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2019年3月27日水曜日

映画『私は、マリア・カラス』(甲府シアターセントラルBe館)

 甲府の中心街にただ一つ残っている映画館が「シアターセントラルBe館」だ。去年、映画『ここは退屈迎えに来て』を上映した館であり、そのことは以前ここに書いた。
 この映画館はこのところ音楽ものを次々と公開している。昨日は、オペラ歌手マリア・カラスの人生を綴った『私は、マリア・カラス』を見ることができた。




 全く予備知識がなかったが、予想外の大収穫だった。オペラファンでもない筆者はマリア・カラスも歌そのものもごくわずかしか知らない。そんな情けない観客にも、この映画は音楽のジャンルを超えて、「歌」の美しさと輝き、その底知れない魅惑する力を余すところなく伝えていた。

 映画『ボヘミアン・ラプソディ』が大ヒットしたように音楽ものの映画が盛況である。『ボヘミアン・ラプソディ』は優れたエンターテインメント映画だ。だが、フレディ・マーキュリーを演じている役者が好演すればするほど、現実のフレディ・マーキュリーとの違いが逆に印象づけられてしまう。この映画を見ている間中ずっとそのことが気になって、僕は映画の中にあまり入り込めなかった。
 音楽家をテーマとする映画の場合、やはり、ドキュメンタリー映画であることが絶対的条件ではないだろうか。音楽家をドラマにしてしまうと何かが決定的に欠落してしまう。なぜかはよく分からない。理屈はいろいろと考えられるが、リアルな実感としてそう思ってしまう。

 『私は、マリア・カラス』はどのような映画なのか。ネットの資料から、トム・ヴォルフ監督の言葉を引用したい。

3年間かけて世界を回り、マリア・カラスの友人たちを探し出しました。彼らは誰も見たことのない数多くの資料を保管していて、それらはマリア・カラスのとても個人的な記録でした。自叙伝と400通を超える手紙を読み終えた時に、やっと見えてきた〈マリア・カラスの姿〉が映画の最も重要な部分になることを確信しました。またその過程で、楽曲に関しても、観客によって撮影されたコンサートやオペラの映像をはじめ、幸運にも、これまで聴いたことのない数々の録音にアクセスできました。今回、彼女と親しかった数え切れないほどの人々に会いましたが、彼女自身の言葉ほど強く、印象的な証言はなかったので、映画の中に他の人の証言はほぼ入れず、彼女の言葉だけでつなぐことを決めました。
彼女が書き残した言葉が世に出るのも、多くの真実が明かされるのも初めてなので、本作では、彼女の熱狂的なファンさえも知りようのなかった〈マリア・カラス〉が見られます。ライトを浴び、特別な運命を辿ったレジェンドの影に隠れていた〈一人の女性〉について、きっと深く理解していただける映画になったとおもいます。

 監督のいう「レジェンドの影に隠れていた〈一人の女性〉」というテーマが確かに映画の中心にある。
 「2人の私がいるの。マリアとして生きるには、カラスの名が重すぎる」という本人の言葉が冒頭で紹介される。この映画の原題は『Maria by Callas』。世紀の歌姫「カラス」によって語られるひとりの女性としての「マリア」。もちろん、「マリア」によって語られる「カラス」もいる。「カラス」によって語られる「カラス」、「マリア」によって語られる「マリア」を見出すこともできるだろう。
 発掘された資料、手紙、写真、映像、証言によって、マリア・カラスの53年間の人生が多層的に構成されたドキュメンタリー映画となっている。

 しかしそれ以上に素晴らしいのは実際の歌唱の映像である。特に『ノルマ』「清らかな女神よ」(ベッリーニ)と『カルメン』「恋は野の鳥(ハバネラ)」(ビゼー)の映像を見ると、このディーヴァに対するあらゆる絶賛をさらに凌駕するような言葉を投げかけたくなるだろう。ほとんど映像であることを忘れるくらいに魅入ってしまった。タイトルバックで『ジャンニ・スキッキ』「私のお父さん」(プッチーニ)を歌う映像はモノクロのせいもあって静かな余韻を残した。

 「シアターセントラルBe館」は音楽ものをよく上映している。先々週は、アストル・ピアソラの生涯を息子のダニエルが回想するドキュメンタリー映画『ピアソラ 永遠のリベルタンゴ』を見た。来週は、イギリスの1960年代カルチャー「スウィンギング・ロンドン」を描いた『マイ・ジェネレーション ロンドンをぶっとばせ!』を見にいく予定だ。
 甲府の小さな映画館が大健闘しているのだが、観客がとても少ないのが残念だ。地元の音楽と映画の愛好家としてはせっせと足を運ぶしかない。ここでの上映は明日、28日(木)までである。近くに住んでいる方にはぜひおすすめしたい。
 公式webを見るとまだこれから上映する映画館も各地にあるようだ。音楽のジャンルに関係なく、「歌」を愛する人にとって必見の映画である。

2019年3月24日日曜日

『Sugar!!』のPanorama Ball Vision【志村正彦LN215】

 フジファブリック「Sugar!!」は、あのスミス監督(初期の『桜の季節』『陽炎』『赤黄色の金木犀』『銀河』などの素晴らしいMVを制作した)による実験的なミュージックビデオが制作されている。橋本典久氏の研究している「Panorama Ball Vision」という4台のカメラを使って360度の方向から撮れる手法を使って、葛西臨海公園などで撮影された。「fuji-emistaff」のブログでそのときの様子が記されている。


「Sugar!!」のPVの監督は、デビュー時から数多くのフジのPVを撮ってくださっているスミスさんです。何か新しい撮り方とかありませんか?」という志村くんのリクエストに応えてスミス監督が提案してくれたのが、橋本さんが研究している360度ぐるり一周撮って、天地が入れ替わったりする、というあの撮影方法でした。
4台の一眼レフタイプのカメラを4方向に向くように設置して、その周囲にメンバーが立って撮影したのですが、360度全部映ってしまうので、監督含めスタッフは全員、カメラが回っている間は壁の後ろなどに隠れていました。「それじゃ(カメラ)回しまーす」と言われると、スタッフがみんなどわーっと散って隠れて、きっと他の人が見たらいい大人たちが何をやっているかと思われただろうな。。


 愉快で大変な撮影現場だったようだが、このMVを見てみよう。




 「全力で走れ 全力で走れ」を視覚化するように、映像が走り回っている。この2次元映像でも充分に新鮮なのだが、「Panorama Ball Vision」の球体ビジョンという設備で上映すると、この映像が球体になって映し出されるそうだ。さぞかし不思議な映像体験になったのだろう。

 この映像はぐるぐる回転し、全力で走り回っている。その動きのホットな熱量に比べて、映し出される志村正彦の表情はクールである。無表情というのではないが、どこか虚ろで掴み所がない。的確に形容できないのだが、「外」に現れる表情と「内」に隠される心情とが分離しているような感じとでもいえるだろうか。

 この歌詞には「36度5分の体温」という表現があるが、志村はこれについて興味深いことを「OKMusic」のインタビューで述べている。


“平熱じゃん!”って一瞬思ったんですけど、すごい体が温まってるってわけでも、逆に冷めきってるわけでもなく、そのどっちでもいける準備万端な状態で、あとは自分が動くだけっていう、そういう状況を言い表したかった一節なのかもしれません。


 すごく温まっているのでもなく冷め切っているのでもない体温の状態といわれているが、どんな体温なのか想像するのは難しい。どちらにもいける準備万端な状態ともあるので、一種の「スタンバイ」の状態なのだろう。静止から運動へと切りかわるためにはその狭間の状態が必要である。ミュージックビデオの志村の表情はそんな狭間の状態、一種の中間の状態にも見えるが、これは考えすぎかもしれない。


2019年3月17日日曜日

『Sugar!!』のメタ・メッセージ [志村正彦LN214]

 フジファブリック『Sugar!!』(詞・曲:志村正彦)は、ユニバーサルミュージックの公式サイトで「紆余曲折を乗り越え、フジファブリックがフジファブリックとして改めてスタートラインに立つきっかけともなった初のメッセージソング」と紹介されている。
 「初のメッセージソング」だとされる『Sugar!!』の歌詞を読んでみよう。第一ブロックを引用する。


  いつだって こんがらがってる 今だって こんがらがってる
  僕の頭の中

  それは恐らく 君と初めて会った時から

  本当はこの僕にだって 胸張って伝えたいことがね
  ここにあるんだ

  空をまたいで 君に届けに行くから待ってて

  全力で走れ 全力で走れ 36度5分の体温
  上空で光る 上空で光る 星めがけ


 「いつだって」「今だって」と韻が踏まれる。音の響きが面白い「こんがらがってる」が繰り返されて「僕の頭の中」という言葉で綴じられ、閉じられる。音で軽やかに遊びながら「僕の頭の中」に焦点化していく。このしなやかにつなげていく表現は作詞家としての志村正彦の力量を示している。

 「君と初めて会った時から」という出会いの時から、「僕の頭の中」は混沌としている。色々な想いが錯綜している。そうだからこそ、「僕」には「胸張って伝えたいことがね」がある。「空をまたいで 君に届けに行くから待ってて」と、「僕」の「伝えたいこと」を「君」に届ける物語が始まる。
 「待ってて」とあるのが志村らしい。「君」が待っている時の間に「僕」の想いを届けるために「全力で走れ」と、「僕」は僕自身を鼓舞する。僕自身に声援を送る。

 そして、「空をまたいで」「上空で光る 星めがけ」と、「空」と「星」という舞台が登場する。「U.F.Oの軌道に乗ってあなたと逃避行/夜空の果てまで向かおう」(『銀河』)、「星降る夜になったら/バスに飛び乗って迎えにいくとするよ」(『星降る夜になったら』)などの歌があるように、いつだって「空」と「星」は「僕」の走路の果てにある。

志村は「OKMusic」という音楽サイトのインタビューでこう答えている。


デモテープの段階から、サビの“全力で走れ”って言葉は浮かんだんですよ。そこから第三者に言っているんだろうなっていうのが漠然とあって…メッセージソングというか、誰かを応援している歌にしようと思ったんですよ。でも、それだとしっくりこなくて、全力で走れっていうのを“自分に言い聞かせているっていうのはどうだ?”って視点を変えてみたら、とてもしっくりいって。


 もともと「2009 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」の「J SPORTS」中継テーマソングとして使われることが決まっていたのだろう。スポーツのメッセージソング、応援ソングという明確なテーマがあった。こういう歌はパターン的な歌詞に陥りやすい。でも、志村らしくどこか新しい色合いを付けたかった。「全力で走れっていうのを“自分に言い聞かせているっていうのはどうだ?”って視点を変えてみたら」と述べているが、この視点を変える、あるいは視点を複数化するというのは、志村の歌詞の特徴である。例えば『若者のすべて』でも、視点の転換や複数化が歌の物語を支えている。『Sugar!!』の場合、自分が自分に言い聞かせるというのは、自分を視点にして自分自身を対象にすることになる。そのような語りの方向が逆に功を奏して、この歌は自分を超えて他者へと第三者へとつながる力を得た。

 しかし、志村の歌詞はメッセージそのものを語ることはない。人生の応援ソングのようなものと最も遠いのが彼の歌である。『Sugar!!』の場合、「胸張って伝えたいこと」を「君に届けに行く」行為が、あえていうならばメッセージとなっている。その行為は「全力で走れ」に集約される。メッセージの内容ではなく、メッセージを伝えるという行為の方がテーマとされている。一種の「メタ・メッセージ」と呼べるかもしれない。

2019年3月10日日曜日

『コンプリート・シングルAB面集』の夢 [志村正彦LN213]

 僕は参加できなかったが、昨日、クボケンジ「夕方5時のチャイムからのクボの宵」が富士吉田市民会館小ホールで開催された。ネットの情報によると、曽根巧(ギター)・山本健太(キーボード)による3人編成、ライブ本編で志村正彦・フジファブリックの「タイムマシン」「若者のすべて」、本編最後がメレンゲ「ビスケット」。アンコール1曲目がメレンゲ「火の鳥」アンコール2曲目が「笑ってサヨナラ」だったそうだ。「ビスケット」「火の鳥」「笑ってサヨナラ」が終わりの三曲となった。「ビスケット」と「火の鳥」についてはこのブログで何度か書いてきた。クボケンジの志村への深い想いが込められた歌であると共にそれを普遍的なものへと昇華していったかけがえのない作品だ。そして志村の「笑ってサヨナラ」。この歌についてはいまだにここに書くことができないでいるが。この三曲は富士吉田という場で歌われるのにふさわしい。

 7月には2009年ツアー映像作品の上映会がある。志村正彦の生が閉じられて十年となる今年、みんなで彼を想う時を過ごせる機会が増えるだろう。

 今日の本題に入ろう。
 以前から何度か書いているが、志村正彦・フジファブリックの『コンプリート・シングルAB面集』がリリースされることが僕の夢である。
 事実上のベスト盤である『SINGLES 2004-2009』は現在も購入可能なので、購入不可能な『シングルB面集 2004-2009』の単独盤としての発売でもいいのだが、できることならA面とB面を合わせたアルバムが発売されないかとずっと願っている。

 CD『SINGLES 2004-2009』は、コンプリート・シングルA面集(全11曲)として2010年6月30日に初回生産限定盤(DVD2nd ビデオ・クリップ集「FAB CLIPS 2」付)、2010年9月1日に通常版が発売された。
 CD『シングルB面集 2004-2009』はコンプリート・カップリング集(全14曲)として2010年6月30日に『FAB BOX』【完全生産限定 BOX】中の1枚として発売された。シングルA面集とB面(カップリング)集は同じ日にリリースされたことになる。

 A面集とB面集の全曲を挙げてみよう。

『SINGLES 2004-2009』

1.  桜の季節 (5:11)
2.  陽炎 (4:56)
3.赤黄色の金木犀 (3:58)
4.銀河 (5:04)
5.虹 (4:45)
6.茜色の夕日 (5:41)
7.蒼い鳥 (6:43)
8.Surfer King (4:30)
9.パッション・フルーツ (4:17)
10.若者のすべて (4:56)
11.Sugar!! (4:11)

『シングルB面集 2004-2009』

1.桜並木、二つの傘 (4:57)
2.NAGISAにて (3:11)
3.虫の祭り (5:13)
4.黒服の人 (5:50)
5.ダンス2000 (4:41)
6.蜃気楼 (5:56)
7.ムーンライト (4:24)
8.東京炎上 (4:27)
9.Day Dripper (4:19)
10.スパイダーとバレリーナ (3:02)
11.Cheese Burger (1:07)
12.セレナーデ (4:25)
13.熊の惑星 (3:02)
14.ルーティーン (3:38)

 A面集が11曲とB面集が14曲、合わせて25曲になる。シングルは11枚あるが、6th、9th、10thシングルのカップリング曲が2曲あるのでこの曲数となる。事実上のベスト盤である『コンプリート・シングルAB面集』の25曲は、歌詞、楽曲、アレンジ、演奏、どの観点から言っても、日本語ロックの最高水準にある。個人的にはこの50年の日本語ロックのベスト盤中のベストだと断言する。

 この25曲にボーナストラックとしてあと5曲を追加して30曲のベスト盤を作成するとしたらどういう選曲になるだろうか。ファン一人ひとりで違ってくる。あれこれと考えてみるのもいいだろう。僕の好みからすると、「浮雲」「笑ってサヨナラ」(『アラモルト』収録)、「花」「夜汽車」(『フジファブリック』収録)、「タイムマシン」(『CHRONICLE』収録)になる。志村の人生を振り返るという視点で選んだ。叙情的でアコースティックな曲調が多い。この5曲を加えた全30曲が、僕の志村正彦・フジファブリックのベスト盤になる。
 そして前回の話につながるが、このアルバムは「桜の季節」で始まり「ルーティーン」で閉じられることになる。
 このブログを読んでいただいている方々はどんな選曲をするでしょうか。

 コンプリート・シングルAB面集やベスト盤のリリースを待ち望むのは自分にとってでもあるが、それ以上に、これを贈りたい人が何人もいるからだ。現在もそしておそらく未来にも。そのためにパッケージされたアルバムが存在してほしい。志村の歌詞をまとめた小詩集が付けばさらによい。志村正彦・フジファブリックから贈り物のように届けられた作品を誰かに贈り物として届けたいのである。
 2019年の夢である。


2019年3月3日日曜日

『桜の季節』から『ルーティーン』へ [志村正彦LN212]

 昨晩、「fujifabric.com」で次の情報が告知された。

2009年に行われたライブの映像作品のリリース&上映会の実施が決定!
志村正彦没後10年にあたる今年、7/10(水)に2009年に行われたライブの映像作品のリリースが決定しました。
また、発売直前の7/6(土)には、バンドとして所縁の深い、ふじさんホール(富士五湖文化センター)にて作品の上映會を行います。詳細は後日発表となりますので続報をお待ちください。

 2009年のライブ映像作品は僕たちファンが待ち望んでいたものだ。2009年のライブとあるので、『フジファブリック × FUJIFABRIC』『CHRONICLE TOUR』『デビュー5周年ツアー』のいずれかの映像なのだろうか。詳細は後日発表となる。志村正彦・フジファブリックのライブ映像には、日比谷野音(2006年5月3日)、渋谷公会堂(2006年12月25日)、両国国技館(2007年12月15日)、富士五湖文化センター(2008年5月31日)の各ライブDVD、『FAB MOVIES LIVE映像集』(『FAB BOX』)があるが、これまで空白だった2009年の歌と演奏が作品化されるのは、「志村正彦没後10年」の企画として最良のものだろう。


 前回、志村正彦の歌の軌跡は、1枚目のシングルA面『桜の季節』から11枚目のシングルB面『ルーティーン』へという流れの中にあると書いた。
  『桜の季節』は2004年4月14日、『ルーティーン』は2009年4月8日にリリースされた。たまたまだろうが、共に春の季節に聴き手に届けられた。どちらも桜の季節から少し過ぎた頃だが。

 一つの曲だけでなく、二つの曲を組合せてそこから見えるもの、複数の曲を横断するモチーフをたどること、そのような方法でこのblogのテキストを書いてきた。文学作品の批評や研究で使われている方法でもあるのだが、方法や理論を適用したというよりも、志村正彦・フジファブリックの作品を聴く過程で自然に浮かび上がったり偶然のようにして出会ったりしたモチーフから、そのような方法に近づいていった。九十数曲ある志村の作品から複数の作品を選び重ね合わせていけば、多様なテーマやモチーフが浮上してくる。私たち聴き手にはそのような自由が与えられている。

 『桜の季節』の歌詞はこう始まる。


  桜の季節過ぎたら
  遠くの町に行くのかい?
  桜のように舞い散って
  しまうのならばやるせない

  ならば愛をこめて
  手紙をしたためよう
  作り話に花を咲かせ
  僕は読み返しては 感動している!
 

 過去に二回ほど書いたが、志村正彦は『音楽と人』2004年5月号の記事でこの歌詞の「手紙」について「手紙を書いて、そこで終了している曲です」と語っている。「そこでまたひとりになると」というインタビュアー(上野三樹)の問いに対して「そうですね」と答えている。

 歌の主体「僕」は「愛をこめて」「手紙」を書く。しかし投函しない。宛先人に届くことはない。「手紙」を通じて差出人と宛先人が現実の関係を結ぶことはない。「手紙」は「僕」のもとに留まり、「僕」はふたたび「ひとり」になる。このようなあり方はまさしく志村正彦的だとしか言いようがない。
 そうだとしても、「作り話に花を咲かせ/僕は読み返しては 感動している!」とされた「作り話」がどこかに届けられることはないのだろうか。その「作り話」には「愛」がこめられているのだ。

 その「作り話」は作品として届けられたと、聴き手の立場から考えてみるのはどうだろうか。作品内の現実を超える聴き手の現実の中で。
 作者は「私信」ではなく「作品」として届けようとした。志村正彦が書いた九十数曲の「作品」を「愛をこめた」「手紙」だと捉えることから、どのような世界が開けるか。2019年の今、僕はそう考えている。

 「手紙」にこめられた「愛」は深く隠されている。作者の想いはつねにすでに作品の余白に隠されている。『茜色の夕日』でも『若者のすべて』でも、歌の主体が本当に伝えたいことは深い底の方に沈み込んでいる。しかし、その底の方から浮かび上がる想いがそのまま伝わってくる作品もある。『ルーティーン』はそういう歌ではないだろうか。


  さみしいよ そんな事
  誰にでも 言えないよ

  見えない何かに
  押しつぶされそうになる

  折れちゃいそうな心だけど
  君からもらった心がある


 『桜の季節』の「僕」が投函しなった「手紙」には、この『ルーティーン』の歌詞のような言葉が書き込まれていたのかもしれない。もちろん、その手紙は投函されなかったのだが。そしてまた、『ルーティーン』の歌詞を「手紙」の言葉になぞらえたとしても、結局、その『ルーティーン』という「手紙」は「君」に届けられたわけではないだろう。手紙の本文はそのままそこに留まる。

 『桜の季節』から『ルーティーン』へと続く軌跡を投函されない「手紙」というモチーフで描いてみた。『ルーティーン』は、本文の後に続く「追伸」のような言葉で終了する。
 「愛」がこめられた追伸である。


  日が沈み 朝が来て
  昨日もね 明日も 明後日も 明々後日も ずっとね