翌日、国立オペラ座の近くでバスを降りて、ほんの少し歩くと、精神分析の創始者ジークムント・フロイトの顔が、いきなり目に飛び込んできた。
どうしてここにフロイトが?その一瞬、不意を打たれた驚きでわけがわからなくなった。
そこに立ち止まり、後ずさりして辺りを眺めると、彼の肖像写真が壁面にプリントされていたことが分かった。建物には「WIEN TOURIST-INFO」とある。あの重厚な街には似合わない色合いと鉄製らしい壁に違和感を持ったが、帰国後調べると、改装工事のための仮設オフィスだった。仮設だからこそあのようなフロイト像がプリントされていたわけだ。
WIEN TOURIST-INFO仮設オフィスの壁面 |
2000年のミレーニアムの年、ベルリンからウィーンまで半月ほどの間、列車で旅をする幸運に恵まれた。ウィーンでの第一の目的は、シークムント・フロイト博物館(http://www.freud-museum.at)を見学することだった。シュテファン大聖堂の近くのホテルに泊まり、リンク内の旧市街を抜けて、フロイト博物館まで歩いていった。途中でウィーン大学にあるフロイトの銅像に立ち寄ったが、それ以外に街にフロイトの像やモニュメントはなかったように思う。
ウィーンのフロイト博物館は、実物資料は少ないのだが、展示パネルや映像資料が充実していて、半日ほどかけて丁寧に見学した。入口近くにあったユダヤ人亡命者を象徴するトランクと診察室跡から見た中庭の光景をよく覚えている。
2014年、仮設の観光案内所のフロイト像。この写真は1914年の撮影らしい。1856年に生まれたフロイトはその年に58歳となった。精神分析家として円熟の時を迎え、その実践と理論を完成させようとしていた時代であった。人間の「無意識」を解明し続けたフロイト。愛する葉巻を持ち、眼光鋭い表情でこちらを眼差す。偶然、私はウィーンの街角で百年前のフロイト像と遭遇することになった。
撮影から百年経つ今、観光客を迎える「顔」として、ウィーンの街の「象徴」として、フロイトがそこにいる。この偶景から色々と考えさせられた。
Sigmund Freud 1914年 (出典wikipedia) |
「無意識」と「性」の次元、それに絡み合う「言語」と「症状」、人々が覆い隠してきた問題に深く切り込んだフロイトは、当時のウィーンの大学や学会からは理解されずに、排斥の対象となった。ユダヤ人であるゆえに、あの膨大で独創的な業績にもかかわらず、大学教授への道は絶たれていた。
彼は孤高の存在だった。精神分析に対する抵抗、そのすべてをフロイトは覚悟し、受容していた。彼の診察室に通った心を病んだ人や彼の教えに関心を持った少数の友人知人を除いて、ウィーンは決してフロイトを認めようとはしなかった。
フロイト自身の言葉を読んでみよう。この肖像写真の頃に彼が書いたものを『フロイト著作集』から探してみると、ちょうど1914年発表の『精神分析運動史』で、彼は自分自身と精神分析の「宿命」について予言するようにこう語っている。(『フロイト著作集第十巻』所収)
その宿命を、私は次のように頭のなかで想像した。つまり、おそらく私はこの新しいやり方が治療の上で成果をおさめることによって、世俗的に身を保つことには成功するであろう。しかし、生存中には学問的に私は問題にされることはないだろう。二、三十年後に間違いなく誰か別の人間が、これと同じ事柄にぶつかるだろう。そして、今でこそ時代にそぐわないとして顧られないこの問題を認知させることをやりとげ、かくして私をいたしかたなく、恵まれなかった先駆者として祭り上げることになるであろうと。
百年後の今日、この「宿命」の予言はほぼ的中したと言えるだろう。同じ論文でウィーンについてはこう述べている。
ヴィーンという街は、躍起になって八方手をつくし、精神分析の発生にヴィーンが係り合っているということを否定してもいる。他のどんな土地をとってみても、学者同士や知識層における敵意に満ちた溝が、精神分析家にとって痛いくらいに感じられるところはまさにこのヴィーン以外にはない。
フロイトの評価はむしろ、ウィーンの外部から、イギリスやフランスやアメリカから、あるいは文学や芸術の分野から高まった。結局、ウィーンがフロイトを受け入れたのは彼の晩年だったが、1938年、ナチス・ドイツの侵攻により、亡命を余儀なくされた。彼はウィーンに再び戻ることなく、1939年に亡命先のロンドンで亡くなった。
この軌跡は、この百年の精神分析の運動を象徴している。2014年の現在、ジークムント・フロイトが創始しジャック・ラカンに継承された精神分析の実践は、たえず「滅亡」との闘いの渦中にいる。(文学部の学生の頃から、私はフロイトとラカンの著書に親しみ、三十代後半から四十代前半にかけて精神分析そのものも学んだ。「志村正彦LN」にはその影響が色濃く出ているかもしれない)
フロイトの出生地は当時のオーストリア帝国モラヴィア地方のフライベルク(現チェコ・プシーボル)である。3歳の時に一家はウィーンに移住した。だから、フロイト自身には故郷の記憶はないようだ。
今回のツアーは南モラヴィアを通っていくルートだった。大草原で知られるところだが、確かに、どこまでも畑が続く緑と土の色が美しい風景だった。フロイトの生地はもっと北の方だが、フロイトの故郷に近い風景が見られたのが嬉しかった。
2006年、出生地のプシーボルという小さな街にあるフロイトの生家を改築して、フロイト博物館(http://www.freudmuseum.cz)が造られた(交通はかなり不便なところにあるそうだが、いつか行ってみたい)。
ロンドン郊外のハムステッドにも、フロイトの家を改装したフロイト博物館ロンドン(http://www.freud.org.uk)があり、ここは1997年に見学したことがある。(うっかりして休館日に行ってしまったのだが、日本から来たので何とか見せてほしいと無理なお願いをすると、見学させていただけた。有り難かった)
亡命した歳にウィーンから持ってきた物(分析で使ったカウチやフロイト愛用品など)がたくさん展示されていて、圧倒された。
フロイトの博物館は、生地のプシーボル、活動の中心地ウィーン、亡命先のロンドンと、三つ存在している。開館した年は、ウィーン1971年、ロンドン1986年、プシーボル2006年。十数年から二十年の間を開けて三つの館が造られていった。すべて、フロイトが住んだ家を改装、改築したものだ。
このようなあり方が個人博物館・記念館の理想なのだろう。
(この項続く)
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