう一つの捨てきれない物語がある。

 「ベイベー」と《彼》とは赤の他人だ。心ならずもこの場にやってきた主人公はなじむことも楽しむこともできずに観察者としてフロアを眺めているうちに「ベイベー」を発見し、「あの人」を意識しながらアピールすることすらできない彼女をひそかに応援する。そして、遠くからひそかに彼女に向けて自らの決意を語る。それは《彼》がここにやってくる前からずっと考えてきたことなのだろう。何が「もう遅い」のか、何を「投げ出す」「覚悟」なのかはわからないが、それは《彼》にとって人生を左右する大切な事なのだ。《彼》は誰かに向けてその覚悟を語らなければならない。その誰かが、家族でも恋人でも友達でも同僚でもなく、赤の他人の、ことばを交わしたことすらない「ベイベー」であ るというようなこともあり得ると思うのだ。たぶん「ベイベー」はその場で《彼》が見つけた鏡なのだろう。鏡に映し出された「覚悟」とためらいを行きつ戻りつしている自分を眺めながら、《彼》は狂騒の中で独り異次元を生きている。

2015年1月26日月曜日

「愛」の気配-『夜汽車』 [ここはどこ?-物語を読む8]

 新宿から中央線に乗って甲府に帰るとき、空いていれば必ず進行方向左の窓側に座る。これまでこうして何度車窓の人となっただろう。たいがいは夜、終列車のことも多かった。
 東京のどこまでも続く町並みやビルがとぎれがちになると、列車は暗い山の中を這うように進む。途中いくつものトンネルを抜ける。慣れてはいてもトンネルに入るとやはりどこか窮屈で、逃げ場のないような不安な心持ちがする。笹子トンネルという長い長いトンネルを抜けると、突然左手に甲府盆地の夜景が広がる。今までが闇であった分、その灯の瞬きは息をのむほど美しい。その瞬間、「ああ、帰ってきた」と思う。生まれ育った田舎の町の人々の営みの中に戻ってきた実感がある。


 『夜汽車』(ファーストアルバム『フジファブリック』の最後の曲)を聴きながら私が思い浮かべているのは、そんな中央線の光景だ。もっとも、高円寺に住んでいたことがあるという志村正彦が中央線で故郷の富士吉田に帰るとしたら、笹子トンネルまでは行かずに手前の大月駅で富士急行線に乗り換えることになる。だから、これはあくまで私の描く夜汽車で、聴く人によって思い浮かべる車窓の光景は違うだろう。けれど夜汽車には何か独特な風情があることは共感してもらえるのではないか。車内の人々は言葉少なで、多くの人は目を閉じ、ひとときの眠りについている。その中で目覚めているものは、窓に映る己と対話をするように深い物思いに沈んでいく。

 『夜汽車』は夜汽車の持つ独特の雰囲気を叙情的に歌った一曲と言えるかもしれない。しかし、どうも引っかかってしまうのだ。

  夜汽車が峠を越える頃 そっと
  静かにあなたに本当の事を言おう


 

 「本当の事」って何だろう。 恋心の告白なのか、逆に別れを切り出すのか、あるいは普段は思っていても言えないこと、それともずっと隠してきたことなのか。おそらくこの曲を聴く人の多くが気にかかることではないだろうか。そしてそこに多くの物語が紡ぎ出されることになる。二人はどんな関係なのか。何のためにどこへ向かおうとしているのか。その先に何があるのか。とても幸福な物語を描くこともできる。とても悲しい物語を語ることもできる。どの物語が正しいということではない。

 私自身はこの歌の語り手には何か屈託があるように感じてしまう。目の前にいる人(この場合、座席はすべて進行方向を向いているのではなく、四人が向かい合わせに座るボックス型であってほしい)はその人にとって救いのような人である。恋人でなくてもいい。友達でも、その日初めて会った人でもかまわない。語り手の心の奥深いところに届くものを持っている人。だから、その人に「本当の事」を言おうとする。普段表面を取り繕ったりごまかしたりして、内側に隠してきたことを言おうとする。それは語り手自身が傷を負う結果を招くかもしれない。それでも、語り手は静かに決意する。「あなたに本当の事を言おう」と。

 この曲の中には穏やかな時間が流れている。この二人がつらい旅の途中であったとしても、このひとときだけは安らかに過ぎている。それは語り手が「あなたの眠り」を護っているからだ。私はそれを「愛」と呼びたい。これから愛の告白をしようという場合だけではなく、たとえこれから別れを切り出すことになったとしても、この時間を成り立たせているのは「愛」である。
 志村正彦は「愛」などと口にはしないだろうが、『夜汽車』が心に迫ってくるのは、そこに確かに「愛」の気配があるからなのだ。

2014年6月5日木曜日

「環状七号線」の渦巻 [ここはどこ?-物語を読む7]

 新高円寺に師匠が住んでいて、年に数回だが訪ねていく。 青梅街道を駅から師匠の家を過ぎて東に進むとすぐに環状七号線にぶつかる。杉並に住んでいた頃は稽古が終わると夕飯をごちそうになって、都バスで環状七号線を帰ったものだった。今から20年以上前の話で、高円寺に住んでいたという志村正彦と時期が重なるわけではないのだが、「環状七号線」を聴くたびに浮かぶのはあのあたりの風景である。

  そんなわけで「環状七号線」は私にとっても身近な存在なのだが、この曲を聴くと何故だか「環状」が「感情」に聞こえて仕方がない。生命線がどれかさえわからないほど手相にうとくても、頭の中で「七号」をとばして「感情線」と誤変換しているのかもしれない。いや、しかし、日本語には古来「掛詞」というものがある。「環状七号線」の背後にはやはり「感情」が渦巻いているような気がしてならない。では、それはどんな「感情」なのか。

 火の付かないライター 握りしめていた
   辺りの静けさに気付く
 耳にツンときて それも加わって
 そこから離れたんだ


 
 昨日観たドラマ 気の利いた名台詞
 言えるとしたらどうなるだろう
 でもそうとして それはそうとして
   後にはひけないんだ


 志村正彦は歌詞の中ですべてを明らかにはしない。しかし、聴き手は歌詞に書かれたことの外側に感情が渦巻く原因や状況があることを理解することはできる。例えば「それも加わって」ということば。「それも」ということは、「それ以外にも」、そこにいたたまれなくなって離れる理由があるのだ。また「でもそうとして それはそうとして」ということば。 もし「気の利いた名台詞」を言えたとしても、それによって場面の展開をいろいろ予測してみても、その結果がどうあろうとも、「後にはひけない」思いがあるのだ。具体的な物語は聴き手の想像にゆだねて、だが、確実に強い感情の渦巻きを感じさせることばの連なり。「環状七号線」はやはり「感情七号線」なのである。
 もう一つこの曲を聴くたびに感じることがある。


 
 
対向車抜き去って そう エンジン音喚いてるようだ

  最初聴いたとき、理屈っぽいおばさんは「いやいや、対向車は抜き去れないから」とひそかにつっこみを入れた。しかし、夜中でも交通量の多い環状七号線をバイク(原チャリ)で走っていたら、同じ方向に向かう車との関係よりも対向車とすれ違うときのスピード感、両者が急激に遠ざかる感覚の方が「抜き去って」ということばにしっくりくるのかもしれない。

 何か嵐のような感情に巻き込まれたとき、それを静めるために闇雲に走ったり叫んだりする、どこか破壊的でどこか破滅的な衝動がある。環状七号線を「何故だか飛ばしている」のはおそらくそのためだ。残念ながら若かりし日にもそんな経験はなかったし、今後はますますありそうもないが、この曲を聴くと環状七号線をバイクで飛ばすときに感じる風やしびれるような感覚を追体験しているような気がしてくる。

 このごろでは通ることもなくなった環状七号線だが、今度師匠の家を訪ねたときに少し足を延ばしてビルの上にかかる「おぼろ月夜」を眺めてみたい。
 

2013年11月4日月曜日

ベスト3 (ここはどこ?-物語を読む 6)

 『笑ってサヨナラ』を聴いていて、私的に志村正彦のベスト3を作るとしたらこの曲は外せないなと思った。細々と状況を伝えることばを連ねるわけではないのに、彼女との関係や状況が目に浮かぶようだし、サビの部分の「どうしてなんだろう」には後悔や悲しみや迷いや割り切れなさ……さまざまな心の動きが凝縮されていてとても切ない。それはおそらく多くの人が一度や二度体験したことがあるもので、この曲を聴くとその時の感情が呼び戻されるような気がするのだ。

  恋愛などというものからとっくに遠ざかっているオバサンでも、人生には「どうしてこうなってしまったのか」とか「どこでまちがえたんだろう」とくよくよする事態は降ってくる。若い頃は年を重ねたら少しは賢くなるかと思っていたのに、現実はたいして成長せず、同じ間違いを繰り返しては反省の堂々巡りをする。だからオバサンにもこの歌は沁みる。

 ベスト3(順不同)のあとの2曲はと考えて、さてどうしたものか、かなり迷う。 『陽炎』はね、入れなきゃ。『茜色の夕日』もね。でも、そうすると『赤黄色の金木犀』とか入らないし、『TAIFU』や『虹』みたいなアップテンポのものも入れたい。 うーん、どうしようとしばらく悩んでいて、いいことを思いついた。

 ベスト3だからいけないんだ。ベスト5にしよう。なんで早く思いつかなかったんだろう。我ながら妙案に気をよくして、指を折りながらもう一度並べてみる。 『笑ってサヨナラ』『陽炎』『茜色の夕日』『虹』『TAIFU』……あれ、『赤黄色の金木犀』は? それに『夜汽車』好きなんだよな。『ペダル』や『ないものねだり』も。『ルーティーン』を落とすのはしのびないし、『地平線を越えて』も大好きだし、『若者のすべて』や『桜の季節』が入らないのは納得がいかない。仕方がない。いっそベスト10にしよう。

 ……馬鹿である。そもそも誰に頼まれたわけではないのに勝手にベスト3を選定しようとしてさんざん悩んだあげく、姑息に範囲を拡大したのだが次々に候補曲が頭になだれ込んで収拾がつかなくなってしまった。三〇分ほど考えたが、結局決めあぐねて諦めることにした。

 こう書いていると「それはあなたが優柔不断だからでしょう」と言われそうだが、「それがそうでもないのです」と申し上げたい。例えば、好きな映画ベスト3とか、好きな役者ベスト3とか、好きな果物ベスト3とかだったら即座に答えられる。だから、やはりこれは志村正彦の責任なのである。

 すみません、志村正彦さん。わかっていたつもりだったけど、まだまだあなたを甘く見てました。粒ぞろい、それも大粒の粒ぞろいのこんなにすばらしい歌をいっぱい作ってくれてありがとう。
 さて、皆さんのベスト3はどの曲でしょう?
                         

2013年9月29日日曜日

一番美しいもの (ここはどこ?-物語を読む5)

 『ないものねだり』(『CHRONICLE』)のこの一節を聴くといつも、「ああ、ここには人の心の一番美しいものがある」と感じる。

  帰り道に見つけた 路地裏で咲いていた
  花の名前はなんていうんだろうな


 もう何十年も前に聞いて忘れられない話がある。植物学者の牧野富太郎が、誰かが書いた「名もなき花」ということばに対して、「知らないだけで花にはみな名前がある。『名も知らぬ花』というべきだ」というような趣旨のことを述べたという話だ。確かに植物学者からすれば「名もなき花」とはすなわち新種で、見つけたくても簡単に見つけられるものではない。 自分が知らないだけなのに「名もなき」と決めつけるのは随分傲慢な所業である。私はいたく納得し、以来、「名もなき」ということばを使ったことはない。

 名前を知るということは、それを認めるということである。雑草にも名前がある。「ホトケノザ」とか「オオイヌノフグリ」とか「ハハコグサ」とか「ナズナ」とか。その名前を知ると、それまで行き帰りの道で目に留まらなかったものが見えてくる。ああ、こんなところにホトケノザが群生していたんだと気づく。ずっとそこにあったのに見えなかったものが、名前を知った途端に見えるようになる。

 だから、名前を知りたいということは、つまり、そのものを知りたいと思うことだ。そのものを知りたいと思うことは、そのものに惹かれること、大事に思うこと、さらに言えば愛することへの入口から一歩足を踏み入れるということである。そこにはほんの少しだがそのものに近づきたいという意志と勇気がある。

 『ないものねだり』の「僕」は「気持ち伝える」のに悩み、「大事なところ間違えて」、「膨大な問題ばかりを抱えて」いる。いつの日も「あなた」に悩ませられている。うまくいかない、カッコわるい、そんなことばかりがあって、ありたい自分とのギャップにないものねだりを繰り返している「弱い生き物」だと自己評価している。そんな「僕」が「帰り道に見つけた 路地裏に咲いていた 花の名前」を知りたいと思うその瞬間、関心が自分から離れて、花という他に向かう。それまで「名も知らぬ」花だったものが、「僕」にとって特別な花になる。決して順調ではない、おそらく余裕もない、そんな状況の中で、自分のことをおいて他を思うその気持ちは、おそらく人の心の一番美しいものの一つだろう。

  志村正彦が自分のことをどう思っていたのかはわからない。けれど、この歌を聴くたびに志村正彦の心の中にある美しさを感じずにはいられない。

2013年9月4日水曜日

「お地蔵さん」 (ここはどこ?-物語を読む 4)

 髪を短く刈った家人の寝顔が何かに似ていると思っていて、ある朝はたと「お地蔵さんだ」と思い当たった。それでしばらく顔を見るたび「地蔵さん」「地蔵さん」と独りごちていた。そのせいだと思った。『フジファブリック』をかけていて急に「お地蔵さん」ということばが耳に飛び込んできたのは。

 CDを買ったときに最初から歌詞カードを見ることはあまりない。意識したことはないが、まずはその曲を先入観なしに聴きたいという気持ちがあるのだろう。そうすると、ヴォーカルが誰であっても聴き取れない歌詞というのが結構ある。何回か聴いているうちにだいぶわかるようになってくるが、それでもここはなんと言っているんだろうという部分がずっと残ることもある。不思議なもので、いったん歌詞を確認したりきちんと聞き取れたりしたら、何度聴いても確かにそう歌っていて、それ以外には聴こえようもないのに、それ以前はずっと靄がかかったようなのだ。

 『打ち上げ花火』もそんな曲の一つで、その靄の中からふいに「お地蔵さん」という志村正彦の声を拾い上げたときには、「まさかね」と思った。だって、ロックの歌詞に「お地蔵さん」? 空耳に違いない。でも、確かに聞こえる。どこぞの番組に応募しようかしらん・・・・・。
 ここでようやく歌詞カードを開いて見た。

   のっそのっそお地蔵さんの行列も打ち上げ花火を撃った!!

 確かに「お地蔵さん」とある。それどころか、お地蔵さんの行列がお月さんに向かって打ち上げ花火を撃っているではないか。私の脳内にはお地蔵さん(六体、赤い前掛けをしている)がバズーカ砲のような手持ちの筒花火を抱えて、進んでは止まり進んでは止まりしながら満月に向かって次から次へと花火を打ち上げる映像が浮かんでしまった。・・・・・・シュールだ。

 思い浮かんだのは漱石の『夢十夜』である。『夢十夜』は題名の通り十話の夢のような短い話で構成されている。うろ覚えの記憶だったが、確かめてみると「第三夜」の末尾の一文に「石地蔵」という語がある。そこからの連想だったかもしれない。多くが「こんな夢を見た」と始まるこの十の話は、しかし、どれもが現実より生々しい手触りのようなものを持っている。無意識に抑圧していた生きることにまつわる禍々しさ(それは誰の人生にも貼り付いている)を深いところからつかみだして見せられたような感じだ。だから、『夢十夜』は確かに荒唐無稽な話ではあるけれど、今私達が生きている現実と隔絶しているのではなく、地続きにある世界に思える。

 『打ち上げ花火』が描き出す世界もそれに近いように思う。ある日、「夜霧の向こう側」に突然立ち現れてくる世界。それは突然出現したのか、もともとあったのに気づかずにいたのか、それさえわからないが、不気味で近寄りがたいのに、なぜだか抗いがたく近づいてしまう。そこに実際に何があるかが問題なのではなく、何かわからないものに引き寄せられてしまうことのほうが重要なのかもしれない。曲調もおどろおどろしいというか、「今から何か(たぶんショッキングなこと)が起こるぞ」という雰囲気満載で始まり、いきなり急かされるようにテンポアップする。そこで見たものが、何者か(鼻垂らし小僧なのか?)とお地蔵さんたちがお月さんに向かって花火を打ち上げる光景なのである。
 

   しかし、この光景をどう解釈するかは人それぞれだろう。とても不気味で暴力的なものを感じる人もいるだろうし、子供を護るお地蔵さんなだけにむしろどこかユーモラスなものを感じる人もいるかもしれない。私はそのままだと怖い夢を見そうなので、脳内のお地蔵さんたちのサイズを10センチくらいに縮小してみた。すると花火の打ち上げが小さなお地蔵さんたちの密かな祝祭のようになって、心が少し穏やかになった。

追記
  曲の雰囲気にすっかりだまされていたけど、考えてみたら「鼻垂らし小僧」はちっとも怖くない!!
 


                                                                   

2013年6月10日月曜日

無限ぐるぐる (ここはどこ?-物語を読む 3)

  ある曲のワンフレーズがなんとしても頭から離れないことがある。その部分だけが無限にぐるぐるめぐって、そうなるとお皿を洗っていても車を運転していても、どうにも止まらない。無意識に口ずさんでいて、自分ではっと驚くこともある。

 この「無限ぐるぐる」の経験で強烈に覚えているのは、たぶん誰かがカヴァーしていたのだと思うが、子供の頃に聴いたPeter,Paul&Maryの『Puff』である。「Puff the magic dragon lived by the sea」のフレーズが取り憑いたように・・・・・・見栄を張ってしまった。正確に言うと、ぐるぐるしていたのは「パフ・ザ・マジック・ドラゴン・ランランラララ」であった。英語が聞き取れなかったからである。   

 さて、志村正彦の曲はこの「無限ぐるぐる」を引き起こしやすい。しかも、この曲がというのではなく、日替わりのように次々違う曲がぐるぐるする。
 最初は『TAIFU』だった。

  飛び出せレディーゴーで踊ろうぜ だまらっしゃい 
                   
  これは止まらなかった。三日くらいは回り続け、今でも突然回り始めることがある。
 ちなみに私はこの「だまっらしゃい」が大好きなんである。あまりにも唐突だし、大体、今どき誰が「だまらっしゃい」なんて言うものかとは思う。でも、「だまらっしゃい」を聴いた後で他のどんなことばを当てはめてみても到底物足りない。少なくとも私の中でこのことばは不動である。小気味いいというか、すかっとする感じ、そしてメロディーと不可分であるかのようなことばの響きは、ちまちました意味や理屈や物語さえも超越する。私は理屈っぽい性格なので、もしかしたらそんなふうに感じたのは生まれて初めての経験かもしれない。

  その後もいろんな曲がぐるぐるした。ある時は「チェッチェッチェうまく行かない チェッチェッチェそういう日もある」(『バウムクーヘン』)だったり、ある時は「チョコレートでFly Away」(『Chocolate Panic』)だったり、またある時は「どうしてなんだろう どうしてなんだろう なんだろう」(『笑ってサヨナラ』)だったりした。「環状七号線を何故だか飛ばしている」(『環状七号線』)日もあったし、「悲しくたってさ 悲しくたってさ 夏は簡単には終わらない」(『線香花火』)時もあった。

 なぜその曲のその部分なのかはわからないが、どれもリズミカルで印象的なメロディーを持っていること、歌詞も聞き取りやすくあまり複雑ではないことが共通していて、それから私の場合は特に繰り返しがあるとはまりやすいようだ。子供が志村正彦の曲を気に入ってよく歌っているという話をあちこちから聞いたが、子供が気に入ることと「無限ぐるぐる」を引き起こすことは同じ要素からきているのだと思う。そして、それはすなわちその曲が名曲だということに違いない。確かに世の中には複雑なアレンジが効果的な名曲もたくさんあるだろうし、志村正彦がどれほど細部にまで心を配って曲を仕上げていったかは残された彼自身のことばや周囲の人々の証言によっても明らかなのだが、それを充分尊重した上で、素人があえて言うならば、メロディーとリズムと歌詞という素朴な三つの要素に還元される名曲の芯の太さのようなものがあるように思う。志村正彦の歌にはそれがある。

 一週間ほど前、気がついたら『浮雲』の「独りで行くと決めたのだろう」がぐるぐるしていた。「おお、これは相当なものだぞ」と私は思った。どう考えてもこれまでのパターンからは外れているこの「フレーズ」までが回っていたということは、どうやら私の頭の中には本格的に志村正彦が住みついてしまったらしい。

 さて、明日はどんな曲がぐるぐるするのだろうか。

2013年5月18日土曜日

『Strawbarry Shortcakes』の驚き (ここはどこ?-物語を読む 2)

 おばさんはめったなことでは驚かない。長年生きてきた中で、世の中、考えられないことが起こることを知っているから。初めて何かを見聞きしたとしても、これまでにどこかで見聞きしたものからついつい先を予測してしまうから。動じないと言えば聞こえはいいが、感受性が鈍っているかと思えば、寂しくもある。

 しかし志村正彦の歌はやすやすとおばさんの予測を超える。
 例えば、このシリーズのタイトルにいただいた『Strawbarry Shortcakes』(『Teenager』)
の「ところかわって ここはどこ?」というフレーズを聴いたときには、しばし唖然としてしまった。
 こんな歌詞ってあるだろうか。


 大体においてへんてこりんな歌なのである。皇居沿いの道でランナーが信号待ちをし、また駆け出すという場面が、一度聴いたら忘れられないメロディー(私の筆力では到底伝えることはできない。未聴の方は是非お聴きいただきたい)で歌われる。と思っていると、レストランで向かい合う「君」と「僕」の場面になる。この二つの場面は交わらない。
 この断絶されたように感じる二つの場面をつなぐことばが、


   ところかわって ここはどこ?
   ランナー見下ろせる レストラン


  である。    
 「ところかわって」も「ここはどこ?」もありふれたことばだが、並ぶとずいぶん奇妙に聞こえる。「ところかわって」は場面の転換を表すことばで、物語の登場人物の生のことばというより物語の外側にあることばだと考えたほうがわかりやすいように思う。テレビドラマか何かを思い浮かべても、場面が変わるときに登場人物が「場面が変わって」とせりふとして言うことはない。具体的な地名や場所などのテロップが流れるか、ナレーターが語るか、いずれにせよ物語の外側の何かが語るのである。
 

  「ところかわって」と言う何かは当然その場所を知っているはずである。だから、「ところかわって ランナー見下ろせる レストラン」なら違和感がないのに、間に「ここはどこ?」が挟まっているから奇妙なのだ。

  しかし、繰り返して聴いているうちに、この余計に思える 「ここはどこ?」がこの曲の物語を構成する上で非常に効果的なのではないかと思えてきた。

  「ここはどこ?」というのは周囲がわからなくなっている、つまり見失っている状態である。この場合、周囲というのはランナーが走っている皇居沿いの道の風景、「ドンパンドンパンドンパン」で表現される喧噪の光景であろう。しかし、その光景はすっかり消え去ってしまう。もちろん実際に消えるわけではない。登場人物の「僕」の意識から失われてしまうのだ。「僕」からそれを失わせたものはもちろん「君」である。「君」への極度の集中が「僕」から周囲を奪ってしまう、その感覚を「ここはどこ?」ということばが実に的確に表現している。平易なことばでこんなことをやってのける志村正彦に「君さすがだよ」と言ってあげたい。

 そんなことを考えていたら一つの映像が浮かんだ。カメラは最初皇居前の道の雑踏を映す。それから切り替わって道沿いの二階か三階にあるレストランの内部、窓際の席に座るカップルをとらえ、テーブルのイチゴショートケーキ越しに「君」のバストショット、そして顔から目、まつげへとだんだんズームしてそこに留まる。そんな映像。

 さて、登場人物の「僕」がそこまで集中している「君」はどんな人だろう。「左利き」に「違和感」を感じるのだから、差し向かいで物を食べるということ自体がおそらく初めてというような関係。「君」はイチゴショートケーキを食べているだけだが、食べると言う行為自体がどこか魅惑的だし、「僕」の目には蠱惑的に映る仕草や表情によって「僕」はすっかり心を奪われてしまっている。
 
 微笑ましいと言えなくもないが、おばさんはちょっと心配だ。「そんな小悪魔風の女はやめときなさい。きっと苦労するわよ」
 でもおばさんの声は「僕」にはきっと届かないんだろうな。

2013年4月9日火曜日

『Surfer King』の企み(ここはどこ?-物語を読む 1)

 家人が花粉症なので、この季節洗濯物は部屋干しだ。早く夏が来ればいいと室内干しを拡げていると、家人は大音量で『Teenager』を聴いている。『Surfer King』だ。ノリノリで仕事がはかどりそう。調子よくタオルをパンパンしていたとき、「あれ?」と思った。

 『Surfer King』はホーンセクションが印象的なアップテンポの曲で、ビデオクリップの演出も相まってコミカルな印象を与える。ある意味ナンセンスソングに分類されるかもしれない。歌詞に深みはないけれど、こういう音楽も楽しくていい。私はうかうかとそんなことを感じていたのだ。その日、志村正彦の周到な企みに気づくまでは。

 『Surfer King』には金髪碧眼でがっしりとした体躯のアメリカ人(「彼」)がサーフボード片手に登場する。この男、別に悪いことをしたようもないのに、さんざんな言われようなのだ。曰く「サーファー気取り」「サーファーもどき」、曰く「王様気取り」「相当愚か」「相当野蛮」。似非サーファーに世間が抱く、格好だけで中身が薄っぺらな男のイメージがコミカルながらしっかり悪意を持って語られる。まあ、こういうタイプが気にくわないのもわからないではないから、特に違和感なく聴いていたのだが、次のワンフレーズに注目すると曲の様相は一変する。

  「サーファー気取りについていく君」

 この突然出現する「君」の存在によって、「彼」と「君」そして歌詞には現れない「僕」の関係と物語が見えてくる。この関係は「君」をめぐる三角関係か、あるいは「彼」を追う「君」とその「君」を追う「僕」という一方通行の直線関係か。「僕」の思いがどの程度のものかはわからないが、この関係が「彼」に対する「僕」の悪意の源であるとすれば、すとんと腑に落ちる。そして、残念ながら「僕」の思いがかないそうにないことを考え合わせると、明るい曲調の中に、哀れな道化師の姿さえ浮かんでくるではないか。

 それが『Surfer King』の仕掛けだとして、私がそれを志村正彦の周到な企みだと感じるのは、このフレーズが出てくる位置にある。この曲では「サーファー気取りアメリカの彼」というフレーズが同じメロディで三回繰り返される。次には同様に「サーファーもどきアメリカの波」がやはり三回繰り返され、三度目に再び「サーファー気取りアメリカの彼」が二回繰り返された後やっと「サーファー気取りについていく君」というフレーズが登場する。CDやビデオクリップではこの部分はあまりにさらりと歌われていて、インパクトの強い前のフレーズの繰り返しだと思っていると聞き逃してしまう。

 もしこのフレーズが私の考えるようにこの曲の物語を立ち上げるキーなのだとしたら、もっと早い時点で提示され、もっと聞き手の印象に残るような歌い方をしてもいいはずだ。しかし、実際にはまるで忍び込ませるように曲の終盤に配置されている。だから、私がそうであったように、多くの聴き手はある時ふいにそのフレーズに気づき、聞き慣れたはずのこの曲の意味を知ることになるだろう。驚きとともに。おかげでこの曲は聴き手にとって一粒で二度おいしいお得な曲になっているのである。

 洗濯物を干し終えた頃にはとっくに次の曲に変わっていたが、頭の中ではまだ『Surfer King』がぐるぐる回っていた。志村正彦の企みにまんまと乗せられた私はなんだかとてもいい気分で、下手な歌を大声で歌いたくなった。

 付記
こんな感じで時々書かせていただくことになりました。
シリーズ名は『Strawbarry Shortcakes』の歌詞の一節からいただきました。
私はもともと物語に興味があって、志村さんの曲から伝わってくる物語がとてもおもしろいと思っています。
今後ともよろしくお願いします。